『サイバーカルチャートレンド前夜(1) 今は昔の「技術立国」』大野典宏

サイバーカルチャートレンド前夜

第一回

大野典宏

●今は昔の「技術立国」

 「我が日本は技術大国である」
 そのように言われていた頃は確かに存在した。今でも自動車やゲーム機では世界を席巻しているが、技術的な基盤となる基礎技術の研究開発をケチった結果はどうなっただろう?
 確かに今でも先端を走っている分野や企業は存在する。とはいえ、「DRAMは産業の米だ」と言い続けた結果、韓国にすんなりと超えられてしまった。見通しの甘さと、資本投下の不足、政府による経済成長の低迷によって起こってしまった破滅的な状況の結果が今の日本である。
 利益効率ばかりにしがみつき、ベテランのリストラ、限られた時間の中での「数でのみの勝負」を行った結果はどうなったのか?
 2001年当時はまだベテランの技術や工夫を行うための「考える時間」が存在してきた。しかし、今はもう半導体製品は海外依存、国が介入する官民企業はさして成果を上げられていない。この20年間、日本の政府や企業は何をしてきたのだろうか?
 一度、昔の状況を思い返して、しっかりと反省するべき時期に来ているのかもしれない。
 いや、違う。昔の栄光にしがみつき、遅れを取ってしまったことを認めきれなかった我々の側に責任があるのではないか? とも考えられるのである。この書評は、遅れをとる前の状況をまとめた本の評価である。
 今の日本と当時の日本を比べてみて欲しい。


温故知新と国際標準に挟まれた技術の位置づけを探る

書評 2001年8月15日

『技術立国・日本の原点 「技術は文化なり」の時代を創る』
志村幸雄 著
アスペクト 刊
ISBN4-7572-0850-2
B5判
286ページ
1,800円(税別)
2001年7月

 技術には,必ず文化的背景が存在する――いささか微妙な表現である.「まさのその通り」と賛同する人もいれば,「技術はそれだけで独立しているものだ」と拒絶する人もいることだろう.しかし,現代の技術が,古来より脈々と受け継がれてきた「ものづくり」の延長線上に存在するという視点に異議を唱える人はいないと思う.では,「ものづくり」とは文化なのか? それとも,文明という社会的ハードウェアの一部分を構成する一要素にしかすぎないのだろうか?
 確かに,現在の技術には「国際標準」がついて回る.デファクトにしろ規格にしろ「標準」が支配する世界では,身勝手な発想は許されない.標準となる技術は元々独創的で画期的なものだったはずなのだが,「標準」になってしまったとたんに元の独創性を維持し続けることのみを目的とし,他の独創性を封じ込めてしまうという性格があるのも事実である.「標準」が叫ばれる現在の技術において,独創的な技術がひしめきあう世界は望みづらいのかもしれない.ずいぶんと息苦しい話ではある.
 さて,ここで紹介する本書は,「ものづくり」=「文化」という視点で技術を捉え直そうという試みで書かれた本である.技術が文化であると捉える以上,国々によって,または人によって各自の文化的背景・特色を備えた技術を望むということになる.すると,「国際標準」という概念と真っ向から衝突することになるのだが,この点に関して著者は次のように述べている.
 『二十一世紀には「多様性」がいっそう重視されるようになり、世界標準による制度・文化の平準化よりも,固有文化の回復がまず優先される.社会制度や企業システムは,むしろそれを出発点にして再構築を図るのが妥当と思われる』.
 現在の流れを考えると,かなりラジカルな提案である.
 しかし,著者は,日本を例に,職人による創意工夫,独創の歴史を挙げ,現在の日本の技術が,確かにその文化の延長上にあるものであると論証しようと本書で試みている.例を挙げれば,茶運び人形とヒューマノイド・ロボットASIMO,何でも小型軽量化を図ろうとする伝統,キリシタン魔鏡とシリコン・ウェハの検査,折り紙と人工衛星のソーラ・パネルなど….
 著者の主張を要約すれば,次のようになるだろうか.『日本は古来より技術を大切にし,独創的な開発を成し遂げてきた国である.そして,技術は確かに文化を形成し,その文化が新しい技術に影響を与えている』.
 この意見に対し,賛同するのも,異を唱えるのも読者の自由である.ただ,本書を一読してから,じっくりと考えたうえで答えを出してもらいたい.