「〈そうなろうとする万有意志〉とその中のわたくしたちーーカート・ヴォネガット・ジュニア「タイタンの妖女」から」関寧花

〈そうなろうとする万有意志〉とその中のわたくしたちーーカート・ヴォネガット・ジュニア「タイタンの妖女」から 
 関寧花

 Lyrical Schoolというアイドルグループがいる(以降リリスク)。メンバーを変えながら6年ほど活動している、いわゆる「地下アイドル」で、ヒップホップミュージックを主軸とした楽曲が特徴だ。今現在、私はかなり熱狂的に「リリスク」を追いかけている。
 ヒップホップとアイドルは、私の育った家庭では「好きだと公言すると人として程度が低いと思われるもの」のツートップだったので、それを一気に詰め込んだリリスクなんて、私は一生縁がないと思っていた。
 もともとハードロックやメタルが好きな親に「楽器を演奏しないでミュージシャンとしてステージに立つなんてとんでもない。ばかげている」という偏見があり、それらの幼少期からの刷り込みによる抵抗感に抵抗、しようとしたことがきっかけでヒップホップに足を踏み入れたのはつい半年前のことだ。
 tofubeatsやPUNPEEのようなオシャレテクノとラップの間みたいなアーティストに凝りだしていた時期に、tofuが楽曲提供したという理由で聴いたのがリリスクとの出会いだった。ただその時は、とくに引っかかることもなくいい曲ダナーなんて聞き流していた。
 人がなにかを特別好きになる時、細やかな奇跡のような偶然が重なることがたまにある。歌詞が占いみたいにぴたりと自分にはまったり、アーティストが同郷だったり、好きな本や映画が同じだったり、そんな、他人が見ればくだらないことが、本人にとってはその時ばかりはくだらなくない自分とコンテンツをつなぐ決定的な楔になったりするのである。私の今回の場合もそうだった。

 リリスクの最新アルバム「WORLD’S END」はスペースアドベンチャー的要素が多くちりばめられたコンセプト色の強い1枚である。1トラック目の「PRIVATE SPACE」でメンバーrisanoが操縦する一人乗り宇宙船が遭難するという内容の短いドラマ音声が入り、そこからアルバムが始まる。「消える惑星」や「Hey! Adamski!」のようにタイトルからしてコンセプトを意識している曲と「夏休みのBABY」「常夏(ナッツ)リターン」のようなポップなサマーソングが上手にブレンドされて入っているので明るい気持ちで聴くことができる一枚で、メッセージ性も程よく希薄なので通学路で読書をしながら聴くのに最適だと思い、よく聴いていた。
 この「WORLDS’ END」を愛聴していたのと同じ時期に私が読んでいたのが、カート・ヴォネガット・ジュニアの「タイタンの妖女」(浅倉久志訳/早川書房)である。今年の春学期にSF文学の講義を受けていたのがきっかけで読み始めた。そしてこの本は、私が初めて読破した長編SF小説となった。

 「タイタンの妖女」は、アメリカの大資産家マラカイ・コンスタントが破産と同時に火星へ連れ去られ、火星、水星、タイタンを旅する間に体験した出来事が、コンスタントの死まで順を追って書かれた大冒険譚である。あえて言ってしまえば「それだけ」である。コンスタントが火星へ向かうきっかけとなるのがウィンストン・ナイルズ・ラムファードという時空の狭間にいる男で、彼は超次元的に宇宙の様々な空間や時間を行き来し予言を与えることのできる神的存在として書かれている。「すごく面白いホラ話」みたいな、その場の思いつきで言ってんだろ? みたいな物語が、けれど調和を保ったまま、壮大に延々と紡がれる。
 この物語のクライマックスで最も重要な役割を果たすのが、長距離宇宙渡航の最中にタイタンに不時着した「サロ」という異星人である。サロは小マゼラン星雲内のトラルファマドールという星から出発し、その星の科学技術で最も遠いところにある星へあるメッセージを届けるという使命を持っていた。彼は宇宙船の故障でタイタンに20万年ほど滞在することになり、その際にラムファードと知り合い友人となる。ラムファードはサロの持っているメッセージの内容を知りたがるが、サロは「目的地へ到達するまで開けてはいけない」と指示されているため開けられない、自分も内容を知らない。と頑なに拒み続ける。サロたちトラルファマドール星の住人はみな同じ型のロボットであるため、指示を裏切ることなどできないのである。しかしサロはラムファードの最期の直前に友情を証明しろと迫られ、ロボットであるのに感情に屈しメッセージを開封してしまう。その内容は「・」ひとつ。サロの故郷の言葉では「よろしく」という意味だという。この「・」のためにサロは命を掛けた宇宙渡航を命じられ、さらには地球の歴史すら、銀河の外側からの異星人の力により歪められてしまっていたのである。

「WORLD’S END」の一曲目「つれてってよ」の終盤に
 “ 届けるメッセージがたとえ点一つでも 何千光年もon and on
 もちろん時間じゃない それは距離 感じた 君に触れた時
 静かに縮めるディスタンス 自らじゃない 向こうからいつか
 待ってる自分の家 現るは光さす方 つれてってよTONIGHT ”

 というフレーズがある。こうして改めて文面にして書き上げるとくだらない気がするが、物語のクライマックスの最も感極まっている場面でこのフレーズが耳に入ってきた時は本当に驚いたし、偶然というのはこうやって人間の生活を脚色するんだな、と思いながらうっかり大学の学食で涙ぐんでしまった。私はこの歌詞のなかの「点」がどんな意味なのか知っているのである。それがとても嬉しかった。

 こんな風にちまちまとしたことを繋げて喜べるのは私がアイドルもSFもヒップホップもまるっきり門外漢で怖いもの知らず故、なのだが、なにも知らない者はよく知っている者に比べると感動できないなんてことはないと思っており、また感動を表明することを恐れる必要もないはずなのである。仮に不遜だと言われても、私の中でこの出来事は貴重な読書体験として刻まれてしまった。

 「タイタンの妖女」は、主人公マラカイ・コンスタントからすれば大冒険譚であるが、人命を救うためにNASAが奮闘したり、あるいはヒューマノイドが人間を裏切ったり、彗星が地球に降ってきたりしない。すべてコンスタントとその家族という個人的な範囲での物語なのである。火星人が地球に戦争を仕掛けるというシーンもあるにはあるが、結果は地球側の大勝利に終わっている。
 コンスタントはじめ火星人となった元・地球人たちは、火星へ連行される際に地球での記憶を失い従順な火星の兵隊、住人へと脳内を改造される。火星人の来襲というテーマはH・G・ウェルズの「宇宙戦争」以来人々の「SF」という語のイデアに最も近いと言えるだろう。それを逆手にとって「火星人が攻めてきたけど実は元地球人で、しかも激弱だった」という展開に、私はいささか面食らった。そしてここで、これは面白いぞ、と思った。
 コンスタントは火星で「アンク」と名付けられ、そう呼ばれる。つづりはUnk。水星を挟んで地球を再訪したときに着せられる「?」マークのついた服装から推測するにUnknownの頭3文字だと考えられるが、とにかく否定の接頭詞を冠せられた元マラカイ・コンスタント、現アンクは、地球で自分が大資産家であったことなどすっかり忘れて宇宙のさすらいびととして再誕する。火星地球間戦争からコンスタントの地球再訪から、すべてはラムファードの計らいのもとで起きている出来事である。彼はラムファードが発足させた新興宗教の救世主の役割を課せられているわけだが、それは読者とラムファードにしかわからない事実である。このように読み進めていくと、途中まではラムファードが物語の全てをコントロールしているのだと思いながら読むことになる。しかし事はそう単純ではなく、最後に、実は人類の営みそのものがトラルファマドール星人によって歪められていたということが発覚する。そしてアンクとその家族(妻ビアトリスと息子クロノ)は、先に登場した「サロ」の故障した宇宙船へ交換部品を届けるためにタイタンへと導かれたというのである。
 さらにストーリーの説明となるが、サロの故郷の同胞たちは、サロへメッセージを送るために地球の文明を媒介した。いわく、地球上に今まで興り滅んで行った文明の建造物や遺跡は、上から見るとトラルファマドール語の一文になっていたというのだ。そしてこの通信手段に利用されたことで、平常であれば興り栄えたはずの文明が滅んだり起こらなかったりした、というのである。この通信手段のエネルギーはというと、「Universal Will to Become(そうなろうとする万有意志)」などという実体のわからないシロモノであった。
 のちとなっては果たしてトラルファマドール星人の干渉がなかったとして栄えた文明があったのか不明だし、干渉を受けないという選択肢があったのかすらもわからない。地球の内側から見れば神の御技と見えるだろう大きな力の正体が、実は異星人の宇宙船の修理工程だったなんてこんなアホな話があるだろうか。
この物語の重点はこのあたりにあると思う。〈そうなろうとする万有意志〉の末端であるサロは通信のために二十万年もの間地球を観察し続けたことで、情緒という観念を取得する。

“「機械だって?」とサロはいった。たどたどしい口調で、コンスタントやビアトリスやクロノより、むしろ自分に言い聞かせるように。「たしかにわたしは機械だ、そしてわたしの種族も」とサロはいった。「わたしは設計され、制作された。わたしを信頼できるものに、能率のいいものに、予測できるものに、耐久力のあるものにするためには、どんな経費も技術も惜しみなくつぎこまれた。わたしは、わたしの種族の作りうる最高の機械だった」
 サロは自問した。「そのわたしは、どれほどすぐれた機械であるかを立証したろうか?」
 サロはいった。「信頼性? わたしは目的地へ着くまでメッセージを開かないだろう、と信頼されていた。だが、いまわたしはその封を破ってしまった」
 サロはいった。「能率性? この宇宙で最大の親友を失ったいま、わたしは枯葉の上をまたぐのにも、これまでラムファード山を越えるのに使った以上のエネルギーを要するようになった」
 サロはいった。「予測可能性? 二十万地球年のあいだ人間を見まもりつづけたおかげで、わたしは地球のいちばん愚かな女生徒のように、移り気でおセンチになってしまった」”

“「親友よーー見ておくれ」サロは思い出の中のラムファードにむかっていった。「これがきみに大きな慰めを与えてくれますように、スキップ。年とったこのサロには、これは大きな苦しみしか与えてくれないがね。これをきみに与えるためにーーたとえそれが遅すぎたにしてもーーきみの親友のサロは自分の存在の核心に対して、機械であるという本質そのものに対して、戦いを挑まなくちゃならなかったんだよ。
 きみは機械にとって不可能なことを要求した。そして、機械はそれに応じた。その機械はもはや機械じゃない。接点は錆びつき、ベアリングは傷み、回路はショートし、ギアは摩滅した。その心は地球人の心のように、ジージープツプツ雑音を立てている。いろいろの考えで、ショートし、過熱しているーー愛とか、名誉とか、威厳とか、権利とか、業績とか、高潔さとか、独立とかーー」”

 サロは「万有意志」の外側の存在であるラムファードに初めて地球人が言うところの友情を抱き、対話による相互理解とその難しさを、地球人より何千万倍も長い寿命の終わりで初めて体験することになる。その結果、一つの惑星を操ることすらできる大きな万有意志から抜け出し、自由意志のもとで自分の生命をタイタンで断つのである。
 サロたちトラルファマドール星人のもととなる「機械」は、サロたち以前のトラルファマドール星人によって作られたらしかった。彼らは信頼性がなく、能率が悪く、予測可能性もなく、耐久性もなかったという。いわば現在の地球人と同じような、情緒的で脆い生き物がサロたちを作ったのだ。彼らは自分たちの「バカで、トロくて、脆い」ところが嫌で「賢くて、素早くて、丈夫な」機械を作ったはずなのに、その機械の中で最先端に優秀だったサロはかつて彼らが憎んだはずの情緒に殺されてしまったのである。

 このように書いたはいいが、はたして書き手はこんなふうに物語を解体されることを望んだだろうか、と考える。本質的にはとても強固で重たいものが描かれていたとしても、それをあえてわかりやすく書いているのにわざわざむつかしく言い直す必要などないのではないか。
 そこで私はこう考えた。この物語はサロが運んでいたメッセージと同じ構造なのではないか。外見は分厚くていかにも立派な書物に見える。けれど中を見てみれば、読者の私たちが日々悩んでいるのと同じような悩みを、スケールや時間軸を引き延ばしたことで、宇宙のどこかで誰かが大騒ぎしているように見えるだけのことなのである。どこにでもいくらでもあるような、人間関係なんてもので。でも他に何を書きようがあるんだろうか。宇宙の端から見知らぬ星の住人が何千万年もかけてやってきて、「よろしく」以外に何か言うことがあるんだろうか。同じことで、地球のどこかの国の片田舎の少女だろうが、タイタンに住むトラルファマドール星人だろうが、他人からみればくだらないようなことでしか思い悩んだりできないのではないだろうか。仮に私たちの生活が誰かの大いなる力によってコントロールされていようが、なかろうが、たぶんこの苦悩は増えも減りもせず発生するんだろう。そして最も人間から遠い生物(生物?)が私たちと同じ苦悩にのたうち回っている様を目の当たりにすることで、私たちはようやくその苦悩を客観的に、必要なものとして受け入れることができるのではないだろうか。


 Lyrical Schoolの「つれてってよ」を聴きながらヴォネガットの「タイタンの妖女」を読み終えた時、私はこれこそ地球の外の誰かさんによる粋なはからいではないかと本気で思ったし、少なくともこういうことはそうそうあるものじゃない、と確信した。私はあの時たしかに〈そうなろうとする大いなる万有意志〉の中にいたのである。作品そのものの面白さと、その確信が私を二重に嬉しがらせ、このレビューを書くに至った。私は本当に、とてもとても幸せな読者だと思う。

(初出:シミルボン「関寧花」ページ2018年8月16日号を改題)

関寧花(せき・ねいか)
歌人。「ぬばたま」「早稲田短歌」等に短歌を、別名義で「TH(トーキングヘッズ叢書)」に批評を寄稿。