実家のあるあたりに近づくにつれて、すっかり様変わりしたと思っていた風景が、実際はあまり変わっていないことが分かってきた。
開けたのは駅前だけだ。ほんの少し郊外まで足を延ばすと、まだまだ田んぼと竹林ばかりが広がっている。むしろ空き地が少し増えただろうか。
竹と空き地の茅とが風に鳴る音に耳を傾けながら実家の門をくぐると、出てきた姉が開口一番「どうしたの」と声をあげた。
「目の下真っ黒よ、裕也。具合悪いの?」
「いや。ちょっと睡眠不足」
「仕事? 忙しいの?」
ぼくは苦笑して手を振り、姉の追及を遮った。
あれから一週間、ぼくは眠るたびにみずきちゃんの夢を見るようになっていた。みずきちゃんは日を重ねるごとにどんどんリアルになってくる。もう大きさ以外本物の女の子と変わらない。
ぼくは時として大人だったり子供だったりしながらそのみずきちゃんをうっとり眺め、彼女の唇に耳を寄せる。何かを語りだしそうだった唇は、今でははっきりとものを言うようになった。だが、まるで外国語を聞いているように意味は理解できない。
ただそれだけの夢なのだが、とても恐ろしかった。恐ろしいから眠るのが怖い。それでも体は睡眠を欲し、眠ってしまうと夢を見て飛び起きる。そんなことが続いている。
いったい何がそんなに恐ろしいのか、考えてみたことはある。ひとつには間違いなく、人形に対して性的な魅力を感じていることだ。少なくともそんな感情を健全な大人の男が持つべきでない。
もう一つは、みずきちゃんがしきりに何か言っているのに、その内容がさっぱり分からないことだ。なぜなのか、それが不安で不安でたまらない。
「真弥は?」
姉がいつまでも心配そうな顔でこちらを見ているので、ぼくは話題を変えるために姪の所在を尋ねた。不在なことは知っていた。玄関に父の下駄と真弥の靴がなかった。二人で出かけているらしい。思った通り、二人は近所の駄菓子屋までアイスクリームを買いに出たのだと姉は言った。
「ところがさっきおじいちゃんから電話があってね。真弥にねだられてつい駅前まで行っちゃったけど、帰れなくなったから迎えに来てくれって」
「帰れなくなった?」
「真弥の足じゃまだ駅まで歩いて往復は無理なのよ。きっと帰り道でぐずりだしたんだわ。うちの人が車で迎えに行ったから、そのうち戻ってくるでしょ」
「義兄さんも留守か。母さんは?」
「買い物。あんたのためにいろいろご馳走作るんですって」
「今夜は真弥の誕生会だろ?」
「あんたがめったに帰ってこないからよ。母さんだって寂しいの」
「だったらあんなに口うるさく言わなきゃいいのに……」
「うるさいって、結婚のこと? しょうがないじゃない。年寄りなんだから、大人になったら結婚するものだと思い込んでるのよ。愛想笑いでもして流せ流せ。五十も超えたら言わなくなるわよ」
「五十て、いつの話だよ。それより早く中へ入れろよ」
「はいはい。お茶呑む? いいお菓子あるから」
ぼくが持参したプレゼントを真弥の目の届かないところに隠してしまうと、姉はてきぱきとコーヒーをいれて振る舞ってくれた。皿には妙に小洒落たプチガトーが添えてある。口に入れてみると、かなり洋酒が効かせてあった。いいお菓子とはこれらしいが、子供のいる家には不似合いだ。
「どうしたの、これ」
「お隣から到来物のお裾分け。高級品だしくれるのはありがたいんだけど、真弥に食べさせられないでしょ。いない間にこっそり片づけちゃわないとね」
「お隣って誰」
「誉田(ほんだ)さん。竹林の向こう側の」
「ああ、あのお屋敷か……」
誉田家はこの一帯では有名な金持ちだった。うちとの間に人家がないだけで隣と呼ばれてはいるが、実際には竹林をはさみ、広大なお屋敷の庭をはさみで、家と家とはかなり離れている。ぼくの知っている限りでは誉田家とうちとの間にはつきあいはなかったはずだ。
「いつからお裾分けもらうような間になったの」
「さあね。母さんに言わせると、気がついたときにはちょくちょく顔を見せられるようになってたってことらしいけど。とにかく息子さんが継がれてからの話よ」
「あの家、息子なんていたんだ?」
「みたいね。でもぱっと見た感じじゃあたしよりも十は年上よ。あんたと一緒で進学就職で家を出たあとはほとんど実家に戻ってなかったってパターンみたいだし、知らなくてもしょうがないかな」
ぼくは頭をめぐらせて、リビングルームの窓から竹林の方角を見やった。が、その向こうにあるはずのお屋敷は竹に遮られて見ることができなかった。記憶が正しければ、松の防風林に囲まれた、当時としてはめずらしい洋館だった気がする。防風林の落とす陰でいつもひっそりと薄暗く、内部は静まり返っていた。勝手口にご用聞きが来ていたから人は住んでいたのだろうが、姿を見たことはない。
近隣の子供たちの間では、あそこに住んでいるのは外人だ、いや宇宙人だ魔法使いだと、くだらない噂が飛び交っていた。お屋敷にできるだけ近づくこと、できれば生け垣の間から庭に侵入すること、などが度胸試しとして流行ったことさえある。一度家でその話をしたら父にも母にもこっぴどく叱られたので、ぼくがその遊びに参加することはなかったが……。
そんな回想に浸っていると、姉がコーヒーのおかわりを入れながら、感慨深げに言った。
「まあね。あのおうちもいろいろあったからね。先代さんの頃はともかく、これからは我々下々の者ともつきあっといた方がいいと思ったんじゃない」
「いろいろ?」
「そう、いろいろ。あんた小さかったから知らないだろうけど、あの女の子のこととかね。名前なんていったっけ――ああ、忘れた」
「女の子?」
「そう。あの頃で十くらいだったかなあ。あの家の親戚とかで、学校にも来るはずだったのに結局一日も来ないまま、いつの間にかいなくなっちゃったの。あたしも近所のおばちゃんたちからの又聞きだから詳しいことは知らないけど、いつも一人で河原や公園でぼんやりしててね。しかもそれが夜中だったりもするんで、何だろうって不思議がられてたのよ。そんなだから、いなくなったときも誘拐されたんじゃないかとか、いろいろ噂がたったの」
「ふうん。……それで?」
「それでって、それだけよ。何か事情があって預けられてたみたいだし、親元にでも帰ったんでしょ」
「誰も探さなかったの」
「誉田さんが何も言わなかったのよ。噂だけじゃどうしようもないでしょ」
「そうか。そうだね」
ぼくは気持ちを落ち着かせようと、コーヒーを口に含んだ。噂はおそらく噂のまま、時と共に風化していったのだろう。両親がこうして誉田家と、形だけとはいえつき合っているのだから。少女は家に帰ったのだ。
「そんなこと全然知らなかったな。ぼくはそんなに小さかった?」
「ううん、小学校には上がってたわよ。噂のルートがなかっただけでしょ。あんた友達いなかったもんね。家であたしの人形持ち出して一人遊びばっかりしてたじゃない」
「……知ってたんだ」
「あったりまえよ。自分の持ち物触られたら分かりますよーだ」
「でも何も言わなかったよ?」
「人形ならまあいいかなと。そういえばあの人形、まだとってあるわよ。持って帰る?」
「よせよ」
姉に何もかも知られていたとは、今更ながら顔から火が出そうだった。ましてや当時の人形がまだ置いてあるなんて。
だが、とぼくは思った。最近見続けている悪夢と対決するいい機会かもしれない。記憶と想像だけだからおかしな方向に夢が暴走するのだ。
「よこすのは勘弁してくれ。でも、見せてくれる?」
「なーんだ。絶対持って帰ると思って取りだしてまとめといたのに」
姉は子供の頃のように、やや意地悪げに笑いながらそう言うと、隣の部屋から大きな紙袋を下げて戻ってきた。
「ほーらこれ、あんたの一番のお気に入り」袋から暗い栗色の髪をした人形を一体取り出す。「〝エリカちゃんのお友達〟みゆきちゃーん!」
緊張して差し出したぼくの手に渡されたのは、なんともちゃちい着せ替え人形だった。髪の色や長さこそ同じだが顔がまるで違う。少女マンガのような、大量の睫毛に縁取られたあり得ない大きさの目。もちろんただのプリントだ。唇の色は女の子らしい桜色で、顔立ちはずっと整っている。が、それこそ作り物のかわいらしさで、あのにじみ出すような色気がない。
「これ、違うよ」
ぼくは受け取った人形をテーブルの上に下ろした。
「それに名前も違う。エリカちゃんの友達は〝みゆき〟じゃなくて〝みずき〟だ」
ぼくはみずきちゃんの姿形を姉に説明した。が、姉は呆れたように鼻で笑った。
「そんな変な顔の人形が売り出されるわけないじゃない。女の子に売れなきゃ意味ないんだから。名前だって間違ってない。クラスに美由紀って子がいて、みんなに羨ましがられてたもん。エリカはいなかっ――」
言いかけて、姉はぱたりと言葉を切った。目の前で風船を割られたような顔で、思い出した、と呟く。
「さっき話した誉田さんちの女の子の名前よ、そのみずきちゃんての」
義兄の車で戻ってきた真弥はすっかり眠っていて、当分目を覚ましそうになかったので、ぼくは夕方までに戻ると言い置いて、実家を出てきた。
どこへ行って何をすればいいのか、あては全くなかったが、足は誉田家の屋敷の方へ向かっていた。
何の確証もないことだ、と思ってはみるものの、漠然とした不安が拭えない。ぼくは、誉田家に預けられていたという人間の少女である〝みずきちゃん〟を知っていたのではないだろうか。親戚に預けられて、いじめられている女の子――いかにも子供の思いつきそうな薄幸物語ではあるけれども、みずきという名も含めて、妙に話の合うところが気になる。
そして、それをなぜ完全に忘れてしまっていたのか。あんな形で思い出したのか。
竹林を抜け、目指す家の前に立つ。誉田のお屋敷はレンガ造りの三階建てで、思っていたよりもずっと大きかった。ぼくの背よりも高い門には、植物文様をあしらった鉄格子の扉ががっちりと閉まり、訪問者を固く拒絶しているかのような佇まいだ。
それでも勇気を振り絞って、門柱についているインターホンを押す。
返事はなかった。広い屋敷だから反応するにも時間がかかるのだろうとしばらく耳をすましてみたが、いつまでたっても屋敷の中は静まり返ったままだった。不在なのか。そもそもこのインターホンはちゃんと機能しているのか。
待っている間に、奮い起こした勇気が大変な勢いでしぼんでいくのを感じた。不安に駆られた勢いでここまで来てしまったが、一体何をするつもりだったのか。三十年も前にこの家に住んでいた女の子のことを聞かせてくださいと、いきなり尋ねるつもりか? 夢に同じ名前の人形が出てくるので、写真があれば顔を確かめさせてくださいとでも?
だめだ、帰ろう。
すっかり萎えてしまった心をかかえて、ぼくは誉田家の玄関先を離れた。それでも未練がましく、防風林に沿ってうろうろと屋敷の裏手に回る。
防風林は松食い虫にやられているらしく、いたるところで枝葉が枯れ落ち、すっかり歯抜けになっていた。場所によっては、庭が透けてのぞける箇所さえある。お屋敷の庭は、元は日本庭園だったのだろうが、今は手が回らないのか植木も草も伸び放題の荒れ放題になっていた。
この庭はいつからこんなだったのだろう、と考える。同級生たちの間で度胸試しが流行った頃は防風林がしっかり繁っていて中の様子は分からなかったが、当時もほとんどひとけのない家だったから、あの頃からもうこんな荒れ庭だったのかもしれない。
庭の様子を見るでもなく見ていると、突然心に引っかかるものがあった。雑草に埋もれて何かがある。枯れた松の間から目を凝らしてみると、真っ赤に錆の浮いたトタン板であることが分かった。畳半畳分ほどの面積の、何かを覆っている。
それが古井戸であると分かったとき、ぼくは幼い日の自分が間違いなくここへ来ていたことを確信した。これは、初めて人形の夢を見たときに出てきたあの井戸だ。つまり……。
「やあ、裕也くん」
背後から呼びかけられて飛び上がるほど驚き、ようよう振り返った時には苦しいほど心臓が早く打っていた。
「隣の裕也くんだろう。さっきインターホンを鳴らしたのは君だよね」
そこに立っていたのは、夢の中に出てきた生白い餅肌の大男だった――いや、大男ではない。むしろ背丈だけならぼくより頭半分くらい小さいだろう。だが小学生の目かられば、横幅のせいもあって巨漢に見えたかもしれない。
「あんたは……」
「この家のあるじだよ。もっとも、あるじといっても今はぼく一人しかいないけどね」
ぼくはしどろもどろに、庭を勝手にのぞき込んだことを詫びた。そして実家が懇意にしてもらっていることなどの礼を言うつもりで来訪したのだと、思いついたままに取り繕おうとした。
が、男は夢の中の仕草そっくりに首を横に振った。
「嘘は言わなくていいよ。それを持ってきてくれたんだろう?」
男に指さされて、ぼくはぎょっと自分の手を見下ろした。ぼくの手の中には〝みゆきちゃん〟があった。持ったまま出てきてしまったのだ。
「みずきにだろ? ようやく君もそれをくれる気になったか。大人になったってことだね」
男は、にこにこと笑いながら近づいてくる。それも夢の中と同じだ。目が笑っていないところも。後じさろうとしたが、足は根が生えたように動かなかった。
「ちょっと時間がかかってしまったけれど、みずきはあの頃のままだ。きっと喜ぶ」
「じゃあ、みずきちゃ――みずきさんは、今もお屋敷(ここ)に?」
「うん」男は破顔する。「今でも《ここ》に」
草に埋もれたトタン板に手をかけ、ゆっくりと持ち上げる。腐食が進んでいたらしいトタン板はぼろぼろと崩れ、無数の破片をまき散らしながら裏返った。古井戸が暗くぽっかりと口を開ける。トタンの欠片を呑み込んだ暗闇の底の方で、かすかに水音が聞こえた。
その瞬間ぼくの目は幻を見た。ずれたトタン板の隙間から、吸い込まれるように落ちていく女の子。水音。暗闇の中からくぐもった声が響く。
――助けて。
それは三十年前に実際に起こったことだった。こめかみのあたりから、さあっと音をたてて血の気が引いていくような気がした。目の前の男が餅のような頬肉を吊り上げて笑うのが、幾重にもダブって見えた。
「思い出した?」
男は喉の奥でしゃっくりのような音をたて、それは楽しそうに笑った。
「おいおい、大丈夫かい。こんなところで倒れないでくれよ。もう子供じゃないんだから、熱を出したって都合の悪いことを忘れたりはできないぞ」
「ぼくは……」
突然甦ってきた記憶に唇が震える。子供の頃、原因不明の発熱を繰り返したのはそれが理由だったのか。ぼくはみずきちゃんが井戸に落ちるのを見た。だが、おそらく助けを呼ぶこともせずに逃げだしたのだ。だからみずきちゃんは行方不明のまま見つからなかった──。
「子供は便利だね。都合の悪いことはうまい具合に記憶から消してしまう。だけど大人はそうはいかない。まあぼくだって、あの頃はまだ高校生だったんだけどねえ。何度この井戸からみずきが上がってくる夢を見たかしれない。さすがに今はもう慣れたけどね」
「じゃあ、あんたもあの子がここで死んだことを知っていたんだな。なぜ黙っていた?」
「なぜって……」
男は笑い顔のまま、異様に白い歯を剥き出して見せた。ひどく残虐な感じのする笑い顔だった。いやな予感がした。
「まさか、あんたが突き落としたのか?」
男はいきなり、爆発するように笑い出した。
「あまり愉快なこと言うな。やったのは君じゃないか」
「なに……?」
「君もいいかげん往生際が悪いな。腹をくくってすっかり思い出してしまったらどうだ。みずきはときどき君の家へ行って、人形遊びをしていただろう。そこで君の人形を見て、自分も欲しくなったんだろうな。ある日人形を持って帰ってきた。みずきはもらったと言っていたが、ぼくにはすぐに嘘だと分かった。だって君が泣きながら取り返しに来たからね。ぼくは君に、みずきは庭にいると教えてやった。君は庭へ行き――言い争う声が聞こえて、それから水音がした。庭へ行ってみると君が青い顔をして突っ立っていた。ぼくは地面に落ちた人形を拾って君に渡してやり、君は走って家に帰った」
男はすでに息がかかりそうなほどの距離まで近づいていた。そして、どう、思い出した? とぼくの肩を軽く叩いた。
記憶の底に埋もれていた光景がゆっくりと浮上してきて、夢で見たそれと重なる。
――この人形は君の物だ。
男は――当時はまだ少年だった男は、そういって〝みゆきちゃん〟をぼくに返してくれたのだった。だが、肝心の瞬間は――ぼくがみずきちゃんを突き落とす瞬間は、どうしても思い出せなかった。
なぜか。そんなことはなかったからだ。この男の作り話だからだ。ぼくは情けないほど震える声で男に反論した。
「そんな話、信じるもんか。本当はあんたがやったんだろう。だからあの子が死んだことを黙っていたんだ。あんたにはぼくを庇(かば)う理由なんか何一つないんだからな」
「理由はある」
男の顔から笑い顔が消えた。
「ぼくは君に感謝しているんだよ。君のおかげでみずきは永遠に口がきけなくなったからな。ねえ君、みずきは美人じゃなかったけど、色っぽかったよな。分かるだろ? 君だって小さかったけど同じように思ってたんじゃないのか。だからみずきとあんなに仲よくしてたんじゃないのか」
男はねっとりと舌を出して、薄い唇をねぶるように舐めた。それでぼくは、当時高校生だったこの男が、あの気の毒な少女に何をしたのか理解した。嫌悪で鳥肌が立った。
「あんた、外道だな」
「だろうな。だが君に言われたくはない」
男は凍りついたような目でぼくを見据えたまま、再びゆがんだ笑顔を浮かべた。
「何だったらみずき本人に聞いてみるか。ぼくと君と、どっちを恨んでいるか。それともあいつの口から告発されるのが怖いかな?」
男は井戸の暗闇に向かって呼びかける。
「おいで、みずき」
はるか下の方で、小さな小さな水音が聞こえた。
「上がっておいで。聞きたいことがある」
男は呼び続ける。水音がする。あれは崩れたトタンの落ちる音だ。この男は狂っているのだ。そう自分に言い聞かせながら、ぼくは全身がしびれたように一歩も動けず、その場に立ちつくしていた。
〈了〉