「「ミスの多い引用・引用に見せかけた抜粋・改竄」を読もう」宮野由梨香

シミルボン再録

「ミスの多い引用・引用に見せかけた抜粋・改竄」を読もう

(『夢をのみ 日本SFの金字塔・光瀬龍』(立川ゆかり著・ツーワンライフ・2017年)に対する書評記事)

                             宮野由梨香

 とても面白く読むことができました。でも、それは、この本の引用があまり正確ではないだけではなく、改竄と見られても仕方のない箇所さえあることがわかるからです。

 例をあげましょう。

『夢をのみ 日本SFの金字塔・光瀬龍』(以下『金字塔・光瀬龍』と略記)には、光瀬龍の絶作長編『異本西遊記』が、次のような形で引用されています。

弥勒王が遣わした警護隊が数十流の軍旗をなびかせ、二人の前後を固めていた。蘭花の乗ったラクダの鞍に結びつけられた黄金の櫃には、弥勒王から贈られた純白の花嫁衣裳が納められていた。

 砂漠にキャラバン隊のようになって遠ざかって行く。その一行を、悟空と八戒と悟浄は見えなくなるまで見つめていた。 

(『異本西遊記』/三一〇ページより)

(『金字塔・光瀬龍』556頁)

 この部分を引用元として示されている『異本西遊記』で確認すると、終わりの2行は次のようになっています。

 砂漠に遠ざかって行く一行を、悟空と八戒と悟浄は見えなくなるまで見つめていた。 

(『異本西遊記』(光瀬龍・1999年・角川春樹事務所)310頁)

 念のため、初出(〈しんぶん赤旗〉1998年7月26日号日曜版(21))を確認してみましたが、初出でもこの部分は単行本と同じでした。かつ、『異本西遊記』の単行本は1種類しか出版されていません。

 つまり、『金字塔・光瀬龍』の著者は「引用」に際して、1つの文を2つに分け、元の文にはなかった「キャラバン隊のようになって」と「その」という言葉を独自につけ加えているのです。

 この「引用」の12頁後に、『金字塔・光瀬龍』の著者は作家の臨終の時について次のように書いています。

「時計を見たら、十六時三十八分でした。その時、病室にはキャラバンの曲が流れていました」

 臨終を看取った時の話である。さぎりからその話を聞いた私は、驚きで鳥肌が立った。

 ――なんと、亡くなった時にキャラバンの曲が流れていたとは。

 キャラバンは、光瀬が仕事場でよく聴いていた曲だった。それは、光瀬の病室で流していたのではなく、他の病室から流れ込んできた音楽だった。

 夕焼けをバックにシルクロードの水平線をゆっくり進むはなと光瀬の影が、サマルカンドを目指し陽気に進む『異本西遊記』のキャラバン隊の隊列と重なり浮かんできた。 (『金字塔・光瀬龍』568頁)

 こうなると、この部分のために、彼女は「キャラバン隊のようになって」という言葉を必要としたのではないかと思えてきます。自らの書きたい内容に合わせて、作家の書いた作品を勝手に書き換えている=改竄しているのです。(ところで、「シルクロードの水平線」って……??)

 こういった「潔い改竄」よりも、次の例の方がもっと悪質かもしれません。

 それは「引用に見せかけた部分抜粋」です。

 次のような箇所です。

「おまえをこの飽くことない戦いにかり出した者はだれだ? ……」 帝釈天はあごをしゃくってうながした。

「私は転……」(注釈③四一八ページより)  

(『金字塔・光瀬龍』375頁)

 『金字塔・光瀬龍』は注釈がいちばん後ろにまとめられていて、やや見づらいのですが、ページを繰って(注釈③)を見ると「『百億の昼と千億の夜』光瀬龍著(二〇一〇年四月十五日/早川書房/一六三ページより抜粋)」と書かれています。

 つまり、375頁のこの箇所は「『百億の昼と千億の夜』光瀬龍著(二〇一〇年四月十五日/早川書房/四一八ページより抜粋)ということを示しているのでしょう。

 そして、確かにこれは「抜粋」なのです。『百億の昼と千億の夜』から「おまえをこの飽くことない戦いにかり出した者はだれだ?」から「私は転……」までをきちんと「引用」して示すと、次のようになっているからです。

おまえをこの飽くことない戦いにかり出した者はだれだ? 梵天王のしろしめす世界を騒乱の巷と化し、この帝釈天のひきいる天兵と争うことすでに年久しく、その間、いささかもその罪をさとることもなく、また平穏をたのむところもない。そのやむことない天魔の志はそも誰の為のものだ? なにもののためにかくも益なき戦いをばするぞ」

 あしゅらおうは手の太刀で帝釈天の顔を指した。

「聞きたいか。帝釈天。それほど聞きたいものなら教えてやらぬものでもないぞ。そもそも、この世をしろしめすという梵天王なる者、ならびに帝釈天と名のるおまえ自身。なにをしているのだ? おまえたちの目的はすでに私に知られている。おまえたちはすでに幾つかの文明を亡ぼしさった。茂辺―如駝呂しかり、須由明留しかり、すべておまえたちの計画によってむなしく時の流れの中に消え去った。なぜだ? おまえたちはそれら文明の中に、やがていつの日か、おまえたちの存在に気づき、ついにはおまえたちの世界の存立を危うくさせるようなものへの、ある必然的な発達過程をよみとったからだ。それゆえ、おまえたちはそれら文明の中に、未来の滅亡を内包させた。人々の考えかたか、信仰か、さまざまな機械か、それとも経済的なゆきづまりか、ともあれ、おまえたちはついにこの世界全体の破滅への道を開いた。おまえたちは、 MIROKU なるものの像を、あの喜見城の奥におさめていよいよ使命の達成につとめた。五十六億七千万年ののちに救いが来るとはよくぞ言った。帝釈天五十六億七千万年とはおまえたちの時間で、何年のことか?

 一年か、一日か、それとも、ほんのまばたき一つする間のことか? 私はこの世界からおまえたちを追い払い、おまえたちの世界をもほろぼしさるべく――」

 ――の命を受け、

 あしゅらおうは思わず口をつぐんだ。

「どうした? あしゅらおう。すべてはおまえの言うとおりだ。だが、そのあとはどうした? 気おくれしたか」

帝釈天はあごをしゃくってうながした。

「私は、私は、私は……」

「おう。私はどうしたんだ?」

 あしゅらおうは絶望的な表情を浮かべて頭上の帝釈天を見上げ、それから周囲の象隊を見た。あしゅらおうは今や追いつめられた小さなりすだった。手の太刀が力なく落ちた。

「私は転……」

(『百億の昼と千億の夜』ハヤカワ文庫JA1000版(以下『百億…』と略記) 416頁、太字指定は宮野による)

 かなり長い部分を省略して、太字にしなかった部分のみを「抜粋」しているにもかかわらず、元の小説を知らない読者には、それと気づきにくいようになっているのです。普通、読者は、このように示されたものを「引用」だと思って読むでしょうから。

 これは「引用に見せかけた部分抜粋」です。

 私がそう断ずる理由を次に述べましょう。

 『金字塔・光瀬龍』の著者は、この幻の帝釈天の象軍に取りかこまれたあしゅらおうが口にする「私は転……」(『百億…』418頁)を、「あしゅらおうが帝釈天に自分が転輪王だと告げようとして口をつぐんだ部分」(『金字塔・光瀬龍』377頁)との把握を示しています。これは、あしゅらおうと帝釈天との問答の流れを無視した読み方です。ここは、「私は転……」の10行前の「――の命を受け」を踏まえ、あしゅらおうが言いさしたのは「私は転輪王の命をうけ」だったと読むべきところでしょう。

 「抜粋」ではなく「引用」で読めばわかってしまうことをごまかすために、一見「引用」に見えるような「抜粋」をして、しかもそれを「抜粋」だとわかりにくくしているのです。

 なぜ、こんなことをするのか?

 『異本西遊記』の改竄と同じで、「自分の主張したいことの方に、作品を合わせる」ためです。

 『金字塔・光瀬龍』の著者は、この「あしゅらおうが帝釈天に自分が転輪王だと告げようとして」の根拠として、『百億…』460頁を引用しています。

 あしゅらおうは、すでにおのれが変転の内部に在りながらすでにその変転をはるかに越えていることを知った。

 今、あしゅらおうはおのれが転輪王であることを知った。(注釈③四六〇ページより)(『金字塔・光瀬龍』377頁)

 確かにここには「あしゅらおうはおのれが転輪王であることを知った」と書いてあります。しかし、この部分は、転輪王が自分の見た「まぼろし」をあしゅらおうに見せている部分なのです。そのためにあしゅらおうが転輪王としての意識を一時的に持たされているのにすぎません。

 それは、この箇所の2ページ前に次のようにあることをきちんと読めば、間違うはずがないことです。

ふたたび転輪王の声がとどいてきた。

《あしゅらおう。私はあるとき、まぼろしをみた。しかしそれがほんとうにまぼろしだったのかそれとも疲れた心の描いた翳だったのか、あるいは全くそんなものを見はしなかったのか、すでにさだかではない。だがその内容だけは今でもはっきりとおぼえている。あしゅらおう。それを今おまえの心に映してみよう。

(『百億…』458頁)

 そして、あしゅらおうは転輪王としての意識を借りて「まぼろし」を見ます。それは、「すでに転輪王の気配も消えていた。」(『百億…』462頁)とあるところまで続きます。

それなのに、『金字塔・光瀬龍』の著者は、この物語の流れを全く無視した「抜粋読み」を展開するのです。

 『金字塔・光瀬龍』の著者は、ご自身の主張に無理があることがわかっていないわけがありません。

 わかっていないのなら、どうしてこんな「引用に見せかけた部分抜粋」をする必要があるのですか?

 どうして、「『引用になっていない』と批判された時のために、巻末の注釈にわかりにくく(抜粋)と書いているのではないか」と疑われかねないような状態になっているのですか?

 典型的な例を挙げてみました。

 この種のことに、満ちあふれた本です。

 もちろん、私とて、出版されている光瀬作品をすべて暗記しているわけではありません。念のため、最初から順番に照らし合わせてみました。

 けっこう相違が見つかりました。

 『金字塔・光瀬龍』17頁の『百億の昼と千億の夜』からの引用では、10行の中に1箇所の相違ですから、まあ許せる範囲でしょう。35頁の『虫のいい虫の話』からの引用では、4行の引用の中に原文と違う所が3箇所ありました。同45頁にある『見果てぬ夢をー―ロン先生の青春記』からの2行の引用の中には1箇所、同64頁にある『ロン先生の虫眼鏡』(早川書房)からの4行の引用の中には6箇所ありました。詳しくは(註)に示しました。

 64頁まで見たところで、私はこの作業をやめました。『金字塔・光瀬龍』は全部で621頁ありますが、急にこの状態が改善されることもなさそうだからです。執筆時・入稿時・校正時に、引用文献や参考図書については原典とつき合わせるという、基本的な作業がなされていない可能性が高いと私は判断します。

 たいしたことではないと思う方もいらっしゃるでしょうが、64頁までのこのチェックで、引用に関するミスは、原文との相違以外にもあることがわかりました。

 34頁の最後の行に『虫のいい虫の話』の引用を「八十一ページより」と書いてありますが、この箇所があるのは86ページです。また、39頁に引用元として『見果てぬ夢を――ロン先生の青春記』が注釈によって示されていますが、これは〈SFマガジン〉1963年10月号の「SFを創る人々・その5・光瀬龍」からの引用です。

 『金字塔・光瀬龍』は〈SFマガジン〉連載をまとめたものです。連載終了から、約4年後に出版されています。連載中には余裕がなかったとしても、単行本にするまでの約4年間にチェックすることは十分に可能だったと思われます。

 「主な参考文献」(607頁~)も同じく杜撰です。タイトルと著者名が同じ「 」内に入れられています。本のタイトルなのか、雑誌内の記事のタイトルなのか、雑誌名なのかも区別されていません。『 』「 」〈 〉の使い分け等で区別を示すのが一般的なところだと思われます。内容にもミスがあります。例えば、自分の作品を挙げて恐縮ですが、6番目に「阿修羅王は、なぜ少女なのか・宮野由梨香著」とあります。正しくは「阿修羅王は、なぜ少女か」です。

 要約と引用がそれと示されないままに同居する「要約抜粋」(491頁)と彼女が呼んでいるらしいものが、複数個所に存在します。これに問題があるという把握は、なされていないようです。

 『百億…』の「要約抜粋」らしいものも、333頁4行目から2字下げで示されています。しかし、作品中のどこを踏まえればそういう言葉が導きだされるのか戸惑う部分があります。7~8行目に「悉達多はさっそく阿修羅王に会いにいく。はためく極光(オーロラ)を背景に阿修羅王は立っていた。阿修羅王はきゃしゃな少女だった」と書いてあります。このシーンでの阿修羅王は「少年と呼んだほうがむしろふさわしいひきしまった精悍な肉づき」(『百億…』163頁)と、原典には書かれているのに。

 きりがないので、ここまでにしておきます。

 私は『金字塔・光瀬龍』を評価しないのではありません。むしろ評価するからこそ、これを書いているのです。

 『金字塔・光瀬龍』の著者は、とても得がたい資質をもった書き手だと思います。ここで私が挙げたようなことも、作者理解のための貴重な情報です。これだけ「わかりやすい」のですから、これがどういうことなのか、何をあらわすのかを「読む」のは容易でしょう。

 私は、彼が日記の中で何を指して、くりかえし「真実」と言っているのかを考えてみました。日記の中でさえ「真実」としか書けないこととは何だったのか、と。

 彼が「書くこと」に追いつめられていった事情が見えました。光瀬作品独特の「暗さ」の理由がそこにあることも、わかりました。

 『金字塔・光瀬龍』がこの著者によって書かれ、〈SFマガジン〉の連載を経て、「ツーワンライフ出版」から出されたのではなかったら得られなかったかもしれない作者に関する情報を、手にすることができました。私はそのことに深く感謝してやみませんが、同時に「知りたくなかった」とも思います。彼も知られたくはなかったでしょう。

 逆に言えば、この本は、そういう読者にのみ、読み取るべきことを伝えるのに成功しているわけです。

 この本を読もうとする方は、「ミスの多い引用・引用に見せかけた抜粋・改竄」に、まず、気がついて下さい。

 そこが出発点になります。

(註)

☆17頁『百億の昼と千億の夜』からの引用の3行目「×押さえていた ○おさえていた」

☆35頁『虫のいい虫の話』からの引用1行目「×替わって ○変って」・1行目「×いるん ○るん」・3行目「×だけどこの ○だけどもこの」

☆45頁『見果てぬ夢を――ロン先生の青春記』からの引用1行目「×届いた ○とどいた」

☆64頁『ロン先生の虫眼鏡』(早川書房)からの引用1行目「×病の床 ○病いの床」・ 2行目「×続けた ○つづけた」・2行目「×浮き上がって ○浮き上って」・3行目「×一緒に ○いっしょに」・3行目「×呑み込む ○呑みこむ」・4行目「×聞こえていた ○聞えていた」

(64頁までで、作業を中断しました。私はかつて某研究会誌の編集委員というのをやっていましたが、引用チェックに際して、これほどのミスを発見したことはありません。『金字塔・光瀬龍』は621頁までですから、この約10倍の量です。私がやるべき仕事ではないと考え、ここまでにとどめます。)