動物ファンタジーのススメ② 思緒雄二
(①のあらすじ:動物を主人公にした各種文学のなかで、従来の寓話や児童文学における動物物語の枠にはいらない異質な作品、動物の視座からながめた世界設定の上で展開され、創造される物語がある。たとえばそれを「動物ファンタジー」と呼ぶとするなら、それにあてはまる名作として紹介したいのが、まず『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』である・・・)
作者のリチャード・アダムスは、オックスフォード大学で歴史学を専攻後、農務省に勤めた経歴の持ち主。
農村部において人間と関わるウサギの生態、独自の歴史や神話の創造、この作品には、彼の専門知識がふんだんに活かされており、それが架空の世界へ強力なリアリズムを与えています。
カーネギ賞とガーディアン賞を二つとも受賞した快挙をなし、映画化もされたことが十分に納得できる作品と申せましょう。
危機があり、遍歴の旅の先にようやくたどりついた地で、生存をかけた最後の戦いがくりひろげられる――
児童文学という体裁をとりながら、血みどろで、英雄的な戦いが描かれる――
古代ギリシャの吟遊詩人ホメロスによる『オデュッセウス』、または、JRRトールキンによる現代の神話『指輪物語』のごとく壮大なプロットが、ウサギという小動物をメインに描かれます。
これはもう寓話とか動物物語とかいうカテゴリーに納まらない、英雄叙事的物語と言ってよいでしょう。
というか、同じ英国のトールキンが創造した〝ホビット〟という種族。これは、どうも〝ラビット〟より連想されたらしく、丘に穴を掘って家をつくるという習性も、そこよりきているとか。
英国人の精神世界・文化にとって、ウサギはとても身近な存在ですから、特にめずらしくないのかもしれませんけど、あるいは『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』を書くにあたり、多少なりともリチャード・アダムスさんがトールキンさんを意識していたとしても不思議じゃありません。
この後、リチャード・アダムスさんは『疫病犬と呼ばれて』という作品を書いています。
で、前編①の冒頭定義からすれば、この作品は「動物ファンタジー」とは呼べません。
この作品では、彼の農務省時代における専門知識が活用され、悲惨な実験動物をとりまく環境がリアルに描かれます。でも、そこにある問題提起・告発は、あきらかに時代精神的スローガンの色であり、純粋な異世界的視点の創造、その上での物語展開を第一義とするファンタジーとは異なるカテゴリーへ分類されるのが妥当でしょう。
さて、これほどのスケールではないですが、よく似た日本の作品に、斎藤惇夫さんの手になる『冒険者たち ガンバと15匹の仲間』があります。ミュージカルとして(ここのところ海外人気急上昇で話題にあがることが多いBABYMETALのボーカル)中元すず香さんも小学生の時に参加したり、また劇団四季などにより舞台化もされた動物ファンタジーの人気作で、アニメ化や3Dアニメ化もされています。
が、やはりこの物語も『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』と同じく、最初は書籍にて文章で読んでほしい作品。
(なにもアニメを毛嫌いしているわけではなく、好きなアニメもいっぱいあるのですが・・・本件の場合、原作本のリアルな絵からかけ離れデフォルメされる緑がかったネズミとか出てくると、やはり自分の考える〝現実を超越したリアリズムを追求するからこそのファンタジー〟という分野からは外れてしまうので。それはたとえば、自分が他のコラムで書いている――宮澤賢治童話を視覚化するにあたり、ますむら氏が文書イメージである人間をネコへ変換した〝鏡化〟とは異質な変換なのです。絵から絵という点で。そして以下は、私のもっている旧版のイラスト。旧版の方が、より精緻に動物が描かれています)
この作品もまた、危機(の報せ)があり、困難な遍歴の旅があり、その行く末に壮絶で英雄的な戦いがあります。それぞれの登場キャラクターが有効に個性化され、役割分担(ロールプレイ)してるのも『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』とそっくり。しかも出版された年まで1972年で同じという奇縁があり、英国と日本という異なる国どうしに潜在した時代的ナニカがあったのかもと憶測したくなるほどです。
まあ、ホメロスの古代からある冒険ストーリーの黄金律なので、それは考えすぎですけれど、アダムスさんも斎藤さんも、動物を叙事的物語の担い手として中心にすえたという点では、それまでの動物物語的な範疇におさまりきらない、めずらしいものだったのではないでしょうか。
さて、実をいえば『冒険者たち ガンバと15匹の仲間』や、その前作となる『グリックの冒険』には、60年安保闘争に関わった著者自身の体験が影響している、と、斎藤さん自身が講演で語っています。
そういうことを聞いてしまうと、とたんにある種の政治的な思想臭で、香ばしく感じられる向きもおられるかもしれません。
「おいおい、あの強大なイタチ軍団は公権力の象徴、機動隊とかで、狭い穴の中で死闘をくりひろげるのは、さしずめバリケードを築いた東大安田講堂にて闘争する学生集団、ヒロインの潮路は国会突入時に亡くなった悲劇の東大生」・・・みたいな。
けれども、ここで、このコラム前編①の冒頭をおもいだしてほしいのです。
物語をすすめる主要なキャラを動物に設定し、世界もその動物たちから見たもののよう描く――そういう文学におけるメリットとは、なんでしょうか。
ひとつにそれは、よけいな尾ヒレがはぶかれ、本質だけがのこりやすいことにあるとおもいます。物語のうしろにチラッチラッと見えかくれする作者や時代といったもの、それらが薄れやすいなどといった類。
難しく言えば「テーマの普遍性が浮き出しやすい効果がある」ということでしょう。
自分には〝作品と作者は分けて考えるべき〟だという大原則があります。
構造主義的分析というのを大学で学ばされた影響もあるかもしれません。
ただそれ以前に、作品とは作者がうみだす子供みたいなもので、世に出たその後の他者との関わり方、それは独自な生命であり、かかるふるまいにおいては、それ自体、そのものとしてみていくべきという考えがありました。
小学校の3年だか4年、学校の図書館で『冒険者たち』を見つけ読んだ時、そこに、ある種の〝香ばしさ〟を感じた記憶は、まったくありませんでした。同時期に読んだCSルイスのナルニア国シリーズには、ほのかにキリスト教的な宗教の臭いを感じ、いまひとつ好きになれなかったのに、『冒険者たち』から感じたものは、ただ壮大な冒険譚という感想と感動、それだけ。
もちろん、そこに定番の「どんな個性でも大事で、だから仲間が大事で、そして、それらを大事にし続ける勇気が最も大事」とかを付けくわえてもよいのですが、そんなもんは「壮大な冒険譚」にすべて含まれてて、いちいちしたり顔で抽象するようなものじゃない――わたしは学校の感想文という課題に対し、いつからか、そんな違和感をもつようになっていました(たぶん前思春期で生意気盛りのころ)
〝ナルニア〟と〝冒険者たち〟の読後における相違をうみだしたもの、それは物語世界の設定、つくりかた、作品へ向かう作者の姿勢が影響していたのでしょう。そして『冒険者たち』が、従来の寓話でもなく動物物語でもなく、まず〝動物ファンタジー〟よりの文学として成立していたから・・・そう思えてなりません。
自分の経験にそってに物語を書くこと、対して、経験してきた自分が(それを受けとめ、ただ)物語世界を顕(あらわ)すこと――
この前者と後者は、普遍性の高い、より抽象された世界を顕せるかという点で、大きな差異があります。
そうして『冒険者たち ガンバと15匹の仲間』は、『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』みたいな、奇跡の〝動物ファンタジー〟として結実したのかもしれません。
ところで『冒険者たち ガンバと15匹の仲間』の後、作者は『ガンバとカワウソの冒険』という作品を上梓します。
『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』のリチャード・アダムスさんが、その後に書いた『疫病犬と呼ばれて』と同じく、この絶滅危惧種によせた『ガンバとカワウソの冒険』も、わたしは〝動物ファンタジー〟とは別のカテゴリーだと考えています。
世界をあらわそうとするとき、人には欲がうまれます。
なにかを訴えたくなってしまうのです。
そこに冷却期間をおき、一歩引いて普遍的な世界をあらわせるか――
これは、とても困難でむずかしいこと。
時に、自分との、辛く、永い戦いになりましょう。
けれど、おそらく、そうしないとあらわれないもの――
それがトールキンのいう「準世界」なのかもしれません。
(初出:シミルボン「思緒雄二」ページ2016年1月9日号)
採録:川嶋侑希・岡和田晃