「死の記憶と義体の産声、共振する<エクリプス・フェイズ>――岡和田晃編『再着装(リスリーヴ)の記憶』書評」忍澤勉

「死の記憶と義体の産声、共振する<エクリプス・フェイズ>――岡和田晃編『再着装(リスリーヴ)の記憶』書評」 忍澤勉

 タイトルの『再着装(リスリーヴ)の記憶』を予備知識なしに読むと、再着装とは着装していたモノ、つまり自分が着ていたモノか、あるいは自分に付着していたモノを脱ぐか外すかした後、再び着けていたモノ、あるいは別のモノを着装することになる。これは物理的かつ機械的な表現だが、一方、記憶は脳内の現象で言語化することによって共有化されるものの、それは必ずしも実相を表現しているわけではない。自身にとっても曖昧であり、再着装とは正反対に非物理的で非機械的である。
 サブタイトルにある<エクリプス・フェイズ>というアンソロジーのテーマは、太陽系を舞台にしたSFロールプレイングゲームを意味する。私自身はゲームについて取り立てて詳しいわけではないが、それでも本書は興味深く読めた。これまで私の触れてきた近現代の日本文学やSF小説、あるいは批評を書いてきたアンドレイ・タルコフスキーの映画とも共振し、問題意識に触れ合う部分が少なからず見受けられたからだ。

●<エクリプス・フェイズ>の世界

 編者である岡和田晃の解説によると<エクリプス・フェイズ>の世界は、技術的特異点(シンギュラリティ)と呼ばれる社会、つまり技術が超高度に進み、AIが神に比するほどの知性をもった22~23世紀の太陽系全体を舞台にしている。ここでは人間の精神が身体から身体へと乗り換え可能となっている。
 舞台が基本的に太陽系内に限られるというのは足枷のようでありながら、逆に荒唐無稽な展開を避け、さらにその世界の品位を形成させているようである。その物語のネックとなるのは、人間という生き物が限られた環境下でしか生存できないこと、そして惑星間の移動に膨大な時間が掛かることである。しかしその障害を<エクリプス・フェイズ>は、巧妙にクリアしている。
 人の意識は、電子化された魂(エゴ)と呼ばれ、人の外部でも存在が可能であり、しかも量子遠方送信機(ファーキャスター)によって光速に近い速さで移動できることから、意識において太陽系内程度の空間はかつてないほどに短縮されたのである。またその意識を内在されていた身体も、義体(モーフ)に置き換えることができる。この義体は生身の身体である生体義体や人造ロボットの合成義体に大別されるが、他にもバリエーションがある。これらの技術革命によって、人間は太陽系の過酷な環境と距離を乗り越え、その空間を縦横無尽に駆け巡ることができるのである。もちろん他にもこの世界を構成するツールやシステムがある。金星の大気上層部には空中都市(エアロスタット)が浮び、火星や月の地表にはドーム型の都市がある。そして原料分子があればどんなものでも生産可能な万能合成機(コルヌコビア・マシン)は、飢餓を過去のものにしたのである。
 こう書くと、<エクリプス・フェイズ>は技術革命による人類の理想郷と思われるかもしれないがさにあらず、太陽系の隅々にまで人類が進出したのち、それを可能とさせたAIが反乱を起こしたのだ。「彼ら」は人間の基本インフラだったワイヤレスネットワークに侵入して、やがて人間とAIとの大戦争に発展する。その戦いの結果として95%の人類が失われることになる。このカタストロフィは”大破壊”(ザ・フォール)と呼ばれる。つまり<エクリプス・フェイズ>は人類が最大の危機を経験した後の世界であり、その危機によって未だに多くの弊害や不安定な事象が残された社会でもあるのだ。
 そういった世界は書き手にとって限りなく魅力的であり、かつ自身の課題や関心事をそこに投影することができる。ある書き手はそこに人間の不老不死への迷いを描き、別の作家はハードなアクションの可能性を見る。さらにそこに懐古的な冒険物語の舞台を見出し、スリリングな戦争小説の場として活用され、また未来的なレトロ感覚満載の優美の世界に描き、さらに思わぬ運命に直面し、そして詩的な情景に満ちた世界を構築する。

●収録作品について

 例えば本書の冒頭を飾るケン・リュウの「しろたへの袖(スリーヴス)――拝啓、紀貫之どの」は、主人公が巨大蛇のような機械義体の姿で登場し、苛烈な環境下にある金星のマクスウェル山を這い上がる場面で始まる。主人公である「わたし」はなぜそこにいるのか。この情景で連想するのは酉島伝法の「環刑錮」である。その主人公は刑罰によって大きなミミズに似た姿にされる。また多くの苦難を伴って山を登り続ける様子は、P・K・ディックの『アンドロイドは電子羊の夢を見るか』に登場する、新興宗教マーサ―教の教祖ウィルバー・マーサーを想起させる。彼が疲れ傷つきながら山頂を目指す無意味な歩みは、ただ信者を共感されることにのみ意味をなす。
 しかし「しろたへの袖」の「わたし」は自ら進んで異形の姿と艱難辛苦の登山を望んだのである。「わたし」が住むのは、ほぼ不老不死が達成された社会。ゆえに「わたし」が「……恐怖と苦痛を絶望のすべてをきみが完璧に体験し自分自身で味わい尽くすためには」と話すように、死、とそれに伴う絶望と痛みに強い快楽を感じるのだ。
だが私たちが一番恐れていることこそその死である。アンドレイ・タルコフスキーの遺作『サクリファイス』の主人公は幼い息子に、「怖がらないで死など存在しない。死への怖れがあるだけだ。それが堪えがたくて無分別になるんだ。すべてが変わるだろう。その怖れをなくせれば」と語り、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』の主人公は、その日記に「死ハ一向恐クナイ、ダガ、予ハ今コノ瞬間ニ死ニ直面シテイルノダト思ウト、――死ガコノ刹那ニ予ノ目前ニ迫ッテイルノダト思ウト、――ソウ思ウソノコシガ恐イ……」と書いている。
 つまり死、そして絶望と苦痛とは人の最大の関心事であり、思想の極めて重要な源泉でもあるのだろう。マーサー教の信者が徒労たる登山に共感、つまり救いを求めたように、キリスト教もまたイエスの死と苦難を代償にして人々に救いを与えているのだから。しかしこの作品の主人公にとって死は最高の快楽なのである。
「わたし」は最後に自分が嵌められたことに気づく。紀貫之の和歌に秘された謎は「衣(スリーヴズ)」と、何度か言及される水仙(ナルシサス)に込められているように思う。
 ケン・リュウ作品と同じように伊野隆之の「カザロフ・ザ・パワード・ケース」は金星の表面から物語が始まる。炭鉱の北極鉱区の保安主任であるカザロフが主人公だ。ある日、彼は上司から一匹のタコの行方を追えという命令を受ける。 しかしこのタコはタダのタコではない。ここで働くタコたちは、知性化種(アップリフト)と呼ばれる遺伝子操作で知性を得て、肉体労働や事務的な仕事をしているのだ。この事件と同時に一つの鉱区で、工作員と作業員による反抗が起ころうとしている。しかし管理者は彼らの要求に耳を傾けない。カザロフは彼の古い義体を発送し、「自身」はエゴキャスト、つまり魂(エゴ)データを飛ばすことで現場に瞬時に赴く。なおタイトルにあるケースとはこの義体、安価な機械外殻のことなのだろう。そして彼はひとまず一触即発の事態を治める。しかし問題の解決には至らない。底辺労働者たるタコたちを収奪するシステムは残され、そして逃げ出したタコは依然行方知らずで、その素性すらわかっていない。このカザロフの物語はSFPWに掲載された作品に続いていく。
 前半の山場である備品倉庫からタコの逃走は、漁港で魚函から出ようとする蛸を想像してしまうが、彼らの冷静沈着さからは、『スター・ウォーズ』の蛸や魚に似たアクバー提督へイメージが飛ぶ。しかしこの物語のタコたちの労働環境は過酷で、しかも彼らの死はまさに死そのものであり、人間のように再生されることはない。そんな描写からタコという言葉は元の生物の名前だけを意味してはいない気がしてくる。現在はほぼ死語となり、汚れた部屋の集団生活を揶揄して「タコ部屋」と呼ぶぐらいだが、タコは本来底辺労働者の意味で使われてきた。さらに地域によっては強制連行された朝鮮人労働者や中国人労働者のことを指す。
 太平洋戦争開戦時の北海道が舞台となる佐々木譲の『エトロフ発緊急電』では、こんな会話がなされている。……「タコがどこから」……「だってタコ部屋から逃げたってだけで、駐在にご注進することはないでしょう。タコ部屋の契約なんて詐欺みたいなものだってみんな知ってるんだし……」。このように登場人物たちがタコと呼び、そして匿うことになる金森というこの男も炭鉱で働かされていた。「カザロフ・ザ・パワード・ケース」は決して未来だけの物語ではないはずである。
 待兼音二郎の「プラウド・メアリー~ある女性シンガーの妊娠」は、タイトル通り歌姫メアリーの物語である。宇宙船の事故で肉体を失った彼女は、かつての自分の声が再生されることを最優先に、あえて中古の義体を選ぶ。新品では味わいのある枯れた彼女の声が出ないのだ。しかしライブに復帰した彼女を違和感が襲う。身体の内側から衝撃が伝わってくるのだ。やがてそれが妊娠であることがわかる。
 しかしその瞬間までメアリーは妊娠をおぼろげにしか理解していなかった。法律によってこの子を堕すことはできない。彼女は躊躇いと不安に包まれながら、この中古義体のかつての持主を探し求め、その女性が彼女と同じ事故に遭いながらも、体内の子供を守るために、最後まで魂(エゴ)の脱出装置である緊急遠方送信装置を使わなかったことがわかる。やがてメアリーは事故以前の母親の記憶を再生して生きている女性と会う。
 ここで子を宿している母メアリー、最後まで子を守ろうとして死んだ母、さらに事故以前の記憶を持つ母の、三人の母が登場したことになる。そしてついに第四の母たるメアリーの「母」の真実が明かされ、事故で死んだ母の最期とメアリーの「母」の最期が重ねられる。このように物語は二転三転して結末へと向かうが、まさに誇り高きメアリーは、自然分娩の苦しみを味わう最後の母となることを決意し、今後この苦痛を男にも対等に体験してもらうことを希求する。女性型の義体に男性の魂が装着されても何の問題もないはずだという至極当然な思いに彼女は辿り着くのだ。
 しかしこの物語の男たちの存在感はかなり軽い。中古義体店の店主はいうに及ばず、物語のキーとなる事実を語るメアリーの父も例外ではない。その軽さを象徴するのは、メアリーの夢に現れる、事故で死んだ母と重なる少女の言葉である。これを書き手は森鴎外の「舞姫」から引用している。その言葉が呼び掛ける「豊太郎」こそ第三の男となる。恋愛小説史上極めて悪名の高いこの豊太郎は、この物語にとっては何を表しているのだろうか。そこにはメアリーの男性観、あくまで軽い存在としてのそれが反映させているとも読める。そしてその後はどうなっていくのか。例えばそれは「――そうか、母になるんだ。なに産むの?」という言葉で始まっている小説、高度な3Dプリンターがすべてのものを作り出す世界で、青年たちが「母」を作ろうとする倉田タカシの『母になる、石の礫で』に、一つの答えがあるような気もする。
 短い作品だが、革命的技術の先にある<エクリプス・フェイズ>世界の意外な隘路ともいうべきものを的確に示しているのが、平田真夫の「硝子の本」である。土星近くで偶然見つかった未確認物体といえば、誰でもクラークの『2001年宇宙の旅』を浮かべるだろうが、二人の宇宙船乗組員が発見したのは半透明の巨大な本の形をした物体なのである。私も含めて、この小説の読者たちは間違いなく本を手に取り、これを読んでいるわけだから、この展開には思わずニヤリとしてしまうが、そもそも本を日常的に読む人々にとって本とは他の事物と格段にその存在意義を異にするものである。実際、私はいま残りの人生を費やしてもとても読み切れないほどの本に威圧的に囲まれている。さらに本とは一定の人にとっては神聖も含み得る存在であっても不思議ではない。その巨大なそれが宇宙にポカリと浮かんでいるわけだから、乗組員の驚きに増して読者の驚きは大きいに違いない。しかもそれはいわゆる脳としての機能を持ち、森羅万象のデータを内に秘めつつ、そこに踏み入れる「閲覧者」を永劫の時間、待ち続けていたという。しかしまさにこれは本好きの理想郷なのかと思えば、実はそうではないのだ。この苦境に直面した人類の代表たる二人はいったいどんな行動を取るのか。果たして2021年のボーマン船長はどこに行くのか。彼らがポツリと示したほぼ困難とも思える解決の糸口がほろ苦い。そういえば私もとある著作集を勢いのまま全巻揃えたが、最初の数頁で挫折したままである。まだ私には早い。いや遅かったのかもしれない。この世界の人類のように。

●ポストヒューマンSFは意外に近くにある?

 このように所収された作品はそれぞれ個性的で、それを<エクリプス・フェイズ>の仕組みが支えているのである。かつて飢饉や政治的困難、あるいは宗教的迫害を受けた人々は、もう戻れないことを理解した上で故郷を離れて、見知らぬ場所でその生を全うした。<エクリプス・フェイズ>ではその状況を太陽系の隅々にまで広げている。翻って現代はどうか。意識が瞬時に伝達されないが、意志は容易に全世界に伝わる。地球上のほとんどの場所にも一日程度で戻ることが可能だ。万巻の書を紐解いて突き止めていた真実も、検索で数秒と掛からず目の前へ現れる。少し前には空想の事物でしかなかった利便性を、何のためらいもなく私たちは享受している。もしかすると<エクリプス・フェイズ>は意外と近くにあるのかもしれない。
 人のアンデンティティが記憶にあるとするならば、その曖昧な存在を保持するのは脆弱な身体だが、それは何気ないトラブルであっけなく消滅する。しかし<エクリプス・フェイズ>で暮らす人々の記憶は、魂(エゴ)としてほぼ永遠に存在し得る。そしてその乗り物、受け皿である義体と呼ばれる身体を何度も再着装できる。人はかくて次の次元に進んだのだろう。では人間の懐かしくも悲しく、かつ危うい属性が払拭されたこの世界で、はたして人は人としてあり続けるのか。そんな疑問を呈するのならば、ぜひ本書をお読みいただきたい。現代と同じように困難に果敢に挑み、人生の悩みに直面し、そして喜びに満たされる私たちと同じ人々の姿が見つかるはずだから。

●アンソロジーの広がり

 これまで紹介した書き手のほか、本書にはマデリン・アシュビー、カリン・ロワチー、アンドリュー・ペン・ロマイン、図子慧、石神茉莉、伏見健二、片理誠、陰山琢磨、吉川良太郎、岡和田晃・齋藤路恵と内外15名の作家が名を連ねている。
 そして <エクリプス・フェイズ>の世界は、この本だけでは完結しない。本SFPWのサイトには、<エクリプス・フェイズ>の世界を描いた伊野隆之、待兼音二郎、朱鷺田祐介、蔵原大、浦浜圭一郎、片理誠、齋藤路恵、山口優、小春香子、伏見健二、渡邊利道、仲知喜、岡和田晃による他の作品が多数掲載させていて、SFPWではそのすべてを無料で読むことができる。
 近年、別ジャンルや既存の作品の設定を用いて、新たな物語を作り上げていく作品集が見受けられる。例えば弐瓶勉原作のコミック『BLAME!』を九岡望、小川一水ら5人の作家が読み替えた『BLAME! THE ANTHOLOGY』、あるいは円谷プロのウルトラシリーズに影響を受けた作家たちの、『TSUBURAYA×HAYAKAWA UNIVERSE』がその類といえる。
 本書はアンソロジーという意味でそれらと共通するが、独自の広がりをも有している。それは「元ネタ」のゲームというメディアが、プレイヤーの参加によって初めて構築される世界であるがゆえに獲得される自由さの所以だろう。本作を通じ、ロールプレイングゲームというアプローチからのSFの可能性を垣間見、シェアード・ワールドやアンソロジーの面白さを再発見した思いだ。

●書誌情報

ケン・リュウ他「再着装(リスリーヴ)の記憶――〈エクリプス・フェイズ〉アンソロジー」
編:岡和田 晃
発行:アトリエサード/発売:書苑新社
カバーオブジェ:山下昇平
ISBN:978-4-88375-450-2
四六判・カヴァー装・384頁・税別2700円
http://athird.cart.fc2.com/ca9/329/