「ミサゴの空」伊野隆之

(PDFバージョン:misagonosora_inotakayuki
 白い波頭が海岸線と並行に北に向かって延びている。穏やかな海風が、日差しに暖められた陸(ルビ おか)で上昇気流にかわり、翼を柔らかく押し上げる。
 ミサゴは大きく旋回しながら高く、より高く空へと昇る。
 背中に感じる熱。それは不快ではない。羽毛に暖められた空気をはらみ、力強く羽ばたく。
 上空の空はどこまでも青く、まっ白な雲がゆっくりと風にながれている。
 眼下の海は豊かだ。寒流と暖流が複雑に混ざり合い、底に沈んだミネラルをかき混ぜ、巻き上げる。爆発的に増殖したプランクトンを餌にして、小魚が大きな群れを作り、その群れを海鳥が襲っている。
 陸には深い森がある。海岸には船のいない港があり、人のいない集落がある。真新しい道路がまっすぐに走り、その横を高圧線が伸びている。一台の車も見えないその先に、きらきらと陽光を反射するものが、まるで水面のように見えていた。
 ミサゴは、一度だけ羽ばたいたかと思うと、急に動きを止め、落下をはじめた。それは、魚を狙った急降下ではなく、重力に囚われた物体の落下。
 小さな卵が二つある巣から北に離れていた。ちょっとした風向きの加減で流されたミサゴは、二度と巣に戻ることはない。

 食堂のテーブルに両肘をついて、僕はぼんやりと窓の外を見ていた。日が傾き、オレンジ色の空が広がっている。昼間はいい天気だったに違いない。
「どうする?」
 トレーを下げて戻ってきた瑞樹(ルビ ミズキ)だった。起きてすぐ食べる朝食なのか、夕食なのか判らない、夕暮れ時の食事はいつも妙な気分にさせられる。
「ああ、たのむよ」
 首にかけた積算線量計をはずし、瑞樹に渡す。ちょっと数字をいじってもらうのだ。
 瑞樹は器用だった。積算線量計の裏にあるパネルをミニドライバーで外し、小さなスイッチをカチャカチャといじる。食堂にはもう誰もいないから、見とがめられることもない。
「そろそろ潮時だと思わないか」
 長い前髪をの向こうで、四角く黒い箱の裏側をつつきながら、瑞樹が言った。
「もう少し稼いだらな」
 いつものように曖昧に答える。はっきりとした目標があるわけでもなかったし、他所で稼げるのかという心配もある。
「智也は欲張りだよ」
 突然、瑞樹が顔を上げた。瑞樹はここから出て行きたがっている。僕はそれを知っている。
「終わった?」
 瑞樹の言葉を無視して聞いた。僕は卑怯だ。
「完璧さ」
 瑞樹が答える。ぴったりした白いTシャツの胸には放射線管理区域を示す黄色と黒のマーク。趣味の悪いジョークだ。
「ぎりぎりじゃないか」
 積算線量計の数字は、きわどいところに変えられていた。
「もう、四日連続だ。あんまり数字が低いのはおかしいよ」
 ぎりぎりの数字でも、基準より下なら仕事にいける。どうせ安全係数をたっぷり見込んでいるはずだから、少しくらい超えていたからと言って、どうってことないはずだ。
「大丈夫だよ」
 僕は席を立つ。集合時間まではまだ少し時間があり、歯を磨き、トイレに行くくらいの時間はある。
 テーブルに座ったまま、ぼんやりと窓の外を見ている瑞樹を残し、僕は自分の部屋へと戻る。僕の部屋の窓からは夕日の中で真っ黒な影を曳く焼却炉が見えているだろう。

 作業員控え室にカントクがやってきて、毎晩の点呼がはじまる。全員が来ていることを確認し、首からぶら下げた積算線量計の数字を順番にチェックする。手に持った端末にデータを打ち込む。今夜は三人が自室待機を指示された。
「バカだよね、ちょっといじればいいのに」
 そう瑞樹にささやいて、カントクにじろりと睨まれた。やり方さえ知っていれば瑞樹のように簡単に操作できる。でも、本当は禁止されている。キケンだからだ。カントクも、僕たちが操作していることをうすうす知っているけれど、よほど変な数字にしない限り、なにも言われない。現場で働く作業員を確保するのは簡単ではなく、人手が足りないと仕事が朝までに終わらない。
 窓の外はすでに暗くなっている。
「受電終了、確認しました。作業開始してください」
 カントクの無線機が言う。静止軌道上にある発電衛星が、地上に一時間ほど遅れて夜の側に入ったのだ。
「第三作業所、了解しました」
 無線機に向かうカントクの言葉遣いはいつも丁寧だった。カントクもセイシャインじゃなくハケンだから。無線機の向こうにはセイシャインがいる。
「全員防護服を着て、作業車両の前に集合すること。三十分で出発だ。メットの充電チェックを忘れんなよ。それから、俺の前で私語は禁止だ。いらないことをしゃべってると、給料から半日分、さっ引くからな」
 カントクが睨んでる。

「やばかったな」
 防護服の前面にあるベルクロの上に保護テープを貼りながら瑞樹が言う。靴底に鉛のシートが入ったブーツは妙に重たいし、防塵マスクは変なにおいがする。それでもここの仕事が気に入っているのは日給が高いからだ。ここで働いて、金が貯まったら街に出る。中学からのつきあいの瑞樹とは、いつもそんな話をしている。地元じゃろくな仕事がない。
「そこ、ちゃんと貼れてないぞ」
 瑞樹が言う。よく気がつく。僕はブーツにズボンの裾を押し込んで、もういちど保護テープをしっかりと巻いた。キチンとしてないと、カントクに追い返されるし、そうなると一日の稼ぎがパーになる。
「サンキュ」
「じゃあ、チェックだ」
 僕の目の前で、瑞樹が右足を軸にして、くるりと回ってみせる。
「オーケー、完璧だな」
 今度は僕。くるり。
「完璧だ」と、瑞樹。
 シール式の線量計の封を切り、胸の所定の位置に貼る。それからメットのインジケーターを見て、充電済みになっていることを確認する。本当は共用だけど、自分専用のメットにしている。目印は小さなドクロのシール。じゃないとアジャストがめんどくさい。
 防護服にばっちりと身を包み、更衣室を出る。作業所の前には、後ろに広い荷台のあるマイクロバスが待っている。僕たちはその前に整列する。今日は全部で十二人だ。僕たちと同じように防護服に身を包んだカントクが、一人ずつ点検する。
「今日は西十三区に行く。汚染が強く残っているエリアだから、線量計がオレンジになったら必ず申告しろ」
 僕たちがいつも身につけているのは積算線量計で、毎日の曝露線量を合計して表示するようになっている。それとは別に、一日の曝露線量を管理するのが防護服の上に貼るシール式の線量計で、こっちはとってもアバウト。グリーンから始まり、イエローになり、オレンジになる。そうなったら作業はやめなければいけない。レッドになったら検査のための病院行きが待っていて、何日分かの稼ぎがふいになる。
「ほら、さっさと乗れ」
 カントクにせかされてマイクロバスに乗り込む。マイクロバスのハンドルを握るのもカントクの仕事だ。けれど、現場に着いたらカントクは何もしない。放射線遮蔽されたマイクロバスの運転席で、シートに座って待っているだけ。
 暗い中を走り出す。明かりは何もない。僕と瑞樹が座っているのは最前の席で、外の様子がよく見える。ヘッドライトの明かりに切り取られて見えるのは、ぞんざいに作られたコンクリートの道。作業所自体が管理区域内だから、周囲には何もない。ただのむき出しの地面だけだ。
 僕たちが生まれる前に起きた原発の事故。炉心の複雑な配管や燃料棒だけじゃなく、大量の瓦礫と汚染土壌が残された。結局、低濃度に汚染された瓦礫と汚染土壌の処分は断念され、飛散防止処理をしただけで、そのまま放置されることになった。もちろん、だだっ広い汚染地域を単に空き地にしておくわけにはいかないので、発電衛星用の受電グリッドとして利用されることになった。今では、首都圏のピーク電力の十五パーセントを供給する、主要な発電施設になっている。
 僕は、衛星写真を思い出す。夜の明かりで縁取られた列島の、このあたりの一角だけがぽっかりと穴があいたように暗い。
 しばらく走ると、ヘッドライトの明かりの中に、コンクリートと金属の巨木が現れる。受電グリッドの支柱だった。何千本もの支柱が、広大な森を作っている。マイクロバスは、森の中に入っていく。
 受電グリッドのある放射能汚染地域は、本当ならずっと無人でいいはずだった。メンテが必要ならメンテ用のロボットがある。予定通りなら、僕らの仕事はなかった。けれど、想定外の仕事が生じた。
 それが僕たち清掃隊/クリーニングユニットの仕事だ。
 最初は鳥だった。受電エリアに迷い込んだ鳥が、電子レンジの中の猫さながらに茹で上げにされる。カモメやウミネコのようなありきたりの海鳥なら問題ないが、ミサゴやオオタカのような希少種になると話が違う。受電グリッドそのものが、環境保護にうるさいNGOに叩かれる。だから、問題になる前に僕らが茹で上がった鳥の死骸を片づけなければならない。渡りの季節になると、一人で大きなゴミ袋に三つ分は集められる。それが僕たちの仕事だ。
「今日はありそうな気がする」
 瑞樹がぼそっと言った。
「賭けるか?」
「借りが増えるだけだよ」
 今までも負けが込んでいる。こういうことに、瑞樹は妙に鋭い。
「やめておいた方が良さそうだ。俺もありそうな気がする」
 カントクの警告もあり、会話はそのまま凍り付く。マイクロバスは、静かにコンクリートと金属の森を走る。
「着いたぞ。だらだらしてないでさっさと降りろ。日給分は働けよ」
 マイクロバスが止まり、僕たちはそれぞれにゴミ袋を持って席を立った。

 メットのライトをつけると目の前に灰色の世界が広がる。砕かれたコンクリートと錆びた鉄骨。ガイガーカウンターを向けたらガリガリと鳴り出すだろう。僕たちは、指定のエリアをてんでバラバラに歩き始める。
 コンクリートと色合いは似ている。でも、見た目にも風合いが違っていた。柔らかそうな灰色の塊はウミネコだった。かがむと放射線曝露が増えるから、大きな金属のトングのようなものを使って拾う。目が慣れてくると、あたりに点々と落ちているのが見えてくる。このエリアにきたのは、たぶん二ヶ月ぶりくらいだろう、ざっと見ただけで、結構な数の海鳥が落ちていた。
 ほとんどがカモメや、アジサシだった。ミサゴやオオタカのような茶色い羽根はないようだったが、見慣れない大きな鳥が落ちていた。どこかの動物園から逃げ出したのだろう、大きなクロトキの死骸だった。
 暗い森の中に、ゆらゆらと揺れるメットのライトが見えている。右手の一番近くにいるのが瑞樹だろう。無駄口を叩くには、距離が開いている。
 グリッドの支柱は規則的に並んでいて、それぞれに番号が振られているから、迷子になる心配はない。目を凝らし、あたりを見まわしながら、鳥の死骸を拾う。左手に持ったゴミ袋が次第に重くなっていく。
 夜半をすぎたあたりでそれを見たときは、やっぱり、と思った。最初に目に入ったのは支柱の陰から伸びた赤いブーツ。
「心中かよ」
 ブラケットを敷いた上で、二人が並んでいた。そんなに古いものではない。しっかり茹で上がっていたけど、ミイラ化はしていなかった。ベルトにぶら下げたブザーを鳴らすと、鋭いビープ音が闇に響く。
「やっぱり当たっちゃったね」
 最初にやってきた瑞樹が言う。防塵マスク越しのくぐもった声だ。
「下らねぇこと言ってるから」
 そう言ったのは、別の古参の作業員。手回し良く、現場の写真を何枚か撮影する。
 ブザーが聞こえる範囲にいたのは五人で、結局、二つの死体の周りには六人の作業員が集まった。ちょうど三人で一体ずつ。ゴミ袋はその場に放置して、一人が両足を持ち、二人がそれぞれ腕を持って遺体を運ぶ。いつ頃からか、受電グリッドは自殺の名所になっていた。睡眠薬を飲み、ぐっすり眠っている間に発電衛星がマイクロ波の送信をはじめ、ゆっくりと茹で上げになる。最近は、金属を外さなければいけないという情報が徹底しているから、死体には不細工な焦げあともなかった。それに、グリッドの下まで届くマイクロ波は、上空に比べれば相当に弱くなっているはずだ。
 ゴミ袋が何袋か転がったマイクロバスの後部に死体を放り込むと、すでに三人の作業員がオレンジになっていたらしく、所在なげに座っていた。
「当たったじゃないかよ」
 シート越しに振り返り、瑞樹を冷やかす。
「期待してたわけじゃない」
 不機嫌そうな声の瑞樹。
「下らないこと言ってるんじゃない。おまえらもさっさとゴミ袋を拾ってこい。今日は上がりにする」
 カントクはそう宣言し、マイクロバスのクラクションを、立て続けに三回鳴らした。闇に鋭い音が響き、僕の胸の線量計も限りなくオレンジに近い黄色に変わっていた。

 作業所に戻った僕たちは、二つの死体を安置所の床の上に置いた。冷たいコンクリートの床はいかにも寝心地が悪そうに見える。カントクが連絡をしたはずだから、午前中には警察が収容にくるだろう。死体発見現場に案内するのは僕たちの仕事ではない。僕たちは、この二人がなぜ死にたいと思ったのか知りようもないし、知りたくもない。
 瑞樹が死体を見下ろして、じっと立っていた。僕は、瑞樹の肘を掴んで、死体の横から引きはがす。このグリッドの森ならきれいに死ねるという噂が消えない限り、鉄条網を越えて自殺志願者がやってくるのは止められない。受電グリッドだけでも三十キロ四方の広さがあるのだ。
 マイクロバスに戻った僕たちは、重たくなったゴミ袋を作業所の裏にある焼却炉へと持っていく。焼却炉で焼かれた鳥たちは、白い煙となって空に戻っていくだろう。そんな様子を僕たちが見ることはない。陽が昇る前に、僕たちは眠っているからだ。
「いつまでこんなところで」
 下を向いたままで、瑞樹が言った。
「そのうち考えるさ。気にするなよ」
 僕は軽く瑞樹の背中を叩いた。
 作業所に入ると、更衣室で防護服を脱ぐ。防塵マスクを棚の所定の位置にしまい、メットを充電器にセットする。ビニール袋に剥がしたテープと防護服、手袋を押し込み、きっちりテープで口を塞ぐ。これもまた焼却炉行きだった。最新のバグフィルターがついているから放射性物質の飛散はないと言うことらしい。
 最低の仕事だ。マイクロ波で殺菌されていても、体の隅々に死のにおいが染みついている気がする。死のにおいを洗い流すために、仕事を終えた僕は、誰よりも早くシャワー室に行く。髪を徹底的にシャンプーし、死の微粒子を洗い落とす。
 排水口に髪の毛がたっぷりと絡んでいるのを見ると、そろそろ潮時かな、と思う。それでも、また目が覚めたら、瑞樹に積算線量計をいじってもらうことだろう。
 僕は、煙になって天に帰っていく鳥たちを思い、シャワーの下で頭を下げる。
 ちょうどいい暖かさのお湯が、首筋から背中を伝い、足下へとゆっくりと流れて落ちていく。
 快適さという消せない罪。きれいに洗い流された僕が眠りにつき、やがて陽が昇れば、グリッドは街に向けて電力を送りはじめる。
 街は、いつだって罪の存在を忘れている。

                  了

伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『樹環惑星
――ダイビング・オパリア――』