「現実という名の恐怖『ナイトランド・クォータリーvol.30暗黒のメルヘン――闇が語るもの』書評」川嶋侑希

「現実という名の恐怖『ナイトランド・クォータリーvol.30暗黒のメルヘン――闇が語るもの』書評」川嶋侑希

幼い頃に読んだ『シンデレラ』や『マーメイド』の物語が、実際は戦慄するほど恐ろしい内容だった、とおとなになってから毒の存在に気づく人は多いだろう。私もその一人だ。

本書『ナイトランド・クォータリーvol.30暗黒のメルヘン――闇が語るもの』(アトリエサード刊)は、誰しもが足を踏み入れたことのある、おとぎ話の世界へ読者を誘ってくれる。幼い頃に読んだのは、子ども向けにマイルドに仕立てられたメルヘン。だが甘く可憐に見える物語は、いちばん奥にあるレースのカーテンの向こう側へ行けば、姿を変えてあなたを出迎えてくれるだろう。甘いクッキーにはコーヒーが合う。甘い練り切りには緑茶が合う。甘いメルヘンには毒が似合う。かまどの火にはくれぐれも注意して、美しい悪夢をご賞味あれ。昔も今も、恐怖や残酷さはおとぎ話に刺激を与えるエッセンスなのだ。

真っ赤な甘いドレンチェリーは、聞く耳を持たない者へのプレゼントだ。アレクサンダー・フォン・ウンゲルン=シュテルンベルクによる『六粒のさくらんぼ』(垂野創一郎:訳)は、本書の開幕にふさわしい「大人のメルヘン」である。森の中に住む六人姉妹の少女らは、魔法使いの妖精から不思議なさくらんぼを一粒ずつ貰う。さくらんぼはそれぞれの少女が願った生き物に姿を変えることができるが、妖精の言いつけを守らなかった少女たちは恐ろしい目に遭ってしまう。読みやすく短い物語の中に人間の傲慢さや、少女のゆえのあどけなさ、その中で際立つ無邪気な残酷さが描かれる。唯一妖精の言いつけを守った末の妹と、守らなかった姉たちとの対比で、幸福と不幸の別れ道をはっきりと示している。

S・チョウイー・ルウの『愛に似たなにか』(勝山海百合:訳)とカリーナ・ビセット『蛇と蛙』(徳岡正肇:訳)は大きな共通性がある小説だ。どちらも主人公の女性は不快な思いをする時、虫や蛙などの生き物を吐き出す。『愛に似たなにか』の主人公は抑圧された者、『蛇と蛙は』の主人公は満たされない者とそれぞれ違っているが、二人とも本音を隠して無理やり幸せを(つか)もうとする。彼女らと同じような境遇の者はこの世にきっと大勢いるはずだ。そんな人にはぜひ読んで頂きたい。甘い誘惑がもたらす悲劇を乗り越えるために、それぞれは〈腹の虫〉と向き合っていくことになる。彼女らが繰り出す毒にどんな理由があるのか、その末路はどんなものか、小説の力を借りて自分の未来も想像できるだろう。そんなリアルな現代のメルヘンだ。

トッド・ロビンズによる『残酷な拍車』(待兼音二郎:訳)は、見世物小屋で繰り広げられる愛憎劇で、1932年にアメリカで公開された映画『フリークス』の原作となっている。本作には障がいのあるサーカスの団員らが登場するが、映画では結合双生児のヒルトン姉妹など、実際にサーカスで活動していた人物が出演している。

映画は初公開当時、侮辱的でショッキングな内容だとして評価されていなかったが、時が経つにつれて次第に高評価を得られるようになった。以前、『ナイトランド・クォータリーvol.28暗黒の世界と内なる異形』(アトリエサード刊)においても見世物小屋の物語であるユードラ・ウェルティの『キーラ、インディアンの父無し娘』(岡和田晃:訳)が掲載されていた。これは見世物にされていたリトル・リー・ロイに対する観客やスタッフからの差別を描いていたが、『残酷な拍車』はサーカスの団員らの中で巻き起こる物語である。観客の目当ては自分である、とそれぞれが口にする場面では、一見ごく普通の自慢大会のようで楽しそうにも見える。しかし、彼らに向けられているのが奇異の目であることや、サーカスで身体を見世物にするしか稼ぐ術がない、居場所がない、などその背景を忘れてはならない。非現実的な世界を見せるサーカスという場所で繰り広げられる、あまりにもリアルで非情な愛憎劇。人の心を踏みにじるとどんな痛い目を見るのか、きっとおわかりいただけるだろう。

小休止とするには少々スパイスが効きすぎている、心と脳を揺さぶるショートショートがある。トマス・M・ディッシュによる『新しい頭で楽しもう』(菅原慎矢:訳)はダークな愉快さに(あふ)れ、軽快な語り口が読者の目を引く一作だ。「外世界交易社」による頭の販売の宣伝という形式で、まるでテレビで商品を紹介しているような口調で必死に語りかけてくる。何度も繰り返される「さあ今日こそ、新しい頭を買おうよ!」の一文に心なしかうきうきして、うっかり電話をかけてしまいそうになるが、プログラム化された頭の新たな五感に耐えるのはそう簡単ではないだろう。悪夢が現実を侵食してくるような感覚を追体験させてくれる、実に恐ろしいショートショートだ。

待望のマイクル・ムアコックの〈エルリック・サーガ〉シリーズ第四弾として、今回は『白牙の肖像』(健部伸明:訳)が掲載されている。英雄エルリックの活躍において苛烈な戦闘の場面を紹介したことが何度かあるが、今回はそのような描写はない。ハーブティーとワインで迎える冒頭のシーンはなんとも優雅で穏やかだ。それから始まる今回の冒険は闘いで道を切り開くものではなく、少し立ち止まってエルリック自身の歴史を刻むためのもの。彫刻家の女性に頼まれ、憂鬱なエルリックの姿は彫像になる。まるで罪悪感に苛まれる彼を慰めるかのように慈愛のノミが振るわれる。本書の他の小説と比べると、これはメルヘンの中にある悪夢ではなく、悪夢の中にあるメルヘンだ。いつも未開の森や人知を超えた空間で命を懸けて戦うエルリックへの、愛を込めたペストリーのようなものではないか。

そして今回も、物語を届けてくれる人物にスポットライトが当てられた。今回のインタビューは翻訳家であり、海外小説を紹介する小冊子『BOOKMARK』の編集長も務める金原瑞人の話だ。海外小説の翻訳に留まらず、翻訳に関するエッセイ『翻訳エクササイズ』(研究社)『翻訳はめぐる』(春陽堂書店)なども出版している。カレー作りに精を出したり、演劇や歌舞伎を鑑賞したり、様々な分野に関心があった金原氏が翻訳家になるまでの経緯を知るのも興味深いが、中でも機械翻訳についてのインタビューが印象的である。

最近は翻訳ツールDeepLの精度の高さが注目され、誰でも使えるツールであることからビジネスや学業でよく利用されている。だが小説の翻訳は、ただ文章を機械的に訳しているのではない。言葉の細部までこだわって訳したり、全体の雰囲気を統一させたり、いくつもの創意工夫を重ねた言葉を連ねている。そのため機械翻訳に対して翻訳家は否定的な意見を持つのではないかと思っていたが、金原氏はそうではなかった。「ネガティヴに捉えるよりは、むしろ若い翻訳家が世に出るチャンスとして捉えられる」という。確かに、私の中で翻訳に対するイメージは崇高なもの。対象の言語を読み解く、それを日本語の文章にする、という高度な知識の組み合わせで作品が生まれるからだ。翻訳ツールを使用して誰でも手軽に翻訳を体験できたら、本格的な翻訳作業に興味を持つきっかけとなり得るだろう。しかし、本格的に翻訳に踏み込むのならば十分な言語の知識がなければならない。対象言語と日本語の両方の知識を用いて、DeepL翻訳の間違いや不自然さを見抜く眼が必要だ。特に機械翻訳では緻密な表現や言葉のニュアンスを完璧に訳すことはできない。翻訳が完全に機械で行えるという時代はまだまだ先になるだろう。翻訳家は物語の世界観を原作と差異無く楽しませる、言語と表現のスペシャリストだ。

おとぎ話にとって現実は悪夢だ。リンゴに隠した残忍さ、足の骨を削るほどの嫉妬、虫になった言えない本音。強すぎるネガティヴな感情は時々糖衣でコーティングされている。初めは真実に気づかなくとも、時間をかけて楽しんだ者こそ、その真実の悪夢に到達することができるのだろう。身の毛もよだつ悪夢の味わいは深く、これはきっと大人の味だ。酸いも甘いも嚙み分けた者ならば堪能できる。さて、久しぶりにあの童話を読み返したら、いったいどんな暗黒が隠れているだろうか。