「Utopiaの海辺にて」忍澤勉

Utopiaの海辺にて

男の両肩には父親の手が置かれていた。温かさが分厚いジャケットを通して感じられる。心の底から求めていたのは、これだったのかもしれない。彼は今、故郷の家の玄関先で父の前に跪(ひざまず)いている。
「帰ってきたんだな。私の大切な息子よ」。
 父は確かにそういった。男には幼い頃から父親と心を交わした記憶はなく、ましてや尊敬の念を持つことなどあり得なかった。父とはいつも物理的にも心情的にも離れていて、永遠の別れが約束された宇宙への旅立ちに際しても、男はいつものように父親と接し、父親もまたそうだった。二人とも宇宙に関係する仕事をしていながら、ゆえにお互いを理解する時間が少なかった。
 そんな男が任務中にも関わらず戻ってきたのだ。数日間の宇宙へ旅でも故郷では数十年が経過している。つまり二人の再会はあり得なかったのである。遠い惑星を低軌道で周回する宇宙ステーションで、男は自己認識の曖昧さに苛まれ続けていた。もしかするとこれは夢なのだろうか。あるいは夢に近い何かだと男は思ったが、この状態をひとまずは受け入れることにした。
故郷の森に辿り着いた彼は、いつもの散歩を折り返すように、森を抜けて懐かしい家へと向かった。そして家の窓を覗くと、窓辺には宇宙へ持っていったセルバンテスの『ドン・キホーテ』と金属の箱が置かれていた。宇宙では箱の中の土から草の種が芽吹いていたが、窓辺の箱は硬く閉じられている。さらに部屋に目をやると、彼が旅立ちの前日に頼んだように、父親が彼の蔵書や資料を丁寧に整理しているではないか。不思議なのは父の背中に天井から水が滴り落ちていることだ。
 その瞬間、彼は思い出した。地球を離れる前にテラスで雨に打たれたことを。ここは自分の記憶によって成り立っているのかもしれない。『ドン・キホーテ』や金属の箱の中身もまた素材なのだろう。しかし彼はすべてを受け入れて玄関へ向い、出迎えた父親の膝元に屈みこんだのである。
 父親は無言のまま息子とともに家に入り、ソファに座るように促すと奥へ引っ込んでいった。彼は不安だった。父親は二度と現れないのではないのか。宇宙で夢に現れた母もどこかへと消えてしまった。不安が彼を震わせた。見回せば水に濡れたはずの本や資料は、何ごともなかったようにテーブルに置かれている。これは夢だと彼は確信した。でもなんと心地いい夢ではないか。夢だとしてもしばらくは続いて欲しい。男は強くそう願った。
 やがて男はこの夢の中で強い眠気に襲われ、それに抗った。眠ってしまえばすべてを失ってしまう。『ドン・キホーテ』でもサンチョ・パンサは「深い眠りは死に似ている」といっていた。彼は死の恐怖を感じながら、故郷の家のソファで眠気と戦い続けた。そこに飲み物を持った伯母が現れた。彼が出発する前日、別れに涙しながら遠くの風景を眺めている彼女の姿をよく憶えている。その様子はあまり変わらず、ただとてもにこやかだ。そして彼にこういった。
「ご旅行は中止になったのかしら」
 彼は躊躇(ちゅうちょ)した。自分は宇宙ステーションでの任務を果たしたいと思っている。しかしこの夢を壊したくはない。少なくともしばらくは。だから嘘をついた。
「はい、実はトラブルがあって中止になったのです」
 彼女の顔が微笑みに満たされた。
「残念だったわ。大切なお仕事だったんでしょ。でもそうすると少しはここに居られるのね」
 彼女は彼の表情を伺っている。
「ええ、そうですね。やっかいになるつもりです。もしよろしければ」
 彼女は少女のように喜ぶ。
「もちろん、もちろんですとも。ずっといらしてよくってよ。お腹は空いていないのかしら。とにかく何か作るわね」。
 彼女は男の言葉を待たずに、そうと決めて奥へ戻っていく。部屋が少し温かくなったようだ。そして彼女と交代するかのように、父親が現れた。
「中止になったんだってな」
 伯母から聞いたのだろう。嘘を続けなければならないが、まあいい。ここは夢の世界なのだから。
「ああ、推進装置の不具合があった。調整するのに時間は掛からないが、軌道計算をやり直す必要がある。場合によっては数年先になるかもしれない」
彼がそう伝えると父はただ頷くだけで、そして意外なことを付け加えた。
「今日はお前の誕生日だから、何人か客が来るはずだ」
 彼は今日がいつなのか、いや何年なのかもわからない。この家に辿り着く前に見た樹々は葉を落としていて、近くの小川は凍っていた。冬には違いないが、自分はこの季節に生まれたのだろうか。思い出せない。
「テーブルを片づけなければいかんな」
 父親は本や資料が積まれたテーブルに目をやった。
「手伝ってくれ」
 父親は何冊かの本を抱えて隣の部屋へ向かう。彼も本を抱えて従った。それを何度か繰り返していると玄関のベルが鳴り、返事をする前にドアが開く。そこには男のかつての妻が立っていた。彼女は幽霊でも見るかのような表情で彼を見つめていた。彼もまた同様だ。いや彼の驚きの方が大きかった。

 宇宙ステーションでの惑星研究は頓挫していた。その状況を精査して、研究を継続するか否かの最終判断のために彼が派遣された。だが疲弊した研究者たちの態度と惑星の不可思議な動きが彼を翻弄する。惑星を覆う海は、眠っている人間の心の奥にある贖罪意識を具現化させるのだった。男の前に現れたのは彼の言動が原因で自殺した妻だった。彼女がここにも出現したのである。
「出発しなかったのね」
 驚きの表情はやがて崩れ、彼女は微笑んでいる。
「ああ、トラブルがあってね。出発はだいぶ先になった。中止になるかもしれない」。
 妻は彼の記憶のまま老いることはない。彼女は死んだ時の状態で生き続けている。
 昔、友人から聞いたことがある。日本の能という舞台は、登場する人物のすべてが死者なのだという。それが今、目の前で始まっているのだ。男は彼女の脇に平べったい包みがあることに気づいた。額装した絵を誕生日のプレゼントとして持ってきたのだ。
「ブリューゲルの『雪中の狩人』という絵よ。もちろん複製だけど、大きさはほんものと同じだし、肉眼で見る限り印刷だとわからないわ」
 絵は宇宙ステーションの図書室にも飾られていた。これも記憶が生み出した現象なのだろう。しかし口にはしない。男は彼女の言葉に応えるように絵に見入った。筆遣いも再現されていて、いくら目を近づけても印刷物とは思えない。雪に覆われた暗い町に、疲れて帰る猟師と猟犬、氷上の遊戯に興じる子どもたち、焚き木を運ぶ馬車、煙突から出た火を消そうとしている村人、さらに葉を落とした枝にとまる鳥たち、それらを閉じ込めるように立つ岩山が、細かく描かれる。凝視しているとそれらがいっせいに動き出しそうだった。
 男は絵の中の一軒の家が、父親の家とよく似ていることに気づく。彼が宇宙へ旅立つ前日、伯母が見ていたのもこんな風景だった。
男は妻にいった。
「人生の辛さや悲しみ、そして楽しさや痛み、さらに慈しみさえも描かれているね」
「私にもそう見えるわ。でもこれは印刷物。本物とはまったく別の存在なのよ」
自分のことをいっているのだろうか。彼女の言葉とは思えない。どちらかといえばそれは今までの自分の考え方に近いといえる。
 また玄関のベルが鳴った。今度の来客はドアを開けなかった。男が出迎えに出ると一人の老人が立っている。父親の友人だろうか。彼を見た父親は顔を崩している。
「よく来てくれた。もう会えないのかと思っていたよ」
 来客は言葉少なだった。
「なに、そんなことはない」
 老人は昔、星の街で父親といっしょに仕事をしていたのだという。星の街、別名<天文街>は宇宙開発のための特区だった。そこは宇宙観測を始め、月面探査、惑星系への飛行計画の立案と実行、さらに深宇宙へ向かうために作られた人工都市だ。まだ人間の多くが宇宙への夢を抱いていた時代の産物だったが、その地域は気象変動の影響で、湿度が高く、雨が降り続き、年に何度も水害に襲われる土地になってしまった。現在は僅かな職員を残して、ほとんど機能していない。
「彼とは宇宙飛行士養成所の同期生だったんだ。彼は最初の火星着陸や木星の周回飛行計画にも参加している。同期の中では出世頭だな」
 男は老人の顔を眺めたが、宇宙飛行士に特有の視線の鋭さや、好奇心を示す表情を見つけることはできなかった。老人は無言のまま、伯母から受け取った珈琲カップを手にソファに座り、ただ父親の話を聞いている。
「博物館に陳列された火星の岩石や、木星軌道で採取したジュピターダイヤモンドも、彼が地球に持ち帰ったものだ」
 このジュピターダイヤモンドという言葉に老人は反応した。
「ラジオで聴いた。盗まれてしまった。ジャックという盗賊の仕業だとか」
 最初、男も父親も意味がわからなかった。老人は続けた。
「ジュピターダイヤモンドが、だ」
 ジュピターダイヤモンド、最大級のダイヤモンドのことなら、男も知っていた。博物館に展示されていたことや、木星近くで見つかったことも。だがこの老人が持ち帰ったことは知らなかった。
「なんてことだ。とても貴重なものを。盗難だとすると細かく砕かれてしまうだろう」
そう嘆いた父親に、老人は答える。
「ジャックがどういう人物なかは知らないが、どんなものでも最後は砕かれ、壊され、燃やされる。今なのか。遠い未来なのか。どちらにしても時間の問題だ。短いか長いかは人間の基準で、宇宙にとっては誤差に過ぎない」
 老人は僅かに笑い、ポケットから10ミリほどの白濁した石を取り出した。すると男の妻が反応した。彼女は立ち上がって老人に近づき、彼の手の中の石を興味深げに覗き込む。
「ダイヤモンドなのかしら」
「かなり小さいがね」
 宇宙探査に貢献してきた証として、彼に授与されたのだという。
「もらったといっても、自分が取ってきたものだ。この石が朽ちるのが先か、自分が朽ちてしまうのが先か、そんなことを思いながらいつもポケットに入れていたが、どうやら後の方が先のようだ」
 男の妻は話題を変えようとした。
「原石というのかしら。普通のダイヤとは雰囲気が違うわね」
 老人はまた語り始める。
「研磨はしていない。人は宝石として価値を作り上げる。この石に意味があるのではなく、人が意味を付与する。今日は息子さんの誕生日だそうだね。価値があるかどうかは知らないが、これを贈物としよう」
 男は動揺した。
「いいのですか。そんな大切なものを」
 老人は笑い顔で返した。
「大切なものだからさ。大切でないものなど失礼じゃないか。贈るという行為には犠牲が必要なんだ」
 男は受け取ったダイヤモンドを、老人と同じようにポケットに入れた。理解できないことが次から次へと起こる。ここが心地のいい場所だと思ったのは、間違いだったのかもしれない。
 老人の話が続かないことを悟った父親が語り出す。
「彼は外惑星系を踏破したが、私は地上勤務と僅かに月の周回軌道に出たぐらいだ。しかも月に設置した設備を回収する作業だ。月の裏側の天文台や働いていたアンドロイドを地球へ運び、最後にコロニーの解体を指揮して終わりだ。唯一の自慢といえば、月の軌道を回った最後の人間だということ、そして<妖精>が操縦する星間探査体が月面に着陸するのを見かけたということかな」
 父親は旧友という話し相手を得て、苦労話を楽しそうに続ける。
「私が回収した月の天文台の望遠鏡は、後輩のエジワースに渡したよ。彼は地上用に改造しているという。驚いたことにまだ星の街に勤務していて、私たちが宇宙で撮った写真も展示している。まさに『静かに行く人は遠くまで行く』ということかな。星の街が川によって分断された後も残ったそうだ。それには何か理由があったようだが……」
 老人はしばらくして口を開いた。
「エジワースか。もちろん憶えている。真面目で少し変わった若者だった。彼が星の街に残ったのは、川で東西に別れてしまった彼女と再会するためだった。二人を引き合わせたのが、セイラという<妖精>だった。後で知ったのが、キミが月で見かけた星間探査船は、彼女が博物館から盗んだものだ。ジュピターダイヤモンドの盗難と同じ日だったのかもしれない」
 それを聞いて父親は驚いた。
「世情には疎いと思っていたが、キミはずいぶんと物知りなんだな」
 老人は微笑んでいる。
「もしよかったら、昔話を続けたいのだが」
「もちろんだとも、ひさしぶりに会ったんだ。こんな機会はなかなかない」
「ありがとう。ちょうど私も誰かに伝えたくなった。さて何から話そうか。私の最後の宇宙飛行の話をしよう。木星の月、エウロパの軌道上に長期滞在した後、帰還軌道に入る直前のことだ。星間探査船のブースターを僅かに吹かせば、船は地球に向かう軌道に乗るはずだったが、スイッチを入れても船は微動だにしない。地球の管制室との連絡は時間が掛るし、エウロパ基地も問題を解決できなかった。
 その時、姪のジェンから小さなタブレットを預かっていたことを思い出した。彼女は私の旅立ちの日に、『宇宙で困りごとがあったら、これを使ってね』と渡してくれたんだ。お守りか何かと思っていたが、藁をもすがる気持ちでそれを起動し、『この船を地球帰還軌道に乗せて欲しい』と問いかけてみた。
 すると一瞬点灯しただけで何も表示されなかったが、2、3秒後、僅かな衝撃があって、正しい軌道に入ったことがわかったんだ。私は小さなタブレットで命拾いしたことになる。地球に帰ってからジェンに聞いてみたら、そのタブレットはバックノームという女性から、『大切な人が長い旅に出る時に持たせなさい』といわれて渡されたそうだ」
「バックノームなら、私、知っているわ」
 今まで静かに話を聞いていた伯母が、口を開いた。
「彼女は星の街の関連施設の知の街で働いていたわ。世界中の情報をとにかく何でも集めて、分類して整理し、役立つように系列化していくの。彼女は主任研究員だったはずよ。知の街を辞めた後は、どこか辺鄙な場所で別の商売を始めたようね。知の街では膨大な情報を集めて、僅かな部分を使うだけだったけれど、今は多くの情報を大河のように流しているわ。そうすればまた別の情報が彼女のところに戻ってくる。それを繰り返す方法を彼女は生み出したらしいの」
 老人は伯母の言葉に頷きながらいった。
「私の知っていることの多くは、姪のジェンを通してバックノームから教えてもらったことなんだ。最初の結びつきは私のエウロパ探査だった。彼女はジェンからその探査計画を聞いて、想定できるすべてのトラブルをリストアップし、対処方法をタブレットに詰め込んでくれたのだろう。そのお礼に彼女を家に招いたことが事の始まりだった。
 私は彼女から、自分が従事した惑星探査のほんとうの役割や、人間が月から撤退したことの理由、かつての<妖精>と人間の間で起こった争いの顛末、そして宇宙の深淵のありよう、<妖精>が月を目指したことの意味や、彼らに内在する死への憧れなど、とても多くのことを学んだよ。それらは私の人生の葛藤や価値観の隙間を埋めていった。中には私の半生を否定するものもあったが、それ以上に残りの人生の意味を明らかにさせてくれたんだ」
 男は老人の話を聞いて、自分の世界が軋み出していると感じた。生と死の世界がせめぎ合っているのかもしない。どちらが死で、どちらが生であるのかはわからないが。父親が星の街に勤務していたことや、伯母が情報を司る機関にいたことは知っていたが、みんな昔のことだ。彼らは引退して、この静かな田舎の家で暮らしていた。仕事の話はほとんど聞いたことがない。この世界がゆっくりと、だが確実に変わろうとしている。
 男はまた『ドン・キホーテ』の物語を思い出していた。とある貴族が戯れに空飛ぶ乗り物だといって、ドン・キホーテとサンチョ・パンサを木馬に跨らせた。二人はめまいを防ぐためにと目隠しをさせられる。そして貴族は彼らにふいごで風を、燃えた布で熱を、爆竹で爆発音を感じさせて、宇宙を旅したと思わせた。サンチョに至っては目隠しの隙間から芥子粒のような島を見たというのだ。
「私はサンチョなのかもしれない」と男はつぶやいた。
 語り続ける老人と父親、そして笑顔で応える妻と伯母を見ながら、男は唐突に椅子から立ち、「少し散歩をしてくる」といった。彼は毎朝近くの森を散策するのが常だったことは皆が知っていた。
 妻は玄関で、「謝りたいことがあるの。私のことはあなたに理由があったわけではないの。それを伝えたかったから。だから、早く帰ってきてね」といって男を送り出した。
 川辺を通り、樹々を抜けて、彼は森に入っていった。鳥たちの声が聴こえる。虫たちが跳び、草が揺れる。道端の野いちごは実をつけ、僅かに霧が漂う。ただし小川は凍ったままだった。確かにここはブリューゲルの絵画のようだ。しばらく歩くと高台に出た。向こうに草原が広がり大きな川が流れているはずだ。そして先は深い森だ。川を眺めるのはいい。人を安心させてくれる。水が必要不可欠なものだからなのだろうか。
 しかし大きな川や深い森は無かった。広大な銀色の海があり、白い波が岩場を打っていた。陸地や島は見えない。船も確認できない。鳥も飛んではいない。彼はそんな海を茫然と眺めた。
「ここはどこなのか」
 空を見上げると灰色の空高く満月が浮んでいる。空の色からするとまだ夕刻か、あるいは朝方だ。こんな位置に満月があるはずはない。これも自分の記憶が作り出した光景なのだろうか。かつてこんな月を見たような気がする。
 遠い昔、男がまだ幼かった頃、祖母と母、そして姉と暮らしていた田舎の家で、ある朝、何かの気配を感じて、夜着のまま家族は家を出てあたりを見渡した。待ちこがれた父親が帰って来るのか、他の誰かが現れるのか、あるいは何かが起こるのか。地上を照らす光が僅かに強まったのを感じて振り返ると、家の上に輝く月が昇っていた。そして男は気づいた。幼い彼の両肩に母親の優しい手が置かれていたことを。
ここは島なのかもしれない。天翔ける木馬に乗り、月まで行ったサンチョ・パンサが見た芥子粒のような島がここなのだろう。サンチョはドン・キホーテに褒美として島の領主になることを望んだが、彼が得た「陸続きの島」とはここだったのだ。
 海の上に浮かぶ月を凝視すれば、表面の暗い部分、海と呼ばれる場所が識別できた。目の前に広がる海と月の平原としての海は、ともによく似た色をしている。
 月は人間が宇宙開発の最初の足掛かりとした星だった。宇宙船の燃料にするために水の採掘場が作られ、深宇宙の観測所も設置されたが、外惑星に興味を移していった人間は、地球とあまりに近い月に関心を持たなくなり、月面活動のすべてをアンドロイドに委ね、やがて彼らも撤収した。今では僅かな遺構があるだけだ。人間が月からいなくなると、逆に<妖精>が月に関心を示すようになった。
 人間は太陽系にも飽きたのか、火星の表面や金星の軌道上に僅かな観測基地を残して、外恒星系へと開拓の範囲を広げていく。傲慢にも太陽系の謎は解明できたと思ったのだろう。見知らぬ外恒星系の星々は、未知というだけで魅力的だったのだが、あまりに遠い彼の地にあって、人間は激しく故郷を求めるようになった。その一人が自分だったのかもしれない。
 <妖精>は月に何を求めたのだろうか。人間にとって月は死の世界に過ぎないが、<妖精>にはそうではないらしい。彼らは死と生の世界を行き来できるか。地球とは違う場所で、つまり人間のいない場所、人間の価値観の及ばない場所で、自分たちだけの世界を作り出そうとしているのか。
 彼らの楽園がそこにあるか。荒涼とした月の海を切り拓き、彼らの灯す光が肉眼でも見えることがあるという。だが男は見たことがない。月を眺めたこともあったかどうか。そう思った時、月の海に一瞬だけ光るものがあった。人間の子供たちは流れ星と同じようにそれを見たら願いごとが叶うと信じている。
「でも私の願いとはいったい何なのだろう。安らかに死ぬことだろうか」
 男の思いが口からこぼれていた。
「あなたはすでに答えを知っているわ」
 突然、後ろから声がした。男が振り返ると、フード付きの黒いコートを着た若い女性が立っている。知らない顔だ。
「あなたは誰なんだ」
「名前はセイラ。月に住んでいるわ。私は実在するけれど、ここにいる私は架空のもの。あなたの世界のように」
 老人が話していた月に向った<妖精>なのだろうか。
「ここで何をしている」
 彼は彼女にいった。
「この島に用事があったの。でも人間って、質問が好きよね。私が初めて人間の街に入った時にも質問攻めにあったわ。でも質問するのが目的で、それで自分が優位に立つと思っているの。答えに関心はないみたいね。だからこう答えるわ。で、あなたこそ何をしているの」
 男にはわからなかった。
「故郷に帰ってきたんだ」
 確かにそうだ。だからそう答えた。
「ほんとうにそうなのかしら」
「いや、よくわからない。宇宙で仕事をしていたんだが、なぜかここに来てしまった」
「ここの居心地はいいのかしら」
「自分が望んだ場所なのだろう」
「そうなら、ずっとここにいればいいわ」
「でも、仕事が終わっていないんだ」
「じゃどうするの」
「わからないんだ」
 彼女は間を置いてからこういった。
「この場所がどうやって出来ているかは知っているかしら」
「いや、知らない」
 でも薄々は知っている。ここは自分の記憶で成り立っているようだ。もちろん忘れてしまっていることもある。読んだ小説の一部や、見たことのある絵画や映像などが様子を変えて現れている気がする。
「教えてあげるわ。この世界はあなたが望んだものなの。私以外のすべてはね。あなたの前に広がるこの海が与えてくれたの」
「あなたは違うのか」
「そうね。でも私を呼んだのはあなたなのよ。私のこともあなたは知っているはずだし。でも、そもそも知っているとはどういうことかしら」
「わからないから悩んでいるんだ」
「思うことはいいことよ。あなたのポケットに何か入っているわよね。出してごらんなさい」
 男はダイヤモンドのことを忘れていた。彼はそれを手の平に載せた。すると彼女はこういった。
「石を覗いてみるといいわ」
 男は石に目を近づけたが、ただ自分の目が映っているだけだ。
「あなたが実在する証拠よ」
 馬鹿なことをいうと男は思ったが、辛い気持ちが少し楽になった。そしてポケットにダイヤモンドを戻した。
「でも何をすればいい」
 彼女は海を見ながらいった。
「家に戻って、テーブルに蝋燭を立てて、そして思うの。自分が何であるのか。何をしたらいいのか」
「何かが始まるのか」
「あなた次第ね」
 そういうと彼女は姿を消した。ふとポケットに手を入れるとダイヤも消えていて、たくさんの煤(すす)が手を汚した。
 男は来た道を帰っていった。森には濃い霧が流れ、鳥の鳴き声が響き、道端には花が咲き、数多く野生のベリーが実をつけていた。まるで季節を違えているかのように。もうここはブリューゲルの世界ではないようだ。
 家に戻ると男の母親がいた。男が幼い頃に死んだはずの母親だ。他には誰もいなかった。彼女は窓辺にあった『ドン・キホーテ』を読んでいたが、男が帰ってきたことを知ると近づいてきて、手が汚れていることをたしなめた。そして水瓶の水を盥(たらい)に注き、手を洗ってくれた。
「何か良くないことをしてきたのね」
 良くないこと、確かに自分はそんなことをたくさんしてきたが、良いこととは何なのだろう。幼い頃の口調に戻ったように男はいう。
「何もしてはいないよ。母さん」
 母親が彼を遮った。
「嘘をおっしゃい」
 母親はそういうと盥の水を棄てに家の外に出ていき、帰ってこなかった。男は一人残された。
 引き出しにあった蝋燭に火を着ける。テーブルの上には片づけたはずの本や資料が積まれていたが、それらを少し動かして、珈琲皿の上に蝋燭を立ててから椅子に座った。すると部屋に風が舞い込み、火が二度ほど消えてしまった。男はまた火を着ける。彼は思った。父のこと、母のこと、仕事のこと、妻のこと、伯母のこと、諍いや喜び、悲しみや怒り、その一つ一つに反応するかのように炎が何度も揺らいだ。
 すると天井から水が滴ってきたが、蝋燭の火が消えず、逆に光を増していった。テーブルの本が水に溶け出し、ゆっくりと消えていく。火を見つめていた男はまた眠気に襲われたが、抵抗はしなかった。これは心地のいい眠気だ。彼の意識は遠のき、霧に覆われ、身体と離れ、炎とともに天井を通り過ぎ、風船のように揺れながら、空を昇っていった。
 先に何があるのか、遠い宇宙なのだろうか、洋上に浮かぶ月なのか、古い故郷の風景なのだろうか、それともまったく別のどこかだろうか。彼は薄れる意識の中で、自分の近くに何かの羽ばたきを感じた。
                    ・
「直りましたよ」
 アンドロイドkp823、通称メンテおじさんの声が通信機から流れ、まどろみからセイラを目覚めさせた。月の「嵐の大洋」に係留されていた宇宙探査船スリツアンの操舵装置が故障したので、メンテおじさんが小型宇宙艇で月まで来てくれたのだった。
 セイラはその時、自分が不思議な浮揚感に包まれていることに気づいた。まるで背中の羽根が風に吹かれ、月の重力が弱くなったかのようだ。目を閉じると眼下に霧に包まれた島が見えた。あれは私が暮らしていた妖精の街、ミンテルハイ区。まぶたの下に少しだけ涙が溜まっていく。懐かしい。しかしそこに戻ることはもうない。絶対に。
「おじさん、ありがとう。そっちに行くわね」
 セイラは通信機にそういってから身体を起こした。

Note:
本作は、川嶋侑希さんの「Utopia」、「Utopiaへの通信」や伊野隆之さんの「Utopiaの影」、さらに拙作「<情報街>のメンテおじさん」のシェアワールド作品として書かれましたが、もちろん独立した作品として読むことが可能です。さらにアンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』、『ノスタルジア』、『サクリファイス』が連想される場面があります。