ゴシック精神のハートビート——高原英理『ゴシックハート』(ちくま文庫)書評

ゴシック精神のハートビート――高原英理『ゴシックハート』(ちくま文庫)書評
 柳ヶ瀬舞

 高原英理著の『ゴシックハート』がちくま文庫から2022年10月に発売された。初刊の講談社版は2004年の刊行。古典的なゴシック・ロマンスから現代的なゴスロリ・ファッションまでを扱ったゴシック論として読み継がれ、2017年には立東舎文庫に入った。さらなる加筆修正と増補をした待望の新版がこのちくま文庫版ということになる。

 『ゴシックハート』の核にある“ゴシックの精神”。本書の第1章ではずばり、「好悪の体系のようなものである。しかし自己必然にもとづいた命懸けの好みなのだと言いたい」(『ゴシックハート』p.12)と規定されている。そのうえで、ゴシックの精神を体現した具体的な作品を、13の章立てを介して評していく。
 まさに異端、ゴシック精神の見本市のような文芸評論集である。高原にかかれば『新世紀エヴァンゲリオン』にさえゴシックの精神が見いだされるのだ。ぜひ、第11章「廃墟と終末」を一読してもらいたい。

 第2章では“「人外(にんがい)」の心”を持ってしまった人間をテーマにした、江戸川乱歩と中井英夫の小説が取り上げられている。加えて、人外の存在――フランケンシュタイン博士の怪物やドラキュラ伯爵――そのものについても言及されている。
 なぜ人は人外に心惹かれるのだろうか。その謎を解く鍵となるのがゴシックの精神だ。
 それはつまり、「光より闇が気になる、正統より異端、体制より反体制、反時代、ただしそこでは様式美が何より重要、といって誰もが真似するいわゆるイケてるスタイルには興味なし、ホラー・怪奇。残酷さなどに強く反応する、自分が異形と感じる」(同p.23)心性のことでもある。
 では、人外の心を持つとはどういうことか。江戸川乱歩が人形愛をテーマにした『人でなしの恋』の「『人でなし』は一般的に言われる『薄情・人としての値打ちがない悪人』といった意味ではなく『人間の世界の外に目を向けてしまう異端者』を意味していた」(同p.28)と解釈される。
 本書はある種の人たちが持つ「自分が十全な人間になれないことへの無念の自覚」(同p.28)に寄り添う。人外の心を持ってしまった者たちの宿命、生き方が本書において丁寧に説明される。
 私もまた、十四歳で人外の心を抱えてしまった。マルグリット・デュラスの『愛人 ラマン』のように。人でありながら人の世界の外にいるという感覚を持ったのだ。人に憧憬を抱きながら「人間らしさ」を羨む。そのような存在だからこそ、えもいわれぬ孤独をおぼえる。江戸川乱歩や中井英夫の小説は、そんな私を「慰撫(いぶ)」してくれた。

 私が特に心惹かれたのは第6章の「身体」である。ここでは身体がなければ主体的な意識が存在しない、という肉体の呪縛について語られている。身体は壊れ物であるがゆえ、「毀損(きそん)」される可能性に怯えつつ、私たちは日常を過ごしている。私たちの主体性とは「肉体の便宜である意識の、またその余剰でしかない」(同p.101)と高原は看破している。そしてゴシックの精神は「決して『ナチュラル』の思想ではない。それは身体への加工と改変を常に望む心である」(同p.104)とも説く。
 肉体からの解放の手段としての、肉体のサイボーグ的超越を高原は押井守監督の劇場版『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』に見出す。「自意識という幻でしかないものが本当に幻と感じさせてくれることの実践としての作品」(同p.106)と高く評価している。人々は脳までサイボーグ化し、肉体も着脱可能な世界で「自意識」は「「儚」(はかな)い幻」となっている。
 このくだりで本編に出てくるゴミ回収員のことを思い出さざるをえない。脳がハックされ家族がいたという嘘の記憶を植え付けられた男のことだ。嘘の記憶は二度と取り除くことも書き換えこともできない。しかしその幻を抱きしめている人間もいるのだと、押井監督は生々しく描写する。
 『攻殻機動隊』の世界は、ゴミ回収員にとってはディストピアかもしれない。だが、嘘の記憶をそのまま信じてしまえるという意味で、自己への違和と変身願望を持つ人間にとっては、ある種のユートピアにも思える。『攻殻機動隊』を読み解くことは、ときに異端たる者の業の深さの確認ともなるのだ。
 
 同章では続いて、高原は「少なくとも今われわれにある自己の問題として考える限り、身体についての美的形態への執着からは逃れられないのも事実である」(同p.110)とも書き、具体例として岡崎京子のマンガ『ヘルタースケルター』を論じている。
 『ヘルタースケルター』の「主人公りりこは全く邪悪で無垢から遠い。だが容姿は誰から見ても完璧である。彼女の内面さえ知らなければ誰もが愛し憧れる」(同p.115)と高原は書く。「人外となってでもりりこは美しくあることの傲慢を得ようとした。他者に自己の価値を認めさせるためにはどんな苦痛にも耐える」(同p.123)。そんなりりこの意志に、ある種の純粋さを見出せるのではないだろうか。
 世間では人工物や加工物は無垢ではない、と思われがちだ。全身美容整形を施したりりこという存在は、ナチュラルであることの呪縛に囚われている我々の方が不純ではないかと問いを投げかけている。私はりりこへの共感と反発に引き裂かれている。そのアンビバレンツな状態にすら快感を見出してしまう自分に恥ずかしさを覚えてしまうが、それもまた人外の心のありようだと、本書は教えてくれた。

 第13章の「差別の美的な配備」は、ちくま文庫版で追加された書き下ろしである。ゴシックの精神が、実はその成り立ちからすでに差別的表現に満ちたものであると指摘している。だが、それは冷笑ではなく、エールとして用いられている。「差別を糾弾することなど誰にでもできる。そうではなく、敢えて最悪の、差別の美しさ甘美さ、その忘れ難さを、アーティストたちは存分に見せつけてやればよい」(同p.281)。これは単なる逆張りではなく、差別される痛みについて考え抜いたうえで、あえて絞り出された言葉なのだろう。
 高原の小説「ガール・ミーツ・シブサワ」(『エイリア綺譚集』収録)を読めばそれがわかる。幽霊になったゴスロリ少女が、時空を超えて澁澤龍彦に会いに行く話なのだが、「あのときわたしは人権を放棄したいと思っていた。人間ではない、人形になりたかった」(『エイリア綺譚集』p.257)というくだりがある。私はフェミニストでありたいと思っているが、それとは一見矛盾する「人権を放棄したい」という気持ちも痛いほどわかる。相反する思いに引き裂かれること。そのときの血こそが、私に文章を書かせる原動力となっている(そういえば、ロクサーヌ・ゲイの『バッド・フェミニスト』にも、この感覚が書かれていた)。
 本書を読んで、高原のほかにも、差別を是としないが「敢えて」最悪に身をゆだねることができるようなアーティストは少なからずいると知った。今後はそんな作家の作品にもっと触れていきたい。作家としての自分自身も、それができるような存在でありたい。「敢えて」という言葉を心に刻んだ。

 本書はゴシックに関する参考資料の情報も充実しているので、各章のトピックをより深く掘り下げたいという場合にうってつけである。必要とする新たな読者のもとへと届き、続編である『ゴシックスピリット』の文庫化につながってほしい。そうなることを心待ちにしている。
 
(協力:大野典宏・岡和田晃)

 柳ヶ瀬舞(やながせ・まい)
 1983年生まれ。「腐女子はバッド・フェミニスト(?)」(ユリイカ 2020年9月号「特集=女オタクの現在 ―推しとわたし―」)で商業誌デビュー。2022年9月から「SF Prologue wave」の編集部員となる。