「宇宙の選択」八杉将司

 まったくの不意打ちだった。
 俺が気持ちよくバーのカウンターでビールを飲んでいたら、いきなり後ろから肩を鷲づかみにされて振り向かされた。
 直後、顔面にでかい拳がぶち込まれた。
 酔いが回りすぎていたせいか痛みはたいして感じなかったが、椅子から転げ落ちて仰向けになったまま動けなくなってしまった。
 周りは乱闘騒ぎになっていた。
 おそらく俺たちと縄張り争いをしている連中が殴りこんできたのだ。地元のヤクザだろう。俺たちみたいに好き勝手やれる自由がない、いまや時代遅れの暴力団どもだ。仲間たちは俺みたいに無様な醜態をさらすことなく、そいつらと果敢に戦っていた。
 倒れている場合ではない。でも、体にどうやっても力が入らなかった。俺もやらねばと焦りだけが空回りしながら、眠るように意識がなくなった。
 ――目を覚ましたら、自分のアパートのソファの上だった。
「くそ」
 何もできずに失神した俺を、仲間が助けて運んでくれたのだろう。情けない。
 気分転換にシャワーを浴びようと起き上がろうとしたら、鼻に強烈な痛みが走った。
 そういえば思い切り顔をぶん殴られたのだった。
 それから気づいた。
 左目だけが何も見えなくなっていた。目蓋を閉じているつもりはないのに真っ暗なのだ。
 打撲で腫れたか。しかし、触ってみても痛みは感じない。痛いのは鼻だけだ。
 とりあえず洗面所に行って鏡を見た。
 鼻の孔の下に鼻血のあとが汚らしく残っていたが、鼻の形は特に歪んでない。幸い折られてはないらしい。
 それは見えなくなっている左目も同様だった。腫れてすらいなかった。ぱっちり開いている。
 しかし、どこか違和感があった。見えている右目を鏡に近づけて、左目の瞳をのぞき込む。
 どうも瞳の色が違う。黒い瞳の右目と比べて、左目は青みがかっていた。
 光の加減だろうか。
 気にするのをやめて蛇口をひねって水を出す。勢いよく顔を洗った。
 タオルで顔を拭った。目を開く。
「あれ」
 左目の視界が戻ったのだ。両方の目ですっきり洗面所を見ることができていた。
「おどかしやがる」
 安堵して思わず笑った。
 クリアになった両目で鏡を見た。顔を近づけて瞳の色を見直す。
 左目の瞳の色だけが青黒い。
 どうにも気味悪い。だが、視力は戻ったのだ。こんなことぐらい眼科に行くのは億劫だった。
 リビングに戻ってテレビをつけた。適当にドラマでも見て気を紛らわすことにした。
 ちょうど海外のテレビドラマが放送されていた。
 警察とマフィアが銃撃戦をしていた。マシンガンが鳴り響き、ばたばたと人が倒れていく。爆薬が炸裂して轟音とともに炎と煙が舞い上がった。
 ところが、このアクションシーンとダブってもう一つのテレビドラマが俺には見えていた。
 それは普段なら決して見ない和やかなホームドラマだった。幸せそうな家庭があり、和やかな会話がゆるやかに流れていて警察とマフィアの抗争とは真逆だった。
 その両方を俺は同時に視聴していた。
 しばらくしてわかった。
 右目と左目で見ているドラマが違う。
 片目を閉じると、右目はアクションドラマ、左目はホームドラマがテレビの画面に映っていた。
 しばらく呆然とテレビ画面を眺めていたが、我に返ってチャンネルを変えた。
 次はバラエティ番組だった。すると、それも右目は芸人の馬鹿話に客が爆笑するだけのトーク番組で、左目は年配の俳優が自然豊かな田舎を歩く落ち着いた旅番組が見えていた。
 テレビの電源を切った。
 混乱して冷や汗が吹き出た。
 何なんだ。俺はどうしちまったんだ。
 途方に暮れていると、アパートの玄関が開いた。
「おい、いるか」
 その大きな声は兄貴だった。勝手に中に入ってきた。
 血縁のある兄貴ではない。俺がいるグループのリーダー役だ。
 リビングに茶髪で真っ黒に日焼けをした不愛想な顔が現れた。
 俺と目が合うと、眉間に皺を寄せた。
「起きてるじゃねえか。返事ぐらいしろ」
「すみません。ぼんやりしてました」
 俺は慌てて謝った。
 当初は俺たちのグループにリーダーなどいなかった。ヤクザのような上下関係を嫌った不良が集まったアウトロー集団で、そんなものはいらないというのがみんなの共通した認識としてあった。ところが、喧嘩の仲裁や仕事の仕切りが誰よりもうまい「兄貴」が入ると、自然と彼がリーダーの振る舞いをするようになり、逆らえない雰囲気が作られていった。中にはそれを嫌ってグループを抜けようとするやつもいたが、そいつは兄貴と取り巻きにつかまりリンチにされた。勝手に抜けるやつはグループの秘密を持ち出す裏切者で処罰が必要だというのが兄貴の理屈だった。
 とにかく俺にとって彼はとてつもなく怖い存在だった。
 兄貴は果物を盛り合わせた籠を持っていた。その籠には果物ナイフが差し込まれていた。テーブルに置く。
 見舞いにきたかのようだったが、兄貴の目つきにそんな気遣いなど微塵も感じられなかった。
「喧嘩の最中にのんきに寝てたそうだな、てめえはよ」
「不意打ちでやられて……」
「うっせ。ケジメをつけろって話だ」
「ケジメですか」
「当然だろ。仲間が死に物狂いでやりあっていたってのに寝てたとか許されるわけがねえ。ケジメ案件だ。とはいえ、おまえの頭ではどうしていいかわからねえだろ。なので考えてやった」
 兄貴は果物盛り合わせの籠にある果物ナイフを指さした。
「これでやつらのオヤジをやってこい」
「親父?」
「組長だよ。殴りこみにきたヤクザの組長。ちょうど病院に入院している。糖尿病で心臓を悪くしたらしい」
 それから兄貴は病院の住所と部屋番号それからオヤジの名前を告げた。
「見舞客のフリしてオヤジの首を掻っ切ってこい」
「え? 殺せって?」
「何だ、怖いのか。寝ているところをさくっとやればいい。さくっと。簡単だ」
 平然と兄貴は言ってのけた。
「心臓が悪いのなら放っておいても死ぬのでは」
「馬鹿、それでは恰好がつかねえだろうが。こっちはあれで店がめちゃくちゃにされたんだ。やられっぱなしでいいと思ってるのか」
 面子の問題らしい。そんなものは時代遅れのヤクザならともなく、俺たちには関係がないはずだった。でも、ここで反論はできない。兄貴に逆らうのは相当な勇気がいるし、真っ先にノックアウトされてしまった後ろめたさもあった。
「これから行ってこい。いいな」
 兄貴は腰を上げると、何も言わせず部屋から立ち去ってしまった。
 残された俺はソファに座り込んだまま身動き取れずにいた。
 今の出来事が夢でも見ているかのように現実感がなかった。
 実は二つのテレビ番組が重なって見えていた現象が、兄貴との会話でも起きていた。
 一つは病院に入院するヤクザの組長を殺せ。
 もう一つは病院に入院する親父の見舞いに行け。
 この二つの内容の話が兄貴の口からいっしょに出ていた。少なくとも俺にはそう聞こえた。いくら思い返しても、どちらが本当か区別がつかない。
 いや、兄貴の性分を思えば考えるまでもない。殺しを命じたほうが現実に決まっている。兄貴が知るはずのない俺の親父の見舞いをしろというのもおかしい。
 でも、人殺しなんてしたくなかった。親父の見舞いであればまだどれだけよかったか。現実から逃げてこの話にすがりつきたかった。
 とにかくここでぐずぐず悩んでいても仕方ない。何もしなければ兄貴の仕打ちで俺が殺されかねない。
 果物盛り合わせの籠を持ってアパートを出た。

 俺は親父の顔を知らない。
 愛人だった母さんが妊娠したとわかった途端、認知もせずに捨てたクソ野郎だとは聞いている。とはいえ母さんが病気で死んだ今は唯一の肉親でもあった。恨みがあるかと問われたら、それほどでもない。対面の記憶すらない相手にそんな感情はいまいち持てなかった。それでも一度ぐらい会ってみたい気持ちはあった。
 病院に到着した。入院病棟に入り、聞いた部屋番号の病室を探し出す。
 そこは個室ではなく大部屋で、ベッドごとにカーテンで仕切られていた。そこに患者以外の人の気配はなかった。ヤクザの親分ならボディガードぐらいついてそうに思えたが、それほど大きな組ではないからか誰もいなかった。
 名札で確認したベッドのカーテンを静かに開けて入った。
 白髪交じりの坊主頭の男が寝息を立てていた。顔は青白く、少しやつれていた。
 よく見れば目鼻立ちが俺に似てる気もする。でも、親父である確信は持てなかった。
 果物盛り合わせの籠を枕元の棚に置いた。果物ナイフを手に取る。
 まだどうするか決めかねていた。迷いながらも鞘から抜いた。銀色の刃が見えた。手が震える。
 やっぱりできない。鞘に戻そうとしたそのときだった。
「何をしている」
 俺は驚いて寝ていた男を見た。
 ぎょろりとした両目が俺に向いていた。
 すぐその二つの瞳の色がそれぞれ違うことに気がついた。俺とは逆で右の瞳が青黒い。
 思わず訊いた。
「あんたはどっちだ」
「どっち?」
 それから男は上半身を起こして俺の目をのぞき込むようにまじまじと見つめ、にやりと笑みを浮かべた。
「そうか、おまえもか。だが、どっちという質問はおかしいな。おまえには俺がどう見えている」
「わからない。でも、あんたがヤクザの親分か俺の親父かのどちらかなんだ」
「ヤクザの親分でおまえの親父かもしれないぞ」
「それはそうだけど……」
「おまえは俺の息子か、もしくは殺しに来た鉄砲玉で、どちらを選ぶべきか迷っているんだな」
「選ぶ……選べるのか、これは。いや、その前に聞きたい。あんたも二つの世界が見えているのか」
 男は神妙にうなずいた。
「選べるということは、どちらも本当の世界なのか」
「そうらしいな」
「なぜそんなことがわかる」
「教えてくれた男がいたんだよ。小説家だ。ヤクザの話を書きたいから住み込みで取材させてほしいと言ってきてな。面白そうだったので許可したんだが、よくよく考えたら小説といえども露骨にモデルがわかる書き方をされたら問題が出てくる。大っぴらにできない仕事(シノギ)までネタにされたら警察に目をつけられて潰されるからな。小説家にそう話すと、では、日本でもどこでもない遠い宇宙の星や剣と魔法の異世界ファンタジーを舞台にしてヤクザの話を書きますよと言い出した。それだったらどこの誰かもヤクザかどうかすらわからないというのでな。聞けばそんなジャンルの書き手もしているそうだ。それではわざわざ住み込みまでして取材をする必要があるのかとも思ったが、そこまで言うならと好きにやらせることにした。
 その作家先生は実に聞き上手でな、他人には明かしてないことも彼にだけは打ち明けてしまいたくなる人柄だった。だからついあるときから二つの世界が見えていることもしゃべってしまったよ。いくら何でもこれは笑われるかと思ったが、さすがファンタジーやSFも書く作家先生だけあって違ったよ――」

『たぶんそれはすぐ近くの並行宇宙が見えているんですよ』
『並行の宇宙? 宇宙がほかにも並んでいるということかね。そんなことがあるのか』
『ええ、あります。この宇宙は普段から無数に分岐していて、こことは違う宇宙がいくつも存在しているんですよ。パラレルワールドなんて呼び方もしてます。そういう物理学の理論があるんです。無数に枝分かれするだけあってあらゆる可能性が並行してますから、たとえば親分さんが極道ではなく警官になった宇宙もあり得たりします」
『ほう。じゃあ、俺はそのうちにある二つの宇宙を見ているわけか。どちらが本物なんだ?』
『どちらも本物です。分岐した宇宙が消えずに残っているだけですからね……これは私が今思いついたことですが、人は普段から二つの宇宙を見ているのかもしれません。目と耳が二つあるのは、空間を立体的に感じ取りやすくするためなんですが、結果的にそれだけではなくて隣り合っている並行宇宙も認識できるようになってしまったんだと思われます。通常ならほとんど違いのわからない、せいぜい原子や分子の位置が多少違うだけの宇宙を見ているだけなんですが、親分さんの場合は何かの拍子で大きくずれてしまったんでしょうね。違いがはっきりわかるレベルの並行宇宙が認識できてしまっているのかもしれません』
『どちらとも本物なら、どちらか気に入った宇宙を選ぶこともできるのか』
『私は親分さんほど違いのある並行宇宙は認識できていませんので、自覚して選ぶことはできません。ですが、もしかしたら……』

 男は語り終えると、俺をじっと見据えた。
「どちらの宇宙が望みだ? おまえの好きなほうを選べばいい」
「俺は……」
 悩むまでもない。
 果物ナイフを固く握っていた手の力が抜けた。
 男はそれを待っていたかのように俺の手首をつかんだ。強引にひねって果物ナイフを奪い取ろうとした。
 今の話は油断させるための大嘘だったのか、それともこれは別の宇宙の出来事なのか。
 などと考えている暇などなかった。
 俺は必死に抵抗した。
 するとやけくそに力強く押した果物ナイフの刃が、男の喉に深々と刺さっていった。
 だが、それは片方だけの目の光景だった。
 もう一つの目は、押し返された果物ナイフの刃が、俺の喉に刺さる様子を目撃していた。

〈おことわり〉
 はからずも八杉将司氏の遺作となってしまった本作は、ご遺族の許諾を頂戴した上で公開しております。お読みいただけましたら幸いです。