「卑劣で残酷な人達」アルカジイ&ボリス・ストルガツキー (大野典宏訳)

卑劣で残酷な人達

アルカジイ&ボリス・ストルガツキー

大野典宏訳

 王は裸で座っていた。道ばたの間抜けな乞食のように冷たい壁にもたれて座り、真っ青な足には鳥肌が立っていた。目を瞑り、体を震わせながら耳をそばだてたが何も聞こえなかった。

 夜中に悪夢から覚めると、絶望的な立場に置かれていることがすぐにわかった。誰かが息をたてながら寝室の戸を叩いていた。足音と甲高い金属音、そして叔父であるバート殿下の酔っぱらった呻き声が聞こえた。「入れろ……私を入れろ……ぶちこわして、地獄に落とせ……」。冷や汗とともにベッドから転がり出て秘密の扉にもぐり込み、我を忘れて地下の通路に駆け下りた。裸足の下で何かが踏みつぶされ、驚いたネズミが大急ぎで逃げていった。それでも彼は何も意に介さなかったが、壁に向かって座っていると、闇やつるつるの壁、施錠された寺院の扉に頭をぶつけた痛みと自分の甲高い悲鳴といった全ての感覚がたった今戻ってきた。

 奴らはここまで入ってこないだろう。彼は考えた。誰もここには入ってこないだろう。王がそう命じさえしなければ。しかし、王は命令などしていない……。彼は声を殺し、ヒステリックに笑った。そりゃそうだ、王が命令するものか!(私が王だ) 彼は注意深く瞼を開き、彼の憂鬱の元、膝にけがをした毛のない足を見た。まだ生きている、と彼は思った。私は生き残る。なんといっても奴ら彼らはここには入ってこないのだ。

 寺院の中はランタン――天井に這わされた長く光り輝くチューブ――の冷たい明かりで全て薄青い。中央には、壇上に大きく重く、輝く死んだ目をした神が立っていた。王は、まだ青二才でみすぼらしい俗人の神父が突然遮るまで、神をじっと、そして不抜けたように見つめた。神父は大きな口を開いて声を出し、裸の王を見つめた。王は再び一瞥し、考えた。ちんけな害虫め、とっつかまえて破滅させてやる。この田舎者に見覚えはないが、来たばかりなのだろう。横柄でみすぼらしい……。まぁ良い、我々は覚えておく。我々はすべて覚えておくぞ、なぁ我が叔父バート殿下よ。父の統治時代には、おまえは隅に腰掛けて手酌で酒を飲みながら黙って座り、目を合わせるのを恐れていた。というのも、おまえはプロスチャガ王がおまえの卑劣な裏切り行為を忘れてはいないことを知っていたからだ。

 偉大とは王たる父のための言葉であり、常に羨望の対象であった。今でも神の化身たる天使どもがあなたの忠告者であれば、あなたは偉大でありつづけていただろう。周知のとおり連中の顔は恐ろしく、そしてミルクのように白く、連中の衣類は裸なのか何か着ているのかさえ区別が付かないものだった。連中の矢は稲妻のような炎で、矢で流浪民を追い払ったことがあったが、連中が頭上に打ち上げただけで大半は恐れをなしたものだ。かつて叔父のバート殿下が飲んだくれてゲップを吐き出しながらささやいたことがある。あの矢は誰にだって打つことができる。特別な発射機が必要だが、天使が持っているものを奪えば良いと。そして、やはり飲みながら、あれさえあれば、なぜないんだ、なぜだ……と言ったこともある。それからしばらくして、テーブルで話をしていた一人の天使が壁から堀に落ちた。足を滑らせたということだろうか。その近くには、両刃の槍を持った叔父の護衛がいた。邪悪で卑劣な行為だ……。人は決して天使と関わらないほうが良い。連中は見た目に恐ろしいが、なぜ恐ろしいのかわからない――天使は幸せで思いやりのある連中だ。ただ、目が恐ろしい。小さくて輝き、いつもきょろきょろと周りを見ている……人間の目ではなく、穏やかなものでもない。それでも人々は平静で、父であるプロスチャガ王は、たとえ彼が政変以前に鞍職人をしていたなどという、思い出すだけで恥ずかしくなるようなことを言えるほどの自由を天使に与えていた……。そのような言われように対し、私は自らの手で目を隠し、耳を塞いだ。だが私は、彼が午後に水晶塔の近くに座って革を切っていたのを覚えている。見事な腕前だった。私は王の隣に腰掛けたものだが、暖かくて気持ちよかった……。天使達は部屋の中で静かにそして調和良く歌い、父は仲間に加わっていた――彼は天使の言葉を知っていた――が、それはいつも大らかで、誰も周りにはおらず……今のように全ての角に護衛が立っているなどという無粋なものではなかった。

 王は悲嘆にくれた。そう、彼は良き父であり、そして長く生きた。あなたは自分の息子に生気があるうちには成し遂げられなかった……。息子も同じく王であり、息子もまたそうしたいと希望している……。だが、プロスチャガは年ではなく、私は五十才を越え、彼は私より若く見えた……。どうやら天使どもが神に彼の健康を願ったようだ……。連中は彼の健康を願い、私の分は忘れたのだ。連中が父の部屋に閉じこめられたとき、そのうちの一人は両手に発射機を持っていたが戦わなかったという話を聞いた。そして死ぬ前に彼がそれを窓から放り出すと青い火に包まれて燃え、灰すらも残らなかったと言う……。発射機は惜しいことをした……。そして連中が言うには、プロスチャガは残りわずかな人生を嘆き、酒を飲み――そんなことは彼の統治が始まって以降初めてのことだ――私を捜し、私を愛し、信じているといったのだそうだ……。

 王は両膝を鼻先に付け、足を抱えていた。それで父が私を信じていたとしてもそれがどうした? 人は己の限界や引き際を知るべきだ……だが私には知ったことではないし、知りたくもない。その時、私には叔父殿下との人間関係しかなかった。

「プロスチャガはまだ年ではない」彼は言った。

「はい。しかし我々に何ができるでしょうか。天使どもが彼の健康を守っています」私は言った。

 叔父は嘲笑いを浮かべてささやいた。「天使どもは、ここでもう長くは歌えまい」

 私は口をすべらした。「それはそうでしょうが、今は連中との駆け引きが肝要で、人間とのものはそうでもありません」

 叔父は冷静に私を見ると、すぐに立ち去った……。

 私は他に何も言わなかった……。空虚で意味のない言葉……。それから一週間で、プロスチャガは心臓発作のために死んだ。それがどうした? それが寿命だったのだ。若くは見えたが、実際には百才を越えていた。我々はみな、いつかは死ぬ……。

 王は驚いたが表情を隠し、ぎこちなく座った。高僧のアガルが寺院に入ってきた。平修道士たちが手で支えている。高僧は王を見もせず、神に近寄ると、高圧的で背が高く、汚い白髪が腰まで伸びているせむしの前に跪いた。王が満足げに言った。

「殿下、あなたは終わりです。あなたには時間がない。私はプロスチャガのようにはいきません。あなたは自分の腸を荒らし、豚のように飲んだ……」

 アガルが豊かな声で言った。

「神よ! 王はあなたに話そうとしている! 彼を受け入れ、聞き入れたまえ!」

 部屋は沈黙に包まれ、誰も息すらしなかった。王は考えた。大洪水が起こり地球が破滅したとき、プロスチャガは神に助けを求め、神はその日に火の玉として天よりやってきた。その夜、地は治められ、洪水は止んだ。そのことからしても今日は何かが起こるとわかる。叔父殿下よ、あなたは終わりだ、あなたの手には負えない。誰もあなたに手を貸しはしない……。

 アガルは立ち上がった。平修道士は彼を支えると飛んで帰り、神に背を向けて頭を腕で覆った。アガルが拳を握りしめた手を伸ばし、神の胸にたたき込むのを王は見た。神の目が光った。恐怖から王の顎が音を立てた。目は大きく、左右の色が違い、一つが毒々しい緑色、片方が光のように輝く白だった。神が息を始め、重く肺病のような音が聞こえた。アガルは下がった。

「話されよ」とささやいた。動揺しているようだった。

 王は四つん這いになり、高僧のところまで腹這いで進み始めた。何をどうしたらよいのかわからなかった。そして何が始まろうとしているのか、真実を完全に話すべきなのかどうか、わからなかった。神は重く低い音をたてながら息をし、王は恐怖のため声を出さずに泣き始めた。

「われはプロスチャガの息子なり」王はあきらめたようにそう言うと息を詰まらせ、顔が冷たい石のようになった。「プロスチャガは死んだ。私は協力者からの保護を求める。プロスチャガは間違えた。彼は自分が何をしているのかわかっていなかった。私は全ての条件を満たした。人々を静め、あなたのように偉大かつ近づきがたい者となった。軍隊を作った……。反逆者バートは、世界を征服しようとする私の計画を壊そうとしている……。ヤツは私を殺そうとしている! 助けたまえ!」

 王は顔を上げた。神はまはたきもせず、緑と白の目で顔を見ている。神は沈黙している。

「助けたまえ……」王は繰り返す。「助けたまえ! 助けたまえ!」

 このとき王は考えた。神が関心を向けないのは、自分が何か間違ったことをしているためではないか。そして今になって突然思い出した。父親のプロスチャガは心臓発作で死んだのではなく、有無を言わさず寺院に入り込んできた殺し屋どもに殺されたのだと天使たちが言っていたことを。

「助けたまえ!」彼は死にものぐるいで叫んだ。

「私は今日死にたくはない! 助けたまえ! 助けたまえ!」

 王は石が敷かれた床にひれ伏し、得体のしれない恐怖にかられて自分の手を噛んだ。左右違う目をした神は、王の頭の上でかれた音を立てながら息をしていた。

   *

「老いぼれた害虫め」トーリャが言った。エルンストは黙っている。ノイズ混じりのスクリーンには、床の上に横たわる、醜くぐちゃぐちゃにはじけた人間の外形が黒く映し出されていた。トーリャが言った。

「計画した時には彼をこうしようと思っていたわけではないし、アランとデレクは生きていた。あなたが決して行おうとしなかった試みをためしてみたかったんだ」

 エルンストは肩をすくめ、テーブルのほうに行った。トーリャは続ける。

「ずっと考えているんだが、どうしてデレクは撃たなかったんだ? 全員殺すこともできたのに……」

「彼にはできなかったんだ」エルンストが言う。

「どうしてできなかったんだ?」

「人類を撃とうとしたことはあるかい?」

 トーリャは顔をしかめたが、何も言わなかった。エルンストは言った。

「まぁそういう話だ。想像してみろ。たいてい嫌な気分になる」

 スピーカーから悲嘆にくれた泣き声が聞こえてきた。自動翻訳機は「タスケテタスケテコワイタスケテ……」と書き残していた。

「卑劣で残酷な人達だ……」トーリャが言った。

初出 一九八九年十一月二二日 新聞「ヴォルガ地方の鉄道員」

元本 ストルガツキイ全集 テクスト社 別冊第二巻

■作品解説

 実のところ、この短編は謎に満ちている。

 いつ書かれたものなのか? どうして地方の専門新聞というマイナーな発表がされたのか?

 しかし、ストルガツキイ兄弟の著名として発表され、全集に収録されているのである。

 内容からすると、カンメラー三部作をはじめとした遍歴者シリーズや「神様はつらい」と共通したテーマなので、その頃に書かれたものだと考えるほうが自然だろう。

 では、なぜ当時は発表もされなかったのか?

 その答えは「わからない」としか言えない。ボリス・ストルガツキイが亡くなってしまった今になると確認のしようが無いのだ。贋作なのかもしれないし、ボツにした(されてしまった)原稿が意図せずに流れてしまったのかもしれない。

 ただ、こういう短編もあった。ストルガツキイ兄弟名義で発表された最後の作品でもあると、希少性のみで翻訳してみたのが正直なところである。

 謎は謎のままでかまわないし、作品としてはそれなりの強度があるので、そのまま一つの短編SFとして読んでみても良いかもしれない。と思う。

 ただ、正式な書誌に入れられてしかるべき作品なのかどうかもわからない謎の短編としてのみ読んでいただきたい。