「潜入捜査」橋本喬木

「潜入捜査」橋本喬木(たかき)

「面倒をみている情報屋から、いいネタが入ったぞ」
 その情報のお陰で、これまでに何度も警察署長賞をもらっている警部が言った。
「今夜、繁華街にある例のバーで、大規模な麻薬の取引が行われるそうだ」
「ということは、また潜入捜査、するんですか」
「そうだ」
「じゃあ、もしかして」
「もしかして、何だ」
「ボクも行かなきゃいけないんですか」
「当たり前だ」
「……」
「どうした佐竹。早く用意しろ」
「でも、今日は恭子ちゃんと約束があるんだもの」
「何だって」
「先輩、恭子ちゃん、知ってますぅ」
「知るわけ、ないだろ」
「この前の合コンで知り合ったんですけど、綺麗で美人でスレンダーでスタイル抜群で。そんな彼女の方からボクに言い寄ってきたんですよ。グフっ。だから、ボク、絶対に断れないんですよね。
 それで、恭子ちゃんと時間を合わせるために、いつもちゃんと仕事の予定を伝えているんだから」
「何だって。お前、それは」
「大丈夫ですよ。ボクはサラリーマン、ってことにしてありますから。今日だって残業の予定はないってことで、デートの約束を」
「うるさい。恭子か明日香か明後日かは知らないが、デートと手柄とどっちが大切だと思っているんだ」
「そりゃ、もう、きょう」
「今日は潜入捜査だ。用意ができたら、すぐに出かけるぞ」
       ◇
「先輩、この店ですね」
「ああ、間違いない。入るぞ」
 カランコロンカラン。
「いらっしゃいませ。お二人様、カウンターでお願いできますか」
「よく流行っている店だな、満席じゃないか。ざっと見たところ、客は三十人。大儲けだな」
「今日は特別なんです」
 目つきの鋭いバーテンダーが、小さな声で言った。
「ほぉ~、特別、か」
「はい」
「なるほどな」
「で、お飲み物は」
「それじゃあ、オレはマティーニを」
「ボクはソルティドック」
「かしこまりました」

「先輩、このソルティドッグ、美味しいですよ」
「バカ、飲むんじゃない。大切な仕事なんだぞ」
「分かってますよ、ちょっと舐めただけです」
「そんなことより、聞いたか。今日は特別なんだとさ」
「そりゃ特別ですよ。だって、麻薬」
 居合わせた客たちが、微妙な動きをした。
「しっ、声が大きい。せっかくの潜入捜査なのに、バレたら台無しだ」
「す、すみません」
「そうそう。取引の合言葉を教えてくれたな、あの情報屋。でも『鞍馬から牛若丸が出でまして』って、いったいどういう意味なんだ」
「それに、誰に言ったらいいんでしょう。さっきのバーテンかな。もしかしたら、カウンターの端で呑んでいる男。それとも、テーブルでタバコを吹かしている女かも」
「さて、どうしたものか」
「とりあえず、言ってみますか。『鞍馬から牛若丸が出でましてぇ~』」
「バカ、そんな大声を出すやつがあるか」
 思わず先輩警部も大声をあげた、その瞬間。
 カシャ。カシャ。カシャ。……。
 リボルバーの遊底が動く音とともに、バーテンダーをはじめ、店にいた三十人の客が二人に銃口を向けた。そして全員が警察手帳を取り出すと言った「麻薬取引の現行犯で逮捕する」と。
 ところが、「えっ、お前も警官か」「お前も警官」「お前もなのか」「お前も」……、客たちが互いに顔を見合わせたのだ。
「オレたちも警官なんだ」
 三十の銃口におびえながらも、二人は警察手帳を引っ張り出すと、客たちにかざした。
「ということは、ここにいる全員が潜入捜査中の警官ってことか」
 カウンターの端でウーロン茶を呑んでいた男が怒鳴った。
「それじゃあ麻薬取引は。犯人はどうした」
 バーテンダーに変装していた警官が言った。
「オレは、いつもの情報屋から、今日の麻薬取引の情報を買ってきたのに」
「俺も、情報屋から」
「僕も」
「わたしもよ」
 客に変装していた警官たちが、口々に叫んだ。
「オレは十万も出して、今日のネタを買ったのに」
「俺もだ」
「僕は二十万」
「わたしは、五万だったわ」
「ってことは、全員がガセネタを買わされたってことか」
「あの野郎」
「見事に、やられたな」
「あいつ、ボロ儲けしやがって」
「畜生」
 そんな中、「なるほどな」と一人の潜入警官が口を開いた。
「お前、なに落ち着いているんだ。見事にあの情報屋にやられたっていうのに、『なるほど』とはどういう意味だ」
「だから、教えられた合言葉だ」
「『鞍馬から牛若丸が出でまして』ってヤツか」
「そうそう。あれは青菜っていう落語に出てくる言葉で、その後『九郎判官(くろうほうがん)』と続くんだ」
「それがどうした」
「はじめから、あの合言葉には、別の意味が含まれていたんだよ」
「どういうことだ」
「あの合言葉には『苦労』が『包含』されていたってわけさ。今回の情報はガセ。骨折り損のくたびれ儲け、『ご苦労様でした』って」
「そんなアホな」
 店にいた全員が、声をそろえて言った。
 その中で一人、
「だからボクは、恭子ちゃんとデートだって言ったのに。恭子ちゃんに会いたいよぉ~。恭子ちゃ~ん」
 その時。
 カランコロンカラン。
「あっ恭子ちゃんだ。どうしてここに」
「あら、佐竹クン」
「会いたかった」
「わたしもよ。うっふん」
「待て待て待て待て、あれが恭子ちゃんだって」
 つい自分の彼女の顔を思い浮かべてしまったバーテンダーが、くやしまぎれに言った。
「あのスレンダー美人が、どうして、お前みたいなバカに」
「あなたには関係ないでしょ。ねぇ、恭子ちゃん」
「そうだよねぇ、佐竹クン。でも、あなたこそ、どうしてここにいるの。今日は残業がないって言っていたのに」
「だから、ボクは、まやくそう」
「バカもぉ~ん。一般人に対して、簡単に素性を漏らすヤツがあるか。だからお前はダメなんだ」
 上司が叫んだ。そのとき。
「やっぱり、おかしい。どうして、あのバカにあんな美人が」そう独りごちると、突然バーテンダーが叫んだ。「鞍馬から牛若丸が出でまして」
 ところが、
「名を九郎判官」
 条件反射的に、恭子ちゃんが応えたのだった。
「えっ」「えっ」「えっ」……
 一瞬、互いに顔を見合わせた潜入警官たちだったが、次の瞬間には、
 カシャ。カシャ。カシャ。……。
 リボルバーの遊底が動く音とともに、三十の銃口が恭子に向けられた。 そして、すかさずバーテンダーが彼女のバックの中を調べたところ……
 
 それは、情報屋の情報が真実だと分かった瞬間だった。