「つなぎ目の一冊—M・ジョン・ハリスン『ヴィリコニウム-パステル都市の物語』」高槻真樹

 かつてサンリオSF文庫から刊行されていた、M・ジョン・ハリスン『パステル都市』は、とても思い出深い作品だ。錆の砂漠に覆われた荒涼たる遠未来を舞台に、詩人志望の陰鬱な主人公が、望まぬままに戦乱に巻き込まれていく。王国同士の覇権争いはいかにも正統派ファンタジーだが、ところどころにSF的な小道具が顔を出す。中世騎士的な世界にもかかわらず、滅びた文明の遺物を掘り出して再利用しているため、まるでライトセーバーやパワードスーツかと見まがうような、ミスマッチなテクノロジーが駆使されるのだ。宮崎駿『風の谷のナウシカ』のヒントになった作品ではとの指摘には、なるほどとうなずかされる。暗く知的なタッチに魅了され、当時も一気に読み切ったものだった。
 ヴィリコニウムという世界を舞台にする、連作シリーズの第一作であるという。続巻の紹介も予告され、大いに期待が高まったものの、サンリオ文庫の廃刊とともに、紹介が途絶えてしまったのは本当に残念だった。
 それだけに、2008年、ハリスン最新作のひとつである『ライト』(国書刊行会)が突如刊行されたときは、驚いた。もちろん刊行を待ちかねて入手したのだが、恐るべき歯ごたえのある作品で、読了にはかなり時間がかかった。
 殺人鬼でもある科学者、女宇宙海賊、未来予知の見世物を行う男の物語が並行して進んでいく風変りなスペースオペラだ。ここがどのような世界で、何が起きているのか、なかなかイメージがつかめない。何を足がかりにして読み進めればよいのか分からず、途方に暮れた読者は多いことだろう。
 ハリスンの作品一覧をたどってみると、『パステル都市』(1971)は二冊目、『ライト』(2002)は十九冊目の作品で、間に三十年以上の歳月が横たわる。まるで違う二冊の間に何があったのか。両者をつなぎ、理解の補助線となるような作品を読みたいものだと、長く待ちわびていた。
 今回その疑問を解き明かし、たった一冊で見事に間隙を埋めてみせた作品集、『ヴィリコニウム-パステル都市の物語』(アトリエサード)が刊行されたことを喜びたい。サンリオ版長編の改訳と新訳のヴィリコニウム・シリーズ短編四本からなる構成で、『パステル都市』はもう持っているからなあと悩むオールドファンにも、ぜひ手にとっていただきたい。『パステル都市』に熱狂し、『ライト』に頭を抱えた読者こそが、「なるほどそうであったか」と膝を打つ仕掛けの妙が、素晴らしい。ここには、ハリスンを攻略するためのヒントが、きちんとそろえられている。
 ただしひとつだけ忠告を。必ず冒頭の「ヴィリコニウムの騎士」から順に短編四本を読み進め、最後に改訳版『パステル都市』を読んでほしい。再会した『パステル都市』が、まったく別物に変貌していることに、驚くはずである。
 短編四本はいずれもそれなりの難物で、20~30ページ前後とさほど長くはないが、腰を据えてじっくり読み解かなければ、何が書いてあるかすら、理解できないだろう。だがここは、労を厭わず、行きつ戻りつ精査してみてほしい。新しい世界が見えて来る感動は格別のものがある。
 冒頭の「ヴィリコニウムの騎士」は、ハリスンがヴィリコニウム・シリーズのルールを確立した作品で、作者本人が「最初に読むべき一本」と認定しているという。シリーズとはいっても、同じ名前のキャラクターは同一人物ではなく、同じ地名は同じ場所を指すわけでもない。年表も人物相関図も意味を持たない。だとしたら、ヴィリコニウムはどのようにして共通の世界たり得るのか。それを物語るのが、この作品の最後に登場するタペストリーなのである。
 二本目の「ラミアとクロミス卿」は、『パステル都市』の第一章冒頭と同じ書き出しで、以降もところどころで『パステル都市』と同じフレーズが埋め込まれている。主人公をはじめ登場人物の一部は共通しているが、個々の性格もストーリー展開もまったく異なる。『パステル都市』に続き二番目に発表されたものがこれだった。かなり早い段階から、長短編を繋ぎ合わせてひとつの世界をつくる、通常のシリーズファンタジーが、ハリスンの視野になかったことが分かる。
 残る二短編「奇妙な大罪」「混乱の祭主たち」は、翻訳を担当した大和田始によると、ケルト文化を下敷きにしている。「罪喰い」「混乱の祭主」など、日本人になじみの薄い固有名詞が含まれているので、「訳者あとがき」を適宜参照した方がよいかもしれない。
 これに続く『パステル都市』は、はるかに読みやすいが、やはり初読時のようにはいかないだろう。サンリオ文庫版と比較してみると、訳文はむしろなめらかではない形に修正されていることがよくわかる。
「すばやく、切り裂かれたぼろ布のように、黒い鷗がうつむいた彼の頭上をとびかい、争っていた」(第一章サンリオ文庫版)→「切り裂かれたぼろ布のようにすばやく、黒い鷗がうつむいた彼の頭上をとびかい、争っていた」(同アトリエサード版)
 「切り裂かれたぼろ布のようにすばやく」とはなんのことか、切り裂かれたぼろ布はすばやいのが前提なのか?と読者は戸惑うだろう。ここでつまずいてしまうことも多いはずである。
 だが、ハリスンの原文にあたってみると、不自然にブツ切りにされており、決してなめらかな読みやすさを目指してはいないことに気付かざるを得ない。実はサンリオ文庫版は、原書の語順に沿って逐語的に訳したものなのだが、単語を助詞で繋いでいく日本語の場合、逐語的に訳すと、とても読みやすい文章が出来てしまう。一見、英語のリズムすらうまく写し取った、よい訳文が出来たと錯覚しそうになる。だが小説の場合、読みやすい文章が、よい文章とは限らない。
 サンリオ文庫版の訳文では、鷗が飛び交っているのだなと分かるだけだ。だが、アトリエサード版は、そうではない。ここでつまずき、あらためて文章の冒頭からあらためてじっくり読み返すと、違う風景が見えてくる。
 「すばやく」「とびかい」「争う」わかりづらい文章の中で目につきやすい位置に置かれた単語を拾っていくと、これはひょっとすると、クロミス卿が剣技の名手であることを暗示した文章なのではないか?という印象が強まってくる。クロミス卿の周囲を、何やら黒っぽい塊が素早く飛び交っている映像が見える。それは、鮮やかな剣さばきを示す姿のようにも見える。イメージ喚起力の豊かさにおいては、アトリエサード版に軍配が上がる。
 つまずかせることで、そこに何かがあることが分かる。そのための仕掛けは、すでに最初の長編にもあったのだ。四短編を経て読者は気づかざるを得ない。
 『パステル都市』の冒頭には、「ヴィリコニウム帝国について」なる世界観を説明する序文が付いている。世界を曖昧化する方向に向かった、その後のシリーズの展開とは相反するものだろう。ところが意外にもハリスンは、この序文を削除することはなかった。第一作に後から手を入れる行為自体、ほとんど行っていないという。
 テキストAの印象を変えたい場合、イメージの一新を促すようなテキストBを次に書けばよい。次に何を書くか次第で、物語はいかようにでも変化する。それがヴィリコニウム・シリーズを経てハリスンが得た哲学なのだろう。
 今回の改訂訳は、そうしたシリーズの変化を踏まえたものということになる。サンリオ文庫版をお持ちの方は、ぜひ両バージョンを突き合わせてみてほしい。変更点はごくささいなものばかりだが、印象は鮮やかに一変している。
 現在未訳のまま残されたシリーズは、長編二冊・短編五本という。今回の刊行で、ようやくハリスンへの挑み方が分かった。『ライト』に挫折した方は、本書の次に再挑戦してみるのもいいだろう。つまずきは、注意喚起のサインである。
 これまでも何度も求められてきた本格的紹介が、今度こそ動き出すことを、強く願っている。