「運命の選択『ナイトランド・クォータリーvol.29サロメ、無垢なる誘惑者の幻想』書評」川嶋侑希

「運命の選択『ナイトランド・クォータリーvol.29サロメ、無垢なる誘惑者の幻想』書評」川嶋侑希

 私は「運命を狂わせる女」に出会ったことがあるのだろうか。答えはすぐには出なかった。そこまでではない。という人物が数人いるだけ。「運命を狂わせる」ほど自分の人生に深く介入し、爪痕を残すなんて人物、そう簡単には出会わないものだろう。では、私自身はどうなのだろうか。気づかぬうちに誰かの運命を捻じ曲げてはいないか。もしかしたら、狂わせる側に自覚などないのかもしれない。
 しかし芸術の世界には、「運命を狂わせる女」と恐れられた少女がいる。その名はサロメ。『マタイによる福音書』に登場した彼女は、代表的なファム・ファタルとして今も広く知られている。ファム・ファタルは「宿命の女」や「運命の女」という意味のフランス語だ。
 この福音書には、サロメの物語はわずかしか記されていない。それを戯曲に仕立て、世間に広めたのが、アイルランド出身の作家オスカー・ワイルドだ。サロメが予言者ヨカナーンの生首に接吻する強烈な場面には、間違いなく誰もが動揺するだろう。感じるのはただの恐怖ではなく、愛する者の首を切らせたという残酷さ、その理由が明確には語られない不思議さ、生首に接吻するという不気味さ……それらが相まった、どす黒く、混色した恐怖だ。純粋無垢なサロメは自分なりのやり方で愛を示しただけなのかもしれないが、その行為は自身やヨカナーンの運命を大きく捻じ曲げてしまった。
 本書『ナイトランド・クォータリーvol.29サロメ、無垢なる誘惑者の幻想』(アトリエサード刊)は、サロメを筆頭とするファム・ファタルをテーマに作品が集められている。愛して、或いは愛されて、盲目的に相手を追い求めることに留まらず、時空を超えて繋がり合った女性たちや、旅先で出会い、共に戦って運命を導く怪しい女性など、様々なファム・ファタルの姿が描かれている。
 更にはオペラ歌手の畠山茂氏(声楽家団体「二期会」所属)が、サロメの舞台に出演した際のエッセイを綴っている。ワイルドの『サロメ』が1891年に書かれて以降、何人もの作家が舞台化をしてきた。畠山氏が初めてサロメの舞台に立った際の曲は、ドイツ出身の作曲家R・シュトラウスによるものであったという。シュトラウスの『サロメ』は1905年に初めて上演され、大成功をおさめたゆえに、現在でも多く上演されている。最大の見せ場である『七つのヴェールの踊り』はおよそ9分間もあり、怪しげで時に激しい魅惑の音楽と共に、欲望に身を任せた官能的な舞を見ることになる。しかし、実際にワイルドの脚本を読んでみると、文中に踊りの詳細は書き込まれていない。ただト書きで「サロメ、七つのヴェイルの踊りを踊る」と記してあるだけなのだ。シュトラウスは無垢な美しさと妖艶さのイメージを使い分け、全体として非常にメリハリのある曲に仕上げている。特に中盤からの3拍子のフレーズは無垢な美しさ、純粋さを感じられ、狂気よりも少女の恋の大胆かつ繊細な心情を表しているように聴こえる。
 畠山氏がペーター・コンヴィチュニー氏演出の『サロメ』に出演した際の話では、その解釈の新しさや設定の斬新さ、演出や稽古が独特であったことを語っている。「演者の意図や個性を入念に汲み取って再構築し、新しいものをその場で生み出す」稽古場は、慎重かつ体当たり的で、日本の演出家つかこうへい氏の稽古場のように、独創性に溢れた熱気漂う場所だったのではないだろうか。まさかの近未来という舞台設定の『サロメ』がどのようなものなのか、ぜひこのエッセイを読んで楽しんでほしい。
 小説は9作品の収録だ。小林弘利氏の『HiKaRi』は、ヘロデ王がサロメを殺せと命令した後、彼女がどうなったのかを描いている。ワイルドの書いた『サロメ』で気になるのは、何故ヨカナーンの生首に接吻をしたのかという点ではないか。多くは語られず、その上理解しがたいその感情。本作では彼女が接吻で得たモノについて、衛兵への独白を通して語られる。それは愛の表現に留まらない魂のやり取り。「光」という新たなテーマを用いて、命の所在を問うていく。生と死を体感したサロメが、新たな生を全うしようと歩き出す姿は美しく、儚く見えるだろう。これは一人の少女の背中を見送る再生の一編。思わぬ形でキリストの物語へと引き継がれていく『サロメ』の後日譚のような小説だ。
 時にサロメの名は、ファム・ファタルとして別の作品にそのまま用いられる。『サロメの話』アメリア・B・エドワーズ(渡辺健一郎:訳)に登場するのは『マタイによる福音書』のサロメとは全く別人だが、魅惑的な女性サロメに囚われてしまったハーコート・ブラントの苦悩を描く。彼女を愛してしまったがゆえのブラントの切ない物語。奇妙で、幻想的な二人の出会いは、美しいヴェニスの波間で静かに揺れ動く。
 ところで日本にも名の知れたファム・ファタルがいる。誰もがご存じ〈雪女〉だ。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『雪女』(下楠昌哉:訳)は、本書のロングインタビュー『アイルランド幻想文学と翻訳の「文武両道」』にも登場する下楠昌哉氏の手による新訳である。ラフカディオ・ハーンが妻や民話を通して感じた日本と、我々が『雪女』を読んで感じるハーンの異国情緒。交じり合う空気は〈雪女〉の姿を一層幻想的にしてくれる。
 ファム・ファタルの恐ろしさや狂気の部分を覗きたければ、『ファウストという名の猫』ジョアン・アンダートン(山田和子:訳)がいいだろう。背筋の凍るようなホラーであることに間違いないが、不思議な魅力がある。それは文中に時々挟まれる、意味深な文章によるものかもしれない。ルーシーの中にいるもう一人の自分なのか、彼女にだけ聞こえているその言葉は、詩のように素直でありながら、おぞましい。剥製を作る仕事をするルーシー。彼女はいつも自身の醜さと思い人ヘティの美しさを痛々しいほどに比較し、盲目的にヘティを手に入れようとする。愛ゆえの執着。自分にないものを得ようとする欲。それらが暴走した彼女の手によって、愛された者たちは銀色のテーブルに乗せられるのだ。さながら予言者ヨカナーンのように。
 マーガレット・セント・クレアの『ボーリュー』(岡和田晃:訳)もまた、狂気の一面を持った女性が現れる。その彼女が何者なのか、名前すらも記されておらず、絶望の淵に立つ主人公を過激なドライブへと突然連れ出す。その様子は、彼の人生をまるごと攫って行ったようにも見えた。そして彼は、自分の運命を変える選択をする。スピードと音楽で憂いをかき消して、二人は風を切る。彼女もまた、自分の運命を変えてくれる存在を待っていたのかもしれない。本書では珍しく、大胆で豪快なファム・ファタル像が描かれた、緊張感のある一作だ。
 そして今回も華々しく、マイクル・ムアコック作品が掲載されている。『彷徨える森~赤き射手の物語』(健部伸明:訳)は本編の主人公の英雄エルリックが登場しない物語で、射手のラッキールを主人公としている。ファム・ファタルは森に囚われた白銀の女性オインドゥラ。二人は〈多元宇宙〉へ向かう為に苛烈な戦いを繰り広げてゆく。舞台が森から宇宙へと移り変わる、その思わぬ壮大さに驚くことだろう。前号『ナイトランド・クォータリーvol.28暗黒の世界と内なる異形』に掲載された『漆黒の花弁』マイクル・ムアコック(健部伸明:訳)でも、私は戦闘の描写の見事さに言及したが、今回もその臨場感に酔いしれることだろう。光や声、色、匂いが次々と五感を震わせてくるようで、命の駆け引きを間近で見ている感覚になる。
 ファム・ファタルに出会う時は突然にやって来るかもしれない。或いは、既に出会っていながら気づいてないのかもしれない。高原英理氏の『帝命定まらず』は、相手に出会わずして運命を通わせる物語だ。現代に生きる一人の女性と、いにしえの国の二人の女性。彼女らが交わす言葉を音読してみると、どこからか返答が聞こえてきそうな気がしてくる。過去の女性たちが本当に存在しているかは、定かではない。しかし、現代を生きる主人公は、この繋がりを信じ、彼女らに運命を与える事を自身の運命の一部とした。そして、いにしえの国の女性らは、主人公によって運命を与えられた。お互いがお互いのファム・ファタルなのだ。

 自分の運命は自分で決めるもの。そう教えられて生きていても、魅力溢れ、自分の全てを攫っていきそうな〈彼女〉がいつか現れてしまうかもしれない。だが、たとえ他者の運命に飲まれそうになっても、選択する意思だけはこの手に離さず握っていようと思うのだが。