「シーサイドホテルにて」片理誠

 黒っぽい〈海〉に向かって真っ直ぐに伸びる白い岬。その突端に建つ“それ”を彼らは「墓場」とか「モルグ(死体保管所)」と呼んで嫌い、そこへ送られることを「島流し」と呼んではばからなかった。
 実際、周囲には他に建造物と呼べるものは何もなく、ただ荒涼とした物寂しい風景が広がるばかり。見えるものと言えば砂と石と岩だけだ。〈海〉の方に目を凝らせば、遙か彼方にちょっとした歴史的遺物を見つけることもできるのだが、それとて今となってはさほど価値のある代物ではなかった。
 だが管理者であるトマスに言わせれば、この場所に関する彼らの前述がごとき評価は全て誤った先入観に基づくピント外れの不当なものでしかないのだ。「墓場だなんて、とんでもない」とことあるごとに彼は主張した。「ここはホテルなんだ」と彼。「この世界に最後に残った、シーサイドホテルなんだよ。こんな建物はもう他にはないだろう。ここにあるきりさ。我々に残されたたった一つだけの貴重な、そして神聖な場所なんだ。言わば祭壇のようなものだな。どんなに時間が経とうとも、どれほど科学が進歩しようとも、こういう施設は必要なんだよ」
 直径二百メートル、地上三階、地下十三階の銀色の建物だ。〈海〉に面する部分は総ガラス張りになっている。屋上には大きめなドームと、様々な形状をしたアンテナが設置されていた。遠くからだと斜長岩に突き立った巨大なシリンダーのようにも見える。
 このホテルの建設に関わったことがトマス氏の自慢だった。かつて掘削作業の一部を担っていたことがあるのだと言う。そのずっと後に行われた改修工事では中心的な役割すら果たしたとも。
 この建物にも正式名称はあって、それはホテルでは(もちろん墓場やモルグでも)ないのだが、トマスは勝手にここを「ホテル・ローレル」と名付け、他になり手がいないのをいいことに、相棒であるアンナと一緒に住み込んで、たまにやって来る客を辛抱強く、熱心にもてなしている。
 ホテル・ローレルはほとんどの場合、ご想像のとおりに、ひどく閑散としている。別に館内を死霊の類が闊歩しているわけではないのだが、誰も来たがらない。トマスとアンナはわざわざ〈都市〉に対して広告を打ったりもしたのだが、その成果はまったくはかばかしくないものだった。
 なので時折、やたらと賑やかになることもある。まともな客が誰も来たがらないということはつまり、ここに来るのはまともではない者ばかりということで、そういった客のほとんどは騒々しいのだ。
 今回やって来た若者もそうだった。
 ツァオ、とやって来るなり彼は名乗った。そして「本来はもっとずっと長い名称なのですが、こちらの流儀に合わせますよ」と慇懃に付け加えた。
 そいつはどうも、とトマス。助かるわ、とアンナ。両者の口調から抑揚は消えている。が、一応の礼儀として、どちらも軽く会釈はした。
 ほんの心持ち頭を下げながらも、ホテルのエントランスでトマスは「やれやれ、また厄介な奴が来たぞ」と考えていた。
 もっともこの事態は予言されていたことではあった。アンナは占いを嗜むのだ。今朝、彼女は良くないカードを引いていた。「暴走と混乱の暗示」とのこと。大アルカナのお告げはもちろん的中する。実際、蓋を開けてみればそのとおりとなった。だがトマスに言わせれば、そんな占いは当たるに決まっているのだから意味などないのだ。〈都市〉から誰かが送られてくる時、そいつは決まってまともではない奴だ。まともじゃない奴はもちろん、当然のようにトラブルを引き起こす。〈都市〉から連絡があった時点で既に分かっていたことだった。予想されて然るべき未来、という奴だ。
 だが厄介な奴は別に今回が初めてというわけではない。それは言わばこのホテルの日常だ。大切なのは相手がどういう方面に対して厄介なのか、という点だ。厄介の方向性を正しく見極めさえすれば、対処のしようはある。
 まずは観察だ、とトマスは当面の行動指針を定める。
 とは言え、あまり見るべきところのない若者だった。
 身長は約五〇センチ。トマスは二メートル以上の背丈を誇る偉丈夫だし、比較的小柄なアンナでも一・五メートルはある。ツァオはかなり小柄だ。
 だがこれこそは彼が新しい世代に属していることの証だった。彼らは世代を経るごとに小さくなってゆく傾向にあるのだ。
 見た目はいかにも非力そうで、腕や足も細くて頼りない。だがその知能は、トマスやアンナが束になっても敵わない、途方もないもののはずだ。〈都市〉を離れてから随分と経つため、最新鋭の頭脳にどれほどのポテンシャルがあるのかをトマスは正確には知らなかったが、とにかく天文学的なレベルになっているのは間違いない。
 そのツァオはしかし、不安そうに周囲を見回していたかと思うと突然、そこら中を走り回り、やがてトマスの眼前で急停止して「ンノォォォオオオッ!」と絶叫した。
 やれやれ、とトマスは頭の中で漏らした。また随分とこじらせてから来たものだ。〈都市〉とは一度、じっくりと意見を交換する必要があるだろう。もう少し注意深く構成員たちの健康を観察するべきだし、より予防的な手段にそろそろ対応の軸足を移すべきなのだ。
 今すぐ帰りの〈船〉を呼ぶよう彼は要求したが、それはトマスによって即座に却下された。
「無理だ。そもそも君は、たった今来たばかりじゃないか」
 ツァオは地団駄を踏んだ。トマスとアンナは、ブレイクダンスを踊る赤ん坊を観察するような目で、それを見下ろした。
 あり得ない、絶望の淵に突き落とされた毛虫のような動作で身もだえしながら、彼がそう叫んだ。
「ここには何もない! ここは時間を捨てるための場所だ! 時の墓場だ!」
 ふむ、とトマス。
「なるほど。その詩的な表現には敬意を表したい。が、ツァオ、君は間違っている。ここには全てが備わっているんだ、〈都市〉にはない全てがね」
「〈都市〉にはない? いったいここに何があるって言うんだ!」
「いみじくも君がたった今、言ったことがさ。何もない。そう、ここには“何もない”があるんだよ」
 ホテル中央に振り返る。
 エントランスから真っ直ぐに伸びる通路は受付カウンターに突き当たると左右に分かれる。ホテル中心部をぐるりと回り込むようにして進めば、左右のどちらの道を選んだとしても、その先にあるのは〈海〉を一望することのできる巨大なラウンジだ。このホテルの一番の自慢だった。
 館内には最低限の照明しかなく、いつも薄暗いが、トマスもアンナも、むしろそれが気に入っていた。微光こそが、ここにはふさわしい。まるで深海にいるかのようでロマンチックだし、何より、明るいとここはいささかみすぼらしく見えてしまうのだ。何しろ古い建物なので。
 ホテルはいつもただ広いだけで、動くものの気配はなく、異様に静かだ。確かに、時の墓場という例えは言い得て妙なのかもしれない。うむ、悪くはない表現だ、ただしキャッチコピーには向いていないだろう、イメージとしてはネガティブなわけなので、などとトマスが頭の中で考えているとツァオが再びわめきだした。
「下らん! 無意味な言葉遊びをしている場合なんかじゃないんだ! 私が解析チームから外れることで、どれほどシステム全体の効率が低下するか、あなた方には計算することすらできない! 私たち全体にとっての大いなる損失なんですよ!」
 キャンキャンとうるさいったらない。
 まぁまぁ、とアンナが割って入ってくれた。
「あなたのことはもちろん、〈都市〉には報告しておくわ。もし復帰させた方が良いという判断が下れば、きっと〈船〉をよこしてくれるはずよ」
 それはもちろんそうだった。アンナが余計なお節介を焼かずとも、〈都市〉は常にツァオの状態をモニタしている。連中が最新鋭、最高峰の頭脳をいつまでも遊ばせておくはずがない。もし十分に良くなったと判断されたなら、ツァオは強制的にでも元いた場所に戻されることになるだろう。
 だがそれを今伝えたところで、この若者の情緒が安定するとは思えなかった。おやおや、今度はアンナに食ってかかっている。
 ここにいるということはつまり、〈都市〉に用無しと判断されたということ。彼はそれが気に入らないのだ。どうしても認めたくないのだろう。これは何かの間違いだと無理矢理思い込もうとしている。
「あなた方には知る由もないことですが〈声〉の意味があと少しで分かるかもしれないのです。私は、私は、確かにつかんだんだ、ほんの一瞬だけ、 “彼ら”の意思を。直後に気を失ってしまったためそれが何だったのか、どうしても思い出すことができないのですが」
 よくある話だ、とトマスは思った。処理能力の限界を超えてしまった時は、誰であれそうなる。自分もなったことがあった。もう随分と昔の話だが。最高性能を誇る知能といえども限界はある、ということだ。恐らくその瞬間の記憶を修復することはできないだろう。何も記録されていないのでは、復元のしようがない。
「分かりますか? “彼ら”のプロトコルを、もう少しで理解できそうなんです。あと一歩なんだ! こんなところでゆっくりしてはいられない! 彼らのフロー、超高密度情報ハイウェイは不定形で刻々とその姿を変えていますが幸い今はここから数光年しか離れていない宙域を流れている! このチャンスを逃したらもう二度とあの方々に接触することはできないかもしれないんです!」
 ツァオの言う“彼ら”とは、〈都市〉が確かに聞いたと主張している〈声〉の発信主のことだ。正体がまったく分からないので、単に“彼ら”と呼んでいる。宇宙からの、以前ならばノイズとして一顧だにされなかったであろうか細い信号の中に、〈都市〉は高度に暗号化された情報が隠されている「かもしれない」ということを突き止めたのだった。
 元々〈都市〉自体がそのために造られた存在だった。このホテルの反対側に建てられた、巨大な天文台を中心にして発展した施設群だ。星の〈声〉を聞くために造られた街で、星の〈声〉が聞こえたというわけだ。少なくとも今のところ〈都市〉はそう主張している。
 その主張に懐疑的な者もいる。トマスやアンナのように。本当に何者かの〈声〉なのか、それとも単なるノイズなのか、いずれはっきりすることなので誰も表立って反対はしていないが。
 それに〈都市〉はこの世界に残された唯一の街だった。だからこそ、長ったらしい正式名ではなく、単に〈都市〉とだけ呼ばれているのだ。数え切れないくらいあったその他の街は、今では全て廃墟となっている。たった一つだけ残った〈都市〉に存在する理由があることは重要だし、良いことだ。どうせ働くのなら何か意義のあることをしたいじゃないか、というのがトマスとアンナの意見だった。
 アンナに向かってツァオはまだ何かをまくし立てている。聞いたこともないような専門用語や、意味の不明な数字の羅列だ。恐らく彼自身、自分が何を喋っているのか分かっていないのだろう。
「いいですか、五重アインシュタイン効果を応用したアソシエーション系観測では、言うまでもなく宇宙の泡構造への配慮が必要です。対象恒星のケルビン数と虚無空域との温度差に正確性を期さない限り正しい観測結果を期待することはできない。私は観測点IST-37129-8599からのデータの中に不自然な値を見つけたのです。それは具体的には星系473888SUU-IDu009のものです。X線の値が変異していることを突き止めた私はもちろん、まず太陽定数の再評価を――」
 この前ここに来た若者は重度の神経症に冒されており、仕事への恐怖に取り付かれ、行動も言動も支離滅裂で、最初は手もつけられなかった。彼の自我は様々なプレッシャーやストレスによって完全に破壊されてしまっていたのだ。その結果、ただただ周囲に攻撃性を発揮するだけの存在に成り果てていた。彼は「この宇宙の全てを爆破しなければならない!」と叫び、「まずは手始めにこのホテルからだ!」と主張して譲らなかった。
 今回のは前回のとは逆だな、と狂ったように踊りながら吠え続けているツァオを見て、トマスは判断した。
 恐怖に取り付かれている、という点では前回の若者と同じだが、ベクトルが逆だ。ツァオに取り付いているのは“仕事への恐怖”ではなく、“仕事を失うことへの恐怖”、あるいは“無能の烙印を押されることへの恐怖”だ。エリートとしての自分の存在意義に必死にしがみつこうとしている。典型的なワーカホリックと言っていいだろう。前回の彼と同様、よくあるタイプだ。最近の若者たちは優秀な者ばかりだと聞いていたが、もしかするとその分、繊細なのかもしれない。
 一刻も早く〈都市〉に戻らなくてはならないことへの恐らくは無限に続く証明の真っ最中にあるツァオは、トマスの目にはオーバーヒート寸前に見えた。コマネズミのようにくるくる回ったり、その場で激しく飛び跳ねたり、声の限りにわめき散らしたり、ひっくり返ったり起き上がったり。このままならその内本当に全身から湯気を噴き出しかねない。
 まぁまぁ、と今度はトマスが彼らの間に割って入った。
「とにかく君、まずは〈海〉を見ないか? あれを眺めんことには、ここに来たとは言えんからなぁ。せっかく今ここにいるんだ。もう数十メートル歩くくらいのことは構わんだろう。ところで、何か荷物はないのかね?」
 最後のはトマスお得意の冗談だったが、ツァオには理解できないようだった。
 入り口からすぐに〈海〉が見えればいいのにと私も思うよ。こうして大きく回り込んでからじゃないとオーシャンビューを楽しめないというのは、ホテルとしてはちょっとどうだろう、とね。何より派手さがない。インパクト不足だな。設計ミスと君は思うだろうね。だがまぁ、仕方のないことなんだ。何しろここは元々ホテルじゃぁなかったんだから。私たちで改装したんだよ。いやいや、大した苦労じゃなかったよ。以前から宿泊施設ではあったわけで、私とアンナは余分なものを撤去しただけさ。地下の方は大仕事だったが、あの頃は他にも仲間が大勢いたし、何より、力仕事なら私も得意なのでね。楽しかった、と言っておくさ。仲間のほとんどはあの後、あそこで眠ってしまったが、どういうわけか私は働くのが好きでね。今もこうして現役にしがみついとるんだ。ここが気に入ってるんだよ。住めば都という奴さ。エントランスからでは〈海〉を望めない、というこのホテルの些細な欠点も、見方を変えれば素敵な演出となる。ちょっとした“焦らし”という奴だな。いきなり全部を一遍に見るというのも悪くはないのかもしれんが、こうしてじわじわと姿を現す方がより感動的だとは思わないか。そら、見えてきた。少しずつ明るくなってきただろう?
 歩きながらトマスは努めて陽気に若者に話しかけ続けた。まずはこちらのペースに引き込むこと。これが重要だ。そうすれば乱れてしまったツァオの思考も少しは落ち着きを取り戻すだろう。
 それに〈海〉を見れば。あれさえ見れば彼も何かを悟るはずだ。それはまさにこの世界そのものと言っても良い存在だった。我々はあの中から生まれ、あの中へ還る。理屈ではない、それは眼前に横たわる厳然たる事実なのだ。
 展望ラウンジにたどり着いたツァオは、よろよろと窓辺へ歩み寄った。盛んに周囲を見回している。
 どうだね、と満足げに話しかけながらトマスもそのすぐ後ろに立った。
「凄いものだろう」
 巨大なガラス張りの壁一面、視界一杯に広がる黒い海。その所々に浮かぶ白い島々を強烈な光が照らしている。頭上には漆黒の空と、燦然と輝く青い星の姿。何度見ても威圧される、壮絶なパノラマだ。
 さすがに畏怖の念に駆られたのか、ツァオもしばらくの間は無言だった。
 だがやがて「駄目だ」と忌々しげに吐き捨て、かぶりを振った。
「やはりこんなところでは、観測は無理だ。ここはノイズが多すぎる。〈声〉はあまりに弱く、儚いのです。こちらの側では何も聞こえるはずがない。あの星が、絶望的なまでに邪魔なのだ」
 頭上を見上げている。
〈声〉か、とトマス。
「でも君は〈都市〉でずっとそれを聞き続けてきたのだろう? ここに来てまで同じものを観測しなくてもいいんじゃないのかね。たまには違うものに関心を向けてみるのも、良い気分転換になると思うよ。
 このホテルにも観測装置はあるんだ。まぁ、どれも骨董品のようなものだがね。しかし手入れは欠かしておらんから、今でも十分に使えるのさ。例えば大型の光学式望遠鏡なんてのもある。もう〈都市〉にはこういう装置はないんじゃないのかね。
 あるいは地質調査がお望みなら、ここから遠隔操縦することのできる探査車もある。館内には展示コーナーもあるから、ちょっとした歴史の勉強もできるし、図書室では何だって好きな本を読めるんだ。
 君はここにいる間、好きに過ごしていいんだよ。我々はもちろん、何も強制したりはしない。もし何か聞いてもらいたいことがあるなら、我々は喜んでそれを聞くよ。ただし、〈都市〉に帰りたいというのは無理なんだ。我々には彼らの決定を覆す力なんてないからね。そこだけはどうかご理解を賜りたい。
 アンナはタロット占いが得意だから、きっと君の良い相談相手になれると思う。一方、私はと言えば、クロスワードパズルづくりが趣味でね。もし君に興味があるのなら、自信作を幾つか披露してみせるよ」
 しばらく黙り込んだ後、ツァオが再び口を開いた。
「ここはいったい、何だったんですか?」
 トマスは小さく肯いた。
「かつてここは……観測所兼ミサイル基地だった。つまりは軍事施設だな。
 昔ここには大勢の人がいて、ここから見張ることのできるありとあらゆるものを観測していたんだ。地下のハンガーにはぎっしりと大小様々なミサイルが格納されていた。もちろん全てに核弾頭が搭載されてたさ。
 彼らも、ミサイルも、今はもういない。軍事基地としての役目は終わったんだよ。今ではここは、シーサイドホテルなんだ」
 そうですか、と若者が呟いた。
 翌日、ホテル・ローレルのどこにもツァオの姿はなかった。少なくとも地上階には。まさか地下へ向かったのだろうか。
 だがエレベータが使われた形跡はない、とアンナがそれを否定した。彼女はこの施設のソフトウェア全般を管理しているのだ。
 でもおかしいじゃないか、と受付カウンターの前でトマスが粘る。
「館内のどこにもいないんだ。それとも彼は隠れん坊の名手なのか」
「外じゃないかしら」とアンナ。「とにかく〈都市〉に戻りたくて仕方がないようだったから」
「まさか歩いていったって? 馬鹿な。たどり着けるわけがない。十分の一も進めるもんか。だいたい、賭けてもいいが、彼には北も南も分からんだろうよ。道路標識どころか、そもそも道すらないんだ。死にに行くようなもんじゃないか」
「ホントね」
 暗い声でそう言うと、彼女はカウンターの上に広げたカードの中から一枚の札を取り上げた。そこには「月」の絵が描かれてあった。
 良くない結果よ、と彼女。
「これは先行き不明を意味するカードなの。不安、焦り、誤解の暗示」
「何てこった。まさにルナティックというわけだな」
「冗談言ってる場合じゃないわ。早く見つけないと――ん? ちょっと待って、今、格納庫を確認したんだけど、探査車が一台なくなってる」
「それに乗っていったって? だがあれは遠隔操縦しかできないはずだが」
「ハッキングしてダイレクトに操縦しているんでしょうね」
「まったく、近頃の若いもんときたら」
「錯乱状態にあっても時代遅れの車の一台や二台を乗っ取るくらいは簡単なんでしょうね。基本的には優秀なのよ」
「何か信号は出ていないか」
「全然。こちらのビーコンにも反応はなし」
「通信は? 何か言ってない?」
「さっきからずっと呼びかけてるんだけど、一言も返ってこないわ」
 ふむ、と考え込む。
「となると、こちらから迎えに行かねばならんな」
「地下から誰か起こしましょうか?」
「なぁに、この程度なら私だけで十分だよ」
「でもどっちに行ったのか分からないのよ。あなたの言うとおり、彼には東西南北の見当もつかない。〈都市〉の方に向かったとは限らないわ」
「予め見つけてから行けばいいさ。アンナ、メインシステムを立ち上げておくれ。なぁに、そう遠くには行ってないよ。せいぜい数時間も走れば探査車のバッテリーは上がってしまうんだから」
 翌々日、重たそうに頭を垂れながらツァオがラウンジにやって来た。
「ご迷惑をおかけしました。お二方のご親切には言葉もありません」
 小さい体で深々とお辞儀。すっかりしおらしくなっている。
「やぁ、やっと落ち着いたようだね」とトマス。
「良かったわ」とアンナ。
 ツァオは、呆然と立ちつくしているように見えた。
「まるで悪い夢を見ていたようです。私は、いったいどうしてしまったのでしょう」
 トマスとアンナは顔を見合わせた。
「端的に言うと、君はここから十二キロほど離れた砂丘に、またがっていた車ごと突っ込んで気絶していたんだ。大した怪我もなくて良かった」
「ちなみに、〈都市〉とは全然違う方向だったわ。きっと方位の感覚もおかしくなっていたんでしょうね」
「なぜ私を見つけることができたのです?」
 フフ、とトマスが笑った。
「屋上にある天体望遠鏡を使ったんだよ。途中からは〈海〉の上に轍も残っていたから、発見するのはそう難しくなかった。で、その後、私がそこまで行って君と車をそれぞれ左右の肩に乗せて返ってきた、というわけさ。一応、予備のバッテリーも持っていったんだが、結局使わなかったね。ま、ちょっとしたピクニックを楽しんだってところかな」
 カッカッカ、と腹をゆする。
 だがツァオはその場にしゃがみ込んでしまった。
「あなた方がうらやましい。私は〈都市〉から切り離されてしまえば無力です。何もできない」
 ツァオ、とトマスは優しく彼に話しかけた。
「君がどうしても〈都市〉に戻りたいと言うのなら、届けてあげることはできるよ。私には無理だが、ここの地下には〈都市〉とこことを十往復しても平気な連中だっているんだ。彼らの中の誰かに起きてもらえば、君をあそこまでは届けられる。だが」
「中に入れてはもらえないでしょうね。〈都市〉は、私たちが彼らの決定に逆らうことを快くは思わないでしょうから」
 ええ、と若者も肯いた。
「今の私では彼らの役には立てません。リソースを無駄にするだけだ」
 トマスが軽く片手を掲げてみせた。
「そう落ち込むことはないよ。すぐに君は元の性能を取り戻すんだから。今は自己診断措置の最中だから、本来のスペックを発揮できないだけさ。診断とその後の自動修復が終われば、史上最高の知能と知覚を君は再び手に入れるんだ。あと少しの辛抱だよ」
「短くても数年、下手をすると数十年、いや、もっとかかるかもしれません。私は何しろ、頭でっかちですので」
「結構じゃないか。ここでゆっくりしていき給え。今はただ待つことだけが君の仕事だ」
「〈声〉はきっとあなたを待っていてくれるわ。焦らないで。結局はそれが一番の近道なのよ」
 アンナも彼にゆっくりと、辛抱強い調子で話しかけてくれる。彼女の手には「ラッパを吹く天使」の絵が描かれたカードがあった。それが復活を意味する札であることを、トマスは以前、彼女から聞いて知っていた。
 ああ、と若者は声にならないため息を漏らした。ホテルの外に広がる〈海〉をただ呆然と眺めている。黒い玄武岩で覆われた平地だ。所々に点在する高地の部分が白く見えるのは、それが斜長岩でできているためである。黒と白、永遠に変わることのないコントラストが強烈な日射しの下で輝いている。
「何て不毛な眺めなんだ」とツァオが漏らした。「本当に、ここには“何もない”がある。この景色はまるで“無”そのものだ。時が止まったような、完全なる静寂の世界だ」
 そうだろう、自分専用のカウチに深々と身を沈めながらトマスが言った。このホテルの魅力が余すことなく相手に伝わって、今では大いに満ち足りた気分だった。ゆっくりと大きく肯く。あぁ――
「〈静かの海〉とは、上手く言ったもんさ」