<春の季語>
【啓蟄(けいちつ)】
ああもうなんで起こしてくれないのよ。
だってとてもよく寝ていたから。
すっかり遅刻したじゃない。
だいじょうぶいまは寒の戻りだから。
【花冷え(はなびえ)】
小学校の卒業式の朝、急激に気温が下がり、桜の花が全て凍り付いた。
同級生も、先生たちも、お父さんやお母さんも、らいひんのお客さまも、送り出してくれる下級生もみんな、氷のように動かなかった。
校長先生だけがひとり、いつまでもはなむけの言葉をしゃべり続けていた。
ずっと昔の卒業アルバムを開くと、そんなことが懐かしく思い出される。
【山笑ふ(やまわらう)】
ばかこくでねえ、山が笑うなんてあろうはずがねえだ。
じっさま本当のことだ、確かに大口あけてわっはわっはと笑うとったんだ。
ならばなにが可笑しくてそんなに笑うんだと聞いてみたろうな。
さあそれが、身の程知らずの人間どもの行く末を思うと、笑わずにはおられんのだとさ。
【穀雨(こくう)】
このころ降る雨は魔法のエキスを含んでいる。
濡れたままでいると頭や身体からさまざまな植物の芽が吹いてくる。
花が咲くまで育てると綺麗ではあるけれど。
気をつけないと栄養を取られて死んでしまうからね。
<夏の季語>
【苺(いちご)】
あのこのまっ白なシャツに赤い汁がついていた子どものころ。
二人で競って苺を食べたっけ。
大人になったあのこの白いブラウスに滲み出す赤い色。
思い出に浸るぼくの手には血に染まったナイフ。
【浴衣(ゆかた)】
夏祭りの夜、女子たちはみんな浴衣を着て男物の角帯を結んで神社に赴く。
男子どもは女物の帯で、もちろんこちらも浴衣掛け。
お互いに自分に合いそうな帯を見つけたら物陰でこっそりと。
交換するのは帯だけなんだけどそれもまたほのかな夏の思い出。
【麦稈帽(むぎわらぼう)】
ひまわり畑の中を麦稈帽が二つ遠ざかっていく。
きみだけのために麦稈を編んだのに、もう一つ欲しいときみは言ったね。
汗で滲み込む毒をたっぷり塗って、仰せのとおり二つプレゼントしたんだよ。
畑の途中で動かなくなった二つの麦稈帽を、ぼくは丘の上から一人で眺めている。
【誘蛾燈(ゆうがとう)】
田圃の横で、誘蛾灯に集まる虫から体液を採集している男を見つけた。
そっと近寄って後ろから捕虫網を男にかぶせると、思った通り昆虫に化身しかけた人間だった。
背中から太い釘を打ち込んで、棺桶型の標本箱に保管する。
新種の吸血鬼に違いないので、命名権を得たのがとても嬉しい。
<秋の季語>
【颱風(たいふう)】
閉じた雨戸を夜半の嵐が激しく叩く。
風の音だよと父さんが言う。
翌朝は台風一過の晴れ渡った空。
雨戸には座布団ほどもあるいくつもの手形。
【濁り酒(にごりざけ)】
秋になるとこんこんとどぶろくの湧くどぶが家の裏にあった。
近所の男ども女どもは毎晩酔いつぶれて、どぶ沿いの小径の上にごろごろ横たわっていた。
酒の味を知らない子供らは、意識のない大人たちの持ち物を奪っては金に換え、小遣い稼ぎにいそしんだ。
子供のころの懐かしい思い出なのだが、誰に話しても信じてくれないので、このごろでは記憶の捏造じゃないかと疑い始めている。
【夜寒(よさむ)】
おおっ、夜になるとずいぶん冷えるじゃねえか。
いらっしゃい、一本いかがですか。
夏ならともかくこんな秋の終わりの夜にアイスキャンデーなんて売れるのかい。
そろそろ店じまいしたいんですけど、なにせ地縛霊なんでそうもいかないんでさあ。
【曼珠沙華(まんじゅしゃげ)】
曼珠沙華のことを彼岸花というのは、よく墓地のそばに生えているから。
普段は気味悪がって食べる者はいないけれど、飢饉のときなど非常食になるんだ。
土中の部分は澱粉が多いので、掘り返して水晒し処理をして毒抜きをするといい。
違う違う、食べるのは死体じゃなくて球根のほうだよ。
<冬の季語>
【蜜柑(みかん)】
炬燵に入って蜜柑を食べようと皮を剥くと、中身が丸まった芋虫だった。
裸にされて寒いのか、芋虫はもそもそと滑り降りて炬燵布団に潜り込んだ。
?いた蜜柑の七つが芋虫で、二つは腐っていて、十個目でやっと正しい中身が出てきた。
そいつを食べながらテレビを見ているが、炬燵の中で芋虫たちがもぞもぞと動くので画面に集中できない。
【去年今年(こぞことし)】
お待たせしました到着ですと、タクシーが止まる。
本当にここがそうなの? と私は問い返す。
間違いなくここが新しい年ですから、もう去年のことは忘れなさいと、運転手さんの言葉はどこまでも優しい。
たったワンメーターのお金を払って降り立つと、タクシーはもと来た道を去年へと帰っていく。
【雪女郎(ゆきじょろう)】
雪深い村の軒先でなにがしかの物を売っている。
これが帯、こちらは襦袢、それは紅、そいつは腰巻。
藁沓(わらぐつ)はねえんだよ、最初から履いていなかったのさ。
風呂に入れたのは騙したわけじゃないんだが。
【鎌鼬(かまいたち)】
ええたしかに道行く人の足や手を鋭く切り裂くことに間違いありません。
でも剃刀なんて使わないし、喉なんか狙うものですか。
そんな昔にロンドンにいたことはなく、そもそも日本から出たこともないのです。
それにからりと晴れた風のある日にしか仕事はしないのです。