「落花生」飯野文彦

 この頃、気怠さが抜けない。得体の知れない不安の固まりが、私を四六時中支配している。原因はわかっている。酒だ。死んだ両親が残した実家に住み、古びた二階建て六部屋のアパート家賃で毎日安酒を飲むくらいの収入はある。だが毎日飲んでいると常に心身にアルコォルが残っており、神経をぎすぎすさせる。気怠さや不安の固まりがいけないのではない。背を焼くような不筆(ふひつと読む。私がこしらえた造語だ。遅々として進まない執筆を表している)がいけないのでもない。いけないのは止まらない飲酒である。それは私を喜ばせた甲府桜座のライブさえも、たまらなくさせる。音楽と小説の違いはあるとわかっているのだが、その表現が素晴らしければ素晴らしいほど、客席にいる自分に居たたまれず、不意に立ち上がってしまいたくなる。小用に立つふりをして抜け出してしまう。
 この頃、私は見すぼらしいものに惹かれる。整備された駅前や岡島百貨店辺りの小ぎれいな場所より、裏春日の崩れかかった裏通りに惹かれる。一階は古びたシャッターが下りたままの崩れそうな家屋の二階を見ると、しわだらけの洗濯ものが干してあったり、開いた窓から老婆が煙草を吹かしていたりする。
 前は違った。ずっとずっと昔、まだ小学生だった頃、甲府駅前にあった山交百貨店へ行くのが好きだった。目的は地階だった。食品売り場だった地階には、食物のアトラクションといっていいのか、ガラス張りの向こうで機械仕掛けでドーナッツを作る工程を見せたり、立ち食い寿司があったり。そんな中ソフトクリームの販売所があった。白いクリームだけでなく、チョコレートクリームもあった。さらに二つを合わせたミックスがあり、これが一番の売りだった。どういう仕組みかわからなかったけれど、白いクリームとチョコレートクリームがきれいに半分ずつになって、流れるような渦を巻く円錐形となっていた。
 母の買い物につきあった後、地階へ下りてまず立ち食い寿司のカウンターへ行く。当時の私は鯖ばかり食べていた。板前さんに「ぼくは通だね」と言われ、行くと「はい鯖だね」と言われた。そうやって鯖寿司を食べた後の楽しみがソフトクリームだった。いつ行っても行列の人数は二桁を下らず、ほとんどの人がミックスを注文した。寿司の会計を母にまかせ、行列に走った。並んでいる間に歩いてきた母に代金をもらい、母は食品売り場を物色に行く。ミックスを受け取った私はドーナッツの機械を見たり、エレベーター脇のベンチに座って食べながら母を待ったものである。
 そんな思いを胸に、気づいたら甲府駅前に居た。しかし、ここも今の私にとっては重くるしい場所に過ぎない。山交百貨店はすでに閉店し、ヨドバシカメラとなった店内は昔に劣らぬにぎやかさだが、それらが皆、不筆の元凶のように思える。ヨドバシカメラの前に立ちながらも、私はかつての山交百貨店の前に居た。現実と記憶が溶け合い、母と足を運んだ日々が浮かんで来る。と、あの頃の日常としてもう一つの場所が蜃気楼のように浮かんできた。六年間通っていた穴切小学校だった。すでに閉校となっている。残った校舎は市役所の分館として、校庭は市民に貸し出され、秋には地区の運動会の会場として使われている。私も幾度となく参加している。テント設営を終えると開会式を尻目にテント内でビールを飲みはじめ、昼食の頃には焼酎に変えているのが年中行事だった。だがコロナ禍で三年連続中止となった。それが寂しいのではない。只酒が飲めないのは寂しいのかもしれないが、それとは別に運動会に出ていたときには思い出さなかった記憶が浮かんできた。
 あれは小学三年のときだった。担任の女性教師が産休を取り、代わりにやってきたのは初老の男子教師だった。痩せているものの、瞼がとろんと垂れ下がり、いつも居眠りしてるような顔つき。古びた茶色い背広姿で、襟首から覗くワイシャツもよれよれだった。ほとんどの生徒が好意を持たず、じいさんじいさん、おじいさんは代理で担任に、と桃太郎の冒頭を模して馬鹿にしていた。だが私は違った。たしかにおじいさんという形容は正しく、だからこそ、その一年前に死んだ祖父を思い出した。私はおじいちゃん子だった。祖父が死んだとき、誰よりも泣いた。会えるなら、お化けでもいいから会いたかった。その祖父が姿形を変えて、帰ってきた気がした。
 当時、午後の授業が終わった後、担任が明日の連絡をする短い時間があった。おじいちゃん先生も担任代理だからやってくるのだが、怒らないのをいいことに勝手に帰ってしまう生徒もいた。やって来た彼は何を連絡するでも生徒に質問するでもなく、毎日判で押したように「気をつけて帰ってください」と言うだけだった。たしかにこれなら帰ったほうがいい。それを終えて教室を出ようとする彼に、先生と声をかけた。どうしたのという顔で動きを止めて私を見る。ええとぼくのおじいちゃんに似てますとも言い出せず口ごもっていると、彼は優しく微笑み、祖父と重なった。
「日記を読んでくれませんか」
 担任の女性教師が毎日、日記を課していたのだが産休となって中断していた。××先生は毎日日記を書かせて、それを読んで何か書き加えてくれたんです、だから……。頭で整理してから言おうとする前に、これから読ませてもらうよと、おじいちゃん先生が言った。
「今日は……。明日、持ってきますから」読んでくださいと言う前に、私は言葉を止めた。おじいちゃん先生が顔をしかめていたからだ。「これから取りに行っていいですか」
 しわだらけのおじいちゃん先生の顔がクシャリとなった。「用務員室で待ってる。ゆっくりでいいから。車に気をつけて」
 自分の席に戻った私は、本やノートをランドセルに詰めて下駄箱へ走った。家に飛んで帰り、日記帳を持って、急いで戻ってこよう。だが校舎を出るなり、クラスメートたちに声を掛けられた。これからS君の家に行って、人生ゲームをするんだけど来ないか。S君の家は製麺の卸しをしている。遊びに行くと必ずお土産をくれた。夏は冷やし中華、それ以外の季節には焼きそばをパック詰めしたものだった。それに釣られた。一回ゲームをしたら用事があるからと言って、先に帰ればいい。そのとききっと、お土産をくれるだろうから。そう思っていたのだが、ゲームに熱中した。私は悲惨な人生を送るはめになり、一回で抜ける気にはなれず、二回目もまた不幸な人生だったため、ムキになってつづけた。ふと気がつくと、外からお帰り放送が聞こえる。さあさあそれくらいにしてとS君のお母さんが来た。手には人数分のビニール袋を持っていた。いつもありがとうございます。私たちは切りの良いところでゲームを止めて、めいめいの家に帰った。家に着いたとき、外は暗くなり、学校へ行くのははばかられた。
 いいよ明日、見てもらえば。おじいちゃん先生だって、もう帰ったさ。その晩、書いた日記にお詫びの文章を入れた。ごめんなさい、S君の家でゲームをしていて遅くなって外が暗くなってしまったので、用務員室へ行けませんでした。こう書けば許してもらえる。しかしそれはかなわなかった。翌朝、登校すると教壇に教頭先生がいた。おじいちゃん先生は都合で昨日でおしまいになったと教頭は言った。そうかそれで明日と言ったとき、あんな顔をしたんだ。その後クラスメートから、おじいちゃん先生の噂を聞いた。父兄たちがもっとしっかりした先生に変えてくださいと陳情したらしい。たしかに言い間違えや物忘れがひどくて、子どもから見てもまだるっこしいことが多々あった。でも私は……。そうこうするうちに、担任が産休明けで戻ってきた。日記の提出が復活した。先生が休んでいるあいだ日記を書いていたのは、クラスの半分もおらず、私はずっと書いていたので、褒められた。ただ提出する前、あの一文、おじいちゃん先生へのお詫びは、消しゴムで消して、まったく別の関係ないことで埋めた。
 それまで木造だった校舎が鉄筋コンクリートに建て替えられたのは、私たちが三年生を終える頃だった。五年生の途中で、上級生から徐々に新校舎に移り、六年生になる頃はすべてが新校舎となった。用務員室は旧校舎とともに取り壊された。それにしても、ずっと忘れていたのはなぜだ。あの後、自分でこころに蓋をしたのではないか。おじいちゃん先生を裏切ったのは、自分しか知らない。裏切ったんじゃない、仕方なかったんだ。次の日居なくなるなら、言ってくれればよかった。そうすればS君のところへ行く前に、いったん帰り、日記帳を持って来られたんだ。
 ずっと忘れていた。蓋をしていた。ところが駅前に立ち、ヨドバシカメラが昔の、まだバスの停車場が二階にあった、古い山交百貨店に取って代わったとき、私の中で穴切小学校の古びた校舎がよみがえる。校庭を挟むかっこうで南北にあった木造校舎を繋いでいた外廊下の途中に給食室と、少し離れて用務員室があった。いや、ある。きっと。その中で待っている。私が日記を持って行くのを、おじいちゃん先生はずっと待っている。私は歩きだした。まず謝ろう。そして日記を、日記? いったいどこに日記帳があるんだ。あるじゃないか、ほら。私のどこかで幼い声が聞こえた。幼い頃の、あの頃の私の声だった。ジャポニカ学習帳の日記帳は、私の中に仕舞ってある。中から取り出せなくても、ページを開けば読める。朗読して聞いてもらおう。なぜ、おじいちゃん先生は職員室でなく、用務員室へ来いと言ったのか。その答えは子どもの頃、父兄の噂話として耳にしている。
 ――校長先生が昔、お世話になったんで声をかけたらしいんだけど、お酒で何度も問題を起こして強制退職させられたんですって。
 ――今でも朝から酒臭いんで、ほかの先生とまともに顔も合わせられないらしいわ。
 ――先生不足だからって、ひどい話よね。
 自然と涙が出た。それらの言葉は成人した私自身に向けられている。と同時に私のおじいちゃんのことが頭に浮かぶ。私のおじいちゃんは酒こそ飲まなかったけれど、ずいぶんと気性の荒い人だった。ずっと農家で、できた米を農協に持って行ったとき、重さを量られただけで疑ってるのかとカッとなり、皆の見ている前で米の袋を破り、こぼしながら秤に乗せた。そんな話を野良仕事の合間、お茶を飲んでいるとき聞いたことがある。私も経験がある。中村玉緒が岡島百貨店でサイン会をしたとき、ずらりと行列ができているのに、無視して私を玉緖の前まで連れて行く。係員に止められても、孫がほしがっているんだと食ってかかり、剣幕に圧倒された係員が、すみませんがこちらの方を先に、とサインしてもらった。
 信玄公祭りの見物に行ったとき、人混みをかき分けどんどん前に行く。前に居たおじいさんがやはり孫を連れていて窘められると、食ってかかり前に出てしまう。その後、私の後ろに立ったそのおじいさんに何度も何度も「いいね、ぼくのおじいちゃんは強くて」と身を屈めてつぶやかれ、子供ながらに恥ずかしい思いをした。でも私には優しかった。私を膝に載せては「これがうちのフミか。跡継ぎのフミか」と頭をくしゃくしゃ撫でてくれた。精米所へ行くとき、米の袋といっしょにリヤカーに乗って行った。帰りに精米所近くの駄菓子屋で必ず何か買ってくれたからだ。
 そうだ、お土産を持って行こう。私は穴切通り沿いにあった八百屋の前で足を止めた。艶やかな黄色の檸檬が輝いていたが、私の気を惹いたものは、その隣りにあった。落花生なのはわかる。お菓子屋でからっと煎ったものしか見たことがなかった。だが、そこに並んでいたのは、薄茶色で雨ざらしにしたみたいな、老人の肌を思わせる萎びた形、色。
「さっき、婆さんが茹でたんだ」
 八百屋の親爺が言った。
「落花生を茹でるんですか?」
 食べてみ。親爺は一房つまみ上げた。手に取るとしんなりしたそれは、かすかに温かい。何度も食べたことがあるじゃないか。そう思うのは大人の私だが、子供に戻った私は指でつまみ、弾力のあるそれに違和感を持っている。からっとしているのが取り柄なのに、茹でるなんて聞いたことないや。
「日持ちしないから。山梨じゃめずらしい」
 親爺が言ったのを機に、やわらかい皮を人さし指と親指で潰し、中から出てきた白い薄皮に包まれた実に口を近づけた。ほのかな甘い薫りとともに、ふにゃりとした食感は、私の中で二つに分かれた。酒のつまみになる、と、何だか湿気ってるみたい。どうだいと訊かれ、答えたのは子供の私だった。
「歯ごたえないや」
「慣れれば、誰でも食べやすい」
 誰でもという言葉が、分かれた気持ちを一つにまとめた。これならおじいちゃん先生も食べやすい。ください、私は言った。親爺は脇にあった新聞紙の上で、落花生の載った笊(ざる)をひっくり返し、包んだ。この段になって、幼い方の私はこころ寒くした。ポケットに手を入れ、取り出したのは硬貨ばかりである。これだけしかないんですが。否、財布に今日の飲み代くらい入っていると大人の私は思うのだが。こんなにいらない、親爺は硬貨を三分の二ほど取り、新聞紙の包みを差し出した。幾らだったのか定かでなかったけれど、それでいいというのだから交渉成立だった。
 私は片手に持って歩きだした。いつの間にか、日はずいぶん西に傾いている。穴切小学校へ着いた。校庭の両側に木造校舎があり校庭の向こう側、荒川の土手があるほうに二つの校舎をつなぐ外廊下があって、向かって右側に給食室がある。壁沿いに逆向きで置いてあるのは脱脂粉乳を入れる缶だ。その左側に少し離れて用務員室がある。校舎は暗く校庭も静まり返って誰もいない。だがぽつりと一つだけ灯りが見えた。用務員室だ。自然と急ぎ足で校庭を横切る。息があがった。ところが徐々に足の動きが緩慢になった。あと数メートルというところで立ち止まった。何て言えばいいんだ。怒られるかもしれない。今まで何をしてたんだ。怒られてとうぜんだ。あれから五十年近く経っている。来なければよかった。そもそも何でおじいちゃん先生が待っているなんて思ったんだ。居るわけがない。もうとっくに死んでいる。木造校舎だって、実際にあるわけがない。用務員室だって、とっくに壊された。大人になって地区の運動会で来たとき、影も形もなかったではないか。
 幻想に惑わされず、現実の世界へ帰ろう。そう思ったときだった。井之くん、と呼ぶ声がした。用務員室の扉が開き、おじいちゃん先生が立っている。私の中を激流が走り抜ける。時間という激流が渦を巻いた。白とチョコレート色のソフトクリームのように。煎った落花生と茹でた落花生のように。現実に来たと思った刹那、過去へと流され、ぐるぐるぐるぐると交互に渦を巻いている。
「あの、ぼく……」
「いいんだ」
「でも、こんなに遅くなって……」
 ぽろぽろと涙が零れた。
「待っていたよ。さあ、入りなさい」
 おじいちゃん先生は半身になって、私を招き入れる。室内に入り、うす暗い電球に照らされた四畳半の和室に上がった。丸い卓袱台(ちゃぶだい)を挟んで、差し出された座布団に腰を下ろした。卓袱台わきにあったポットから急須にお湯を入れ、お盆に伏せてあった湯飲みに入れて、私に差し出す。自分はというと、すでに使っていた湯飲みに、脇に置いてあった一升瓶から、とくとくと赤い液体を注いだ。
「葡萄酒ですか?」
「昔は焼酎で割って、やったもんだが」
 私が子供の頃、まだまだ酒が強かった父親がやっていた。たしか……「ぶう酎でしたっけ?」おじいちゃん先生の顔がとろけた。葡萄酒の焼酎割り。山梨ならではの飲み方だ。
「ぼくにもください」
 おじいちゃん先生は驚いたように私を見たが、すぐに顔をいっそうクシャリとした。湯飲みに入れたお茶を急須へ戻し、一升瓶の中身を注ぐ。焼酎はないけど、と断り、卓袱台に置いた。これ、どうぞ。私は新聞紙の包みを広げて差し出した。ほうという顔をしたので、茹でた落花生ですと言った。
「大好物だよ。ただ煎ったのは口に入れてやわらかくなってから噛むんで、十分も二十分もかかってしまう。しかし茹でてあるなら」
 一房取り出して指で割り、一粒口に入れた。もぐもぐ、もぐもぐとしばらく咀嚼しながら「これなら、そんなにかからない」と顎と口全体を動かした。静かに時間が流れる。どれくらい時が経ったかわからない。止まっているみたいだった。やがておじいちゃん先生は、ごくんと喉を鳴らし、湯飲みを口に運んだ。
「これはいい。ぜんぶもらっていいのかい」
「もちろんです」
「ありがたいな。と言っても、時間がかかるから、後でゆっくりいただくとして」
 さて本題とばかり、私を見た。私の頭の中に日記帳はある。だが、どうやって取りだせばいい。と、いつの間にか膝の上に文庫本が一冊、載っていた。十年ほど前、最後に出版された私の短篇集だった。御守みたいなつもりで、いつも持ち歩いている。私は無言で卓袱台の上に置いた。おじいちゃん先生は、ほうと小さくつぶやき、文庫本を手に取った。だぶだぶのシャツの胸ポケットから取りだした眼鏡をかけ、文庫本を開く。ゆっくりとしたペースでページをめくる。途中でいったん本を伏せて置き、茶碗を持って口に運び、喉仏を動かし、落花生を手にして潰した殻から出てきた実を口に入れる。もぐもぐもぐと噛みながら、ふたたび文庫本を手に取り、視線を落とす。咀嚼するのとページをめくるのが奇妙な調和を保っているかのようで、時が止まったとも滴り落ちたとも感じられる。居たたまれなくなった私は、卓袱台に置かれた新聞紙に手を伸ばした。食べるためではない。茹でた落花生を見るためだ。一房ずつつまんで、並べた。なぜそんなことをしたのかわからない。並べているうちに、それらが黒真珠とも黒ダイヤともつかず、美しく思えた。だがそれらは、見る見る弾丸に変わっていく。
「今でも拳銃、持ってますか?」
「どうして、それを」
「教頭先生が職員室で噂してたのを、友だちが聞いたそうです。戦後のどさくさで手に入れたリボルバーを隠し持っているって」
 おじいちゃん先生は文庫本を伏せた。「物騒な時代だった。自分の身は自分で守らなくちゃ。だから」胡座をかいていた身体を斜めにし、黒光りする拳銃を取り出した。「弾は残っていない。御守みたいなもんだ」
 御守に持ち歩いている……。
「ちょっと貸してください」
 しばらくジッとしていたおじいちゃん先生は、それを私に渡した。私は拳銃のシリンダーを開け、六つ空いた穴の一つ一つに落花生を詰めた。そして再びシリンダーを閉じ、卓袱台に置いた。代わりに伏せてあった文庫本をつかむ。目と目が合った。私は微笑み「ぼくの御守ですから」と腰を上げた。失礼します。背中を向けた私は用務員室を後にした。振り返らず、校庭の地面だけを見ながら歩を進める。校門を抜ける寸前、パンと乾いた音が背後から聞こえたと思ったのは気のせいか。落花生は弾となったのか。それとも一粒ずつ、おじいちゃん先生の口に入り、何度も何度も咀嚼されるのだろうか。それとも……。
「いずれにしても気詰まりだった私の人生も、まんざら捨てたものでもないかもしれない」
 校門の脇で立ち小便し、私はシャッター街に点在する中心の酒場を目指して、歩を進めた。一軒目はぶう酎のある店にしよう。(了)