「名医」井上史

 僕の勤務先の病院には『ドラキュラ先生』と呼ばれる医師がいる。
 ドラキュラ先生、こと黒羽先生はいつも白衣の下に黒いタートルネックを着ている。白衣はかなり暑いのだが、夏でも半袖姿を見たことがない。青白い頬がこけて見えるほど痩せていて、髪は真っ白。あまりに不健康そうなので、白衣を着ていなかったら黒羽先生を入院患者と間違えてしまいそうだ。先生はかなり高齢で、市内でいちばん大きな病院を定年退職してすでに十年が経っているとか。医局の自席よりもX線のフィルムの所見を判定するための暗室――読影室が好きらしく、よくそこに入り浸っていた。
 そんな奇妙な黒羽先生だが、多くの難病の患者を救ってきた名医でもある。過酷な手術を二十時間ぶっ続けで行うこともあったそうだ。医師というと頭脳労働のように世間に思われているが、立て続けに夜勤になったり、長時間の手術を実施したりと体力勝負な部分も多い。黒羽先生はひょろりとしてか弱そうに見えるが、見かけによらない体力があるようだった。先生のお父さんも素晴らしい名医で、実家の病院で鍛えられたらしい。
 僕は研修医なので、仕事の合間にさまざまな症例の研究を行っていた。特に黒羽先生が治療した難病患者のケースは、とても勉強になった。光を怖がり、外に出られなくなった四十代男性や、水中から出られない二十代女性の症例など、論文や医学書で難病として紹介されるような病気を、実際に治療した医師から直に話を聞くことができるのだから。
 今日も病棟の回診を終えてから、休憩時間に黒羽先生のところへ向かった。論文を読んでいて分からないところがあったので、黒羽先生に質問するためだ。まず医局の先生の席をのぞくと、案の定、不在だった。そんな僕の行動に気づいて、事務の大島さんが「先生は席を外していらっしゃいますよ」と声を掛けてくる。三十代半ばの彼女は三か月前の異動で医局の秘書業務を担当するようになった。
「いつも通り読影室にいらっしゃるんですか?」僕は尋ねた。
「ええ、いつも通りです」大島さんは頷く。
「分かりました。そっちへ行ってみます」
「あ……。有田先生」
 大島さんはためらいがちに僕を呼んだ。立ち止まって振り返ると、いつもてきぱきした彼女には珍しく言葉に迷うように視線をさまよわせる。いったいどうしたのだろう。言いにくい話なのだろうか。そう思って首を傾げると、大島さんはようやく意を決したように言葉を発した。
「有田先生はよく黒羽先生と話されていますけど……その、黒羽先生ってかなり風変わりな人じゃありませんか?」
「はぁ……。まぁ、そうですね。……でも、医師には個性的な人が多いから、僕はあまり気になりません。個性的といえば、僕の大学時代の教授なんて、真冬でも裸足に下駄を通していましたし」
「私が言いたいのは、そういうことではないんです。実は、前任者から色々と注意を受けていて……」
 そう言われて、僕は大島さんの前任者について思い出した。前任者は神経質そうな四十代の男性で、メンタルの問題で一時期休職していたのだ。そうして、三月末で退職して病院を去っていった。大島さんは引き継ぎのため、前任者と少しだけ話をする機会があったのだという。
「前任の飯田さんが言っていました。黒羽先生はおかしいと」
「それは、何か理由があるんですか?」
「もちろんです。飯田さんは言っていました。黒羽先生が……ある患者の血を吸っていたと」
「血を? まさか」
 あまりに荒唐無稽な言葉に、僕は思わず言った。前任者の飯田さんは、『ドラキュラ先生』の仇名から黒羽先生が本物の怪物だと思い込んでしまったのではないか。あるいは、後任の大島さんをからかった可能性もある。
 僕がそう指摘すると、大島さんは「私も最初はそう思ったんです」と明かした。
「嘘だって思っていたけど、この間、見てしまったんです。黒羽先生が輸血のパックからストローで血を吸いだすところを」
「ええっ……!?」
 いくら仇名がドラキュラ先生だからって、輸血パックから血を吸うなんて何かの見間違いではないか。それに、輸血パックは献血による血液から作られたものだが、中身は実際の血液とはかなり違う。血液中に含まれるウィルスを死滅させるため、いったん加熱処理などの加工を行うからだ。万が一、黒羽先生が吸血鬼であったとしても、果たして輸血パックの血が吸血行為の代替になるのだろうか?
 僕は大島さんに、黒羽先生について知っていることを皆に言わないよう、口止めをした。輸血パックから血を飲んでいたなんて、普通に考えればあり得ない話だからだ。真実だったら大事(おおごと)だけれど、誤解だったと明らかになれば大島さんが病院にいづらくなってしまう。
 それでも大島さんは少し納得がいかない様子だったので、僕は彼女に真相を調査してみると約束した。それとなく先生から話を聞いて疑惑を晴らすことができれば、大島さんも安心だろう。
 そんなことを考えながら、僕は医局を出て読影室にいるという黒羽先生の元へ向かった。読影室は、患者さんを撮影したX線写真の画像データを確認して病変を発見する場所だ。画像に写った病変を発見しやすくするため、いつも少し薄暗くしてある。読影室に入っていくと、画像データのビューアーの青白い光に照らされながら胸部X線の画像を確認している黒羽先生の姿が見えた。
「失礼します。今日、診察した患者さんの胸部X線ですか? 何か気になるところがありますか?」
 僕が声を掛けると、黒羽先生は顔を上げてこちらを振り向いた。その手の中にあるものを見て、僕はぎょっとする。黒羽先生の手には、ウィダーインゼリーのようなパックが握られていたのだ。しかも、パックは透明で――まさに輸血パックのように見える。
 もしかして、大島さんが言っていたことは正しいのだろうか。僕はした。
「ああ、君。確かにこれは今日、私が診(み)た患者だ。胸部X線には昔の結核の痕が見えるが、こちらは問題なさそうだよ。問題は他の部分のようだが――」
 黒羽先生は何気なく振り返りながら、近くのゴミ箱に手にしていたパックを放り込んだ。僕は近づきながら、思わずゴミ箱の中をのぞき見てしまう。ストローが刺さった透明のパックの中に、わずかに赤い液体が残っていた。
「あっ……!」僕は思わず叫んで飛び退いてしまう。
「どうしたんですか、有田君?」黒羽先生は首を傾げた。
「さっき捨てたのは輸血パックでは? しかも中に赤い液体が残っているようですが……」
 勇気を出して尋ねると、黒羽先生は目を丸くしてから声を上げて笑いだした。
「君、これを輸血パックだと思ったんですか? 私が血を飲んでいると? ははは」
「違うんですか?」
「もちろん、違います。輸血パックに見えるけれど、これはトマトジュースですよ。私は野菜嫌いでね、野菜をあまり食べないので健康のためにトマトジュースをたくさん飲むようにしているんです」
「トマトジュースをこんなパックに詰めた形で売っているものなんですか?」
「古くからの友人が農家をしていて、出荷できずに廃棄するトマトをジュースにして売っているんですよ。輸血パックに似たパッケージなのは、見た目が独特で話題になりやすいからだそうです。最近、SNSで話題になったらしくて、注文がたくさん来ているんだとか」
 黒羽先生の説明には納得のいく部分が多かった。確かにSNSで話題を取ろうと思ったら、奇抜なパッケージで宣伝するのはよい方法だ。僕だって、輸血パックのようなトマトジュースなんて見かけたら、きっと面白がって友人知人にメッセージを送りたくなるだろう。
 ただ、大島さんの話を聞いてからだと、どうにも黒羽先生が怪しく思えてしまう。輸血パックのように見えるトマトジュースというのは、僕を欺くための嘘なのではないか――。そんな僕の疑念を見抜いたのだろうか。
「ああ、それにしても読影室はどうも空気がこもりがちだね。少し窓を開けようか」
 黒羽先生は立ち上がって、窓にかかっているカーテンを開けた。吸血鬼は日光を浴びると火傷するとか、苦しむという話だ。だが、今、先生にそんな様子はない。さらに僕の見ている前で黒羽先生は窓を開け、少し顔を出した。
「ここからは、病院の庭の桜がよく見えるね。もうじき満開になりそうだ」
「そうですね。お花見をしたいですが、忙しくてなかなか……」
「それはいけないな。後で私のトマトジュースをあげよう。忙しいときは、健康に注意しないとね」
 黒羽先生は明るく言った。日光を浴びても平気なようだし、血を飲んでいたわけでもない。黒羽先生が吸血鬼だというのは、やはり大島さんの勘違いだろう。僕は後日、大島さんに黒羽先生が吸血鬼である可能性は低い、と報告した。さまざまな根拠を説明したところ、彼女は納得してくれたようだった。
 そうして日々が過ぎ、ゴールデンウィークを間近に控えた頃。医局に行くと大柄な男性がいた。年齢は六十歳くらいだろうか。筋肉質な彼の体格は、若い頃ならプロレスラーのようだったのではないかと思われた。
「こんにちは」
 僕が挨拶すると、彼はひょいと会釈をしてみせた。
「こんにちは。私は大上という者です。友達を訪ねて来たんですが、ちょっと回診に出ているからここで待つように言われてね。かれこれ、一時間くらい待っているんですが」
「そうなんですね。大上さんのお友達とはどなたですか?」
「黒羽という人です。私は黒羽先生のお父上の患者でね。先生のお父上が私の患っていた難病を治療してくれていたんですが、引退なさるときに黒羽先生に治療を引き継がれたんですよ。私と黒羽先生は年が近くて気が合ったので、もう二十年間も友人付き合いをしてるんです。――ああ、そうだ。うちで作っている商品なんですが、よろしければ」
 大上と名乗った男は、大きな紙袋の中からビニール袋を取り出した。受け取って上からのぞいてみると、中には輸血パックのようなものが詰まっている。それを見て僕はあっと声を上げた。
「これ、黒羽先生がよく飲んでるトマトジュース! じゃあ、大上さんがこのジュースを作っていらっしゃる農家の方なんですね」
「ああ、ご存知でしたか。そうなんです。うちのトマトなんですよ。昔、バーテンダーとして夜の街で働いていたところ、持病が急速に悪化してね。ひどいときは日没間近でもダメで、夜なんてとても出歩けない状態でした。黒羽先生に治療してもらって、もう一度、バーテンダーに戻ろうとしたら、止められたんですよ。君は太陽の下で働く方がいい、とね。実際、その通りでした。昼間に働けて残業や夜勤のないこの仕事は、私の天職ですよ」
 大上さんは嬉しそうな顔でそう語る。黒羽先生に治療してもらって病気を克服したということが、それほど誇らしいんだろう。
 やがて、医局に黒羽先生が戻ってきた。彼は慌てた様子で中に入ってきて、大上さんに言った。
「すまない、救急で運ばれてきた患者を診る手伝いをしていたので、遅くなってしまったよ。早退してお茶にでも行くつもりが、もう十八時になってしまったね」
「ああ、いいんだよ、先生。私はまたいつでも会いに来られる。患者さんの生命の方が大事だ。じゃあ、そろそろ、月が出る前に帰ろうかね」
 大上さんは椅子から立ち上がった。これはお土産だと黒羽先生にトマトジュースのパックを渡して玄関へと向かう。僕と黒羽先生は彼を見送るために一緒に外に出た。見ればすでに西の空が赤く染まっている。一方で東の空には月が出ていた。
「あ、今日は満月ですね」
 何気なく僕が呟き、大上さんが東の空を振り返った。途端、彼は月を見上げて目を丸くする。彼は急に膝をついて、胸を押さえた。
「どうしたんですか!? 胸が苦しいんですか?」
 とっさに僕は大上さんの脈や呼吸、眼球の反応を確認しようと動きかけた。と、そこで大上さんの筋肉質な腕がいっそう盛り上がり、首筋や手の甲に真っ黒な毛が生えてきていることに気づく。彼はもともと体毛が濃い体質なのかもしれないが、医局で話をしていたときには気づかなかった。僕が怯んでいると、黒羽先生が口を開いた。
「私が対処しよう」
 黒羽先生は僕を押しのけるようにして、大上さんの隣にひざまずいた。先生は白衣のポケットから銀製の懐中時計を取り出した。それを大上さんの手の甲に押し当てる。途端、手の甲にあった体毛が引っ込んで肌が見えるようになった。大上さんは痛みを覚えたように呻いて手の甲を押さえる。
 いったいどういうことなんだ? 僕は混乱して状況を見守ることしかできない。
「う、うぅ……」
「君、薬はどこにあるんだい?」
「ジーンズの、尻のポケットに……」
 その言葉に僕は大上さんのポケットを探して何かの錠剤を取り出した。それを飲ませると、大上さんは次第に落ち着いていった。それに呼応するように首や腕を覆っていた体毛も引っ込んでいく。
「そろそろ大丈夫だろう。大上さん、宿に帰れそうかい? 無理なら送っていくが」
 黒羽先生の言葉に、大上さんは首を横に振った。
「平気ですよ。構えなくいきなり肉眼で月を見たのが悪かったみたいだ。面目ない。いつもなら毎日服薬していれば抑えられるはずなんだが。中秋の名月の頃ならともかく、四月にこんな風になるとは……」
「なるほど……」黒羽先生は白衣のポケットからスマホを取り出して操作した後、大上さんと僕に画面を示した。「見てごらん、原因はこいつのようだ」
「あ、今夜はスーパームーンなんだ」僕は思わず呟く。
 スーパームーンとは地球から見た月の円盤が最大になる満月のことだ。約四百日に一回訪れるので、おおむね年に一度はスーパームーンの満月となる。
「あー、スーパームーンでしたか……。あれは年によって次期が違うので、忘れがちなんですよね。症状も和らいだので、タクシーで宿に戻って大人しくしていることにします」
 大上はタクシーで宿へ帰っていった。その姿を見送って、僕は黒羽先生とともに医局へ戻った。
「さっきは驚いたでしょう」
「大上さんの病気は、いったい何なんですか? 月を見て苦しんだり、いきなり体毛が生えたり引っ込んだり……。あの姿はまるで……まるで狼男……」
 思わず言ってしまってから、僕は慌てて黒羽先生に謝った。あまりに突飛なことを言ってしまったと思ったからだ。しかし、黒羽先生は落ち着いた表情で「そうです」と頷いた。
「やはり君には隠しておけませんでしたね。大上さんは、世間で言うところの狼男です。私は以前、狼男としての性質に苦しんでいる彼を治療してその症状を緩解(かんかい)させることに成功したんですよ」
「狼男を治療……? もしかして、先生が治療に成功したいくつかの難病というのは――」
 僕は黒羽先生が発表したいくつかの過去の論文を思い出す。光を怖がる四十代男性、首がものすごく伸びる三十代女性、後頭部に『口』が出現した二十代女性……。あの難病の患者たちはもしかして。
「あなたが想像した通りです。私の患者の何割かは、フィクションで言うところのモンスターの性質の持ち主です」
「狼男や吸血鬼といったモンスターは生まれつきの性質のようなものでは? それを治療するんですか?」
「大上さんを見たでしょう? 彼らの性質には強弱があります。そして、一部のモンスターの性質の強い人は、現代社会に上手く適応できずに困っている場合がある。かといって、昔のように人里離れた場所で生きるのは、人間の生活圏が拡大しすぎた現代では難しいんです」
「そりゃあ、たしかに狼男として生まれて月の出に怯えていたら、夜勤や残業はできませんね。暴れだしたら警察沙汰だし」
「そうそう。そういう性質を投薬で軽減したり、外見上の問題は整形手術で目立たなくするんです」
「なるほど。……じゃあ、先生もそうやって治療を受けて症状を軽減して、医師になられたんですね。吸血鬼じゃあ、血を扱う医師はなかなか大変ですもんね」
「は? まさか! 君は私が吸血鬼だと思っていたんですか? ははは!」
 黒羽先生は笑い出した。その言葉に僕はぎょっとする。
「すみません……! そうですよね。僕ときたら失礼なことを……先生が吸血鬼なわけ、ないですよね」
「もちろんそうですよ。私はどこからどう見ても人間でしょう? 吸血鬼だったのは私の父ですよ」
 さらりとした黒羽先生の告白に、僕は飛び上がりそうなほどびっくりする。僕の反応を見て先生は、楽しそうに笑った。悪戯が成功した、とでも言いたげな顔で。