『「Osprey’s Sky」と環境正義』(伊野隆之)

『「Osprey’s Sky」と環境正義』伊野隆之

Reckoningという年次ジャーナルのサイトに、Takayuki Ino の小説、”Osprey’s Sky” が掲載されている(ここ)】。この作品が収載された Reckoning6 は、今年の1月に電子版が発行され、7月には印刷物としても販売されており(ここ)、僕自身の手元にも実物が届いている。Reckoning6 のコンテンツは、発行者である Reckoning Press のサイトで順次公開されており、順番が回ってきた、ということになる。
それで、”Osprey’s Sky” だ。カタカナにすると、「オスプレイズ・スカイ」で、オスプレイは例の傾きを変えられる回転翼が二つある軍用機の愛称として有名だが、元々の意味はミサゴという猛禽類の一種だ。つまり、”Osprey’s Sky” は「ミサゴの空」で、自作の英訳作品としては「ヴァレンハレルの黒い剣」に続く第二弾になる。

“Osprey’s Sky”を掲載したReckoning は非営利のジャーナルで、”Environmental Justice” をテーマにして、毎年1冊づつ刊行してる。この “Environmental Justice” を日本語にすると「環境正義」になるのだが、これが少々ピンとこない。環境省の関係団体である「一般財団法人環境イノベーション情報機構」のEICネットでは、「環境保全と社会的正義の同時追及の必要性を示す概念。多民族国家である米国の社会的背景をもとに生まれてきた概念で、環境的人種差別主義批判(Environmental racism)として展開した環境正義運動(Environmental justice movement)に端を発す。1980年代に米国で、アフリカ系黒人が多くを占める地域において有害廃棄物処理施設が集中していることに対する抗議運動などが象徴的な動きとされる。」とある。Reckoning のサイトにも説明があるが、そっちは英語が難しい。「人類の環境に関する誤った選択の結果を負わされた人々(および他の生物)は、その選択を是正する義務を負わないという考え方。」くらいだろうか。”Environmental Justice” や「環境正義」が具体的に何か、は、まだいろんな議論がなされているようで、それこそ難しいけれど、原稿の応募の観点からすれば、作品の内容で環境問題に起因した不公正を扱っていれば良い、くらいの解釈で間違っていないと思う。

そこで、「ミサゴの空」だ。作品は南北に延びる海岸線沿いに飛ぶミサゴが、太陽光発電衛星からのマイクロ波送電の受電施設の上を飛ぶことで、空から落ちるシーンで始まる。受電施設があるのは原子力発電所が事故を起こした跡地だ。どこが想定されているかはあえて説明するまでも無いだろう。その場所で主人公は放射線への暴露をごまかしながら働いている。この作品の公開は2011年6月。何を契機として書かれたかは、言うまでも無く東日本大震災による福島原発の事故だ。今でも廃炉作業が続くサイトでの労働者の放射線暴露については、さすがにちゃんと管理されているとは思うが、東京でエアコンを使って快適に過ごしている僕たち(当時、僕はまだ現役で東京に住んでいた)は、普段、廃炉作業に従事するで人の事など考えもしていない。敢えて言えば、職業選択の自由はあるが、一方で社会経済的制約が職業選択を狭める事を知っている。労働者を守るための規制はあるが、経済的な理由が労働者自身に規制を破らせるインセンティヴになり得る事を知っている。その上で、僕らは快適さをむさぼっているのだ。原発事故の当時から今現在まで原子力発電は悪者にされている。ただ、悪者は原発だけなのか。原発という技術を悪者にして、その原発を必要なものとしているエネルギー消費構造を見ないふりをしているのではないか。そんな現状へのフラストレーションが、珍しく執筆のモチベーションになった作品だった。この作品を公開した時には、これと言った反応も無かったのだけれど、日本語版の公開から10年以上を経て、米国の環境正義を扱うジャーナルで、僕の作品が評価された事を率直に喜びたい。担当編集者のGabrielaはメールの中でこんな風に書いた。 “It is a beautiful, haunting story, and the ending gets me every time.”(これは、美しく、心に残る物語です。そしてエンディングには毎回感動させられます。)こんなことを米国の編集者に書いてもらったら、小説家なら誰だって舞い上がるはずだ。

ところで、日本語にすると、また、分かりづらいのだが、英語圏では「気候小説(Climate Fiction,略してCli-Fi)」なるものがジャンルとして認識されているらしい。SFのサブジャンルかというと、必ずしもそうではないようだが、かなりの重なりがある。最近は、SFプロトタイピングのような企業活動に貢献するSF的なアプローチが国内に紹介されてきているが、気候変動のような問題(とはいえ、あまり現実だと思われていないかも知れない)へのアプローチとして小説を捉え直すこともできるだろう。日本では聞き慣れないCli-Fiだか、毎年のように甚大な気象災害は発生している現在、世界でも「気候変動への意識」が低いと言われる日本の現状を変える一助にもなると思う。僕の書く小説が、どれくらい貢献できるかは疑わしいのだが。

(注釈1)
ちなみに、なんでミサゴかというと、猛禽類にしては珍しくミサゴの餌は魚で、太陽光を反射する受電施設(ホント?)を海と誤認して飛んでいくという展開にふさわしいということもあるが、それとは別にロバート・ホールドストックの「ミサゴの森」という小説が念頭にあった。ホールドストックの小説は、エンタメ的な盛り上がりに欠ける一方で、妙にじんわりくるイギリス的な小説で、結構好きでした。もっともホールドストックのミサゴは鳥では無く Mythago という森が作り出す神話的存在なので、鳥のミサゴとは全く関係が無いです。

(注釈2)
Environmental Justiceを説明するReckoning の説明(原文)は以下の通り。もう少しわかりやすい英文にして欲しい気がする。
the notion that the people (and other living things) saddled with the consequences of humanity’s poor environmental choices and the imperative to remedy those choices are not the ones responsible for them.
この説明の背景につき、岡和田晃氏から「「Environmental Justice」について、「この「Justice」はアメリカを代表する哲学者の一人、ロールズの思想等が背景にあると思います。ロールズはプラグマティズムやリバタリアニズムを代表する思想家とされますが、代表作に『正義論』があります。ロールズ的な「正義」とは、協業作業によって生まれる便益の分配に関する考え方のことで、格差が存在する際にそれを是正する「公正さ」(Fairness)の担保を「正義」の前提としています。従来、環境問題については「公正さ」の埒外にあるものとしてみなされがちでしたが、激しさを増す気候変動により、そうも言えなくなってきた。グレタ・トゥーンベリの訴えを思い出してください。だからこそ、「正義」をもって機会の平等を担保し、生まれながらに環境危機の負債を背負わされる将来世代をもエンパワーメントすることが、小説(Fiction)の切実なテーマともなっているのでしょう。」というコメントを頂いた。うん、そんな風に解説してもらえると、なんとなくわかりやすくなった気がする。

(注釈3)
自作の話になって恐縮だが、2018年に「チュティマの蝶」という気候変動をストレートに扱った作品がある。この作品もまた人災である気象災害が、あたかも天災のように報道される事へのフラストレーションが執筆の動機になっていた。この作品は、たまたま、西日本豪雨の直後に公開されており、ちょっとした偶然に驚かされたものだ。
なお、これもまた岡和田さんの紹介で、日本にはエコクリティシズム研究学会の論集では、ヴォネガット、バチガルピ、上田早夕里(敬称略)等が扱われているとのこと。もともとエコクリティシズムは「文学と自然環境の関係についての批評」を意味するようだが、論集である「エコクリティシズムの波を越えて」のサブタイトルは「人新世の地球を生きる」になっている。「人新世」とは、ノーベル化学賞受賞者パウル・クルッツェンらの言う人間登場以降の歴史のこと。そこには人の営みから切り離されたものとして「自然環境」を捉えることはもはやできないという認識が強く表れているように思う。

(注釈4)
「ヴァレンハレル」の方の原稿料は、「利益が出たら分配するね」なので、とりあえず印刷物はもらったものの、手元には入ってきていない。一方、「Ospray’s Sky」は,ワードあたり8セントの原稿料が出ている。この8セントというのは、僕が寄稿した時点では、大きな意味のある数字だった。アメリカのSF作家クラブであるSFWAは,少し前までは入会基準が厳しく、単著であれば特定の版元からの出版ではないと入会資格を満たすための実績として認めないし、雑誌掲載ではワード8セント以上で3作合計○○ドル(←忘れました)以上でなければ認めなかった。このワード8セントも、過去からじわじわと上がってきていて、もしかすると作家の地位向上のためのレバレージに使っているのかとも思っていたのだが、最近になって、その基準が撤廃され、商業出版の単著であれば版元を問わず、雑誌等であれば累積金額の基準をいたせば良いとなったらしい。媒体の多様化に対応するとともに、組織の裾野の拡大を図っているのかな、という印象。Reckoningやヴァレンバレルの掲載された「Chankey with Ketchuap」を出したWolfsinger Publicationに限らず、英語圏のSF&Fの出版はポッドキャストのようなものを含めて多様化している。チャンスはどこにでも転がっているのだ。