<登場人物紹介>
- 織笠静弦(おりかさ・しづる):物理学を学ぶ大学院生。二年飛び級をして入学しているため二〇歳。ひょんなことから、平行世界からやってきた「機械奴隷」であるアリアの主人となり、平行世界と「機械奴隷」を巡る暗闘に巻き込まれていく。戦いを通じてアリアと主人と奴隷を超えた絆を結ぶ。
- アリア・セルヴァ・カウサリウス:ローマ帝国が滅びず発展し続けた平行世界からやってきた「機械奴隷」。アリウス氏族カウサリウス家の領地(宇宙コロニー)で製造されたためこの名となっている。余剰次元ブラックホール知性が本体だが、人間とのインターフェースとして通常時空に有機的な肉体を持つ。「弱い相互作用」を主体とした力を行使する。行使可能なエネルギー(=質量)のレベルは微惑星クラス。「道化」の役割を与えられて製造されており、主人をからかうことも多い。
- 御津見絢(みつみ・けん):織笠静弦の友人。言語学専攻。静弦に想いを寄せているようだが、研究に没頭していたい静弦にその気はない。おとなしい性格だが、客観的に静弦のことをよく見ている。いつしか静弦の戦いに巻き込まれていく。
- 結柵章吾(ゆうき・しょうご):織笠静弦の大学の准教授。少壮で有能な物理学者。平行世界とそこからやってくる「機械奴隷」に対応する物理学者・政治家・軍による秘密の組織「マルチヴァース・ディフェンス・コミッティ(MDC)」の一員。静弦にアリアを差し出すよう要求し、拒否すれば靜弦を排除することもいとわない非情な一面も見せる。かつて静弦と深い仲であったことがある。
- リヴィウス・セルヴス・ブロンテ:結柵に仕える「機械奴隷」。電磁相互作用を主体とした力を行使する。エネルギーは小惑星クラス。
- ヴァレリア・セルヴァ・フォルティス:結柵に仕えていたが、後に絢に仕える「機械奴隷」。強い相互作用を主体とした力を行使する。エネルギーは小惑星クラス。
- アレクサンドル(アレックス)・コロリョフ:結柵の研究仲間の教授。静弦が留学を目指す米国のMAPL(数理物理研究所)という研究機関に属している。
- ユリア・セルヴァ・アグリッパ:主人不明の「機械奴隷」。重力相互作用を主体とした力を行使する。エネルギーは惑星クラス。
- 亜鞠戸量波(あまりと・かずは):静弦の同級生。二二歳。「サーヴァント・ガール2」から登場。
<「サーヴァント・ガール」のあらすじ>
岐阜県の「上丘(ルビ:かみおか)鉱山」に所在するダークマター観測装置の当直をしていた大学院生の織笠静弦は、観測装置から人為的なものに見える奇妙な反応を受信した。それがダークマターを媒体としてメッセージを送信できる高度な文明の所産だとすれば、観測装置の変化を通じてこちらの反応を検知できるはずだと判断した彼女は「返信」を実行する。次の瞬間、目の前にアリアと名乗る少女が出現する。アリアは静弦が自分の主人になったと主張し、また、主人となった人間には原理的に反抗できないことも説明され、静弦は渋々アリアと主従の関係を結ぶ。
しかし、現代文明を遙かに超える力を持つ機械奴隷を静弦が保有したことは、新たな争いの火種となった。実は、アリアと同種の機械奴隷はアリアよりも前からこの宇宙に流れ着いており、それを管理する秘密組織が存在していた。観測装置の実務責任者である結柵章吾もそのメンバーであり、彼は静弦がアリアを得たことを察知、自らの「機械奴隷」であるヴァレリア、リヴィウスを使って攻撃を仕掛け、アリアを手放すよう要求する。静弦は、自分を必死に守るアリアの姿を見て、アリアを手放さないと決意、辛くも結柵との戦いに勝利する。
勝利後の会談で結柵にもアリアの保有を認められ、しばし穏やかな時が流れるが、静弦は自分が研究中の理論を、遙かに進んだ科学を知るアリアに否定されけんか別れする。その隙を突き、主人不明の「機械奴隷」ユリアに攻撃されるアリアと静弦。危機を察知した結柵がヴァレリアを、静弦の友人・御津見絢に仕えさせ、二人に救援に向かわせたこともあって、ユリアの撃退に成功する。戦いを通じ、静弦とアリアは主従を超えた絆を結ぶ。戦いの後、これ以上の攻撃を撃退する目的から、静弦とアリアは、絢・ヴァレリアとともに留学生寮に住むことになる。
第一章第二話「アリアの失踪②」
どこかで飲み直そう、ということになった。学生館の一階にあるコンビニでしこたま酒類とおつまみを買いあさり、静弦は量波の一人部屋を訪うことになった。
途中、何人かの留学生が二人に声をかけてきたが、適当にあしらって量波の部屋へ急ぐ。
あしらうときの量波の会話は慣れたものだった。例えばこんな感じだ。
『ヘイ、カズハ。これから飲むの? オレとどう?』
『遠慮するわ。それよりもジェフ、来週のレポートはどうなってるのかしら?』
『そのことは今日は忘れたいんだけど』
『あなたがレポートを忘れても、レポートはあなたを忘れないわ。――ほら、とっとと帰ったほうがいいわよ』
『――ちぇ、先生みたいだな』
『それはありがとう。いずれにせよ、こういうときレポートをやる真面目なやつの方が好かれると思うわ。一般的に。だって将来性あるでしょ、真面目な方が』
『ほんとに? 君にも?』
『さあ? 私は変わったやつだから、一般論はあてはまらないわ。じゃ』
にっこり笑って足早に通り過ぎていく。
「……すごいね」
声をかけた留学生が遠くに離れてから、静弦は量波に言った。
「何が?」
「いや……慣れたものだなと思って」
「英語なら君も得意じゃないか」
「問題は英語じゃなくてコミュニケーション能力だと思うけど」
「うーん……別に大したことじゃない。あんな会話はただのテクニックであって、私の本質とも違う……。ポイントは、その場しのぎで『また今度』とか言わないことだね。彼とは飲む気がないんだから、『また今度』なんて言ったら嘘になってしまう。男女の仲になるつもりはないけど人間としては相手を尊重している姿勢を示すこと。嘘をつかないこともそうだけど、ほら、さっきみたいにレポートのことを言ったりしてね。彼――ジェフ・マーティンソンにとってはレポートは大切なことなんだから、それに言及してあげる。それは、彼にとって大切なことは何か、私がある程度把握しているということ、換言すれば私が彼を人間としては尊重しているということを意味する。交際相手としてはスルーの対象だとしてもね。そうすれば変に関係をこじらせることはないと思う」
そこで量波は言葉を切った。続ける。
「蛾やまるむし扱いするのは、相手がクズな態度を取った後だからね。それまでは人として尊重しないと。さっきの彼みたいに、普通に飲みに誘ってくるやつに対して適当にあしらって人間として尊重しない態度を取っていたら、こっちも適当に扱われる。簡単にひっかける対象として扱われる。お互い様」
「難しいのね」
静弦の正直な感想だった。
「うん、難しいよ」
しんみりと、量波は言った。静弦相手には気さくでいつも機嫌が良い彼女にしては沈んだ声だったので、静弦はそれ以上何も聞けなくなる。
二人は量波の部屋の前に到着していた。
「さ、どうぞ、入って。何にもないところだけど」
彼女に促され、静弦は足を踏み入れた。靴を脱いでいる間に量波が後ろから入ってきて、照明のスイッチを入れる。
「へえ……いい部屋ね」
思わず口を突いて、そんな言葉が出る。
一人部屋のレイアウトは二人部屋とはかなり違う。若干一人部屋の方が狭いことは狭いが、二段ベッドの自分達の部屋とは違い、ベッドは一つだし、机も広く、パソコンもデスクトップの立派なものが置いてあった。
壁際には大きなオーディオ機器、そして観葉植物まである。全体的に黒とブラウンを基調にした落ち着きのある雰囲気だった。
「さ、こちらへどうぞ」
黒いソファへ促される。
「あ、ありがと……」
客を招くのは手慣れているようだった。そういえば量波の私生活についてはあまり聞いたことがない。誰かとつきあっている……という話は聞いていないし、そういう雰囲気でもないが、この客を招き慣れた雰囲気はなんだろう、とふと疑問に思う。
「――その、量波にはつきあっている人はいるの?」
ストレートにそう尋ねてから、後悔した。他人との距離感が分からないのは、静弦の最大の欠点の一つだった。だから普段は人付き合いを避けているのだが、今は一緒にバーで飲んだ気安さか、アルコールも手伝ってか、ついプライバシーに踏み込みすぎたことを尋ねてしまった。
量波は、だが、静弦の質問にも動じることなく、寧ろ嬉しそうに微笑む。
「おや、そんな質問が出るというのは、悪くない兆候だね」
腰に手を当てて、静弦をじっと見つめる。
「……彼氏はいないよ」
それからウィンクする。
「ついでに言えば、彼女もいない。ステディな子はね」
ソファの前にはテーブルがあった。そのテーブルを挟んで、パソコンデスクに付随したチェアに量波は座り、静弦と向き合う格好になる。
「それって……」
「私はどっちも好きなんだよ。男子でも女子でも。でも最近はあまり男子とはつきあってないかな」
楽しそうに笑って、静弦を見た。
「そ、そうなんだ……」
少しばかり驚いた。
自分自身は美少女ゲームを嗜んでいたりアリアと仲良くなったりしていたが、それは少数派だと思っていた。
だが近頃はみんなそうなのだろうか。
――そして、ここに私を連れ込んだのも、もしかして……?
静弦は上目遣いに量波を見る。
その視線の意図に気付いて、量波は大笑いした。
「あっはっは! 君が何を考えてるのか分かったよ。まあそんなに緊張しなさんな。例のイタリア美少女なんでしょ、君が……静弦が好きなのは」
そう話題を差し向けられ、静弦はふう、と息をついた。
「まあ……隠してもしょうがないか。ええ、そのとおりよ。でも好きって感情はよく分からない。恋人というよりも私の感覚ではペットに近いかな。あの子、ネコって感じがするの。かわいいのは確かだけど」
アルコールも手伝ってか、珍しく静弦の口は軽かった。
「じゃあ置いてきていいの? 嫉妬するかもしれないよ?」
「大丈夫よ……あの子は言ってたもの、『多くの恋人がいる方が、人望があっていい』とか、恋人は一人きりっていうような『味気ない人生観は持ち合わせていない』とかって。ちょっと普通とは感覚のズレた子なの」
今度は量波が爆笑した。
「そりゃ……変わった子だね。でも私には無理してるように聞こえるなー。君の言い方を聞いてると、どうも君を独占したそうなんだよね……。そうでもない?」
静弦は戸惑った。
「さあ……分からない。不思議な子なの」
「彼女か親友か……まあ女同士なら区別つかないこともあるけど」
「量波はどうなの? 区別付けてるの?」
「つけてるよ。ヤーキース・ドットソンのカーブって知ってる? 人間への精神的刺激と知的生産性の関係をグラフ化したもので、人は刺激が少なすぎても多すぎてもダメってやつ。私にとって『彼女』は刺激を減らしてリラックスするためのリソースで、『親友』は刺激を増やすためのリソース。二つのリソースを上手に使い分けて生産性を最大化するのが私のメンタル管理法。尤も、私は『生産性』というような、近代資本主義経済が生み出した味気ない概念は嫌いだけどね。私にとって最高の愉しみである知的な活動をスムーズに進めること――というぐらいのことだね」
「何よそれ。親友も彼女もあなたにとっては知的活動を管理するためのリソースにすぎないの?」
「一方的にそうしてるってわけでもないさ。誰かにとって、私がそう扱われるのも勿論ウェルカムだし、そうやって互いに高め合っていければいい」
「でも、二人必要なのよね」
量波は微笑む。
「そうそう。それは譲れない。そこは静弦のイタリア人の美少女と同じ意見さ。パートナーは一人でなければならないっていう古くさい伝統は、この事実を無視してるんだからね……。でも、伝統主義者も完全に間違いってわけじゃない。親友と彼女を兼ねる存在だって有り得るんだよ」
少し間を置く。そして量波は言う。
「たとえば、君とか、さ」
静弦は首を傾げた。それから目をぱっちりと開く。
「――もしかして、私、誘われてる?」
再びストレートな質問。
「……今ので分かったよ。答えはノーだって。ごめんね」
量波はふう、と大きなため息をついた。
「でも友達は続けて欲しいな? いい?」
「ええ……もちろん……」
事態の展開についていけなかった。いつの間にか告白されて振ったことになっているらしい。
「あーあ、緊張した。もう少しうまく行くかと思ったんだけど、ダメだったね」
言って、如才なく笑う。
「それにしても……君は鈍いなあ……バーの時から、君と深い仲になりたいとか、散々言ってたじゃんか」
「……気付かなかった。でもなんか、ありがと」
何を言っていいのか、全く分からなかった。極度に混乱していたが、同時に多少嬉しい気持ちもあった。静弦は、物理を含む知的領域に関しては多少自負心はあるが、それ以外の分野では全くない。「それ以外」というのはぼんやりした観念だが、概ね、人間関係や性愛に関する領域を指している。結柵との経験が彼女の自負心に悪影響を与えており、結局のところ自分には価値がないのだという諦念が深く彼女の胸にはたゆたっていた。
「あの……こういうことを聞いていいのかどうか分からないんだけど、なぜ?」
「ええ? 今まで散々君の素晴らしさをたたえてきたつもりなんだけど? また聞くかなあ……?」
量波はため息をついた。だがそのため息はわざとらしく、静弦に自分の言葉を思い出すように視線で促した。
「……親友と彼女を兼ねるような存在?」
「そうだね」
「ストイック?」
「そのとおり!」
「……見た目?」
「それもある」
「……あるんだ」
静弦は無意識に警戒し、シャツのボタンをひとつ留めた。
「そうかあ」
量波は立ち上がり、キッチンからワイングラスを持ってきた。コンビニで買った赤ワインを注ぐ。慣れた手つきでチーズを黒い菓子皿に乗せた。
「大丈夫大丈夫。変なことはしないさ。親友と彼女の両方が無理でも、親友にはなってもらいたいと思ってるだけ」
「いや、警戒してるわけでもないんだけど……」
静弦は言ったが、量波の意図を図りかねているのは確かだった。告白して失敗したら、そのままお開きになるのかと思っていたが、量波は当初の予定通り二人で飲むことにしているようだ。本当に「彼女はダメでも親友にはなってほしい」ということなのかもしれない。その場合、「彼女」という役割は別の誰かにになってもらうことにするのだろうか。
「でも少し緊張してる? 大丈夫さ、ほら、何にも危ないものは持ってないよ」
量波はジャケットを脱ぎ、下に来ていた黒いTシャツだけの姿になって、両手をあげて見せた。
「私が持ってるものと言えば、この中にあるモノだけ」
そう言って自分の胸をつつく。趣味の問題かもしれないが、頭ではなく胸に自分の精神があるという彼女の観念は、一周回って興味深い。
「この胸にあるのは、この世の全てを理解したいという好奇心と、この世を楽しく生きたいという気持ち、それだけ。あとは……そうだな、卒論がうまくいくかという、心配する気持ち。もう書いたけど、正直、かなり心配なんだよねー。勅使ヶ原(てしがはら)先生、厳しいからなー」
物理学科の勅使ヶ原悠奈(てしがはら・ゆうな)准教授は、AIによる理論研究をテーマにしている。宇宙背景輻射や高エネルギー実験で得られた膨大なデータの分析にAIを用い、人類を超える知見を得ようという試みだ。ただ、そのためには物理のみならずAIやプログラミングの知識も必須であり、両方について深い知識を得ない限りまともな研究はできない。
「でも、自信はあるんでしょう?」
静弦はいつの間にか量波の話に引き込まれていた。
「研究ができる――ということが私の自負心の源泉だからね。多少の自信はある。だけど勅使ヶ原先生の期待値は高いんだよなー。『これぐらいなら充分だろう』という私の結果にも、『まだまだ』と言ってくる。基準が自分なんだよ、あの人。自分でできることは学生もやればできると思い込んでる。でもあの人の研究室、女子が多いのは利点なんだよね。他大学からもいろんな人が大学院生として来るけど、女子の比率が高い。多分先生も女性だからなのかもね」
「一見優しそうに見えるのは確かね。『実は厳しい』って噂も聞くけど」
勅使ヶ原悠奈は、年齢は結柵と同程度だが、童顔で小柄だ。指導において、本人は厳しいつもりのようだが、フィジカルな威圧感が全くないので、多少厳しいことを言っても学生は気にせずついてきてくれる――という点では、実は指導教員としては得をしているのかもしれない。意図せずに威圧感を与え、そのせいで学生がメンタルで追い詰められるのは、教員にとっては全く損なことなのは確かだろう。
「雀居先生は中身も優しいからねー。その点、雀居先生の学生は恵まれてるよ」
「でも、『優しい』といっても、期待値を下げてるだけなんだと思う。期待しすぎないというのも、寂しいことかもしれない」
静弦はそっとワインを飲んだ。そこまで高いワインではないはずだが、意外においしい。量波は、「コスパを考えるなら今は南米産がいいんだよ」と言っていた。量波の知識は膨大で、専門の物理とAIは勿論、政治経済文化その他あらゆることに一定の知識を持つ。静弦にもその傾向はあるが、量波と話していると知識量に圧倒される。それは心地よい経験だった。一緒にいて、話していて楽しい、静弦はそういう意味では彼女が好きなのだろうと思っている。外見的なところで注目されてしまい、嫌な思いをすることについても共感してくれるし、とにかく彼女にはネガティブなことは何も感じない。
――もしもアリアの前に量波に出会っていたら。
と、静弦はふと考える。
――私は彼女のことを好きになっていたのかも。
そんなことを思いながら量波を見る。意味ありげにじっと見つめ返されたので、思わず視線を下にそらすと、自然に胸の、Tシャツのロゴのあたりに目が行く。
黒いTシャツには、青い地球を背景に、米航空宇宙局のロゴの様なものが入っていたが、よく見るとそのアルファベットは、「NERD」になっていた。Nだけが共通だが、意味は完全に異なる。思わずくすりと笑う。
「何そのTシャツ?」
「ん?何かの拍子にもらったんだよ。私は物理とAIの両方に知己が多いけれど、こういうおふざけはAI方面の知己の方が好きでね。いいでしょ?」
そういって胸をずい、と突き出してみせる。
「うん、面白いけど……」
「それとも中身に興味がある?」
量波は身を乗り出してきた。
「いいんだよ、別に。女の子だって、身体に興味があるのは不思議なことじゃない」
しかし、静弦は身を引いた。
「……別に……そこまでは」
「……まあ、それならそれで別にいい」
量波はいつの間にか静弦の手を取っていた。
「静弦……私は君を否定したり怒ったりすることは絶対にない。たとえ私たちが敵同士になってしまったとしても、私は君が大好きだし君のことを肯定し続ける。君が何をやっても、何を言っても、だ……。勿論、二人の間のことは二人だけの秘密だよ。だから、否定されることを怖がらなくていい……静弦の興味、好奇心、欲望……全部見せて欲しいんだ」
静弦は戸惑う。そして、戸惑いの感情よりも大きな、安堵の感情を覚えていることを自覚した。
――……そんなこと、アリア以外、誰も言ってくれなかった……。
彼女は早くに両親を亡くし、本音を語る相手をその時に失った。義両親は表面的には優しかったが、他人行儀で、本音では他人である静弦を養育するのをそれほど望んでいなかった。学校でも静弦は孤立しがちで、成績は良かったが、優しくされるどころか嫉妬混じりの感情を向けられ、いじめられたりした。大学に入ってからも、結柵章吾というテニスサークルのOBとデート等をしていたが、彼には婚約者がいて、静弦のことは、本気ではなかったと後で判明し、人間関係がすっかり嫌になっていた。
そんなとき、静弦の目の前に現れたのがアリアであった。並行世界からやってきた超高度な科学文明の産物であるアリアは、設計された人間への従属本能のままにひょんなことから静弦に従属し、その存在を全肯定してくれた。
しかし、後に静弦への感情が人間への本能的な従属心を越えたものであることを自覚し、同時に静弦もアリアを好いていることを自覚し――二人は互いへの絆を確かめあった。
――でも、アリアだって……。
アリアはあくまでも静弦に甘えてくるような立ち位置である。「ネコのようなもの」と静弦は表現したが、静弦にとっては、アリアに対して自分が主人であるという自覚を常に持っていた。だから、そんな上下関係もなく、ただ自分を受け容れてくれるという量波の言葉が、殊更新鮮に思えた。
静弦の手が無意識に先に延びる。量波は微笑み、その動きを促すように、静弦の手を自分の身体の胸の部分に触れさせた。
静弦は相手の身体に触れたまま、熱を帯びたぼうっとした目で、量波を見つめた。量波は何も言わずに立ち上がり、ソファに座る静弦の前に立つ。
「ほら……おいで……全部包み込んであげるから」
静弦の頭を、量波はゆっくりと自分の胸に抱きしめた。
「うん……」
静弦は自分が何故か涙を流しているのを感じた。
おそらく、ワインも手伝っていたのだろう。けれど、それよりも、自分の心の中の襞を、ゆっくりと解きほぐし、全てを柔らかく包み込んでくれる量波のにおいが、彼女に深い深い安堵をもたらしたのかも知れなかった。
量波の家でシャワーを浴び、静弦がアリアの部屋に帰ったのは翌日の朝のことであった。アリアとの連絡は、余剰次元を通じた通信から、スマートフォンのアプリによるメッセージまで、様々な手段が存在するが、昨晩に関しては、静弦は単にアプリのメッセージで連絡するに留めた。余剰次元を通じた通信は、主に非常時に使う、という共通理解が、二人の間にはあったのだ。
「友達の家に泊まるから、帰りは朝になるかも」
とだけ、昨晩、静弦はアリアにメッセージを送っていた。
「はい! 仲良くしてきてくださいね! 翌朝お待ちしておりますわ」
というのがアリアの返信であった。アリア自身、交友関係を積極的に広めるようになった静弦のことを応援してくれていたから、こういうポジティブな返信もその文脈に沿ったものだろう。
しかし、静弦の気は重かった。
昨晩、結局、静弦は量波と一緒にシャワーを浴びることまでした。そのあと、ベッドで二人で寝たが、量波は静弦を抱きしめてくれただけで、特に何かしようとはしなかった。
問題は、静弦とアリアがやっていることも、それと似たようなことまでである、ということである。
アリアには無論、様々な知識があり、静弦も調べようと思えばネットでいくらでも検索できたが、いろいろなことをするよりは、ただ、お互いの絆を確かめ合うためにやりたいことをやっているだけ――といったところだった。
(それはいいんだけど……でも……同じことを量波ともやってしまった……というのは、気が重いな……)
静弦はぼんやりと考える。
量波は全く気にしていないようだった。それは、静弦がアリアのことを、一人のステディに拘る感覚を持っていない、と紹介したこともあるだろうし、本来性愛に関してはとことん自由主義者であるという量波自身の哲学のせいもあるだろう。
(アリアは気にしないだろうか……? 気にするだろうか?)
普段アリアが言っていることをそのまま受け取れば、気にしないはずだ。だが、静弦はどうにも確信が持てないでいた。
それほど気にするならば、量波と何もしなければ良かったのだ――と、後悔する気持ちもあった。
けれど――。
静弦の頭脳が悶々と悩んでいるうちに、静弦の身体はもう静弦とアリアの部屋の前まで来てしまった。もともと同じ東京国際学生館という同じ敷地内のアパートにいたのだ。移動には数分もかからない。
静弦の指は、呼び鈴の前で止まった。静弦の白く細い指先が、真鍮の呼び鈴の前で逡巡する。そのとき、ドアがゆっくりと開いた。
「静弦……様?」
「アリア」
柔らかく淡い色の金髪は優しく卵形の小さな顔を覆う。きりりとした淡い金色の細い眉に、愛らしい、くるっとした大きな紫の双眸。その双眸が、心配そうに静弦を見上げていた。
「……静弦様……? どうされたのです? じっとドアの前に立っていらっしゃって?」
「ううん。何でもない」
アリアは相変わらずの、静弦に借りているセーターにジーンズという格好だった。いかにアリアのスタイルがよくても、身長差があるため、静弦の方が流石に足の長さが長い。ので、ジーンズの裾を折っているのだが、それもアリアのような美しく設計された少女がやっていると、とてもファッション性が高く見える。
静弦は二段ベッドの一段目にごろりと横になった。目を閉じる。静弦とアリアは二段ベッドの割り当てというものをやっておらず、好きな時に好きな方に寝た。たいていの場合、二人は一緒のベッドで寝るので、上はアリア、下は静弦、というように決めるのは無駄なのだ。静弦はそのとき疲れていたので、自然に一段目に寝転がったというわけだった。
「お友達と飲んでいらっしゃったのね? まさか徹夜だったんですの? お肌に悪いですわ?」
「ううん……ちゃんと寝たよ……」
静弦はアリアがいる自分の部屋、という安堵の空間の中で、ほっと息をついた気分だった。量波との濃密な時間もとてもリラックスできた。けれど、やはり自宅はいい。そして、その「自宅」という要素に、アリアが不可欠なことも、改めて自覚していた。
「どういうお友達ですの?」
「大学のね……同じ学部の、女の子。ほら。この前話してたでしょ? 亜鞠戸量波って子」
「ああ、そういえばこの前お話しされてましたね……とても美人だったって」
「ああ、そんなことも言ったかもね。彼女と飲んで、ちょっと泊まらせてもらって、それから帰ってきた。それだけ」
「そうなんですの」
「そうなんだよねー」
そう言ってから、静弦はしばらく、アリアが敢えて黙っていることに気付かなかった。普段なら寡黙がちな静弦が気のない相づちしか打たない時も、どんどん話題を振ってくるのに。
代わりに、小さなアリアの気配を、かたわら感じた。
「ん……アリア?」
いつの間にか、アリアは静弦の隣に潜り込んできていた。静弦のウェストにしがみつくように両腕を回す。
「……昨晩はお楽しみでしたね」
静弦はがばっと身を起こした。アリアは静弦に向き合うように、両手をついて上体だけ起こし、顔を近づける。今にもキスできるぐらいに。
「申し訳ございません。どうしてもあなたのことが気になって、索敵機能を使いましたわ」
アリア・セルヴァ・カウサリウス――この美少女の実体を通常時空に持つ、余剰次元ブラックホール知性は、通常時空の物理法則を自由に操る。特に彼女はレプトンを対象としたウィークボソンが媒介する相互作用の操作に長けており、電子から電子ニュートリノ、あるいはその逆の変換を簡単にやってのける。それによって、ニュートリノと電子のいいとこ取り――数十キロ先まで減損なしで到達し、かつ、電子顕微鏡並みの微細な状況まで観測ができるのだ。
その超常的な能力を、アリアは普段使用しない。彼女には主人としての静弦を護衛する本能的な欲求があるが、静弦とは別のパスを持っており、彼女が危機に陥っていることだけすぐに検知できる仕組みがある。そのため、殊更こうした索敵機能を使用する必要はない。
「……なぜ、嘘をついたのですか? 私はいつも、私以外の誰かとそういう関係になっても、一向に気にしないと申し上げておりましたのに……」
悲しそうな紫の瞳。涙に潤んでいるようにも見える。静弦は申し訳なさと同時に、自分が批難されているような気分にもなり、唇を曲げた。
「――『気にしない』というのが嘘じゃない。なんで索敵機能なんて使ったの?」
「それは……」
アリアが怯んだのを見て、静弦は嵩にかかってしゃべり出した。
「量波とあなたは、そこが違う。多分、量波は私が誰となにをしようと受け容れてくれる。批難するようなことは一切言わない。でもあなたは、口では気にしないと言いながら、私が気に入らないことをすると勝手に私のプライバシーを覗き見て、私を責めるんだね」
「そうでございますか……。では、私はもはやあなた様には必要ございませんか……?」
静弦はしまった、と思った。しかし彼女は自分の怒気を急には制御できず、何も言えないでいる。
アリアは涙に潤んだ瞳で静弦を見つめ――そして、その瞬間に、消失した。淡いぬくもりだけをベッドに残したまま。