『152』
白い壁に設置された画面に、デカデカと数字が表示される。
「ヒャク ゴジュウ ニ バンノ カタハ シンサツシツニ オハイリクダサイ」
合成音声に呼ばれて、左手のベンチから初老の男が立ち上がる。上等なスーツを着ているが、奇妙なことに靴を片方しか履いていない。男はカタツムリの這った跡のようにカーペットを濡らしながら診察室に入っていった。
濡れているのは彼だけじゃない。待合室は混んでいて、自分を含め大抵の者はずぶ濡れだった。何か大きな事故があったらしい。海の匂いがするから多分海難事故だと思うのだが、記憶が曖昧で、全てがぼんやりしている。空調の調子が悪いのか、時々ひどく大きな音がする。
近くのベンチには親子連れがいて、眠ってしまった小さな兄弟を両側から支えるように若い父母が座っている。
『84』
「ハチジュウ ヨン バンノ カタハ シンサツシツニ オハイリクダサイ」
父親がギクリとして立ち上がり、母親と子ども達を抱きしめてから、ノロノロと一人歩きだす。
「パパ?」
眠いところを起こされた兄が泣き声を上げる。
「パパ、どこ行くの? 行っちゃイヤだ」
家族のところに引き返そうとする父親を白い看護師たちが取り囲み、有無を言わさず診察室へと連れ去ってしまう。
「大丈夫、私たちもすぐに呼ばれるからね」
母親がなだめようとするが、兄はますます激しく泣きじゃくり、その声で弟も目を覚ましてグズリはじめる。
「これ、ちょっと濡れちゃったけど、食べても平気でしょ?」
中年の女がバッグから飴を取り出して、子どもたちに渡す。飴を口に入れた子どもたちは、スイッチを切ったように静かになる。
「ありがとうございます」
母親が小さな声で礼を言う。
「いいのいいの、うちにもこのくらいの孫がいてね、これから会いに行くところだったんだけど……」
『102』『39』『235』
学生風の男、若い女、中年の男。次々に番号が表示され、人々は吸い込まれるように診察室に入っていく。
『12』『87』『52』『53』『190』
「あのう、すみませんが携帯を貸してもらえませんか?」
首がおかしな角度に曲がった男がそう話しかけてきた。
「携帯電話、スマホ、持ってませんか? 僕のは水に浸かってダメになっちゃって。妻にどうしても伝えなきゃいけないことがあるんです」
無意識に抱えていたバッグを開けると、黒いスマートフォンが入っている。取り出して電源ボタンを押しても反応がない。
「お兄さんのもダメですか。困ったな、実は出がけに妻とつまらないことで喧嘩してしまって。だから、『愛しているよ』って伝えたいのに。……とにかく、ありがとう」
首の曲がった男は、使える電話を探して向こうに行ってしまう。
スマートフォンの真っ黒な画面に痩せた目つきの鋭い若い男の顔が映っている。そうだ、これが自分の顔だ。だが、自分は……俺はどうしてここにいるのだろう?
バッグの中には他に何も入っていない。
ゲーム機、お菓子、文庫本、ノートパソコン、アイマスク、編み物、ぬいぐるみ……。待合室にいる人たちの多くは、何かしらの手荷物を持っている。旅行中の退屈を紛らわせるための何か。
『203』『100』『97』『44』『3』『75』
人はどんどん呼ばれて減り続け、待合室にはもう最初の半分も残っていない。いつの間にか若い母親と兄もいなくなり、弟だけがベンチに横たわって眠っている。家族なら一緒に呼んでやればいいのに、なんて配慮が無いんだ。あんな小さな子を一人で放っとくなんて。親だって言いなりになってないでなんとかしてやれよ。
そう言えば、だいぶ前に呼ばれたあの子の父親はどうして戻ってこないのだろう。いや、他の人もそうだ。番号を呼ばれて診察室に入った人間は、誰一人として戻ってきていない。それに、番号。見たところ誰も番号札のようなものは持っていないのに、どうして自分が呼ばれたとわかる? 俺は何番だ?
『0』
「ゼロ バンノ カタハ シンサツシツニ オハイリクダサイ」
心臓が跳ね上がる。0番は俺だと何故かわかる。立ち上がる俺を見て人々がざわめく。
「お前か」「お前がやったのか」「どうして、何の恨みがあって」「何も悪いことしてないのに」
詰め寄ってくる人々を退けて、白い看護師たちが俺を診察室に運ぶ。
「はい。ああ、あなたが0番ね」
見るからに生意気そうな女医が、デスク上のキーボードで何か画面に打ち込んでから、回転椅子ごとクルリとこちらを向く。
「後悔してる?」
答えられずにいると、女医はペンライトをかざして俺の目を覗き込み、「うーん、ダメだねえ、空っぽ。あ、いや、ちょっとは覚えてるかな?」と首をかしげた。
「爆弾だよね? どうやって持ち込んだのか知らないけど、旅客機の燃料タンクの近くの座席に仕掛けたでしょ」
俺が爆弾を? そんなはず……。いや、確かに俺がやったんだ。ペンライトの効用なのか急に頭がはっきりする。そうだ、この汚れた世界を浄化するために俺は自らの命を捧げ……。
「言っとくけど、あなた死なないよ。パイロットが最後まで頑張って、浅瀬に不時着させたの。すごいよねえ。今まで番号を呼ばれた人はみんな助かるから」
何だって? それは困る。誰が生き残っても構わないが、俺だけは助かるわけにいかない。
「嫌だ、死なせてくれ」
俺は懇願する。
「そんな我が儘は通らないの」
「あ、あの小さい子は? あの子を俺の代わりに助けてやって」
「それができるならそうしたいけどね。あんな小さな子が冷たい海に叩き落とされて、生き残れると思う? そんな良心がちょっとでもあるんなら実行する前に考えなさいよ。じゃ、これから私がゆっくりカウントダウンすると目が覚めるから」
女医はそう言って、俺の目の前に指を三本立てた。
「3」
やめろ。
「2」
頼むからこのまま死なせてくれ。
「1」
必死で逃げ出そうとするが、看護師たちに押さえつけられ……。
「0」
体の上を波が通り過ぎてく。
ひどくうるさいのは、……ああ、あれは、ヘリコプターの音だ。
明るくなって、暗くなり、また明るくなる。
「おーい、ここにも生存者がいるぞ」
「お兄さん、もう大丈夫だからね」
たくさんの声が近づいてくる。
俺は目を開けたくない。