『すぐ元に戻ると思った事』粕谷知世

 始まりは、行きつけの中華飯店のテレビだった。
 食事を終えて席を立つ際、正確な時間を知ろうとして天井近くに設置されているテレビに目をやった。画面左上に出ている時刻が読み取れない。このあいだ眼鏡を新しくしたばかりなのに、もう視力が落ちたのかとがっかりしながら、スマホを取り出して液晶画面を見た。思わず大きく瞬きしてしまう。大きめな表示にしてある時間、それが読めない。
 あれ? どうして? 脳から出血してるとか、そういうこと? いやだ、さすがにまだ早いでしょ。四月の健診だって異常なしだったのに。
あわてて、周りに視線を巡らせる。
 いつもどおり、街には交通標識や看板が溢れている。なのに、人目を引くように工夫された大きな字、それらが読めない。見えてはいるのに、意味を理解することができない。
 あれ? あれ?
 午後からお休みをとって、このまま病院へ直行したほうがいいかも、と思いつつ、振動し始めたスマホに気をとられて電話に出た。
「いま、どこ」
 社長だった。しかも、口調が完全に緊急事態発生時のそれだ。
「あ、もうすぐ到着します」
「なら、いいや。早く来て」
 オフィスの社長席では、経理の泉さんが社長と一緒にパソコンを覗き込んでいる。何か話しかけたそうな様子の泉さんが気になったけれど、社長の大声のほうに引き込まれる。
「これ、見てくださいよ。これ、これ」
 社長は文書を作成中だったらしい。白い画面には文章の長い列があった。でも、わたしにはそれが読めない。社長のパソコンの不具合をかまっている場合じゃない、自分の体調不良に対処しなくちゃと思いつつ、つい、当たり障りのない受け答えをしてしまった。
「これが、どうかしましたか?」
「ちゃんと見てくださいよ。全部、文字化けしてるでしょ、ほら」
 社長はキーボードを打って、文字数を増やした。
「これじゃ、全然、読めませんよ」
 そう言われて、わたしはまじまじと社長の顔を見返してしまった。眉が少し下がっているので、いつも困っているような顔だ。そのくせ、交渉事にはどこまでも強気。「一度、飲んだら、お友達」「年寄りにはね、怖いものってないのよ。どうせ、すぐ死ぬから」が口癖のおじいちゃんだ。この人には自分のほうがおかしくなった、という発想がないのかもしれない。
「わたしにも読めないんです」
「そりゃ、そうでしょう。こんなに文字化けしてるんだから」
「でも、わたしが読めないのはパソコンだけじゃないです。スマホもダメです」
 わたしは、社長に自分のスマホを差し出した。
「なんだ、インターネットが駄目になったのか」
「違うと思います」
いつもは控えめな泉さんが口を挟んだ。
「わたし、一日にやらなくちゃいけないことをノートにメモしてるんですけど、その自分の字が」
 絶句してしまう。
 泉さんからノートを受け取った社長は、目を細めたり、遠くに離したりして、しばらく苦闘していたけれど、やがて「これ、ほんとに日本語?」と匙を投げた。
 なんて失礼な。泉さんは几帳面で、自分にも読めない字を書くような人じゃない。
「社長、外では看板の字も読めませんでした」
 わたしの告白に、泉さんの不安げな表情が濃くなった。
「外の看板が、このパソコンと何か関係がありますか? まあ、とにかく、まずはシステム業者に連絡してみてくださいよ」
 絶対に無駄という確信があったけれど、社長のメンツをたてるため、わたしは情報機器の保守契約を結んでいる業者に電話をかけてみた。覚悟を決めて長く待ったけれど「大変こみあっています。少したってからおかけ直しください」を繰り返す自動音声から先には進めなかった。
 これって、つまり、この東京には、うちの社長と同じように、おかしくなったのは自分の目ではなくて機器のほうだと思い込む人が大勢いるってことだろうか? まったく、そこまで自分に自信がもてるのって、うらやましい。
「あの、借入はどうしましょう」
泉さんに話しかけられて、ギャッと叫びそうになる。そうだ、午後一で借入申込をする予定だったんだ。デスクトップで文書保存フォルダをなんとか選んで開いてみたけど、並んでいる文書名から借入申込書を特定することができない。焦りまくったあげく、借入申込を手書きしていた頃の用紙が残っているのを思い出した。
 机の引き出しの古いファイルから、黄ばんだ紙を取り出す。最後の三枚のうちの一枚だ。ラッキー。不要な書類を捨てられないズボラなわたしを褒めてあげたい。
「だけど、どこに金額を入れるんだっけ」
「大丈夫です。貸してください。わたしがつくります。入社以来、何回も作成してきましたからね、申込書の、どのマスが日付で、どのマスに借入金額を記載するのか、その位置関係は頭に入ってます」
 いつもは控えめな泉さんの断言が、とてつもなく頼もしかった。
「このインボイスの金額をそのまま書き写せばいいんですよね」
午前中に請求書のドル金額を円に換算しておいて正解だった。今から借入の円金額を計算するなんて芸当はとってもできない。
 泉さんはものすごい集中力を発揮して、請求書の空白に走り書きした、わたしの癖の強い字を借入申込書へ書き写した。いや、たぶん、書いたというより絵のように描き写したんだろう。
「これで合ってますか?」
 右に請求書、左に借入申込書を置いて、金額チェックをしようとしたけど、おたまじゃくしみたいな形、運動会の旗みたいな形、いろいろな形の数字が並んでいるなか、どれがイチでどれがニかも分からない以上、わたしの癖字と泉さんの達筆、それぞれの金額が確かに同じかどうか確信がもてなかった。そんな状態で銀行に送るわけにはいかない。
 絶望的な気分になった。
「ちょっと、朝倉さんも泉さんも、こっちへ来てください」
 社長の声は会議室からだった。
「すみません、二時までに借入なんで、少し待ってください」
叫び返したけれど、社長は「仕事は後でいいから」と言う。
 社長は、会議室に置いてあるテレビを食い入るように見ていた。
 テレビのなかで、アナウンサーは原稿を読んでいなかった。わたしたち視聴者のほうをまっすぐに見て、いつもよりゆっくりと語った。
「日本全国で、文字、文章を読めなくなるという現象が起きています。発生時間は本日十二時四十七分ごろ。この現象は各地で確認されており、どこが発生源であったのか、あるいは同時多発的な現象であるのかは不明です」
 画面にテロップが出ず、説明のフリップもまったく使わず、アナウンサーが話した内容に、社長と三人で真剣に耳を傾けたけれど、わたしたち自身が経験している、文字が読めないという現象の例が幾つも紹介されただけで、原因も収束予測も語られなかった。
「つまりさ、これ、日本中で起きてるわけよね。海外はどうなんだろう」
「北米からのメールは普通に来てましたよ」
「それは夜のうちにでしょ。時差の少ないシンガポールあたりは、今どうなってるかな?」
 社長が流暢な英語で何やら話し込んでいる間に、会社にある五台の固定電話がすべて鳴り出した。いや、わたしの会社スマホもだから、六台か。わたしと泉さんは走って事務室に戻って片っ端から電話をとった。
「ええ、はい、うちも同じです。ほんとに困りましたよね。あ、分かりました。そうですよね、様子を見ないとですね、また、すぐ元に戻ればいいですけど、テレビでも原因は分からないって言ってましたしね」
 お互い喋っていても何かが解決できるわけではないから、気になっている案件がしばらく滞りそうだ、という確認をした後は、同病相憐れむ、慰め合いみたいになってしまう。銀行にも何とか電話がつながって、このおかしな現象がおさまり次第、申込を送信するので、締め切り時間が過ぎても待っていてほしいと連絡できた。
 物流担当の石山さんからも電話があった。トラックの手配には問題なしだそうだ。ほっと一息ついた後、博多の通関業者からの連絡には青くなった。
「申告書控、昨日のうちに送ってあったんですが、先ほど、税関から連絡がありまして、今日は臨時に業務を停止するとのことです」
「え、うそでしょう。書類のチェック済んでたって話だったのに」
「いや、もう、とにかく、文字が読めるようになるまで臨時閉庁する方針だそうで」
 心臓バクバクになった。
 海外からの輸入貨物は、通関が終わらないと国内流通できない。その間、貨物はコンテナに入れっぱなしになるので、コンテナを期限内に返却できなくなる。イコール、予期せぬ莫大な超過料金がかかるってことだ。
「社長、今すぐ福岡に出張しないと駄目かもです」
 じゃんじゃん鳴る電話を無視して、会議室でテレビを見続けていた社長は、一見、呑気そうな顔で答えた。
「朝倉さん、なんかもう、そういう問題じゃなさそうなんですよね。鉄道全線が運転を停止しています」
 地震があったわけでも、台風が襲来したわけでもない。大雪が降ってもいないし、雷一つ鳴っていない。それでも、列車の運行に支障が出るってことは、これって、もしかして、大災害なんだろうか。
「あの、わたし、学校から子供の引き取り要請がきたので、早退させてもらってもいいでしょうか」
 泉さんのお子さんは、たしか小学校三年生くらいだった。
「電車止まってるけど、大丈夫ですか?」
「はい。歩いて帰れない距離じゃありませんから」
 たしかに泉さんは都内住まいだけど、徒歩では一時間程度かかるはずだ。母は強し、だ。
「朝倉さんも今から帰宅すれば、明るいうちに帰れるでしょう? そうじゃないと、また、わたしと二人で会社で夜明かしだ」
「誰が好き好んで、社長と会社に泊まりますか。勝手に仲間にしないでください」
 泉さんはくすくす笑いながら「では、わたしはお仲間になりたくないので、お先に失礼します」と帰宅していった。
震災のときは、まだ泉さんが入社しておらず、総勢四名の社員のうち、石山さんは港へ出張中、ラッキーマンの副社長、渡瀬さんは有給休暇をとっていた。石山さんの安否確認がとれずに、社長と二人、会社でわたわたしているうちに帰りそびれ、そのうち、鉄道も復旧するだろうから、なんて楽観的な予想のもとに、夕食をとった後も呑み屋で時間を潰しているうちに、結局、帰る手段を失って会社で泊まることになったのだった。
 ものすごい長い揺れだったし、テレビでは、見たこともない大津波が平原を覆っていく様子を報道していたのに、周りのビルに被害がなかったから、地震の発生直後は、どこか他人事のようで、現実感がなかった。
 今回も、あれと同じことになるんだろうか。
「で、朝倉さんはどうするの?」
あらためて訊かれて、少し迷った。
 わたしは一人暮らしだし、方向音痴なので徒歩でマンションまで帰れるか自信ない。明日も電車が止まったままなら、むしろ、このまま会社にいたほうが安心ではある。
「お待たせしました」
 にこやかにリュックをしょって登場したのは、副社長の渡瀬さんだった。家の近い渡瀬さんを社長が呼びつけたらしい。その昔、別の会社で、堀口社長が課長、渡瀬さんが係長、わたしが新入社員だった頃から変わらず、渡瀬さんは一年中、ゴルフ焼けしていて笑顔が絶えない人だ。今も、そのトレードマークの笑顔のまま、会議室の机に、リュックサックの中身をぶちまけた。惣菜パンやおにぎり、カップ麺、ペットボトルのたぐいが転げ出る。
「何ですか、これ」
「帰宅困難者に食料のお届けです。夕食、食いっぱぐれないように」
「どうせなら、おいしそうな弁当とか、もう少し、ましなものを買ってこいよ」
「コンビニの食べ物は、もうほとんど売り切れなんですよ。それに、お二人とも大丈夫ですか」
「何が」
「現金、少し下ろしといたほうがいいんじゃないですか」
社長と顔を見合わせた後、わたしたちはそれぞれの銀行のもよりの支店へ走った。
 すごい人が並んでいる。
 わたしも並んだ。並ぶしかない。ほかに何も考えが浮かばない。
 見上げれば、空は青かった。
 いつでも、どんな時でも、晴れた日の昼下がりの空は青いのだ。
 青空をバックに、陽光を浴びている街路樹の銀杏がとても綺麗だった。
 永遠に近いような時間を、大勢の人と一緒に呆然として並んでいると、地位のありそうな男性と制服を着た若い女性行員がやってきて「大変、申し訳ありませんが、本日は臨時休業とさせていただきました」と頭を下げた。
 罵声を浴びせて詰め寄る人もいるにはいたが、ひたすら頭を下げられて、大方の人は解散していった。
 わたしは自動販売機の陰で、お財布の中身を改めた。茶色い諭吉さんが二枚と青っぽい野口さんが三枚。お札の顔と色が違っているおかげで、金額を読まなくても紙幣の区別がつくのは、まあ、この際、ありがたい。会社に戻れば、カバンには万が一の際のタクシー資金として、もう一枚、諭吉さんを忍ばせてあるし、定期券にも幾らかチャージしてある。
 総額四万円弱。
 これで、いつまで持つだろう。
 っていうか、文字が読めないなんて、こんなこと、いつまで続くんだろう。
 会社に戻ってみると、会議室では社長と副社長が真剣な顔で話し込んでいた。
「朝倉さん、ここ、座って、座って」
「え、でも、今日の分の業務が、まだ残ってて」
「どうせ、今は何もできないでしょ。取引先だって午後から臨時休業にしてるところ多いし、明日、元に戻ったら、しゃかりきに二日分やればいい。それより、今のうちに、これが続いた時のこと考えておかないと」
 珍しく真顔の渡瀬さんに言われるまま、革張りの黒いチェアに腰を下ろす。
 机の上には、パン類が放置されたままになっていた。
「食べましょう。腹が減っては戦にならぬ」
 社長が口の端からクリームを漏らしながら、クリームパンを食べ始めたので、わたしもツナマヨおにぎりと緑茶のペットボトルに手を伸ばした。
「もう一度、繰り返します」
 渡瀬さんはホワイトボードの脇に立って、手にしたスマホを口元へ近づけた。
「この事態が明日も続いた場合、我が社の業務の何が影響を受けて、今からどんな手が打てるのか、フリーディスカッションとします」
 真面目にそう言った後で、「しまったなあ、ビールも買ってくればよかった。こんな話、酒でも飲まなきゃ、話せないよ」とぼやく。
「そうだよ、ほんとに、昔から、おまえは気がきかない奴だ」
「なに言ってんですか、この食料、買ってきてあげたじゃないっすか」
「あの、お二方、調子の出てきたところをお邪魔してすみませんが、スマホの録音容量も限られてるでしょうし、無駄話は極力、控えませんか。後で聞き返した時、きっと苛々しますよ」
 給湯室の冷蔵庫の底で、コロナ禍以前に、お中元でもらった缶ビールがちょうど三缶、みつかった。わたしたちは嬉々としてビールを啜りながら、文字の読解障害が解消されない場合、毎日のルーティンワークの何が困難になるかを話し合った。シッパーからの買い付け、顧客や船会社との契約、銀行からの借入、貨物の受け渡し、税関申告、港湾業者への支払い、そして、それらすべての仕訳と会計システムへの入力。 
 文字を使わない業務なんてない。
「駄目です。全然、できる気がしません」
 わたしは新調したばかりのホワイトボードを見上げた。このボードは書き込んだ文字を、ボタン一つでデータに変換でき、紙にもプリントアウトできる優れものだ。なのに、このとき、渡瀬さんが力説しながら書き込んだのは、たくさんの線と丸だけだった。
 どんな良いアイデアが出てきても、ノートにメモをとることができない。ボイスレコーダーの録音容量が尽きれば、保管場所は自分の脳みそに限られる。
 お酒好きだが、アルコールに弱い社長の顔は真っ赤だった。
「もういいや、今日はこれくらいにしよう。困ってるのはうちだけじゃないさ。おい、七時のニュースの時間だ。テレビつけてみろよ」
 渡瀬さんがリモコンでスイッチを入れた。
 いつものアナウンサーがやはり原稿を読まず「官房長官の会見があります」と伝えた。画面が切り替わり、記者の前に立った官房長官が映った。アナウンサーと同じく、手元に原稿はない。生真面目な表情で、まっすぐに、わたしたちをみつめて視線を動かさない。官房長官と目が合い続けるのって、何だか照れくさいような、妙な感じだ。
「本日午後、発生した読解障害は、日本のみならず全世界で起きている模様です。政府は現在、この事象の原因、影響範囲について全力をあげて調査しております」
 記者たちが「原因は?」「対策は?」とたたみかけたけど、官房長官の回答は「調査中です」の一点ばりだった。
 社長は黙ってテレビを消した。渡瀬さんはいつもの笑顔で「それじゃ、僕はこれで帰宅させてもらいます」と言って、帰っていった。
 他にやることもないから、しばらくの間、社長と二人でテレビを観ていた。画面のなかでは、大学教授が失読症について説明していた。失読症になるには、いろいろな原因があって、その症状もまちまちだそうだ。
「これからどうなるんでしょうか」
「それは誰にも分かりませんね」
「社長にも?」
「ええ、わたしにも」
 この社長が、自分にも分からないことがあると認めるってことは、それ自体が事件だ。
「さて、少し早いけど、酔っ払っちゃったし、もう休みますか」
 少し早いどころじゃない。八時前に寝るなんて、ありえない。だけど、言われてみれば、疲れていた。ろくに仕事もしてないし、たった一缶、ビールを飲んだだけなのに、体の芯が抜けてしまったみたいだった。
震災の後に用意した防災用毛布を二組、初めてパッケージから取り出す。「レディファーストでどうぞ」「いえいえ、わたしはまだ若いんで」と譲り合った後、小学生みたいにジャンケンした結果、わたしが応接室のソファを使うことになった。社長は社長席の椅子に頭を預けて毛布をかぶった。
「おやすみなさい」
 応接室の扉を閉め、非常用懐中電灯一つを灯して、ほかの電気はすべて消した。それでも、ブラインド越しに向かいのビルの明かりが差し込んでくるせいで、かなり明るい。
 震災の夜を思い出した。あの頃はもっと小さい別のビルにいて、会議室も応接室もなかったから、深夜まで急ぎでもない単純作業をして時間を潰し、明け方近くに机につっぷして仮眠をとったんだった。
 わたしはソファから跳ね起きて、テーブルに置いていたカバンを引き寄せた。震災以上に、なんだかよく分からない変なことが起きている。今日あったことを覚えておくため、一行でも手帳にメモっておこうと思ったのだ。
 懐中電灯で手帳を照らし、ボールペンの先をページに押しあてたところで自分に呆れた。この状態でメモがとれるわけがない。一人ひっそり笑ってしまい、そして、それから、我ながらびっくりしたことに、涙が出てきた。もう何年も泣いたことなんかなかったのに。
 勘弁してよ、と言いたかった。
 仕事の上で様々な困難が降りかかるのは仕方ない。それを何とかするのが仕事ってものだ。だけど、一日の出来事を一行、二行、感想も含めて記録しておく、そんな些細な、プライベートな習慣まで出来なくなっちゃったって、どういうこと? この世の中は想定外のあれこれが起きてくるものだから動揺したり不安になったりするけど、どんなことでも書いて文章にしてみれば、少しは冷静になれる。大震災もコロナ禍も、そうやって自分をなだめ、なんとか心を引き立たせて日々を送ってきた。
 それができなくなってしまったって、どういうこと? どうして? 何が起きたのよ。
ティッシュで洟をかんで、落ち着こうとした。
 もしかして、これって全部、夢じゃないかな?
 朝になって起きてみたら、自宅マンションの寝室にいたりして。
 いや、そうであってほしい。もしも夢ではなくて、明日もあさっても、これが続いたりしたら大変なことだ。マジで悪夢だ。災厄だ。
 興奮のあまり朝まで眠れないような気がしていたのに、実家の母や妹に電話してなかったと思いついた時には、もう半ば以上、眠りの世界に落ちていた。
 明日すれば、いいや。
 明日にはきっと、元に戻っているだろうし。
 明日になれば、きっと。なにもかも。