「サイバーパンクとネットワーク犯罪のリンクを示す二つの事例」大野典宏

 ここで紹介するブックレビュー二本は、一九九三年と一九九四年、それぞれの書籍が発売された直後に商業誌向けに書いた書評である。当時は出版社勤務だったため筆名で発表した。
 だが、すでに約三十年が経過していること、発表媒体も無くなっていることから、時効であると判断して再掲載をする。
 当時のサイバーパンク理解、および当時のコンピュータを巡る文化への理解をそのまま記録することを目的としている。
 サイバーパンク史が口伝として伝えられ、一部は歪められたものになっている現状を鑑みたが故の行為として理解していただきたい。
 インターネットが一般に開放されるまえからモデムと音響カプラによる電話回線を使ったハッキングが行われていた事実、インターネットとサイバースペースは、もともと別の概念であること、現実を想像が実際にリンクするような形で事件が起こっていた事実など。これらをはっきりと示す事を目的としている。
 事実、国家機密の漏洩や、政府の過剰反応によって起こってしまった事件を示すことで、「サイバーパンク作品に示された事の一部はそのとおりだが、サイバーパンクと現実の関係は、技術的な面ではまるで違う」ことを理解してもらえれば良いと考えている。
 サイバースペースが実現する可能性はあるかもしれない。しかし、現実の事件はBBSの時代からある。原義的・現実的にサイバースペースとはインターネットへと単純に置き換えられるものではない。
 これらの歴史的経緯を示す者の証言として読んでいただければ幸いである。

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「ハッカーを追え!」
発行:アスキー出版局
著者:ブルース・スターリング
訳者:今岡清

 本書の著者はあのブルース・スターリングである。すっかり有名になったSFジャンル、サイバーパンクの理論的指導者にして「スキズマトリックス」や「ネットの中の島々」といった作品を発表しているSF作家である。
 そのブルース・スターリングがSF作家業を一時中断してコンピューター犯罪ジャーナリストとなり、1990年5月に行われたハッカーの一斉摘発「サンデヴィル作戦」の全容をレポートしたのが本書である。
 具体的には、それまでの背景、つまりはハッカーによるネットハックの実状。そして(あの!)シークレットサービスによるハッカーの一斉摘発。さらにその後の表現の自由と官憲の行き過ぎ捜査をめぐる市民団体の運動や裁判まで。事件の顛末がこと細かに書かれている。
 コンピューターネットワークとハッカーといえば、サイバーパンクの代名詞ともなったウィリアム・ギブスンの造語、“サイバースペース”や“コンピューターカウボーイ”を思い出すが、本書の中でもスターリングはしばしばお互いを言い替えている。
 もっともギブスンの小説はカウボーイがネットワークをハッキングする様を迫力一杯に描いたピカレスクロマン(悪漢小説)で、ヒーローの姿はあくまでも格好良いアウトローだった。
 しかし、現実の世界におけるハッカーはただの遊びとしてセキュリティ破りを行う。それはあくまでも悪趣味な知的ゲームであり、罪悪感などはない。自分の仲間にそうして得たオタク的な知識をひけらかして悦に入る変な奴等にすぎない。しかし、その遊びは被害者の側からみれば犯罪以外のなにものでもないのだ。世間の誰も彼らをギブスンの小説に出てくるようなヒーローだとは思わない。これは当然だろう。
 本書の前半では、後に摘発されるハッカー達がそれまでに何をしてきたかが生々しく示される。そしてシークレットサービスによる一斉摘発。いかに悪質なハッカーを取り締まるためとはいえ、有無を言わせぬその横暴ぶりは読んでいて腹立たしいほどだ。
 しかも、悪い事にそれらの中にはどう考えても言いがかりとしか思えないものも多い。例えば、ハッカーが盗んだファイルをBBSに保管していた(それもハッカーが自分の個人領域にしまっていただけのことなのだ)だけでコンピューターを根こそぎ押収されてしまった例などがそうだ。本人の意志とは関係なく、間接的に関与することになってしてしまったというだけで摘発されてしまうのだ。
 本書の後半では、一部の摘発がいかにいいかげんで、他人が聞いたらあきれかえってしまうような理由によるものだったのかが明かされる。あまりのアホらしさに笑ってしまいそうになるが、そんな冗談みたいな理由で逮捕されてしまうのだから、ユーザーにとっては恐怖以外のなにものでもない。
 だが、アメリカの社会は、そのような無茶をまかり通してしまうほど幼くはない。ネット犯罪の不正摘発からユーザーを守るべく市民団体が組織されるのだ。事態はネットワークという新しい「現実社会」のあり方にまで発展して行く。ネットワークという”仮想的”なものでありながら、参加者にとって確かな現実社会として存在する不思議な空間での自由民権運動である。
 サイバースペースを現実と同じ様な市民社会にするためには、どうすればよいのか? ネットワークが一般的な通信手段として定着しつつある現在、これはすべてのユーザーが皆で考えてゆかなければならない問題だ。

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 実際、実験的に作ったソフトウェアがコンピュータワームと化してしまい、増えすぎて事実上全世界のネットが使えなくなる事件などは起こっていた。これは偶発的なものだが、テロとしてセキュリティの隙間をつけばまだまだワームの危険は去っていない。
 インターネットが一般化する前に、どれだけの事件が起こっていたのか。それを記したのが次の書籍である。
 ちなみに、ハッキングの元は電話ハッキングから始まった。電話の無料通話などを目的として電話回線を自在に使う目的から始まったのである。

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「コンピュータ・ウィルスの恐怖」
情報システムを破壊し、ますます凶悪化するハッカーたち

ブライアン・クラフ
ポール・マンゴー 著
日暮雅通・久志本克己 訳
早川書房 刊

 タイトルこそコンピュータ・ウィルスとなっているが、本書はウィルスも含むコンピュータに関係した犯罪全般についてのレポートである。
 犯罪とは言っても、いわゆる「オンライン詐欺」など、古典的(?)な手口にコンピュータがからんだような刑事事件ではない。そういった種類の犯罪も新聞報道などではコンピュータ犯罪だと物珍しげに書かれるが、コンピュータという新しくて珍奇なものへの興味がそんな報道をさせているだけで、コンピュータが出現によって巻き起こってしまったというものでもない。
 本書にはコンピュータによって新たに「発生」した犯罪、具体的にはハッキング(大野注:当時はハッキングとクラッキングは区別されていたが、現在は同じ意味になっている)とウィルスについて、関係者や地名などがかなり具体的に書かれている。その中には「カッコウはコンピュータに卵を産む」や「ハッカーを追え!」といった本で扱われた「有名な」事件も含まれており、「コンピュータ犯罪全史」として貴重である。
 そもそもコンピュータが知的な道具だと言ったのはだれなのだろう。知的好奇心と言えば聞こえはいいが、その根元にあるのは利己的な欲望である。本書に登場するハッカー達は、暗闇の中でこそ光が輝くように、利己的な欲望の中で狡猾さという知性が際だっている。ハッカーにとってコンピュータは欲望をかなえてくれる便利なおもちゃなのだ。ただ、これは絶対にコンピュータが「おもちゃ」であってはならないということではない。天才と呼ばれる科学者やエンジニアにとってコンピュータや測定器は自分のやりたいことをかなえてくれる便利な「おもちゃ」だったとも言えるのだから。
 大きな犯罪で捕まったハッカーの多くが、情熱もテクニックも一流であるというのは、結果こそ全く逆であれ、「知りたい、試したい」という同じ根から出発している一つの証拠だ。その欲望が社会的な良心のもとで発揮されると社会への貢献となり、逆に向かうと犯罪になる。
 本書に登場する悪質なハッカーやウィルス制作者にしても最初は単純にパソコンをいじっているのが楽しかっただけなのだろう。もしくは、目の前にある不思議な物に好奇心をそそられていただけなのだろう。だが、そのもっと知りたいという欲望は、本人の意志とは無関係に膨らんでしまう。
 膨らみ、そして歪んだ欲望は犯罪までの最短距離だ。コンピュータに限らず、何にだってそんな事例は存在する。誰も知らない秘密を知りたい、他人のプライバシーを覗いてみたい、楽してお金を儲けたい、反社会的なことをしてストレスを解消したい、車を改造してカッコつけたい、公衆電話をただで使いたい、などなど。
 これらなどは極端な例だが、身近でよく見かける事例も根元は一緒だ。速いパソコンを持っていると自慢(自己満足?)できる、メディアが騒いでいる電気製品を買うと自分が進んでいるような気になって嬉しい、などなど。便利になるという欲望を満たすために何かが作られるはずなのだが、人間の欲望はそれらによって満たされるのと同時に、それらを媒介にしてさらに増大していくのだ。
 自分はなぜ、コンピュータを好きなのか、なにをしたいのか。一度その理由を各自で考えてみる必要があるかもしれない。本書に登場する歪んだ欲望が支配する世界は限りなく醜悪だ。