「行き場のない言葉『レゴリス/北緯四十三度(林美脉子)』書評」川嶋侑希

 白銀の詩集が届いた。表紙も、帯も、栞も、雪に包まれている。どこからか冬の鋭く、澄んだ風が吹いて来るような静寂の装丁。少し冷えた指先で本を開くとわかる。肌を刺すようなこの風は、暴力的な歴史に対して放たれる、読者には抗うこともできないほど強い冷気そのものだ。
 著者・林美脉子氏は北海道札幌市の詩人だ。林氏の祖父は屯田兵として北海道へと移住していたため、あとがきでは自らを「屯田三世」であり、「加害者の末裔」であると語っている。アイヌ民族の歴史を辿ると、松前藩による政治経済的な支配、明治政府主導で行われた屯田兵による開拓や同化政策、今なお続く差別といった過酷な歴史が見えてくる。直接的な加害者ではなくとも、そういったルーツを持つことには、複雑な思いを抱かざるを得ないだろう。本書ではアイヌ民族の被虐の歴史に対する憤りが随所でうたわれるが、それだけには留まらない。アイヌの人々と同じように軽視され、差別され、散らされた無数の命に祈りを捧げるように、この冷たい風は遠く、海をも越えて吹き渡ってゆく。自らを「加害者の末裔」としながら、一方で女性であるということだけで抑圧されてきた、被害者であるという面を合わせ持つ林氏が、加害と被害の両面から世界の差別や暴力に訴える。
 詩集全体の凍てついたイメージは、北海道の自然や生活を通して感じ取れる冬の情景だけではなく、一貫して描かれる非情な暴力への圧倒的憎悪から来るものだろう。しかし、不思議なことに、文字を追うほどに冷気は次第に感じにくくなってくる。なぜなら読者はどうあがいても、冷気の中で燃え続ける慟哭の如き炎に触れてしまうからだ。『対岸のダー』では河の向こうに見える女性たちの姿を、「わたし」に背負われた「サニ」と共に見つめる。死や痛みが当たり前に側にある彼女らの恐怖。それらが歴史に残らない理不尽さが痛ましく描かれている。どうしていつ何処にでも救われないものが存在するのか。正しさを強いる暴力は何のために振るわれる正義か。黙殺された声たちにどうして我々は目を向けないのか……。その憤りの炎に気づき始めた読み手はじわじわと全身に血を巡らせ、燃え盛る冷気の核から目を離せなくなってゆくのである。
 誰にも語られず、行くあてのない言葉がこの世には無数に存在する。言葉は朽ちてしまうものだ。発したり、書き留めたりしない限り、その鮮度は失われて色を失くし、正確なあの時の気持ち、なんてものは誰にも語ることができなくなる。語られなかった言葉は、狭い身体に押し込められて身体と共に朽ちてしまう。だが詩人は、時に息をするように、時に渾身の一作として、他の何でもなく詩になるよりなかった言葉を紡ぎ出し残そうとする。『函・吐くⅡ』は、命と言葉を奪われたあらゆる暴力の被害者たちの存在そのものを、強く知らしめる作品だ。大量のヒトの屍が〈液晶函〉からこぼれ落ち押し寄せてくる。たった一部屋で起きるその恐怖の出来事が、今まさにその身に起きている事であるかのように描写されてゆく。どんどん部屋を満たしてゆく屍。同じく溢れる酷薄な世界への恐怖、不安、飲まれてゆく無力感。すべての屍たちも感じていたであろうそのおぞましさが感覚的に描かれ、読者の中に蘇る。詩は自分の中にある感情や感覚をリアルに想起させられる記録方法だ。だが本書では、その特殊な記録が自分のためだけではなく、作品に映し出される者へ向けて用いられている。だからこそ、他者への優しさも、まっすぐな憎悪も、痛いほど感じ取れる。誰の言葉を拾い上げ、誰のためにうたうのか。そして、誰が加害者で、誰が被害者なのか。そういった詩の中に在る人々の関係性を常に想像しながら読むことができるだろう。独善的な詩ばかり書く私には、まだまだたどり着くには遠い書き方である。林氏には、消えかけた誰かの言葉に生命力と居場所を再び与える不思議な力があるのだ。
 これから、また〈日本〉に冬が来る。北の大地は一番早くに凍てつき、雪や氷が全てを覆い尽くすのだろう。北方より冷たい風が吹く時、私はこの詩集を思い出すことにする。語られない歴史の存在を忘れないためにも。自分の生き方を省みるきっかけとしても。永遠に来ないかもしれない歴史の雪解けを強く願いながら。
http://www.shichosha.co.jp/newrelease/item_2743.html