「リオのために(下)」伊野隆之

 第一印象だけで言えば、マスチフが目クソなら、今度のマスチフのボスは鼻クソだ。マデラという新しいボスは、とことん鼻持ちならない感じだが、ありがたいことに、快適な雲の上から降りてくることは滅多になさそうだ。それくらい金星の地表の居心地は悪い。鉱区がいくつものドームで覆われているとはいえ、金星の地表は暑い。その熱が、ドームの中を蒸し暑くしている。それに加えて鉱山から発生する大量の粉塵が空気を浄化するフィルターを詰まらせている。酸素濃度も規定の下限値ぎりぎりだ。
 私たちは暇にしていた。北極鉱区の保安体制の強化という名目に、どれほどの意味があるのかわからない。鉱区自体は広大で、見て回れる範囲はあまりにも狭い。
 金星の地表では、多くのアップリフト(知性化種)が金属の採掘に従事していた。劣悪な環境への耐性が優れているからだろう、労働者のほとんどがタコだった。カニ型のクォーツモーフ(石英義体)を着装したタコと、タコ型合成義体であるタッコをまとった人間が、一緒に混ざって働いている。鉱山での労働は危険で、腕を失った個体をよく見かけるが、なにせタコはタコ。見た目がカニにせよタコにせよ、八本あるうちの脚を一本くらい失おうと、どうってことないようだ。
「あー、くそタコ臭せー」
 自分がまき散らしている体臭をよそに、マスチフの手下の一人が叫んだ。その辺のタコをつかまえては、いちいちIDを照合する意味不明の任務から解放されたのは良いが、その後でだらだらと続く待機状態にも飽きてきているのだろう。
「うっせーぞ! あんたの方が、よっぽど汗くさいわ」
 もう一人の兵士が応じる。スキンヘッドの頭にゲームカートリッジが刺さったままで、独り言に気を散らされたのが気にくわないのだろう。
「黙れ、ポンコツ頭!」
 雰囲気が悪くなっていた。
「黙るのはおまえの方だ。タコよりくせーぞ!」
 詰め所の中がざわついている。
「ちょっと外を歩いてくる」
 そう言って席を立った私のことは誰も気にしない。殴り合いが始まりそうな様子に、誰もが気を取られていた。
 詰め所の外に出たところで、空気が良くなる理由もなかった。タコの労働者たちが歩き回っているエリアを抜け、私は、人気(ひとけ)、いや、タコっ気のない方に進む。向かう先は立ち入りを禁止されたエリアだった。
 金星の地表に降りて以降、逃げ出したタコの捜索以外、たいして仕事らしい仕事もなかった。鉱区ではアップリフト解放戦線という組織が暗躍しているらしいが、鉱区全体の保安は上手く保たれており、さほど問題があるとは思えない。私たちのような兵士が必要な事態がすぐに起きそうなく、新しいボスがなぜマスチフをわざわざ金星に呼んだかわからなかったが、きっとまたろくでもないことを計画しているに違いなかった

火星で起きたことを、二度と繰り返させるつもりはなかった。そのためには、マスチフが何をやっていたのかを調べる必要があった。その手がかりが、立ち入り禁止エリアにある。怪しいのは、周辺の監視カメラがすべて無効化された備品置き場だ。
「何をやってるのさ?」
 汎用の機械義体。監視カメラの様子を調べているケースがいた。
「ちょっと用事があってね」
 落ち着いた様子の返事に、私はいぶかしむ。こっちは戦闘用義体のフューリーだ。生体義体とはいえ、ケースくらいなら簡単に解体できる。
「はぐらかすつもりなら、やめておくんだな」
 私はテーザー銃をケースに向けた。高圧の電流は、機械義体の内部回路も簡単にショートさせ、無力化できる。
「その武器はしまっておけ。いらぬトラブルの元になるだけだ」
 まるで、テーザー銃が利かないと思っているような落ち着きぶりに、私は苛立つ。
「あんたの言うことは無視しても良いんだってよ。それに、丸腰じゃあ舐められるだけだしね」
 目の前のケース、北極鉱区の保安主任は丸腰だった。私の腰にはガンベルトがあり、テーザー銃よりも威力がある銃を携帯しているが、それすら気にしているように見えない。
「聞き捨てならないな。それに、誰もおまえを舐めてなんかいない」
 そう言うと、薄汚れたケースは、備品置き場のドアに向けて一歩踏み出す。私は、特に考えることなく、そのケースを押しとどめるように動いていた。
「おまえたちのボスのボスの指示で、ここにいた奴のことを調べなきゃならん。邪魔するな」
 鋭い声がすると同時に、ケースの手がテーザー銃を掴んでいた。
「何するのさッ!」
「これは、正式の装備品じゃないな。承認されていない武器の携行は、処罰の対象になる」
 北極鉱区の保安主任、カザロフ。その手の中で、テーザー銃が変形していた。音を立て、青白い火花が走るが、カザロフは意に介さない。
「しかも、作りがお粗末だ。こんな物は使えん」
 カザロフの手の中にあるテーザー銃は、完全に握り潰されていた。こんな芸当は並のケースには出来ない。
「現場検証だよ。まあ誰もこんなところには来ないと思うが、見張っていてくれると助かる」
 カザロフがテーザー銃を握りつぶすほどの握力を備えた手で私の軽く肩を叩いた。私はあわてて横によける。
 備品置き場のドアはすぐに開いた。中でライトが点灯し、カザロフは部屋の中に入っていく。
 ぼんやりと外で待っているつもりはなかった。私は手近にあった鉄の棒を掴むと、カザロフの後を追って備品置き場に入る。
「確かにタコだな」
 そうつぶやいたカザロフの背後で、私はドアを閉じる。
 生体義体ではないカザロフが匂いを感じているのかわからないが、錆や油、黴の臭いに混ざっているのはタコの粘液に含まれる臭いだった。つい最近までタコがいたのは確かだ。それに、備品置き場の奥にXの形をした拷問台がある。ここでマスチフが何をやったのか。
「余計なことするんじゃないよ」
 拷問台に向けて歩を進めたカザロフに声をかける。ここでマスチフが何をやっていたにせよ、ろくなことじゃないし、その背後にはいけ好かないマデラがいる。目の前のカザロフは、そのマデラの手下だ。
「そっちこそ、見張りを頼んだはずだが」
 拷問台のボルトにこびりついた何かにカザロフが手を伸ばす。
「あんたは保安主任かも知れないけど、あたしを舐めてもらっちゃ困るね」
 私は手にした鉄の棒を構える。
「何度言ったらわかるんだ。おまえの汚い面を舐める奴はいないから、余計な心配はするな」
 私のことを完全に無視して、拷問台を見て、それから、足元を見る。
「減らず口を叩くんじゃねぇよ!」
 渾身の力を込めた一撃のはずだった。それが左手一本で受け止められていた。
「なぁ、匂わないか?」
 カザロフが口にしたのは、思いもしない言葉だった。その言葉に気を取られた瞬間、私の手の中から鉄の棒が奪われている。
 身構える私をよそに、ケースは天井を見上げた。その視線の先にあるのは空気ダクトだ。
「これはちょうどいいな。ダクトの中に遺留品があるかも知れない」
 鉄の棒で空気ダクトの金網を押し上げるカザロフを見て、私は迷っていた。銃はある。だが、このケースはマスチフや、そのボスのマデラとは違うのではないか。それにテーザー銃を握り潰した握力や、私から棒を奪ったときの反応速度は、標準的なケースのスペックを凌駕している。ボディの強度も普通じゃないとしたら、銃で撃ったとしてもさほどダメージにならないかも知れなかった。
「何があるんだ?」
 つい、そう声をかけていた。もし、マスチフの同類ではなく、本当にここで起きたことを調べているのだとしたら……。
 私の質問には答えようとせず、ダクトの金網を鉄の棒で突き上げて、横にずらす。
「さあ、どうする? タコの捜索を手伝うか、それとも命がけで命令を無視するか」
 ダクトの中の空っぽの空間を見上げていたカザロフが、私の方に視線を向けた。それから、これ見よがしに鉄の棒の先端を、鍵型に折り曲げてみせる。外見は平凡なケースの義体でも、性能は全然違うことを見せつけているつもりなんだろう。
「マスチフの奴に引き渡すのか?」
 ここから逃げ出したタコは拷問を受けていた。マスチフに引き渡せば、また同じことが繰り返されるだけだ。
「それだけはない。なぜそんなことを気にする?」
 機械義体のケースの表情はない。だが、声のトーンか、それともボディランゲージか、タコを捕まえたとしてもマスチフに引き渡すつもりがないというのは、信じられそうな気がした。
「あいつはクソ野郎だからだ」
 私の脳裏に火星の記憶が蘇る。扇動していた連中を排除し、もう少しで暴動が収束しそうだったというのに、マスチフは殺傷力の強い武器の使用を命じた。
「確かに、その通りだ。それで、手伝うのか?」
 目の前のケースに見据えられ、私は確かに戸惑っていた。
「……手伝ってもいいが、何をすればいいんだ?」
 カザロフが周囲を見回す。ダクトの中を調べるための、適当な踏み台を探しているんだろう。
「そこで四つん這いになっていればいい。なあに、ダクトの中を覗いてみるだけだ。重たいかも知れないが、ほんの一瞬だ」
 その言葉に思わずムカつく。よりによってポンコツケースに踏み台にされるなど考えたくもない。
「不満か? なんなら肩車でも良いぞ」
 からかうような言い方だったが、さほど悪意は感じられない。
「膝なら使わせてやる。それだけだ」
 踏み台にされるのは気に入らないが、肩車よりはまだましだ。
「それも悪くないな」
 片膝を突いた私の膝に足をかけ、一息にダクトに飛びついた。ちょっとした痛みに思わず呻きが漏れるのは、この義体に残る古傷の所為だが、痛みは一瞬だ。修復は済んでいるし、私の義体(フューリー)はそんなにやわじゃない。
 懸垂の要領で身体を引き上げたカザロフが言う。
「やっぱりここがタコの脱走ルートだ」
 肩から上をダクトに突っ込んだ状態は、いかにも無防備だったが、銃を使う気はすっかり失せていた。今は協力しておいた方がいいだろう。
「その棒をよこせ」
 いちいち命令口調なのが気にくわないが、私は床に置かれた鉄の棒を拾って素直に渡した。
 しばらく鉄の棒でダクトの奥を探っていたカザロフが、私の前に持って飛び降りてくる。
 棒の先端には異臭を放つ物が引っかかっていた。私は鼻先に突き出されたそれに、思わず顔をしかめる。
「何かわかるか?」
 腐りかけた肉片のように見えた。
「何なんだこれは?」
 鼻を近づけると特徴的な臭いがはっきりとわかる。これは、タコだ。
「タコの皮だろう。ダクトの内側に引っかかっていた。この臭いを追いかければ、逃げ出したタコがどこに行ったかわかる」
 タコ労働者のIDを片っ端から調べていたのは、このタコを探していたんだろう。拷問台の肉片と、ダクトの中の皮のDNAを解析すれば義体のIDが書き込まれているはずだった。
「なぜ、ダクトが怪しいって……?」
 備品置き場に入ってから天井のダクトに目を付けるまで、わずかな時間しかかかっていない。
「相手はタコだ。吸盤があるから垂直の壁も登れるし、身体が柔らかいから狭いところにも入っていける。そうだろ?」
 マスチフが義体の特性を考えたとは思えないし、天井のダクトに気づくだけの観察眼もない。マスチフと、目の前のケースとの間には、決定的な違いがある。そのケースが、今、肩を細かく揺らしている。笑っているのだ。
「何がおかしいのさ?」
「おまえのボスは気付かなかったようだな?」
 見下すような一言に、私はやっぱり一発撃っておけば良かったと思った。
「あんなクズ野郎がボスなものかよ」
「奴の命令でここに来たんじゃないのか?」
 私は横を向く。マスチフの命令で来たのではない。
「あいつが何をやってたのか、調べようと思っただけさ。あいつがこそこそやってる時は、いつもろくなことじゃないんだよ」
 このケースはマスチフが火星でやったことを知らない。
「それはそうだな」
 カザロフがそう言って、拷問台に残っていた肉片と、ダクトの中にあったタコの皮を見比べる。
「ここにいたタコは何者なんだ?」
 私はカザロフに尋ねる。
「さあ、俺にも見当がつかない。ただ、俺のボスがご執心でな。マスチフの奴が手間取ってるんで、こっちにお鉢が回ってきた、ってところだ」
 逃げ出したタコの捜索は、兵士向けの任務じゃない。それだけは確かだ。
「銃をぶっ放すのが好きなだけの連中だ。地道な捜索は向いてないんだよ」
 無骨なケースが、私の言葉に肩をすくめる。
「だからこっちの初動は大きく遅れた。捜索の遅れの理由に使える」
「見つけても引き渡すつもりはないのか?」
 タコとはいえ、自分の腕を引きちぎってでも逃げ出したくなるような拷問を想像すると、それだけで胸くそ悪くなる。
「さあな。とりあえずは泳がせておいて、使えるかどうか様子を見るさ」
 あたしは表情のないケースの言葉に、静かな怒りを感じ取っていた。
「ところで、あんたは誰のために働いているんだ?」
 つい、そんなことを聞いていた。
「俺は北極鉱区の保安主任だ。鉱区の安全な操業が一番だ」
「じゃあ、マスチフには気をつけた方がいい。あいつは最低のクソ野郎だ」
 私の言葉にカザロフが頷く。
「でも、それは違うな。俺はもっと酷い奴を知ってる。そいつの方がもっと性質(たち)が悪い」
 カザロフがそう断言した。

「さあ、おまえら、さっさとクロウラーに乗るんだ。おまちかねの出番だぞ」
 作戦行動のブリーフィングを終えたマスチフの声が響く。
「出番、って何をやるんで?」
 どこかから間抜けな声が応じた。確かにマスチフは占拠された選鉱所を奪還するとは言ったが、どうやって奪還するかは説明していない。
「おまえらに出来るのは、銃をぶっ放すことぐらいだろうが。暴動の鎮圧だよ。タコどもが乗っ取りやがった選鉱所を取り戻すんだ」
 どこか高揚した様子でマスチフが答える。
「ちょっと待ちなよ。そのタコどもは武装してるのか?」
 声を上げたのは私だ。
「ゲシュナ、くだらないことを聞くな。相手はただの鉱石掘りのタコじゃない。アップリフト解放戦線って立派なテロ組織の構成員だ。武器も持ち込んでるし、選鉱所には馬鹿でかい重機がある。ぼけっとしてると踏みつぶされて、鉱石と一緒に精錬所行きだぞ」
 マスチフの言葉に応じて下卑た笑いが広がる。
「そんなのは願い下げだね。武装してるならこっちだって反撃する。火星の時とは違ってね」
 見下すような視線を向けてくるマスチフを、私は睨み返す。
「ああそれでいい。上等だよ。奴らは完全に武装してる。撃って撃って撃ちまくってやれ!」
 そう言いながらマスチフが視線を逸らしたことに、私は気づいていた。
 火星と同じことをやろうとしている。それは私の直感だった。無意味な虐殺。いや、見せしめの意味があるのだろう。犠牲になるのは金星の底辺にいるアップリフトたちだ。
 部隊は三十人近くに増えていた。金星で合流したのは十人ほどいて、残りが火星にいた頃からのマスチフの手下だ。
「あんた、良い度胸してるな」
 見知らぬオクトモーフが声をかけてくる。ぬめったタコなのは当然だが、触椀の先端部にはレーザー銃を仕込んである。まあ、近接戦闘には役に立ちそうだ。
「あいつはあたしが役に立つのを知ってる。だから少しくらい文句を言ったところで大丈夫なのさ。まあ、あんたもせいぜい役に立つところを見せつけてやるんだな。しっかり目立ってみせれば、扱いも変わる」
「それ、大事だそうだね。オレ、目立つようにするよ」
 八本の触椀のうち、二本が短いのは再生途上と言うことだろう。だからといって実戦経験があるとは限らない。私と同じように、中古の義体を安く買ったのかも知れなかった。
「銃を使った経験は?」
「いや、まあそれは……」
 言い淀むタコだった。
「まあいい、目立ちたがって無理するな」
 私のアドバイスをわかっているのか、タコの表情は読めない。
「ああ、おれはヨムン。あんたは?」
 そう言って触椀の一本を差し出してきた。多分、握手でもするつもりなんだろう。
「ゲシュナよ」
 タコの腕の感触を確認する時間はさほど無かった。高速クロウラーのエンジンがうなりをあげ、それぞれに武器を持った連中が、狭い車内に乗り込んでいく。
 三台の高速クロウラーに分乗し、第百三十七鉱区に向かう。管理棟で現地の保安要員と合流し、選鉱所を占拠したテロリストを武装解除する。それがマスチフの説明だった。
 私は標準的な装備であるアサルトライフルに加えて、この義体が以前から愛用していたらしいスナイパーライフルを持っていた。クロウラーにはランチャーも積み込まれているが、私はそんな物を使うつもりはない。暴徒であっても簡単に殺されて良い理由はない。
 暴動には暴動を扇動する者がいる。迅速に沈静化するには、扇動者の排除が不可欠だ。私のスナイパーライフルは、そのためのもの

「その銃で誰を撃つつもりなんだ?」
 タコが意味もないことを聞いてくる。
「無闇には撃たない。それより、あんた随分ビビってるね」
 クロウラーの中は薄暗い。それでも、落ち着かない様子ははっきりと見て取れた。
「いや、そんなことは……」
 図星だったんだろう。タコはまた言い淀んだ。
「前言撤回だ。目立つな。生き延びろ。目立とうとするのはそれからだな」
 キャタピラが金星の熱い大地を踏みしだく。出発してからすでに十時間近くが経過していた。クロウラーの中は汗くさく、嫌な緊張感に満ちている。
「……くっそタコくせぇ」
 誰かの声が響く。確かにタコは緊張していたし、緊張したタコからは粘液が出る。タコの粘液がタコ臭いのは当たり前だった。
「相手にするんじゃないよ。どうせすぐ目的地だ」
 私はヨムンに言った。
「なぜわかるんだ?」
 どこからか鋭い声が飛ぶ。
「誰かとは違って、あたしにはちゃんと耳ってもんがあるんだ。キャタピラーの音が変わってるし、クロウラーの速度も落ちてる。それくらい気がつかないのかい?」
 私を睨みつけているのは古手の兵士だ。義体はエグザルトだったが、これ見よがしの筋肉はフューリーとさほど変わらない。そのエグザルトを睨み返したところでクロウラーが止まった。
「覚えとけよ、このアマ」
 ドアが開き、先に武器を持って降りたエグザルトにタコが続き、私がクロウラーを降りるのは最後だ。つまづかせようと伸ばされた足をまたぎ、睨みつけているエグザルトは無視する。ここで殴り合いを始めてもいいが、わざわざマスチフの関心を引くようなことはしたくなかった。
 前方では戦争にでも行くような出で立ちのマスチフがこっちを見ていた。右肩にスナイパーライフルとサブマシンガン、左肩には大型のグレネードランチャーを背負っている。私からは見えないけれど、いつものように腰にはピストルやナイフがあるだろうし、投擲弾も持っているだろう。実用性はともかく、見た目で威嚇するには十分だ。
 マスチフの合図で三台並んだクロウラーがじりじりと前進し、その横を私たちは歩く。後ろから見ると、いかにも大げさな感じだった。
 向かう先は鉱区の管理棟。その先に占拠された選鉱所がある。
「あんたすごいや」
 オクトモーフのヨムンが声をかけてきた。私は思わずため息をつく。
「ああいう手合いの扱いになれてるだけだ。それより、本当にタコ臭いぞ」
 管理棟で合流したのは、ほんの数人だった。そのうちの一人、小型の歩行機械に乗った男がマスチフを横に従えて、選鉱所に向かう。
 選鉱所の入り口を塞ぐバリケードに着いたとき、その男が取り出したのは拡声器だった。
「……諸君の不当な要求は、考慮するに足るようなものではない。だから、占拠をやめ、さっさと持ち場に戻れ。このまま占拠を続ければ、公社としても強力な対処を検討せざるを得なくなる。わかっていると思うが、外部勢力に同調して占拠を続けても、何も良いことはない。繰り返す。さっさと持ち場に……」
 選鉱所に立てこもった労働者に向けて偉そうな言葉を投げかけているのは、多分、管理棟に籠もっていたという鉱区長だ。
「まともに話をする気はなさそうだな」
 突然、声を掛けられた私は、横に立っていたケースに向けてアサルトライフルを向けた。
「誰? あたしに何の用なの?」
 そのケースは武器を持っていなかった。だからといって、警戒しなくていい訳ではない。
「ちょっと聞きたいことがあってね」
 さりげない様子で、そのケースが言った。
「ポンコツケースになんか、話すことはないわ」
 無防備な様子で近づいてきたケースの胸元に、私は銃口を突きつけた。
「そうか。見た目で判断すると間違えるぞ」
 動じたようなそぶりは一切ない。
「あんた、まさか?」
 備品置き場で会ったカザロフの義体は、手入れが行き届き、磨き上げられていたが、同じケースでも目の前のケースは明らかに古く、無数の傷があった。
「そのまさかだ。こんなことになってるのに、マスチフに任せるわけには行かない」
 落ち着いた様子で答えるその様子は、備品置き場で話したカザロフそのものだ。
「あいつは、皆殺しにするつもりだよ。アップリフトは虫けらだと思っていやがる」
 私が何もしなければそうなる。ただ、どうすればそれを防げるのか、今の私はわかっていない。
「おまえは違うのか?」
 表情のない金属の顔で、私をまっすぐに見据えている。
「もし、アップリフトが虫けらなら、あたしらも虫けらさ」
 少なくとも次の生の保証がない私は、アップリフトと変わらない。
「確かにそうだな。だが、北極鉱区の保安主任は俺だ。アップリフトの血が大量に流されるような事態は、絶対起こさせない」
 落ち着いた様子で答えるカザロフにどんな考えがあるのか、私にはわからなかった。
「でも、どうやって?」
「奴はバックアップ保険に入ってるのか?」
 突然の質問に私は戸惑う。
「もちろん、根っからの小心者だからね。バックアップもばっちりだ」
「じゃあ、遠慮はいらないな」
「殺すのか?」
 私の言葉に、カザロフははっきりと頷いた。ここで殺したとしても、マスチフは死ぬわけではない。すぐに新しい義体で蘇る。
「その狙撃用のライフルを借りたい」
 カザロフが顎で示したのは、アサルトライフルとは別に、右肩に掛けているスナイパーライフルだ。
「断る。あんたでも使いこなすのは無理だ」
 銃身の長いスナイパーライフルはこの義体と一緒に手に入れたもので、私に馴染んでいる。経験がなければ簡単に扱えるものじゃない。
「じゃあ、力づくで奪おうか?」
 さりげなく発された言葉だったが、私はその言葉に込められた強固な意志を知っている。それにカザロフの義体は、前に会ったときの義体と同じくパワーアップされたもののはずだった。
「その必要はない。あたしがあのクソ野郎を撃つのさ」
 私は、さほど考えることもなく口にしていた。
「そのつもりだったのか?」
 可能性の一つとして考えなかったわけではない。マスチフを機能停止させる。そうなれば命令系統は混乱するだろう。だが、それだけで虐殺を防げる保証はない。
「タコにはバックアップはない」
 鉱区のタコ労働者は火星のスラムの住人と同じだ。バックアップを作れるほどの余裕はなく、死は本当の死だ。
「本気なんだな?」
 その言葉に私ははっきりと頷く。
「あたしは虐殺に加わる気はないのさ」
 優しかったリオ。私はリオを助けなかった。
「黙って見逃すのは同罪だな」
 カザロフの言葉が突き刺さる。
「言われなくてもわかってるさ」
 もう時間が少なくなっていた。鉱区の男の演説は終わり、投降の期限に向けたカウントダウンが始まっている。
「ところで奴がいなくなったら、次に指揮を取るのは誰になってる?」
「さあね。声のでかい奴だろうよ」
 マスチフには決まった副官がいなかった。自分の地位を脅かされたくなかったのか、取り巻きはいても、マスチフに次ぐ地位の者は決まっていない。
「おまえの声はでかいのか?」
 つまり、そういうことなのだ。カザロフは、一時的にせよ、私がマスチフが欠けた後の穴を埋めることを期待している。
「必要ならね」
 自信があるわけではなかった。でも、私がやらなければ、誰かがマスチフの穴を埋めるだろう。その誰かが、アップリフトの命を尊重するとは思えない。
「じゃあ、それも任せよう。あと二分ほどで、ちょっとした騒ぎが始まる。鉱区の労働者は一斉にいなくなるから、武器を持ってうろうろしてる奴らを片づけてくれ。そいつらが解放戦線の工作員だ」
 カザロフは、マスチフの横で、また挑発的な言葉で演説を始めた鉱区長を見ていた。今の事態を招いた責任が、その男にあるのだろう。
「どうやるんだ?」
 鉱区の労働者と、争議を煽る解放戦線の工作員を切り離せば、対処はずっと楽になる。
「まあ、見ておけ」
 そう言うと、ゆったりとした歩調でカザロフは歩き始めた。
 あと二分。それで何が起きるのか。
「……残念ながら、諸君に与えられた時間は、そろそろ尽きようとしている。公社の重要な資産である選鉱所を占拠している諸君は、いわば犯罪者だ。公社から鉱区を任されている私は、残念ながら君たちを犯罪者として対処せざるを得ない。私が管理する鉱区で、不当な行為は許されない。無駄な行為をやめ、投降するなら、今が最後のチャンスだ……」
 演説を続ける鉱区長の横で、マスチフがランチャーを構えた。最初から強力な武器を使うつもりなのだ。それを見て、マスチフの部下である私たちの誰もが武器をバリケードの向こう側に向けて構える。
 だが、私が狙うのはマスチフの後頭部だ。
「……私は警告した。このような事態を招いたのは、君たちの……」
 突然、大音量でサイレンが鳴り響いた。鉱区長の言葉を遮るようなアナウンス。
「……採掘場の八号トンネルで大規模な崩落が発生し、採掘機が暴走しています。採掘機を止めないと被害が拡大し、鉱区のドームに被害を生じる可能性があります。総員、対処に当たってください。繰り返します……」
 バリケードの向こうからコンクリートの塊がいくつも飛んでくる。それに応じるように、マスチフが一発目のロケット弾を発射していた。私は、バリケードの向こうで上がった火柱を背景に立つマスチフに向け、ライフルの引き金を引く。
 崩れ落ちるマスチフの横で呆然とする鉱区長を、いつの間にか走り寄っていたカザロフが殴り倒すのが見える。
 私は、出来るだけ大きな声で叫ぶ。
「敵は銃をこっちに向けている奴らだけだ。逃げていく奴は放っておけ。無駄玉を撃つな」
 バリケードの向こうでは、持ち場を離れるなという声が飛ぶ。だが、ここで働く労働者たちにとっては、ドームの安全が最優先だった。全員で事故の拡大を防ぐことが、全員の命を守ることになる。
 バリケードの向こう側にいる人数が、見る間に少なくなっていた。事故現場に向かったタコたちに解放戦線の工作員は取り残されてる。
「おまえは何様の……」
 私に向かって抗議の声を上げようとしたエグザルトの口を、タコの触椀がふさぐ。ヨムンだ。まあ、タコに口を塞がれたところで、簡単に窒息することはない。
「敵は目の前で武装している奴らだけだ。そいつらに集中しろ!」
 大きな声を張り上げる私の横を、ぐったりした鉱区長を肩に乗せたカザロフが通り過ぎる。
「ここは任せていいようだな」
 カザロフの言葉に応えることなく、私は引き金を引き続ける。狙うのはスタックのあるところではない。タコなら胴体ではなく、触椀の付け根だ。殺すのではなく、無力化する。それが私のやり方だ。

「おまえが勝手に指揮を執ったらしいな」
 よっぽど不機嫌なんだろう。前にもまして不細工なマスチフが言った。
「だったら何だって言うのさ。あんたがさっさと頭を撃ち抜かれるような馬鹿なまねをするから、尻拭いをしただけ。きったない尻をね」
 マスチフが戻ってきたのは選鉱所を占拠した解放戦線の工作員を排除した三日後だ。狙撃者の腕が良かったのか、マスチフのスタックは破壊されたことになっている。今のマスチフは第百三十七鉱区に向かう前までの記憶しかないマスチフだ。
「おまえじゃないんだな」
 疑われる理由もわからないではない。私は優秀な狙撃手だし、あのエグザルトが何か吹き込んだのかも知れない。
「そうだね。あんたはクソ野郎だから撃ってやっても良かったけど、どうせこうやって復活するだけだ。何の意味もないじゃないか」
 意味はあった。マスチフのバックアップ保険の料率は跳ね上がるし、次の義体も用意しなければならない。金がなければ、次は格安の中古義体になることだってある。そうなれば、メンツも何もなくなるのだ。
「まあ、今回はやむを得なかったことにしよう。だが、これからもボスは俺だ。出過ぎたまねは二度とするな」
 破壊されたマスチフの義体を調べたのはカザロフだった。記録では、マスチフは前から撃たれたことになっている。私が部隊の後方にいたのは何人も証言しており、今のマスチフは、正面から撃たれてぐちゃぐちゃになった自分の顔を見せられているはずだ。
「あんたが撃たれなきゃ何もしないさ」
 最初にマスチフの義体に触ったのは私だ。後頭部の穴に指をつっこみ、傷一つないスタックを取り出し、代わりに火星で拾った機能しないスタックを一つ押し込んだ。
「余計な減らず口は慎め」
 間抜けなマスチフ。私が回収したバージョンのマスチフは、今では採掘機に組み込まれ、どこかの鉱区に運ばれるのを待っている。終わりのない単純労働に明け暮れ、ゆっくりと狂っていく。でも、タコ相手のプレジャーボットよりは、まだましな運命だろう。
「ああ、ちょっとした褒賞も貰ったんで、しばらくはゆっくりしてるさ」
 私が残された部隊の指揮を執り、事態を掌握したことになっていた。その功績に対する報償は、バックアップをとり、保険に入るには十分な額だった。残りはヨムンと分け、ヨムンは部隊を抜けてカザロフの部下になった。
 私はリオを想う。
 この世界は残酷な世界だ。死を治療できる者と、治療できない者の間には大きな亀裂があり、その亀裂を越えられる者は多くない。義体を手に入れ、さらにバックアップ保険を手に入れるのは、幸運と、さらにそれ以上のものが必要なのだ。
 あなたの身に起きたようなことは、これからも当たり前に起き続ける。火星や金星だけではなく、太陽系のあらゆる場所で、命は無駄に失われる。
 でも、失われる命を減らすために出来ることもある。
 リオ。あなたを想いながら、私はそんな事を考えている。

Ecllipse Phase は、Posthuman Studios LLC の登録商標です。
本作品はクリエイティブ・コモンズ
『表示-営利-継承 3.0 Unported』
ライセンスのもとに作成されています。
ライセンスの詳細については、以下をご覧下さい。
http://creativecommons.org/licenses/by-nc-sa/3.0/