子供は次の夜もまたやってきた。昨夜は今日だけだと言っておきながら、彼はおでんを二品食べさせてやり、弟にも持たせてやった。
その次の夜も、またやってきた。今度は唐揚げを買ってやった。
子供は唐揚げがたいそう気に入ったようだった。全部食べた後、油で汚れた指を丁寧に一本一本なめ、さらには容器に残った揚げカスまできれいに舐めとった。
「うまかったか?」
尋ねると、油まみれの口をぱかっと開けて笑った。
「そうか。じゃあ弟にも持ってってやれ」
彼はウォーマーを開け、もう一つ唐揚げを取り出そうとしたが、子供にやったのが最後の一つだったらしく、見あたらなかった。
「しょうがないな。待つか?」
彼は子供をバックルームに入れてやり、唐揚げをフライヤーにセットしてタイマーをかけた。
たいして長い時間ではなかった。が、唐揚げができあがり、バックルームへ様子を見に行くと、子供は床の上で丸くなって眠っていた。
(やれやれ)
彼は子供の隣に腰を下ろした。
(何やってるんだろうな、おれ)
バカなことをしている。束の間の同情で食べ物を与えたところで、この子の環境がどうにかなるわけではない。根本的な解決にはまるでなっていない。どこかで手を離さなくてはならないのなら、最初から手をさしのべるべきではないのだ。
分かっては。いる。
床に手をつくと、子供の髪が手に触れた。細くて柔らかい毛だった。
そして彼は唐突に、息子と初めてこのコンビニに来て、アイスクリームを食べさせてやったときのことを思い出した。ママには内緒だぞ、と二人で約束したのに、ほかならぬ彼が妻にばらしてしまい、三人で笑い転げた。
あれはいつのことだったか。まるで昨日のことのように思い出せるのに、今の彼からは夢よりも遠い。
彼は溜息をついて、膝の上に顔を伏せた。
セットしておいたスマホのアラームが鳴って、彼は目を覚ました。
時刻は夜中の一時半を指している。少し寝過ごしたようだ。アラームは何度か鳴ったのだろうが、気がつかなかったらしい。
彼はもぞもぞとベッドから抜け出すと、明かりをつけて、財布と自転車の鍵を身につけた。
この日、彼は休日だった。店には別のアルバイトが入っている。お金を払って食べ物を買う、というルールをあの子供に教えた彼だったが、彼が店にいない日のことまでは話していなかった。仕事とか、シフトとか、休日とか、そんなことを言って聞かせても理解できるとは思わない。
あの子供は今夜もやってくるだろう。彼がいなくては困るはずだ。
マンションを出て、駐輪場から自転車を引き出し、ぐっと力を込めてペダルを漕ぎ出す。
あの子はだいたいいつも二時頃にやってくる。少し早めに着いて、先に買い物をすませておかなくては。
マンションからコンビニまでの緩やかな下り坂を、自転車は速度を増しながら降りていく。いつもはペダルには足を置いているだけだが、彼は途中何度か踏み込んで加速した。
見る見るうちにスピードが上がり、風が耳元をぴしぴしと叩いていく。
寝過ごしてしまったせいで、予定よりも時間が押していた。あの子が来るまでに間に合うかどうか。
息を切らして自転車を走らせながら、いったい何をやってるんだろうな、と彼は思った。何を一生懸命になっているんだろう。相手は見ず知らずの、赤の他人の子供なのに。
やがて道の突き当たりに、煌々と輝く白い光が見えてきた。コンビニの照明だ。と、同時にレジに立っているのがアルバイトではなく、店長だということが分かった。遠目の上ガラス越しだが、店長はスポーツ刈りの巨漢という特徴ある容姿なので、間違うのは難しい。
おそらく今夜入る予定のアルバイトが来られなくなったのだろう。シフトに急に穴が空くと、店長が代わりに入るのはよくあることだった。
しかも間の悪いことに、あの男の子らしき子供の影が見えた。入口近くのガラスにべったりと張りつくように立ち、中をのぞき込んでいる。
いつもより来るのが早い。
まずいことになったな、と思った。別に店の物をくすねているわけではないし、何も悪いことはしていないのだが、店長はとにかく厄介事に関わりたがらない。事情を知ったらいい顔をするとは思えない。
それでもいつもの習性で、赤信号の横断歩道の前でブレーキのレバーに指をかける。
店では、子供の様子に不審を感じたのか、店長がレジ前を離れ近づいていくのが見えた。
ほんの短い時間の判断の後、彼はブレーキから手を離し、ペダルを踏み込んだ。ゆっくり停まって信号を変えている時間はない。
タイミングを見はからって赤信号のまま渡るなんて、誰でもやっていることだ――
しかし自転車が国道へ飛び出した途端、真横からヘッドライトが彼を照らした。クラクションが悲鳴のように鳴り響いた。すぐ近くに車が迫っていた。
体がすくんだ。
警察から聞かされた、妻と息子が事故に遭った瞬間の様子が頭に浮かぶ。二人は、向かってくる車の真ん前で、まるで車を迎えるかのように立ちつくしたままはねられたという。なぜ逃げなかったのだと思っていたが、きっと二人も動けなかったのだ──こんなふうに。
ヘッドライトの光に目がくらんで何も分からなくなったところで、がつんという衝撃が来た。
彼は前のめりに吹っ飛ばされて、駐車場のアスファルトに転がった。自転車が体の上から倒れ込んでくる。
五秒か、十秒か、意識がなくなっていたのはそのくらいの時間だったと思う。気がついたときには彼は駐車場に大の字に転がり、星空を見上げていた。スポーツ刈りのいかつい顔が真上からのぞき込んでいた。
「大丈夫、水野さん」
店長の顔も声も引きつっている。
「はい、大丈夫」
彼は自分でも驚くほど冷静に、体を起こした。あちこち擦りむいているようだったが、洗ってバンドエイドでも貼っておけば十分な程度だ。絆創膏なら店の中にある。
突っ込んできた車は姿を消していた。
「本当に? 救急車呼ぼうか」
「いえ、全然大丈夫ですから」
彼はうろたえている店長をなだめるように、車には当たっていないからと説明した。衝撃は前から来た。これは確かに覚えている。目がくらんだ拍子に自転車の前輪がプランターに乗り上げ、その反動でひっくり返ったのだろう。
下り坂で自転車に思わぬスピードが出ていたことが幸いした。彼はぎりぎりで車の前を素通りし、ぶつからなかったので車はそのまま走り去ったのだ。
「それにしても、停まるくらい停まったっていいのにな、あの車――」
彼が無事なことが分かると、店長は急に強気になった。
「ナンバー見た? 通報してやろうか」
「いいですって、そんなの。信号無視したのおれの方ですし」
彼は倒れた自転車を引き起こし、店へ向かおうとして、ドアの前に棒立ちになっている子供に気がついた。
そうだ。この子が来ていたのだ。
子供は茶色い目を大きく見開き、凍りついたようにかちかちに体をこわばらせて、たった今事故もどきのあったところを睨みつけている。
(驚かせたかな……)
彼は近づいていって、子供の前で跪(ひざまず)いた。
「びっくりしたか。大丈夫だよ」
頭を撫でようとすると、子供はまるで殴られるとでも思ったかのように、びくっと身をすくめた。
「どうした。いつものおじちゃんだよ。分かるだろ」
もう一度頭を撫でようとして、彼は子供の目の中に激しい恐怖があることに気がついた。目の前で起きた事故を、事故の当事者である彼も含めて怖がっているらしい。全身がぶるぶる震えているのが目に見えて分かった。
なんだか尋常ではない怯え方に思えて、彼は眉をひそめた。
「おい、どうした……」
背後で足音が聞こえた。店長がやってくる気配を感じる。子供はそれをきっかけに、まるで呪縛が解けたようにぱっと身を翻してかけだした。駐車場を突っ切り、国道に飛び出し、あっという間に小さな背中が遠くなる。
彼は立ち上がって後を追ったが、擦りむいた膝が今になって痛んできた。足を引きずりながら何とかしばらく走ったが、子供の足は飛ぶように早く、見る見る引き離される。
四本目の街灯を過ぎたところで子供が国道をはずれ、右手の枝道に入っていったのを見届けたところで、彼は追うのを諦め店に戻った。
「水野さん……」
店長がいぶかしげなるような顔をして、待ちかまえていた。
「今の子、知り合いかい?」
結局、彼は店長にいろいろと誘導される形で、子供に食べ物を買ってやっていたことを白状することになった。案の定、店長はいい顔をしなかった。
「気持ちは分かるけどね、水野さん」店長は言った。
「もう、そういうことはやらないでくれよ。言いたくないけど、ここへ来たらただで食わせてもらえるなんて覚えてもらっちゃ困るんだよ。だいたいいつまでも面倒を見てやれるわけじゃないだろう?」
店長の言うとおりだった。
(今度来たら、ちゃんと話さなくちゃな。あの子の家をつきとめて、警察か、しかるべき役所に通報して――)
それが正しいことなのだ。
だが、翌日の夜には子供は来なかった。次の夜も来なかった。
三日目になると、彼は不安になった。
もちろん、あの子が自分から来るのをやめた可能性もある。それなら何も問題はないのだ。
そう自分に言い聞かせて、彼は三日目の夜を過ごした。もやもやとした気持ちを抱えたまま、店の外が徐々に明るくなるのを見ていた。
朝の六時になり、早番のアルバイトが来たので勤務を交代した。いつものように弁当と缶酎ハイを買い、店を離れる。自転車は修理中なので、今は徒歩通勤だ。
横断歩道で信号が変わるのを待っている間に、彼はふと思いついた。このまま家に帰ってもすっきりしない気分を抱えたまま眠るだけだ。それなら、あの子の家を探してみようか。
子供は国道から枝道を入っていった。その方角には人家はほとんどないし、見つかるかもしれない。見つからなければ――それはそれで仕方がない。彼にとっても、どうしようもなかったことで終わってくれる。
彼は弁当の入ったレジ袋をぶら下げて、国道に沿って歩いていった。記憶通り、四本目の街灯を過ぎたところで枝道に入る。
最初のうちは、舗装こそされていないものの、それなりに道らしい様相を呈していた枝道だったが、いくらも行かないうちに両側から竹が覆い被さってきた。
やがて道とは名ばかりの、一面の竹藪に変わる。崩れかけた小屋らしきものに行く手を遮られるに及んで、とうとう彼は途方に暮れて足を止めた。
(どうなってんだ……?)
笹の間から行く手をすかしてみたが、見えるのは藪ばかりで、とても先に人家があるようには思えなかった。小屋はといえば、もともと農具置き場か何かだったのだろう。崩れていることを差し引いても簡素な造りで、人の住まいではあり得なかった。
(道を間違えたか?)
仕方がない。
戻ろうとして、藪の中に見慣れた色彩が落ちているのが目に飛び込んできた。
赤いボール紙の地に印刷された、馴染んだ文字。彼の勤めるコンビニのロゴだ。
近寄ってさらによく見ると、唐揚げのパッケージだと分かった。褪色もなく水に濡れた後もなく、まだ新しい。拾い上げて鼻を近づけると、かすかに油の匂いがした。
あの子に持たせた奴か。
だが、それならなぜこんな所に?
見渡すと、他にもいくつかのゴミが落ちていた。プラスチックのトレーやおにぎりのフィルム。小屋のまわりを中心に散らばっている。
いやな予感がした。気づかなければよかったと思った。だが、気づいてしまった以上ここで引き返すわけには行かない。
彼はおっかなびっくりで小屋に近づき、いつでも逃げられるように身構えて、中をのぞき込んだ。
黴と土埃の臭いに混じって漏れ出てくる強い臭気が鼻を突いた。動物の糞尿のようなアンモニア臭。そしてそれを上回る腐敗臭。
彼は息を止め、小屋の中に一歩踏み込んだ。
折り重なった板きれの上に、イヤーマフのような大きさの毛皮の塊が転がっていた。もとは白のようだが薄汚れてすっかり灰色になっている。それが彼の気配に反応して、ぱっと動いた。薄い銅色の目が怯えたような表情を浮かべて彼を見つめる。
その視線に見覚えがあるような気がして、彼は思わず体を引いた。
そんなはずはない。そんなはずは――。だが、それならここに落ちているゴミは何だ?
彼はおそるおそる、もう一度それに目を向けた。毛皮の塊がみゃあ、と鳴いた。彼が自分に気づいたことを知って、よろよろと起きあがって近づいてくる。
それは、初めてコンビニの駐車場で彼の方に走り寄ってきたときの仕草にそっくりだった。
「おまえ、か――? まさか――」
彼は信じられない気持ちでレジ袋から弁当を出し、おかずの唐揚げをつまんで猫に与えてみた。猫はよく知っているいいものを見つけた、といったふうに、目を輝かせてためらわずに飛びついてくる。
まだ掌に乗るほどの子猫だった。人間の年齢に換算すれば、確かに五、六歳だろう。
弟は?
彼は折り重なった板きれの下をのぞき込んだ。白と、黒と、茶色の毛皮が見えた。三毛猫だった。乾いた血が黒くこびりついていた。死んでいるようだ。三毛猫の傍らに、もう一つ小さな薄茶色の塊が見えた。こちらも動かない。
彼はしばらく考えた後、スマホを取りだした。
電話の向こうの川原君は眠たそうな声を出していたが、それでも起きていた。
「悪いね。ちょっと聞きたいんだけど――」
「はい?」
「何日か前、店の誰かにエサをもらっていた野良猫が車にひかれたって言ってたよね。あれは三毛猫だった?」
「え? あー……そうそう、そうでした。どうしたんです? 何の話です?」
「何でもない。ありがとう」
彼は電話を切った。
一心不乱に唐揚げにかぶりついている白い子猫の背中に触れる。
そういうことだったのか。あの店に行けば食い物がもらえると、母親に教わったのか。
「おまえのお母ちゃんと弟、死んじゃったな」
子猫の毛は細く柔らかく、体は温かかった。
「もうちょっと早く来てやればよかったな」
彼は子猫を抱き上げた。
「どうだ、一緒に暮らすか?」
子猫は脂まみれの口をぱっくりとあけて、笑うように鳴いた。
〈了〉