ゲームブックゆえ、ホメロスは詠う――バターフィールド&パーカー&ホニグマン〈ギリシャ神話アドベンチャーゲーム三部作〉書評 思緒雄二
(テーマの性質上、どうしてもエンディングについて多少のネタバレを含みます。ご注意ください)
小説にしろ、お芝居のシナリオにしろ、もし「受け手を楽しませてなんぼなんだから、ハッピーエンド以外は評価しない」という人がいたら、たぶんその人は「ずいぶん狭い世界で生きているんだなあ」とか「心の世界に、まだ自分しか住んでない人なのかな」とか、おもわれてしまうかもしれません。
もちろん、個人の趣味として「自分はハッピーエンドの作品が好き」とかいうのは〝アリ〟でしょう。ですけれど、それを、あたかも作品の一般的な評価として主張してしまうこととは、かなりの別問題です。
ネットをはじめ、いわゆる読者の評価と称するもののなかに、個人の趣味を、そのまま作品価値として堂々と主張しているものが目につくようになったのは気のせいでしょうか。
もしゲームブックが、すごろくとおなじ、最後は上がりがあって勝者がいて、勝者というのはハッピーで・・・という単純な古めかしい枠組みにとどまるものならば、結末はハッピーエンドの大団円じゃないとダメとなるのかもしれません。ですが、ゲームブックは、ゲーム的様式を用いてはいるものの、言葉をつかって〝ものがたり〟する表現方法のひとつ。
そのことを強く再認識させてくれるのが、バターフィールド、パーカー、ホニグマンらの手による、このギリシャ神話アドベンチャーゲームシリーズです。
主人公アルテウスの目的は、いくつもの障害、罠、苦難、死を避け、なつかしい故郷へ帰ってくるという一点のみ。
そして主人公の帰り路をサポートするのが、アポロン、アテナ、アフロディテ、ポセイドンなど、ギリシャ神話におけるよく知られた神々のなかの守護神一柱と、最後の助け手になる大神ゼウス。
ただしゼウスの加護をうけるには主人公が旅で得た〝名誉〟が〝恥辱〟より大きくなくてはいけません。ちなみに、どの神を守護神として信仰するかは、作品のはじめで、読者が自由に選べます。
また、神々のあいだには、人間関係ならぬ神々関係という泥臭い利害があります。ある神へ忠実につくしていたら、こころならずも他の神の怒りを買い、のっぴきならない事態に・・・などというあたりも、とてもギリシャ神話に忠実な演出といえましょう。
さて、ホメロスが詠うかのごとく遍歴し、頭と体力を使ってベストエンドであるところの帰還がはたされたときの光景。それは、到底、単純なハッピーエンドとは言い難いものです。
「ホワイ!!! ごっず おぶ おりんぽす!!!」
厚切りジェイソンのような絶叫にも、最後の最後で沈黙し、もの言わなくなった神々・・・
そこにはーただー風がー ふきすさぶだけー♪ と乾いた声で古い替え歌をうたう余裕もなし。
とても考えさせられ、象徴的かつ印象的シーンとなっています。
要は「ちゃんとギリシャ悲劇」していて、エンディングをすごろくの上がり程度に考えていた読者なら茫然自失となるに請け合い。ですが、注意深くよめば、それは新たな英雄伝説のはじまり、その壮大な幕開けであることがわかるはずです。
結婚によって生じてしまった不可避の因縁、めぐる血の因果。
どう解釈するかは、どんな冒険の道筋をたどってきたか、読者の手にゆだねられている点もありますけれど、とにかく、帰りの旅の途中で捨ててきてしまった妻の(当時はまだ腹にいた)幼い娘が、なぜか刃を研ぎ、ある〝機会〟がくるのをまっています。
そして新たな戦乱、名高い大きな戦争の先触れとなる不吉な影がよぎり・・・・・・
このシリーズは、ゲームブックのなかで、悲劇をしっかり描いて成立させた記念碑的作品というのは言いすぎでしょうか。
いずれにせよ本作は、ゲームブックを小説や映画などと同等の表現手法として、ちゃんと向き合い、作成されたと自分は感じています。――伝えたいものがあった、表現したいものがあった――だからこそ、できた作品だと。
単に読者のウケをねらって、最後はいつものハッピーエンドで大団円、というお約束では表現できないものを描く・・・そしてそこにあったのは、ギリシャ神話というベストな世界観をマッチングさせることでした。
このシリーズは、表現手法としてのゲームブックへ疑問符をもつ方にこそ、読んでいただきたい作品です。
めんどくさいなら戦闘システムなどおぼえなくていいし、作中で戦闘結果をもとめらるシーンが出てきたら、そのときの気分で選択肢を選び、さきを読みすすめて構わないでしょう。
ただ本作の特徴である、神々との関わり方、予感・予兆をどう受けとるか、名誉と恥辱、この三点のルールだけは適用したほうが物語をたのしめます。それらのシステムは単なる作業ではなく、作品世界を浮きあがらせるものだからです。ゲームブックというジャンルが得意とする演出であり表現手段なので、ぜひ味わってほしい。そして死んだりしたら、なんどでも別ルートで読みかえすことをたのしむのが醍醐味といえましょう。
とにかくだいじなのは、ゲームブックという媒体が構造上もつことを宿命づけられている物語の重層性、多様性という個性であり、それを味わうこと。
たとえば小説であれば、村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、お芝居の戯曲であるなら第三舞台の鴻上尚史『もうひとつの地球にある水平線のあるピアノ』あたりをたのしめる人になら向いている作品である可能性が高いでしょう。
物語のカケラたち、それら断片をつなぐ象徴たち・・・多重で立体的な構造をもたざるを得ないゲームブックという表現手法は、それゆえに、多様な解釈、感じ方がはいりこむ〝スキマ〟を必要とし意味を補完していかねばならないものともいえます。
それは詩歌などが有す〝スキマ〟とは、またすこし異なる性質をもった〝うごめくスキマ〟といったものかもしれません。
高度に象徴的な手法を創造し、駆使できるかどうかが物語性に直結する。それがゲームブックという表現・・・
そう、わたしは考えるのです。
(初出:シミルボン「思緒雄二」ページ2016年1月5日号)
思緒雄二(しお・ゆうじ):和風ホラー・ゲームブック『送り雛は瑠璃色の』(社会思想社現代教養文庫、1990年/創土社、2003年、/幻想迷宮書店、2020年)の作者。その他、「ナイトランド・クォータリー」Vol.26(アトリエサード、2021年)に小説「生き人形、家出する」を発表している。
採録:川嶋侑希・岡和田晃