訳あって家族と離れ、甲府市内、相生町、古びた二階建てアパートの一階、角部屋、六畳間と三畳の台所、風呂とトイレがいっしょという間取り、知り合いの不動産屋に無理を言って、探してもらい、家賃も格安、なにより桜座まで、歩いて五分というのが有り難く、ここで暮らすようになって半年あまりになる。
数年前、還暦になったとき、年金を申請したが雀の涙、娘が月々仕送りしてくれるおかげで、贅沢さえしなければ、やっていける。酒も外飲みはせず、大型ペットボトルに入った焼酎を買って、家飲みしている。唯一の贅沢は、桜座のライブへ出向くこと、こちらは週に一度は通いたい。
桜座ライブ以外は、だらだらと家飲みしている。この日、いつから飲んでいたか覚えておらず、それでも豪雨のごとき孤独に襲われ、いたたまれずに部屋を出た。部屋にあった有り金、千円札二枚、小銭と合わせれば三千円ほどもあったか。
出るときに目覚まし時計を見なかったので、何時かわからなかったが、夜更け、それもだいぶ深夜らしい。路地の両脇にある家々も外灯以外の明かりは消えているのがほとんど、それでも季節は春、寒くもなく、深呼吸すると外気がすがすがしく、孤独もずいぶんと弱まっている。部屋に戻って、飲み直すか。それで追い払えそうだ。ちょっとした贅沢、コンビニで酒と肴を買い足し、気分を新たに飲むか。
愚にも付かないことを考えて、曲がりくねった路地を進んでいたとき、一軒の民家、その門脇に提灯がともっている、忌中と書いてある。この家の誰かが死んだらしい。
足を止め、様子をうかがう、門だけでなく、数メートル奥に見える玄関の引き戸も開けっぱなしで、薄暗い明かりがともった家内も見える。
と、そこに人がいた。一見しただけで、ぞくっと背筋が震えた。白い和服姿の、うら若き女性である。暗い灯り、遠目に見ただけで、凛とした美しさが、一瞬のうちに私の気を引いた。
視線が合った、と、彼女は柔らかくほほえみ、唇を動かす。声、というよりも、その唇の動きを読んだのだろう。お待ちしてました、と言い、深々と頭を下げる。
人ちがいしている。会ったこともない。誰か知り合いが、遅くに訪ねてくるのを待っていて、人けの途絶えた時間、たまたま通りかかって、足を止めた私を、待ち人とかんちがいしている。
いえ、あなたをお待ちしてました。はっとして、自分の中から意識を彼女に戻す、頭を上げた彼女は、涼しげな眼差しを私に向けている。
私を、ですか。声にならず、唇を動かすと、はい、と彼女の唇も動き、耳からではなく、直に私の脳髄に聞こえた。
その瞬間、私は察した。彼女は死んでいる、忌中と書かれた通夜の夜更け、弔われている本人にほかならない。
はい、と脳髄に聞こえた。さらに、あなたのようにわたしを認めてくださる方をお待ちしておりました。さあ、どうぞ。
いくらアル中の私とはいえ、そう言われて、すんなりと足を向けられるわけもない。すぐにでも立ち去りたい、が、じっと女に見つめられていると、ある種の催眠でもかけられたかのようで、身動きどころか、顔を背けることもできない。
それでは、わたしがあなたのところへ参ります。
女は唇にかすかな笑みを残して、消えた。
「あらあら、誰が」
家の奥から、年老いた女が現れた。その顔、今のいままで、そこにいた女と似た面影、母親か。
老女はサンダルをつっかけて、門のところまで歩いてくる。自然と私に目を向ける。
「あ、その……」通りかかりましたら、開けっ放しで、不用心だと思って。
「一人娘が急死しまして」
老女が涙声で言った。喉元まで、言葉が出かかったが、声に出せない。娘さんは、先ほどまで、そこに。
「どうした?」
家の中から声がした。年老いた男、老女の旦那、先ほどまで玄関にいた娘の父親、か。
「誰かが、開けっ放しにしたらしいのよ」
「ほかに誰がいるって言うんだ。姉さんがうっかり閉め忘れたに決まってる」
年老いた男が言った。姉さん、ということは老女の弟か。
そのやり取りが合図でもあったかのように、私は頭を下げて、その場を立ち去った。ちょっと、呼び止める声をやり過ごし、逃げるように歩を進め、角を曲がったところで、速度を落とした。わずかな間に、鼓動の高鳴りが激しくなっていた。
アルコールに犯された脳髄が見た、幻ではないか。事実、どれが現実か幻想か、区別つかなくなって、久しい。それなら、引き返してみるか。ほんとうに忌中と書かれた提灯がともっているか。それともひっそりと何事もないかのように、夜更け、寝入った民家が並んでいるだけか。
私は、そのまま歩を進めた。事実がどちらにあるにせよ、とても確認する気にはなれない。私には無関係だ、まだ酔いさめぬまま、ぶらり出た深夜の散歩の途中、夢と現実、否、アルコールに犯された脳髄の見た、夢とも幻覚ともつかぬ出来事、あらためて白黒つけるでなく、やり過ごしてしまえ。
闇雲に歩いたため、難儀したが、幸い平和通りに出たので、当たりがつき、アパートまで戻った。六畳間も台所も灯りつけたまま、台所の冷蔵庫から、缶チューハイを取り出し、六畳間の畳にあぐらをかいて、喉を鳴らす。半分ほど飲んだか、ふうと一息つき、壁際に置かれた、開いたままのノートパソコンを見ると、何やら文章が書いてある。
◇ ◇
わたしの部屋の片隅に、Mマウスのぬいぐるみが置いてある。いつから置いてあったのか、記憶にはない。おそらくわたしがまだ赤ん坊だった頃に、誰かから贈られたものなのだ。
しかし、なぜこのぬいぐるみだけが残っているのだろう。幼い頃の記憶には、ほかにもいくつものぬいぐるみがあった。それらはいつの間にか、どこかへ消えてしまった。ただこのMマウスだけが、依然として残っている。
ママに聞けば、原因はわかるかもしれないが、聞く気にはなれなかった。なぜと言われてもはっきりとわからなかった。ただ、聞いてはいけない気がしたのである。そしてそれは事実だった。
ある日、ママが部屋を掃除に来たとき、わたしは本を読む振りをしながら、机に置いた鏡ごしに様子を見ていた。ちょっと何か散らかしただけで、がみがみと文句を言うママが、そのぬいぐるみに関してだけは、何一言も言わない。
掃除している間も、まるでそこに置いてないかのように、触ろうとさえしないのだ。
どうしてなの?
喉まで言葉が出かかったけれど、言えなかった。不思議に思っていたとき、わたしは気づいたのだ。鏡越しに見ているのは、わたしだけではないことに--。
そう、Mマウスのほうも、わたしを見ていた。ふだんの穏やかな笑顔を浮かべているのではない。鬼のように顔をこわばらせ、わたしをにらんでいるのだ。
最初気がつかなかったのは、その余りに恐ろしい形相のせいだった。気がついてからもわたしは身動きどころか、鏡から目をそらすことさえできなかった。
しかもその口が動いたのである。声こそ出なかったけれど、なんと言っているのかが伝わってきた。
ダマッテロ、チクッタラ、ブッコロス!
「何をしてるの」
ママが駆けつけてきて、鏡をどかしてくれなかったら……。わたしはMマウスに睨まれたまま、心の底まで凍りついていただろう。
「こっちへ来なさい」
ママは私を抱きかかえるようにして、部屋から連れ出した。
扉を閉め、さらに階段を下りて、それでもあたりに気づかうように、わたしを抱きしめ、耳元でささやいた。
「鏡で見ちゃだめ。わかったわね」
何のことを言っているのか、すぐにわかった。
それでもわからない振りをして、聞いてみようと思ったのだが、できなかった。間近にわたしを見つめるママの顔は、血の気を失って真っ白だったからだ。それ以後、Mマウスのぬいぐるみを話題にすることはなかった。
わたしも何も言わなかったし、部屋にいても、見て見ぬふりをして、やり過ごすようになった。
時々、ちらりと目が合うことはあった。いつもの穏やかな顔つきを崩すことはなかった。
あの時、鏡で見たのは何かの間違いだったのではないか。
そう思った。けれども、二度と鏡で見るようなことはしなかった。
あの一件以来、部屋に鏡を持ち込むことすらしなくなった。もしうっかり見てしまったら……。そう考えただけで、恐ろしくてたまらないからだった。
あれはぬいぐるみではない。生きている。じっとわたしを観察しているのである。いったい何のためなのかまではわからないけれど、間違いはない。ただMマウスにそんなことをさせているのが誰なのかは、うすうす見当がついている。パパだ。
わたしのパパは、わたしが物心ついたときには、すでにいなかった。そもそも家庭にパパという存在がいると知ったのも、ずいぶんと大きくなってからだった。
「ミチルちゃんのパパは、何をしているの?」
幼稚園に入って、でしゃばりな女に訊ねられ、わたしは逆に訊ね返した。
「パパって何?」
◇ ◇
私が書いた文章ではない。私が書いたのは、もう一つ開いてあった文章を取り出す。
◇ ◇
神経を病んでいたから書けた。梶井基次郎。アンナ・カヴァン。萩原朔太郎。
たとえば朔太郎の「猫町」を読むとモルヒネ、コカインを使っていることを書いている。アンナ・カヴァンはヘロインを処方してもらって、生きていた。梶井基次郎も、酒なのか、気質なのか。
善蔵にはまった時期があった。書くことと生きることと。どっちを取るかというのか。ちがうか。苦しい。なにが。わからない。が、苦しい。すごく浅いのかもしれない。自己顕示欲、が満たされないから、か。
だが生きている。やることがあった。孫の世話。それがなければ、どうなっていたか。桜座がある。桜座がなかったら、どうなっていたか。幸い、桜座はある。しかし双子の孫とは……酔った私の暴挙のせいで、家を追い出されてしまったが。
何だろう、この苦しみは――。苦しみ? 切なさを伴っているから、そう感じるのだろうが、非常に足場の悪い場所に、ぐらぐらしながら立っている。
記憶の中の出来事は、どこにあるのだろう。それが夢として、出てくることがあるが、そこはどこなのだろう。夢の世界が、どこにあるのか、わかればいい。
楽しめ、楽しめ。と言えない人が、狂え狂えと強く言うのか。
◇ ◇
このアパートに越してきて書いたのは、これだ、これだけだ。それなら、もう一つの文章は――。
「待っている間に、勝手に。どうでしょう?」
台所の灯りが勝手に消え、闇の中から女の声、すぐピンと来た、ほんとうにあの女が来た。
目を向けるのもおそろしく、がたがた震えるあぐらの足、左手で膝をぐいと押しつけながら、右手に持った缶を傾け、空にする。実ははじめてではない。アルコール依存が進み、現実とも妄想ともつかない物語を書きつづけるうち、現実の生活でも、果たしてどうなのかわからなくなる、特にこの安アパートに来てから、安いのには古いからだけでなく何か原因がある、世話になった不動産屋が、実は、と言いかけたのを、止めて、聞かず、借りた。
六畳の天井、ちらつく蛍光灯の灯りが、ますますちらつき、ジジッと音を最後に消えた。すぐに脇がぼうっと青白くなった、首を動かさず、視線の隅、女が立っている。足の震えも止まり、全身凍りついて動けないでいる私の、頬に冷たいものが触れた。
ひいっと声を出しそうになり、身を引いた弾みで見てしまった、全裸の女、その肉体がぼんやり光っている。目が離せない、この世のものではないのだから、当然、この世のものとも思えない美しさ、名手によって作られた氷像、私を見下ろし、その唇が動く、抱いて、と。一人暮らし、還暦を超えたといっても、まだまだ生身、欲望は健在、となるとすべて妄想か。そう考えるのが、もっともだろう。
女が言う、T橋の下にお金を埋めてある、さらに女はいくつ目の橋桁の……と具体的に言いつづけ、明日の晩来ます、と消えた。代わりに六畳間と台所の灯りがともった。
だらだらと買い置きしてある焼酎を飲みつづけ、外が明るくなるなり、部屋を出て、T橋に向かった。妄想だと思いつつも、金が絡むとなると、事は別、二重にした紙袋を手にしてである。狙い通り、人通りはほとんどなく、行き交う車の数も少ない。荒川のサイクリングロードへ下りると、犬の散歩、ランニングする人が、ぽつりぽつり、ちっ早起きしやがって、と捨て台詞を吐きながら、T橋を目指す。
その辺りに人はおらず、女が言った場所は、サイクリングロードからは見えない場所で、まさに彼女が言った通りの場所に目印代わりの石がある。そこに行くのははじめて、妄想か夢だとしても、ここまでぴったりだと正夢か、高鳴る鼓動を押さえ、固唾を飲みながら、石を退かすと、あったあった、ガムテープぐるぐる巻きにしたビニール袋、手にしただけで、感触が良い、札束に違いないと私の中でぴんと弾ける。
紙袋に入れるなり、しっかり脇に抱え、足早に歩く、流れる汗も、上がる息づかい、飲んでばかりで運動などしないため、苦しくなったが、事は金、怪しまれる前に、部屋に戻らなければの一心で、部屋に入るなり、まず扉の鍵をかけてから、はあはあはあ、蛇口に口をつけて、水を飲み、六畳間の真ん中であぐら、紙袋から取り出し、ガムテープを剥ぎ、ビニールを破った。銀行の紙できっちり巻かれた一万円の束、百万円である。
仮眠を取り、風呂に入り、買い置きの焼酎を飲みながら、日が暮れるのを待った。出かけてしまえ、だいじょうぶだ、と唆(そそのか)す思いが自分の中になかったわけでもないが、堪えた。使うのは、私との約束を果たしてから、その前に使ったら、取り殺さなければならなくなります、と消える間際に女が言った言葉に従った。何度も手にした、札束を止めた紙も、地元銀行のものにまちがいない、狐狸のたとえのごとく、葉っぱになることもなかった。
室内の灯りが勝手に消えたのは、深夜零時近い時刻だった。手にしたコップに残る焼酎をごくりと飲み干すのを合図にしたかのように、座っているすぐ脇、ぼうっと青白く、全裸の女が浮かび上がる。いつ現れてもいいように、ずいぶんと飲んでいる、おびえがなかったといったら嘘かもしれないが、金がある。
触れてみると、ひんやりと冷たかったけれど、我慢できないほどではない。この世の女には、とんと持てないけれど、あの世の者好みか、すべて逆さ、あの世の者から見たら、私は今、光源氏。苦笑しながら、立ち上がり、着ていた寝間着そしてブリーフを脱ぎ、女を畳に寝かせる。子どもがほしかった、それだけが心残りで、とつぶやく女を抱いた。
いつしか寝てしまった、窓の外が明るく、すでに女の姿はない。素っ裸のまま、押し入れに走り、雑多の荷物の奥に隠した、紙袋をつかむ。中には百万円の束がしっかりと残っている。
まさにあぶく銭。最初の一歩は慎重に、束から三枚抜いた。まず寿司屋へ入って、一枚で会計、問題なく使える。チーズとワインが売りの店で二次会、これも問題なし。最後の一枚は桜座へ出向き、次のライブを予約し、前払い、代金として払った。どれも問題ないことを確認し、後は言葉こそ陳腐なれど、湯水のごとく、いい酒を飲み、いい女を抱いた。
と言いたいところだが、三日で、酒池肉林は終わった。目の前の金にペースを崩したか、しこたま飲んで繰り出した裏春日のソープで、私は卒倒し、救急車で運ばれたのである。
アルコール依存だけでなく、心筋梗塞だと言われ、入院。保険など入っていなかったけれど、金はしっかりと鞄の底に隠していたため、一ヶ月近く入院し、そのほとんどが使われてしまった。
退院した私は残金で、格安スーパーに立ち寄り、いつものペットボトルの焼酎、缶詰、肴と買い、帰宅するなり、飲んだ。何をするでもなく飲みつづけ、日が暮れてしばらく経ったとき、はじめて室内の変化に気づいた。
台所に置かれた冷蔵庫、前の住人が置いていった旧型のものだが、形がぼんやり、ぼやけている。冷蔵庫と重なり、あの女が青白く発光する裸体で、膝立ちしている。目を引くのは腹部だ。西瓜を抱えたかのようにふくらんでいる。
おい、と声をかけると、女は閉じていた瞼を開き、私を見た。柔らかく微笑みを浮かべ、両手でお腹をさすりながら、消えた。
何かに急かされるように、私は冷蔵庫の扉を開けた。がらんとした庫内、冷気に包まれて、ネズミの子どものような胎児が、くぐもった泣き声をあげた。(了)