
連作「ミネラル・イメージ」(4)
「砂漠のバラ」
大野典宏
急いで来たのは、とにかく話を聞いてもらわないと耐えきれなくなっているからだった。待ち合わせの時間まで待てず、まだ間があるというのに来てしまった。
指定された場所は、チェーン店ではない、昔ながらのごく普通にある喫茶店だった。驚いたことに、彼女は私よりも先に来ていた。私はテーブルの向かい側に腰掛けた。
彼女は私の古い友達だ。同性の付き合いというのは、付かず離れず長く続くもので、知り合ってからもう十数年になる。
ここで待ち合わせるというのは一昨日、数年ぶりに電話で連絡し、急に決まったものだった。だいたいの内容は電話で話しておいた。おしぼりと水を持って近寄ってきたマスターに私は、「ロイヤルミルクティーをお願いします」と言い、彼女の顔を見た。
まずは社交辞令から切り出した。
「お久しぶり」
「ふーん、この前の話を聞いた限り、元気じゃなさそうなのはわかっていたけど、けっこうしんどい状態みたいだね」
「うん、心理的にゴリゴリ削られていっている感じ」
あ、ここで紹介しておかなければならない。二人は幼稚園の頃に知り合い、それから付かず離れずの関係だ。私はグラビアモデルをしている。そして彼女は大学院の理学部に在籍している。古い友人という関係でなければ、二人に共通点はない。だからお互いに気のおけない関係を続けられているのだとも言える。
オーダーしたロイヤルミルクティーが運ばれてくるまで、とりとめのない話をして時間を潰していたが、そろそろ話の核心に入らなければならない。どうやって話を始めようかと迷っていたら、彼女のほうから話を切り出してきた。
「SNSでの炎上って聞いたけど、そんなにキツい話なの?」
そうなのだ。SNSの炎上で苦しくて仕方がないから、とにかく話を聞いて欲しかったのだ。
最近では精神科に通っているし、抗うつ剤や睡眠導入剤が無いとまともに生活できない状態だった。
もちろん、彼女は医者でもカウンセラーでもないけれど、私の性格や生活の背景を知っている人に聞いてほしかった。
「そう。私だけの話なら、SNSをやめてトンズラすれば良いだけなんだけど、親のことで有る事無い事まで書かれているとなると気になるし、他の人から聞かされちゃうんだ。それが厳しくてね」
ちなみに私の父親はメラネシアの出身なので、私もいい感じに目立つ容姿をしてしまっている。だから、私には他にこれといった特技もないため、容姿が役立つグラビアの仕事を選んだのだとも言える。
「でもさぁ、今どきダブルって珍しくもないし、それをとやかく囃し立てるほうがバカなんじゃないの?」
「それはわかってるけどね。でも、下ネタまじりのおぞましい文章が来るし、男性器の写真が送られてくるし、『純粋な日本人じゃない』とか言われたってねぇ。私って日本語しか話せないし、国籍は日本人だし、一体何なの、これ? 純粋な日本人って何なの? こんなのが一日に数百単位で来るんだよ?」
「あー、それで昔からからかわれていたもんね」
「自分って、この世に存在しているだけで迷惑なのかって思えてきちゃう」
「そんな程度の低い連中に付き合う必要なんて無いよ。自分は自分で良いじゃん」
「でも、生まれたときから今までずっと言われてきていて、それがSNSで増幅されているんだよ? しかも徒党を組んで叩きに来ているようだし。それってやっぱりキツいんだよね」
とにかく、昔から目立つ容姿がコンプレックスだった。容姿に関するトラブルから何かとかばってくれたのが彼女だった。
いきなり彼女が話題を変えてきた。
「そういえば、富貴蘭の鉢、まだ増えているの?」
「ああ、なんだか最近は半分くらい伝統園芸職人みたいになっちゃっていて、ネットで鉢を人に買ってもらっているの。私がもらったのもそうだし、買い足した中にはそれなりに価値の高い品種もあるから、良い収入にもなってる。グラビアをやめてもそっちに転職できそう」
私が持っている富貴蘭は母親からもらったものだ。たくさんある富貴蘭の中でも稀少な種だということなので、とにかく大事に育てている。
富貴蘭というのは、東アジア特有の蘭で、木の上で成長する着生植物だ。だから土の代わりに水苔で根をくるんで鉢に植える。香りが良くて花もきれいなので日本では古くから珍重されていて、今では盆栽などと同じく伝統園芸と呼ばれる扱いになっている。
「だったら、それで生活すればいいんじゃないの」
思った通りの返事が来た。医者やカウンセラーにも同じことを言われているのだ。
「そう言われるけど、簡単には辞められないの。契約もあるし、仕事も入っているから断れないし、しかも出れば出るほど悪口が増えるんだよ? これじゃあ嫌になるし嫌いにもなるでしょ。昔から自分の容姿とか生い立ちは引け目に感じていたけど、最近は何だかそれが悪い事のように思えてきちゃった」
「うーん、困ったね。他人事みたいで悪いけど、でも何とかならないものかなぁ。お医者さんの言うことをキチンと聞いてね」
話はそれ以上の進展もなく、その時は別れた。ただ、無事に嵐が過ぎてくれるのを望むばかりだった。
* *
期待に反して嵐は長引きそうだった。やはり、自分の問題は自分で解決するしか無い。そう決断した。
私が生きている以上、この苦しみは消えてくれないのだ。
そこで「混ぜて使ってはいけない」という家庭用の洗浄剤を二つ用意した。これを私の胃で混ぜてやれば良い。
思い切ってひとつ目の洗浄剤を口に含んだ。あまりにも苦しかった。口の中で何か反応が起きている。でも、飲まなければならない。これは私という存在への罰なのだから。我慢しながら何とか二百ミリリットルを飲み干した。
そして、次のボトルを開けた。こちらのほうが苦しかった。後先の問題ではないけれど、これを飲み干せば苦しみ抜いた挙げ句の死が待っている。そう思えば何とか気力を保てた。
* *
現実は、いつも上手く事が運ぶものでも無いらしい。腐乱死体にならないよう、鍵をかけなかったのがまずかった。発見されてすぐに胃洗浄、あとは時間をかけて回復という最悪の結果になった。
書き置きには、蘭のことしか書かなかった。彼女に任せればきっと育ててくれる。そう信じていたのだ。今は離れて暮らしている母からの贈り物。これだけは残しておきたかったのだ。私の代わりに生きてね。
病院のベッドの上で意識が回復した時には、後悔しかなかった。死ねなかったことへの悔しさだけだった。
虚ろな心で窓の外を見ているだけの毎日が過ぎていった。
その一ヶ月後、面会許可がおりたらしく、彼女が病室に現れた。
「これ、本当につまらないものだけど」
私は窓の外を見ているだけだった。彼女はかまわずに続けた。
「こんなものを持ってきたんだけど、興味はあるかな」
彼女は手にしていた包みを開けると、小さな石を取り出した。そこに現れたのは、不思議な形をした石ころだった。
「これ、砂漠のバラって言うんだ。水のあった場所が干上がって砂漠化する際にミネラルが結晶化したものなの。存在そのものは珍しくはないんだけど、出来上がる過程は奇跡って言われているわけ。だって考えてみて。こんな花のような形に結晶化するって凄いと思わない?」
私は黙っているしかなかった。でも、彼女は構わずに続けた。
「あなたが大切に育てていた富貴蘭だって、植物学上の奇跡だってわかっているよね。蘭は菊と同じくらいに種類が多いの。富貴蘭は化石が無いから起源はわかっていないんだけど、昔から珍重されていたし、姿を固定したくて昔の人は陶磁器に模様を描いたんだよ。特に美しいから価値が高くて、お金持ちしか買えないから富貴蘭と呼ばれているの。って、今さらあなたに言うことでもないけど」
彼女は辛抱強く続けた。
「砂漠のバラだって、時には凄く大きくてバラと寸分違わないものだってある。石でできた花なんて気持ち悪いって言う人もいるかもしれないけど、自然ってそういうものなの。私たちじゃ想像もできないような事が起こるわけ。偶然が重なっていろんな事が起こる。そんな世界に生きているの。それが自然の力なの。人工物で満たされた今の世の中では認められ辛いけど、今の無機質な社会の方を疑って欲しい。あなたが大切にしている蘭の種類がなんであんなに多いのかわかる? 厳しい自然の中で、種が分かれる柔軟性を持っていたからだよ。自分の生い立ちが憎いの? だったら、そっちのほうが間違っているの。柔軟性を受け入れられない頭の固い人が 偏見を作っているだけ。蘭を大事にしてきたでしょ。お金のためじゃなくて、愛情があったからでしょ? これだけ命を大事にしてきたんだもん。自分の命も大切にしてね」
言いたいことを一方的に喋ると、彼女は病室を出ていった。
ふと、砂漠のバラを手にしてみた。たしかに、花に似ている。全体の模様が美しい。こんなことが平気で起きてしまう自然の中で、私は自分の容貌だけで悩んできた。小さな話だ。でも、それは人間の社会で生きている以上、とても一人の手で解決はできない。
でも……。
* *
そして一年後、私は復帰した。少なくとも私がここにいることだけは否定させない。写真という記録として、この姿を残してやる。そう決めたのだ。
蘭が数多くの多様な形になったという事実を考えると、蘭のほうが進化という偶然の世界では人間より優れているのかもしれない……、ふと、そんなふうに思った。
そして偶然が重なってできてしまった砂漠のバラも、それを作り上げてしまった自然の力が凄いんだ。だから、私も単なる動物として開き直ることにした。
矢でも鉄砲でも持ってこい、潰せるものならやってみろ!
今までの私は私として残っている。だが、別の自分が私の中で目を覚まし、そう叫んでいた。
注:本作は元女子プロレスラー安川惡斗さん主演のドキュメンタリー映画「がむしゃら」(2015年)から多くを参照しています。
そして木村花さんのような事件が二度と起きないことを切に願います。