マンションが建ち並ぶ住宅街を抜けると、真正面に、一面ガラス張りの窓から煌々(こうこう)と白い光をあふれさせているコンビニが見えてきた。
幅四メートルほどの細い道は丁字路になって国道に突き当たり、横断歩道を渡るとちょうどコンビニの駐車場だ。背後には畑と藪がくろぐろと広がっている。
彼は横断歩道の手前で自転車を止め、信号切り替え用のボタンを押した。〝しばらくお待ちください〟の文字が点灯し、車道側の青信号が黄色に変わる。
カーブを曲がって近づいてくるところだったトラックが、急に不機嫌になったかのように見えた。人通りの少ない道なので、彼が渡ってしまった後信号が再び青に変わるまで、トラックは誰も通らない横断歩道の前でぼんやり待たなければならない。
彼も昔は車を持っていたから、ドライバーの気持ちはよく分かる。けれども、信号を切り替えずに車の途切れた隙を狙って渡るということが、どうしてもできなかった。
停止線の前でしぶしぶと停まったトラックの前を、すみませんとでも言うように頭を下げて通り過ぎ、彼はコンビニの駐車場に入った。
午後九時四十五分。ロッカーで着替えてタイムカードを押して、いろいろやっていれば十時前には店に出られるだろう。
通り過ぎるときにふと道端を見ると、コンビニの敷地と道路との境目に設置してあるプランターが大きく欠けていた。昨日の夜、彼が勤務に就いていたときにはこんな傷はなかったから、昼間のうちについたに違いない。
裏口からロッカールームに入り、制服に着替えて売場に出ていくと、弁当とビールを買ったサラリーマンが支払いを終えて立ち去るところだった。レジに入っていた川原君が、ドロワー(引き出し)を腹で閉めながら彼に向かって軽く手を挙げた。
「水野さん、おはようございます」
「おはよ」
夜の十時に変な挨拶だと思いながらも、彼は同じ言葉を返す。川原君は地元の大学生で、彼とはよくシフトが重なる。年齢は十も違うが、同僚の中では一番話しやすい相手だ。
「表のアレ、どうしたの」
レジ前の客が途切れたのを機に、ちょっと顎をしゃくって表のプランターを示すと、川原君は苦笑いして事故ですよ、と言った。
「野良猫ですけどね。昼のシフトに入ってるおばちゃんがエサやってたのかな。夕方になると時々来てたんですけど、それが今日運悪く入ってくる車とがっつん」
「どうなったの?」
「たいしたことないでしょう。片づけなきゃと思ってビニール袋持って出たらいなくなってましたから」
「そうか。よかった」
ほっと溜息をつく彼を見て、川原君が笑った。
「優しいんだから、水野さん」
「そんなんじゃないよ」
彼は首をすくめてかぶりを振った。
「それにしても危ないすよねえ、ここ。あの細い道から出てくる人やら自転車やら、国道走ってたら全然見えないですもんね。いつかでっかい事故が起きるんじゃないかな。ぼくのシフトの時だったらどうしようって思いますよ。人身とか見たらトラウマになりそうで」
口ではそう言いながら、川原君は妙にわくわくした様子で目を輝かせる。若い川原君にとっては、赤の他人の交通事故などホラー映画程度の恐怖刺激でしかないのかもしれない。そもそも、現実で人の死に立ち会ったことすらあるかどうか。
彼は心の中で眉をひそめたが、顔には出さなかった。
仕方がない。彼だって二年前まではそうだった。警察から突然職場に電話がかかってきて、奥さんと息子さんが事故にあったと聞かされるまでは。
二人は彼が駆けつけるのすら待ってくれずに、運ばれた先の病院で息を引き取った。妻とは結婚して五年、息子は幼稚園に上がったばかりだった。
川原君は、彼のそんな事情を知らない。彼も敢えて自分の不幸を吹聴するつもりもなかった。言ってどうなることでもないし、変に気をつかわれたくもない。
ほどなくして、レジの前に客が立った。台の上に、チョコレートやポテトチップスや菓子パンを山盛り詰め込んだ籠が無言で置かれる。客は若い女だった。深夜の常連で、ほとんど毎日やってきては籠いっぱいの菓子を買っていく。
川原君がレジを打ち始めたので、彼は会話をうち切り、店内をざっと見渡した。雑誌コーナーで座り込んで漫画を読んでいる中学生、何やらケラケラ笑いながらウォークイン冷蔵庫の前でふざけているカップル。どちらも当分レジは必要なさそうだ。
なので、川原君に合図をしてから箒とちりとりを持って表に出た。
駐車場に散らばったゴミを掃き集めていると、あきらかに制限速度を上回るスピードで国道を車が通り過ぎていった。ヘッドライトが、欠けたプランターのあたりを一瞬明るく照らす。
ふと、プランターがおかしな具合に汚れているのに気がついた。黒っぽいものが飛沫のように飛び散っていびつな水玉模様をこしらえている。
(事故、か……)
血の量はわずかでもうすっかり乾いていたが、見るだけで頭がぐらぐらして、ひどい吐き気がした。彼はプランターから目をそらせた。彼でなくても誰かが片づけてくれる。
午前零時になると、川原君は勤務時間を終えて帰っていった。
あとは、四時頃に牛乳などの日配便が来るのを除けば朝まで一人だ。彼は大きくのびをすると、カウンターの下に丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。もともと、畑と山と、山を開いてできた住宅地に囲まれた店なので、深夜になると客足もほぼ絶える。
商品の補充や通路の清掃など、やろうと思えば仕事はいくらでもあったが、暇な時間帯にはこうして時々体を休ませるのが、彼のやり方だった。そうでなければ毎晩八時間立ちっぱなしの勤務は持たない。
(そろそろ……)彼は思う。
(本腰入れて仕事探しをしなけりゃいけないんだろうなあ)
時給千円ちょっと。週五日、午後十時から朝六時まで。賞与も昇進もないが一人で食っていくだけならなんとかなっている。それでも、三十を超えてずっと続けていける仕事でないことはよく分かっていた。
家族をなくしてから、彼は何もかもがいやになり、会社を辞めた。一年ほどぶらぶらして、ようやく始めたのがこの仕事だ。週二日から始まり、だんだんシフトを増やしてもらって、なんとか働き続けられる自信もついた。今ならまだ、条件は前の会社より悪くなるだろうが、何か就職口はあるだろう。
(だけど、何のためにだ?)
かつては、家に帰れば妻と息子がいた。今はもういない。
働けなくなって、暮らしていけなくなったら死ねばいいだけのことだ――誰も困らない。
そんな気持ちがどうしても表に出るのだろう。今まで何社か面接を受けはしたが、すべて断られていた。
ほどほどに足を休めると、彼は再び立ち上がった。のろのろとゴンドラの間を縫って歩き、商品を前出ししたり並べ直したりする。雑誌コーナーで何の気なしに顔を上げたとき、それが目に入った。
雑誌コーナーは、棚の前に立つとちょうどガラス越しに駐車場が見渡せる位置に置かれている。今は客もなく、駐車場は真っ暗だ。ちょうど国道の車通りも途絶えている。
コンビニの照明だけがぼんやりと照らし出すその暗がりの中に、白い人影がぽつんと一つ立っていた。
小学校に上がるか上がらないかくらいの子供だ。駐車場の真ん中にまっすぐ突っ立って、彼の方をじっと見つめている。
その白っぽい姿が妙に非現実的で、一瞬ぞわっと寒気がした。深夜のコンビニの駐車場に立ちつくす子供というのはどう考えても不気味だ。
固まっていると、彼が自分に気がついたことが分かったのか、子供はこちらへ近づいてきた。自動ドアがふううん、と気の抜けた音を立てて開く。
明るい蛍光灯の下に出てきた子供は、非現実的でも何でもなかった。薄汚れてはいるが白いシャツを着てズック靴をつっかけた、生身の男の子だった。子供特有の、乳くさいような汗くさいような匂いがふっと広がる。
「いらっしゃい」
彼はほっと体の力を抜きながら、子供に笑いかけた。おそらく近くのマンションの子供だろう。父親か母親が後から入ってくるのだろうと思った。時々、とっくに子供を寝かしつけておかなければならない深夜に乳幼児を連れてコンビニを訪れる親がいる。
子供はきょろきょろと落ち着かない視線で店の中を見回していたが、やがて匂いにひかれるようにカウンターの前に立った。レジの横では、おでんの鍋がほかほかと湯気を上げている。
子供の喉元がぐっと上下して、唾を飲み込むのが分かった。
カウンターに寄りかかり、思い切り背伸びをして鍋をのぞき込む。危なっかしい体勢だ。
一度閉まった入口の自動ドアはまだ開かなかった。早く親が来ないかと、彼は首を伸ばして店の外をうかがう。国道も、住宅地に続く細道も真っ黒に静まり返っていて、人がやってきそうな気配はなかった。
「ぼく……一人?」
おずおずと声をかけると、子供が顔を上げた。子供はずいぶんと大きな目をしていた。それに色が薄い。銅色とでもいうのか――まるでビー玉のような目だ。それが、ひたっと彼を見つめる。返事はなかった。
「お父さんかお母さんは一緒じゃないのかい?」
子供はまるで言葉が通じていないかのように、きょとんとした顔で彼を見上げていたが、やがてまた鍋に視線を戻した。
食い入るような目で、褐色のつゆから顔を出しているちくわを睨みつけている。今にもよだれが垂れそうだ。
「おでん、欲しいの」
「お金、持ってるかい」
何を聞いても返事はない。持っていないのだろうと彼は思った。普通、五、六歳の子供は一人で金を持って深夜にコンビニに買い物に来たりはしない。
「ごめんよ。悪いけど、お金がなかったらあげられないんだ」
彼は、自分でもいやみな動作だなと思いながら、そっとアクリル製の蓋を鍋の上に被せた。湯気で蓋の中が白く曇り、匂いが消える。
子供はちらりと彼を見上げると、おでんが手に入らないことを悟ったのか、くるりと踵を返してドアの方へかけだした。
「ぼく……」
彼が後を追おうとすると、自動ドアが外から開いた。若い男女二人連れが入ってこようとする足下をすり抜けて、子供は店の外へ走り出る。
男女の客は男の方がビールを、女の方がストッキングを棚から取って、すぐにレジに並んだ。精算をすませて二人を送り出したあと、駐車場の方を探してみたが、子供の姿はもうなくなっていた。
朝六時に仕事を終えて、彼は自宅のマンションに帰る。家族と暮らしていた2LDKに、今も一人で住んでいる。朝日のまぶしさに目をしょぼつかせながら店から買ってきた弁当を食べ、ビールか缶酎ハイで無理やり眠って、目を覚ましたら夕方だ。
丸一日経つと、昨夜の記憶はたいていはぼんやりと霞の彼方に埋もれている。
そんなふうにしてすっかり忘れた頃、男の子は再びやってきた。昨夜とほぼ同じ時刻――客足が途絶えて暇になる午前二時頃だ。
彼はその時、廃棄品のおにぎりを棚からはじき出しているところだった。
新製品の焼き鳥おにぎりは売れ行きが悪い。鮭は発注量をミスったんだな――そんなことを考えながら、もくもくとコンテナに古いおにぎりを移す。消費期限は切れているがまだどこも傷んではいない。十分食べられるが、売り物にはならない。
床に膝をつき、うつむいて作業をしていると、頭の上から刺すような強い視線を感じた。顔を上げると、いつの間に入ってきたのか、昨夜の男の子がすぐ横に立っていた。彼の手元を――正確にはコンテナの中のおにぎりを、無言でじっと見つめている。
親らしき人物の姿は、今夜もなかった。
(昨日もこんな感じだったな。腹が減ってるのか……?)
視線の圧力は重たかったが、できるだけ目を合わせないようにして、彼は作業を続けた。金を持って買い物に来たなら何か言うだろうし、そうでなければどうにもしようがない。
廃棄分を全部移し終わると、彼はコンテナを両腕に抱えて立ち上がった。そのままバックルームへ向かう。スイングドアを肩で押して開けかけたとき、視界のすみに、男の子の姿が映った。
オープンケースに手を伸ばし、陳列されているおにぎりを一つつかむ。止める間もなく、入口に向かってかけだした。
「こら、待て!」
彼はコンテナを放り出し、子供の後を追った。
子供の足は思いのほか速かったが、しょせんは幼児だった。駐車場を出るまでもなく、あっという間に追いついた。腕を捕まえようと思ったが、どちらの腕も前にしっかり抱え込んでいるので、しかたなく後ろから襟首を捕まえる。
子供は無言で少しの間足をばたつかせていたが、やがて逃げられないと分かったのかおとなしくなった。
「店の物を勝手に取っちゃだめだ。お母さんに教わらなかったか」
襟首をつかんだまま睨みつけると、子供は、茶色いビー玉のような目を伏せた。
「……行けって」
「はあ?」
子供の口から言葉らしきものが出たことで、彼は不意をつかれた。昨夜の様子では、もしかしたら外国人の子で日本語が通じていないのかと思っていたのだ。
「なんて言った?」
「おなかすいたらここへ行けって」
「誰がそう言ったの」
「おかあさん」
「それは、かっぱらってこいってことじゃないだろう?」
「……わかんない」
子供は途方に暮れたような目をして、彼を見上げる。
彼は溜息をついた。おそらく万引きという概念などないのだろう。この様子では、食べ物は金と引き替えに買うものだということすら教わっていないかもしれない。
それでも腹が減ったら自分で店から調達しろということだけは教えてあるのか。どういう親だ。
「おなか、すいた」
子供は今にも泣き出しそうな顔で、手の中のおにぎりを見つめる。焼き鳥おにぎりだった。必死に握りしめて走ったせいで、半分かたつぶれている。棚にあったものだからまだ消費期限内だが、おそらくもう売り物にはなるまい。
「……しょうがねえな」
彼は子供を地面に下ろすと、手を引いて店の中に戻った。
「いいか。おまえのお母さんがなんて言ったか知らないが、お店の物が欲しかったらお金を払わなきゃだめなんだ」
「お金って?」
「これだよ」
彼は子供の手の中からおにぎりをとると、バーコードリーダーにかざし、レジに金額を打ち込んだ。ドロワーが開く。ポケットから小銭を出して、おにぎりの金額分をその中に入れた。
「これでこのおにぎりはおじちゃんの物になった。分かるか?」
子供は分かったとも分からないとも言わず、彼とおにぎりを等分に見比べている。
「で、おじちゃんはおなかがすいていないから、これを君にあげることにした」
そういって子供の手の中におにぎりを渡してやると、子供の顔がぱっと明るくなった。
「食べてもいいの?」
「今日だけだぞ。この次はお金を持ってこいよ」
子供は返事もせず、フィルムをむしり取ると、おにぎりにかぶりついた。口の端からぽろぽろと飯粒をこぼしながら、必死の形相で喉に押し込む。
その様子から、この子はもう長いことまともに食事をしていないのではないかと、彼はいぶかった。
見れば子供の着ている物は、ずいぶんと汚れていた。白いシャツは灰色に変わり、泥をこすりつけたようなしみがところどころに見える。爪は長く伸びて、全部の指に黒い物が詰まっていた。ちゃんと世話をされていないのはあきらかだ。
ふと気がつくと、子供は食べるのをやめていた。名残惜しそうに何度も舌で口のまわりをねぶりながら、それでもフィルムを戻しておにぎりを包み直している。まだ半分くらいしか減っていない。
「どうした?」
「弟に持ってかえってやる」
彼は再び溜息をついた。ああ、こんちくしょう。勝手にしろ。
「弟の分はもう一個買ってやるよ。だからそれはおまえが食っちまえ」
子供はおにぎりを食べてしまうと、彼が買ってやったもう一つを携えて、店を出ていった。
夜中に一人で帰すのは心配だったが、店を離れるわけにはいかない。せめてどのあたりへ戻っていくのか見ようと入口から首だけ伸ばしてうかがうと、遠くに去っていく子供の後ろ姿が見えた。
横断歩道は渡らず、国道に沿って歩いている。子供の向かう先は真っ暗だった。そちらの方角はまだ宅地開発が進んでおらず、畑と竹藪ばかりが広がっているはずだ。もしかしたら古い農家が何軒かあるのかもしれないが、彼はそちらへ行ったことがないので詳しくは知らない。
どちらにしても遠くであることに変わりはない。
(なんだかなあ……)
いったいあの子にどんな事情があるのだろう。こんな時間に子供を一人でコンビニに行かせる親なんて、そもそもまともじゃない。
それでも彼にはどうしようもなかった。気になる、というのなら深夜のコンビニには他にも気になる客はいくらでもいた。どう見ても父親ではない中年男性と連れだってやってくる少女。いつ見ても生傷だらけの少年。剃刀の替え刃ばかりありえない頻度で買っていく男に、過食症の女。
よけいなお節介をするな、というのが店長の方針だった。ややこしい連中に関わり合いになると、商売に影響が出る。彼も今まではその方針に異論はなかった。このコンビニは店長の物で、彼の物ではないからだ。
それでもあの男の子だけは妙に心に引っかかった。彼の息子が生きていれば、ちょうど同じくらいの年だからだろう。
息子とあの子供は何一つ似ているところはなかった。息子は甘ったれで、もし弟がいたとしても食べ物を持ってかえってやるなどという殊勝なことは言いそうになかったが――。
くすりと笑った後で、急に胸が詰まり、彼は目をしばたたいた。
昼間はなんとか過ごせても、夜中になると一人で家にじっとしていられない。そんな理由で選んだ深夜の仕事だった。だが、どこにいても一人でいるのは同じだ。夜中はたまらない。