
――《〈イングリッシュ・ヴードゥー〉の世界へようこそ。快感がきみを待っている。知識はセクシー。苦痛がきみを待っている。知識は拷問》
「ヴァート」(ジェフ・ヌーン、田中一江 訳、早川書房)
―― 僕ら全員でこの歌を歌おう。頭をフリー(自由)にしてイメージを呼び込もう。
“Sing this all Togather” (The Rolling Stones、筆者 訳)
一
新荘織人(オルト・ニューマナー)は県立美術館の学芸員だったが、仕事を辞め、盆地にある地方都市の中央に建つ、母名義の新荘ビルディングの四階の自室に籠り、学生が座るような粗末な事務用椅子に腰掛けて全身の感覚を研ぎ澄ましている。右手には鉄パイプを握りしめている。学芸員になって十年経つ。もう美術館に勤めるのは難しいだろう。将来を考えると暗澹(あんたん)とする。しかし今はそれどころではない。
いつ敵が来るのかわからない。
新荘ビルはこの小都市で一番高い。かつては真っ白い瀟洒(しょうしゃ)な建物だった。鉄筋コンクリートづくりモルタル塗りの五階建てで、南を向いた建物の西側にはコンクリートの外階段が、一階ごとに南から北、北から南へと折り返しながら貼りついている。
ビルの屋上では、ラテン系の若い女が二人ゆっくりと踊っている。古いスマートフォンからポップ音楽が流れ、一人はタンバリンを叩き、もう一人は腕を上げ下げしてリズムを取り、腰をまわして、湿度の高い、生ぬるい空気をかき混ぜた。酷い音質だ。織人はこの小都市のごくマイナーな名家出身者としてそれなりの美意識を与えられたから、酷い絵や酷い音質には耐えられない。織人は、彼女たちの伸ばし放題の髪に半ば隠れた彫りの深い小さな顔を見て、東京の国立科学博物館に収蔵された干し首を思いだした。
五月の正午だった。空は白く曇っているが、わずかに差す陽光であたりは明るい。モニター視覚器を通じて、屋上から町の四方が見える。陽炎で揺れる山が町を取り囲んでいる。ヘリコプターが飛んできたので敵かと焦るが、檻に入れた月の輪熊を山腹に建つ野生動物収容所へ運んでいるだけのようだった。熊はどこかで人間を襲ったのだろう。
モバイルコンピューター端末を経由して、織人の視線は地上と屋上を結ぶコンクリートの外階段を上から下へと向かっていく。異状はない。二階に暮らす母がまた勝手に階段に濃紅色のペチュニアのプランターを置いている。これは視界を遮るし、織人の美意識では濃紅のペチュニアは世界でもっとも卑俗で馬鹿げた花のひとつで、織人は苛立つ。このビルディングは父が母に遺したものなので文句は言えない。代わりに新荘家の美術品はすべて織人が相続した。
『あなたは新荘家を継ぐ長男ですからね』死んだ祖母が繰り返し聞かせた言葉が織人の耳にこびりついている。
モニタリングは疲れる。織人がいるのは四階だが、このビルディングには(株)保坂医療機具製のモニター感覚器が各所に設置されている。モニター感覚器が受け取った情報は無線通信により、織人が額に開けた接続用端子《無料で手術します。保健所にご相談ください》に嵌めこんだモバイル端末が受け取り、大脳が情報/現実を再構成する。ビルにばらまいたモニター感覚器は視覚と聴覚がメインだ。触覚器と嗅覚器は高価なので、ほとんど設置していない。
ジャック・イン(没入)を切ることもできるのだが、誰が襲ってくるのかわからないから織人には接続を切ることができない。
屋上の女たちは二十世紀のミュージシャン、ヴァーニャ・レオノフの今でも有名な小曲を合唱していた。ヴァーニャ・レオノフらの音楽形式はロックと呼ばれた。単純な和音の移り変わる四拍子の楽曲に合わせて、当時の若者の感情や思考を代弁したり使嗾(しそう)する詩を歌う。ラジオやテレビといった素朴なマスメディアの発達によって文化現象となったのはビートルズやローリング・ストーンズであり、ヴァーニャ・レオノフだった。レオノフは一九三九年イギリス生まれで白系ロシア人の息子である。歳の離れた父は司祭で、母国の革命を逃れてきた。ヴァーニャ・レオノフは『宗教を捨てよう、今生きている人間たちのことを考えよう』と歌った。
こけおどしの神はいない
マリアは処女(おとめ)ではない
救世主は愛から生まれてきたただの人間
僕の夢は新しい世界
人々が愛、知識、すべての美しいものを共有(シェア)する世界
『イメージング・ニューワールド』
ヴァーニャ・レオノフに影響を受けた人々がインターネット初期にイマジペディア同胞団をつくった。イマジペディア同胞団は美術館や図書館の収蔵品を撮影してオンラインで公開するようになった。今では画像は数億点にのぼる。
ヘリコプターに釣られた熊の檻の鎖が切れ、新荘ビルの屋上に落ちてくる。
「くそ」
織人は座り込んだ椅子から跳ね起きる。接続を切って、鉄パイプを握りなおす。四階の書斎兼居間の裏口ドアから西に出て、外階段を駆け上がる。屋上では檻から熊が這い出てきていた。ラテン系の女たちはまだ踊っていて、踊り用に巻いたらしき濃紅の絹布が空中に翻る。
織人は額に開けた大脳に直属する端子穴から、モバイル端末の入力端子を外す。ジャック・アウト(離脱)。
肉眼にフリップ(転)すると、白く塗った屋上にいたのは、熊ではなくもっと小さいものだった。キャスターとアームが三つずつついた自走式穿孔(せんこう)機械だ。穿孔機械は屋上のモニター感覚器に向けて飛びかかった。
(株)保坂医療機具製のサブスクライブ《初めの一ヶ月は無料》モニター視覚器の中核には、培養した猿の眼球が十二個使用されている。眼球は透明な円錐形の強化プラスティック・シェル(外殻)に覆われている。穿孔機械は視覚器をアームで掴み、真ん中のアームの先端の楔(くさび)を、眼球を覆ったプラスティックシェルに向けて振り下ろす。織人は、鉄パイプを振り上げ穿孔機械を叩いた。こいつはさして丈夫ではなかった。人間の肘(ひじ)から下ほどの大きさの海老を叩きのめしたらこのような感じではなかろうか。
織人は屋上に膝をつき、穿孔機械にくっついていた照明器具のような、一辺十センチほどの四角いパーツを手に取る。内部には発光体が見える。元・学芸員の織人は、この機構をしばしば利用した。画像読み取り用のスキャナーだ。織人は叩き壊したスキャナーを調べる。メーカー名は『イマジペディア』であった。織人の敵である。織人は彼らがスキャナーメーカーを手に入れたことを知った。穿孔機械は鉄パイプをめり込ませたまま自走し、外階段から地上に飛び降りた。鉄パイプが駐車場のアスファルトに衝突する音が響いた。
穿孔機械は地上に叩きつけられ壊れる直前に、織人のモバイル端末にメッセージを送っていた。
「貴殿ご所有のイヴァン・クラムスコイ《(1837-1887)帝政ロシアの画家。移動派を主宰》の未公開作品を撮影のうえ、イマジペディア・オンライン美術館で公開してくださいませんか。すでに著作権は切れています。私たちは、芸術は誰に対しても無料かつ自由に公開されるべきだと考えています。私たちの使命はすべての知識と美を人類が共有する世界です」
踊っていたラテン系の女たち、ルシアとコンチータが笑いながら、飛び去るように階段をかけ降りていく。彼女たちは、新荘ビル一階のコンビニエンスストアでアルバイトしている。
二
織人は、モバイル端末にalt-newmanor4というIDを打ち込み、イマジペディアにログインする。織人はイマジペディアの元メンバーで、IDはまだ残っている。イマジペディアは織人の敵だが、同胞と呼ばれるメンバーは全世界に数百万人いる。織人はまだ同胞団を追放されていない。情報を得るためにはフォーラムに入るのが早かった。
ジャック・インすると、屋上までのはずの外階段が、北の空に向かって延びはじめた。
僕らは宙に墓を掘る
階段の前面に、前世紀に行われた計画的な民族抹殺に関する詩の一節が現れる。
空中に向けて一条、斜め一直線に階段が建っている。現実には真昼だが、日が暮れた。イマジペディア美術館の空は常に夜で、月と金星がほのかに光っている。織人は段の上にいた。数段登るごとに左右の通路が大きな白い百合が開くように広がっていく。通路の登りの側は白い壁だ。この壁はフェルメールの『牛乳を注ぐ女』の背景の漆喰壁を素材にしている。壁に収蔵画像の縮小版がミニアチュア(細密画)となって並んでいる。空間は飽きないように工夫され、鳩が二羽、漆喰壁に開いた壁龕(へきがん)で眠っていた。
視野の右端には常時虫眼鏡マークが浮かんでいた。二秒見つめ続けると検索用の単語を入力できる。音声でも手話でもキーボードでも入力可能である。
少年のころ織人は、気まぐれな猟奇趣味や残酷趣味を満たすために『人肉食』だの『虐殺』だのという言葉を入力したものだった。お馴染みのゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』から、冬戦争《(1939-1940)》でフィンランド兵に食い尽くされ、皮膚だけになったロシア兵の残骸の写真にたどり着いた。検索ワードを入れると立っている場所の角度が変わり、新しい階段と新しい通路が延びていく。遠くに数人のシルエットが見える。シルエット一人が一万人にあたる。
この美術館は感覚情報を集めて脳とモバイル端末で擬似的に作り上げられた建物で、飾られている絵は、世界中の美術館の所蔵品の複写である。少年時の織人は、ジャック・インしてはこの階段を駆け上ったものだった。絵も美術館も、解像度は年々上がり、複雑な細部の装飾が加えられていく。
織人がメンバー用ホームに飾っているのは、帝政ロシア時代の『移動派』の画家イヴァン・クラムスコイが描いた『見知らぬ女』という美しい絵だ。絵も描かれた女も写実的で冷ややかである。
織人あるいは新荘家が所有する貴重な美術品は、このクラムスコイが描いた未公開の小さな絵のみである。数代前、新荘家から出たささやかな有名人《新荘礼一郎(1872-1951)イマジペディア百科事典に小さな記事のある唯一の新荘家の人間、文学愛好家で実業家》が、日露戦争《(1904-1905)》前のロシア帝国に文豪レフ・トルストイ《(1828-1910)ロシアの小説家》を訪ねていったとき、モスクワで買い求めた。大貴族であったトルストイの領地には、彼に私淑する文学者や愛読者が巡礼者のように出入りしていた。
階段の手すりに新たな詩句が現れる。
春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空
濃紺の夜空を背景に、白く浮き出た雲が形を変化させながら流れている。階段と左右に広がる通路の辻々にはヴァーニャ・レオノフの静止画像が立っている。長髪に絞り染めのシャツというヒッピー《1960年代末ごろにアメリカで流行した若者の風俗。自然や自己の内面への関心を強く持つ。幻覚剤に親和性が高い》めいた服装なのに、シルクハットを逆さに抱えている。そこから兎や花が出てくる。
階段と通路、細密画の並んだ白い壁以外に、確固とした場所はない。他はすべて空か雲だった。細密画を二秒以上見つめると、その画が示す美術品が実物大あるいはそれ以上に拡大されて鑑賞可能になる。恐ろしく解像度の高い複製品だ。
現在でも世界中のイマジペディア同胞団の学芸員や図書館員が現実の美術館から芸術作品を撮影したりスキャンしたりして、収蔵に協力し続けている。
画廊や収集家も協力した。アーティストが作品を提供すればイマジペディア同胞団オンライン美術館に収蔵され、チャンスがあれば同胞団のニュースレターに使ってもらえる。その代わりにフリー《自由/無料》で公開するライセンスを求められ、数十人の画家が自殺した。音楽や娯楽やアートはサブスクライブ《初めの一ヶ月は無料》されるものであり、売買システムを取り仕切る巨大企業だけが確実に儲かる。イマジペディア美術館は志の高い非営利団体で、胴元も儲からないがアーティストにも利益はない。イマジペディア同胞団では、世界中で数百万人のボランティアが無償で労働している。《貧困も強欲もない。共有される世界……とヴァーニャ・レオノフは歌った》
サブスクライブの胴元である巨大IT企業はイマジペディア同胞団の使命に共感していた。イマジペディアの成果を優先して利用する代わりに同胞団の事務局に毎年多額の寄付をするのだった。
実際のところ共有するためには、訓練されたノーメンクラトゥーラ(管理者組織)が必要だった。アーティストのなかで学のある者は美術の教師や学芸員になり同胞団でボランティアした。あるいはイマジペディアの募金担当職員になるか餓死した。
織人はアーティストではない。県立美術館に勤めていたとき上司の命で撮影と公開に協力した。
『やあ同胞たち。ようこそ、イマジペディア同胞団フォーラムへ』
ヴァーニャ・レオノフの画像が言った。
イマジペディア世界同胞団のフォーラムに転送された。夜空を通る階段が巨大な車輪のスポークのように集まり、各階段は途中でいっせいに下に向かって折れ曲がり、階段どうしが重なって、半球形にくぼんだ広大な広場となる。
織人は階段を降りて広場に向かう。
メンバーの画像から合成音声が流れる。視野の隅に動く『設定』メニューから『日本語』を選択すると、自動的に背後に日本語字幕がつく。ドイツ人メンバーの青年がぶつぶつ言っていた。「同胞団という名前はあまり好きじゃないな……これは僕がドイツ人だからかもしれないけど、学校でほんとうにたくさん習うんだ。つまり、ナチスに協力した団体のことをね。兄弟団みたいな名前が結構あってさ。……で、イマジペディアの僕らが邪悪なグループみたいに聞こえるんだ。もっと良い名前を考えないか」
同胞団のメンバーの多くはドイツ人ではないから皆、無視する。これはbotなのかもしれない。青年は織人が日本人だからか、議論したそうに近づいてくる。無視すると、こいつは「イルカを殺すな」と言って罵るのだった。
同胞団理事会委員の写真たちがフレンドリーに喋る。
「やあ織人、君の持っているイヴァン・クラムスコイの絵を同胞団の美術館で公開したいんだ。今期はロシア移動派の重点登録期間なんだよ」
彼らは数年前から同じことを言っている。
織人は疑問に思う。《誰が知らせたんだ? どうしてこいつらは俺が絵を持っていることを知っているんだ》
「やあ、alt-newmanar4、これは警告だよ。君をこんな目に遭わせたくないんだ」
同胞団理事会は、イマジペディア同胞団から追放された学芸員や司書が見ることになるビジョンを織人に見せた。
赤煉瓦の壁面がそびえている。煉瓦前面を刳(く)り抜いたアーチ型の出入り口の奥は鉄のシャッターで閉ざされている。この建物は見覚えがある。アムステルダム国立美術館の入口である。ここにはレンブラントの『夜警』がある。十七世紀、黄金時代のオランダ絵画が多数収蔵されており、写実的で精密な絵を好む織人は好きな美術館である。
シャッターに文字が浮かぶ。
『あなたのイマジペディアIDは無効になります。イマジペディアならびにほとんどの国の公共の美術館、博物館、図書館、古文書館の利用番号はオンライン/オフラインともに使用不可になります。
あなたは今後一切、公共の知識や芸術にアクセスすることはできません』
織人はジャック・アウトする。
三
新荘ビルディングの四階に戻り、再び回転椅子に腰掛ける。額に開けた個人端子《無料で手術します》にモバイル端末を差すと、メッセージが届いている。
『すべての芸術は人類皆で共有されるべきです。写真撮影を許可してください。美術品の本体はあなたの手元に残ります。撮影に都合の良い日時をフォームから選んでください。イマジペディア同胞団』
モニタリングの続きをする。なぜ、俺の高祖父が買ったものを無料で公開しなければならないのかわからない。
《撮影だけならば良いのではないか?》とも思うのだが怒りが湧く。
祖母と曾祖母の声がよみがえる。『これはあなたのもの、新荘家のものです』
明治生まれの曾祖母は家つき娘で婿を取った。
《お父様は毎朝、裏山の急坂を馬で駆け上って、お城から盆地のようすを見下ろしていましたよ》石垣だけ残った山城の跡地は中世には豪族であった新荘家の所有で、時折漏らす曾祖母の愚痴は浮世離れしていた。
《関ヶ原で東軍についていたらねえ》
織人は他人の幸不幸に関心が持てないことを自覚している。自分自身とせいぜい親族、それにこの小都市だけだ。血と土地以上に人を規する重い根底がどれほどあるだろうか。
イマジペディア同胞団のように人類全体のことを考える人たちは何か異常に見える。
ヴァーニャ・レオノフは二十世紀の人間だ。当時、世界は『冷戦』といって東と西に分かれており、お互いを悪の極地だと見なしていた。レオノフが東側の領袖たるソビエト連邦の工作組織KGBの工作員だったという説はよく知られている。その真偽は一般には公表されていない。
(株)保坂医療機具の青村という営業担当者が四階表玄関の呼び出しチャイムを鳴らしている。
四
青村はスポーツ好きで感じの良い二十代の青年である。ビルディング東側にあるエレベーター棟に面した表玄関に立っていた。
青村は織人に紙状のタブレットを見せる。「新荘様の四階に設置したモニター視覚器……俗に言うカメラが故障信号を出しているのでお訪ねいたしました。何度かメッセージを差し上げたのですが」
「そうだったのですか?」
メッセージを検索すると確かに一時間ほど前に三通のメッセージが届いていた。
四階の玄関ホールのコンクリート壁には、ヴァーニャ・レオノフのA4サイズの絵が立てかけられている。(株)保坂医療機具の製品で、両目に穴が開き、それぞれ三つずつ猿の眼球が嵌まっていた。三つの眼球の白目は互いに癒着している。
青村が絵に手をかける。「モニター視覚器HEO398714VL型。ヴァーニャ・レオノフ型は人気はあるのですが、人型という特性上、附属する生体眼球の数が足りず若干壊れやすくなっております」青村が言った。「サブスクリプションですので、同タイプの代替品を持って参ります」
織人は身についた穏やかな口調で答える。
「僕はヴァーニャ・レオノフ型は頼んでいません。確かサブスクライブ契約のとき、他の品がないので一時的にVL型を持っていらしたのでしたね」
青村が答える。「そういうお話でした。申し訳ございません。ヴァーニャ・レオノフ型は大変な人気でございまして、弊社の代表もVL型は弊社存続の限り、永遠に残せと」
「永遠に残るかはまだわからないですよ。同時代にもてはやされても消える芸術は多いのです」
青村は少し奇妙な顔をした。彼は芸術について考えたことはなさそうだった。「……お年を召した方にお好きな方がたくさんいらっしゃいますね。私どもは学校で習いましたが。弊社の代表などは二十世紀に実際にコンサートを見に行ったことがあるそうです」
青村には二十世紀も十二世紀も変わらなそうだった。……織人は気づく。保坂医療機具からサブスクライブされた感覚器が織人の美術品情報をイマジペディア同胞団に送ったのではないか? 青村自身は同胞ではないかもしれないが、VL好きだという(株)保坂医療機具の代表は怪しい。
「新荘様、では別の画像タイプに交換いたしましょうか」
「ええ。無地で結構です」
織人はそう言いながら考える。(株)保坂がイマジペディア同胞団に通じているとしたら、どうすれば良い。モニター端末は(株)保坂医療機具の製品がもっとも信用がおける。サブスクを解約しても、他のメーカーにも同胞団のメンバーがいるだろう。一人でも社員や職員にイマジペディアの同胞が混ざっていれば、その組織がイマジペディアの理念のために尽くす可能性は高い。
「新荘様。無地だと眼球が目立ちますので、あまりおすすめはいたしません」
青村はVL絵画型モニター視覚器の額縁を頑丈そうな両手で掴み、持ち上げた。そのとたん、VLの絵の目から片方の眼球が射出された。レオノフのひとつの目につき、三つずつ詰められた培養眼球は、しずく型の透明な強化プラスティック・シェルに覆われている。三つの眼球はしずくの大きく丸い側に詰められていた。
射出されたしずく型のシェルは、空中でカーブを描き、尖った後端が織人の正面に来る。シェルの尖端は正確に織人の右目に刺さった。痛みというより鈍器がぶつかったような衝撃を感じた。
これで俺は立体物を捉えることができない、と片目を失いかけた織人は思う。
青村が言う。「新荘様、私には理解できないのです。新荘様が死蔵されているクラムスコイの未発表品ですが、同胞団が願っているのは撮影だけです。現物は新荘様のお手元に残ります。何が問題なのでしょう?」
「駄目だ。人に見せた途端、俺は自分の持ち物だという感覚がなくなる」
青村は心底呆れたように言う。「理解できません」
「物には思い出や意味がまとわりつく」
「知恵も美も人類全体で共有すべきです。未公開のまま一人で所有するのは罪悪です」
眼球に受けた衝撃が痛みへ変わっていく。強化プラスティックシェルは鼻梁にぶつかり止まっているが、痛みは頭の奥へさらに潜っていき、取り返しのつかない領域にたどり着きそうだった。
織人は右目を押さえ、座り込む。青村は額のモバイル端末をオンにして、部屋の(株)保坂製モニター感覚器を切り替えながら走査している。
「居間の奥の書架に金属反応があります。金庫ですね?」
西側の外階段で獣の匂いがする。ごく少数だけ設置した嗅覚器から送信されてきた情報だ。視覚モニターを通じて、黒い馬がコンクリートの階段を駆け上がってくるのが見える。高祖父かその父か先祖かが馬の鐙(あぶみ)を踏んでいるのを感じる。
黒い馬がどっと扉を押し破り、織人の部屋に入り込む。後肢で立ち上がり、両前肢の蹄が宙を掻いた。織人は額の端末を引き抜く。ジャック・アウト。
馬は、母が飼っている黒いレトリバーの介助犬だった。動くたびに背中の筋肉が震え、短毛が黒光りした。なんと醜い犬なのだろう。白目が目立ち、物欲しげだ。黒い介助犬は嬉しそうに織人を見上げ、尻尾を振る。この犬は愛情やおやつを共有されて当然だと思っている。
老齢の母は足こそ弱っていたが、活動的である。杖をつき、介助犬を侍(はべ)らせてどこにでも出かける。近県の美術館や博物館に寄付をし、非公開の収蔵品にアクセスできる特別会員になっている。
織人は母に言う。「お母さん、警察を呼んでください」
青村が母に声をかけた。「本荘様」
本荘は母の旧姓だ。母は新荘の本家にあたる家の出だった。母は父と見合いで結婚した。いわば降嫁を命じられた不幸な女性である。母が父の死後、名字を旧姓に戻したのであろうことを織人は初めて知った。
本荘滋絵(ジエ)が威厳に満ちた、凜とした声で青村に言った。「青村さん、『十七世紀オランダ美術』の画集をお探しなさい」
青村は書架に目を走らせ、オランダ美術の重い画集を取り出しカバーを外す。現れるのは鉄でできた薄い直方体の、平べったい金庫だった。青村は金庫の横の、膨らんだ金具を調べている。「ここが鍵になっていますね。指紋認証でしょうか? 弊社に持ち帰れば簡単に開けられます」
金庫の中にはクラムスコイが描いた『見知らぬ女』のための習作が入っている。織人が見ているのは現実の景色のはずなのだが、残った片目と、接続を切ったはずの(株)保坂製の感覚器の情報が入り交じっている。視界は立体感を失い平板になり、眼球の潰れた右側は耐えがたいほどの眩しい光だけがあった。
青村は母に尊敬を込めて言う。「メンバー:jie-Truemanarさん。私たち同胞団の使命がひとつ達成に近づきました」
母の介護犬は犬の形態のままヴァーニャ・レオノフと犬の混じった姿を取る。織人は母の杖を奪い取る。母がよろけた。
「お年寄りになんということをするんです」
織人は杖で青村を殴る。青村は抱えていた金庫を床に落とした。
織人は金庫を取り上げ、右手の親指の腹で鍵に触れる。指紋が認証されロックが開く。織人は書物を開くように手元の金庫を開いた。とても美しい絵が見える。『見知らぬ女』の習作だ。馬車から見下ろす美しい女は愛想も礼儀もない。絵の女は単に目が合ったから、画家か鑑賞者に視線を向けた。女の意識の連なりの間隙が現れ、肉体だけが惰性で前の瞬間を引きずり、画家か鑑賞者を見下ろしていた。織人は少年時代、この絵を初めて父が見せてくれた日を覚えている。
イマジペディア同胞団は織人を追放したらしかった。外階段から伸びた先のイマジペディア美術館がくしゃりと潰れていくのを織人は感じ取る。
青村は素早く起き上がろうとしている。ワイシャツもネクタイも血にまみれている。あれは織人の血だろう。
織人は右の眼球に刺さった培養眼球入りしずく型シェルを抜き取る。血と体液があふれ、Pタイルの床に滴った。
血まみれのシェルの尖った部分を、クラムスコイの素描が描かれたカンバスに押しつけた。百年以上前の帆布はやすやすと裂ける。しずくの先をさらにカンバスにめり込ませ、糸を引き裂く。織人は貧血を起こし半ば意識を失いながらも、取り憑いた非合理な観念に駆り立てられ、全人類に共有すべき芸術の破壊を続ける。《他の人間が決して見ることができないように、完全に破壊しつくさなければならない》
母が言う。「織人さん、あなたは昔から思いやりがない。自分のことばかり。この家の人はみんなそう。だから支配階級に入れないのです」
すべてを共有すると称して収奪する新しい世界が始まるのならば、そんな未来は俺はいらない。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。
引用元:
僕らは宙に墓を掘る……
パウル・ツェラン「死のフーガ」『パウル・ツェラン詩文集』(パウル・ツェラン、飯山光夫 編・訳、白水社)
春の夜の夢の浮橋とだえして……
藤原定家朝臣『新古今和歌集』 (窪田空穂 著、やまとうたeブックス第二版、底本は『完本 新古今和歌集 評釈』東京堂書店)
この作品は、「ニューロマンサー」(ウィリアム・ギブソン、黒丸尚 訳、早川書房)へのオマージュです。
冒頭に登場する屋上で踊る二人の女性の様子はジョン・シンガー・サージェントの絵画『Capri Girl on a Rooftop』からの引用です。