「月香」吉澤亮馬

 半年前に失踪した御柳風子(みやなぎふうこ)からは月の匂いがした。月の綺麗な夜だった。
「月の匂いは汗や体温で変わるの。ほら、嗅いでみて」
 彼女は固い表情のまま、俺の後頭部へ腕を回した。首筋からふうんと香り立つそれは鉄のような、けれど乳児を思わせる甘さもあり、不思議と癖になる匂いだった。
「ちょ、ちょっと。くすぐったいってば」
「いい匂いだと思うけど、これは月じゃなくて風子のだよ」
「昔から月の匂いがする服を着ていたから、私にまで染みついたみたい」
「そもそも月の匂いってどうやってつけるんだ?」
「服を水に浸して月夜の晩に干すの。そのうちに月の匂い——月(げっ)香(こう)をまとうようになる」
「どうしてそんなものを?」
「家庭の風習でね、香水みたいなものだから。ずっと昔からつけていたんだ」
 ベッドの中、俺は風子の首筋に鼻を押しつけた。
 この夜は鮮明に覚えている。風子と夜を共にした、最初で最後の日だったからだ。
 彼女との出会いは大学だった。俺は高校を卒業後、夜間学部のある大学へ進学した。実家が裕福ではなかったし、地方から上京したいという想いもあり、働きながら大学へと通うことにしたのだ。 
 ある日、心理学の講義を受けていると、異様な『香り』が鼻を掠めた。香りの主はたまたま隣に座っていた風子のものだとすぐに分かった。彼女は背筋を伸ばして講義に聞き入っていたのだが、机に筆記用具などが出ていなかった。うっかり忘れ物をしたのかと思い、テキストを見ますか、と声をかけたのが初めての会話だった。
 それから風子と会うたびに話をするようになった。風子は美人だったけれど表情の変化が乏しく、透き通る声から感情を察するしかなかった。最初は冷淡な印象だったものの、言葉を交わすうちに穏やかで優しい人だと知り、俺は次第に惹かれていった。
 やがて俺が想いを告げると、彼女はしばらく悩んだ後にこう言った。
「私のことを詮索せず、会えるのが夜だけでも良いのなら」
 風子と恋人になれるのなら是非もなかった。会えるのは夜だけ、その時間さえも短かったが、風子と過ごした二か月間は満ち足りていた。他人を心から想ったことなど、生まれて初めてだった。
 けれど、そんな日常はあっさりと終わった。風子が消えてしまったからだ。
 何度思い返してみても予兆は全くなかった。前日の態度や言動にも違和感はなく、その日を境にぱったりと姿を現さなくなったのである。
 日々が過ぎるにつれて記憶は薄れていく。風子の顔や声が朧げになる度、ごく少ない写真や動画を見返しては、記憶を無理やりに補強した。
 ただ、香りだけはどうにもできなかった。自宅に一枚だけ風子のシャツが残っていたが、何度も香りをかいでいるうちに、俺の匂いしかしなくなった。彼女を思い出す時、最も印象に残っていた『香り』が失われると、記憶の中の風子は瞬く間に色褪せていった。
 どうにかして風子に会いたかったが、追いかける術がなかった。連絡先、住所、年齢、家族構成——彼女自身のことは何も話してもらえていなかったのである。彼女が消えてからというもの、喪失感と焦燥感に苛まれる日々を過ごした。
 そんなある日、大学から自宅へ帰っている時だった。人気のない路地で一人の老婆とすれ違った。
 鉄っぽさと甘さのある香り——月香がした。俺は慌てて来た道を引き返した。
「あの、ちょっといいですか!」
 老婆がこちらを振り返ると、さらに驚いた。その顔に風子の面影があったのだ。
「何の用かね」
「いきなりすみません。もしかして、御柳風子さんを知っていますか?」
 老婆は問いには答えず、鼻をすんすんと動かした。
「これは……風子の月香か? なるほど、風子の知り合いかい」
「や、やっぱり! 風子のご家族の方ですよね? 風子さんと連絡がつかなくなってしまって、今どこにいるかご存じではないですか?」
「知りたいか?」
「はい、何でもします。だから教えてもらえませんか」
 俺はその場で膝をついて頭を下げた。また風子と会えるのであれば、土下座など苦にならなかった。
「ちょうど働き手が足りなかったところだ。そうだね、二ヶ月の間でいい。月香の仕込みを手伝うのなら風子のことを教えてやろう」
 俺はその場で即決した。翌日、大学や職場へ連絡を入れてから、老婆と共に東北地方へ向かった。老婆はかよ子と名乗った。
 月香は人里離れた山奥で仕込まれていた。山荘には二十代から四十代までの女性が四人働いており、皆同じように口数は少なく、また肌が雪のように白かった。
 月香は風子が言っていたように、仕込みそのものはシンプルだった。湧き水で衣服を洗い、それを月の浮かぶ日に干すだけである。この工程を一ヶ月ほど繰り返すと、衣服が月香をまとうらしい。
「絶対にしてはならないことは、太陽に晒すことさ」
 月明かりの下、かよ子さんは干された服に触れながらそう言った。
「どうしてですか?」
「月香は繊細なのさ。お日様の香りは強いから、あっという間にかき消されてしまう。香りが定着するまでは干した服は暗いところで保存しなければならない。私たちも月香に影響がないよう、極力日光を浴びずに暮らしている」
「徹底してますね」
「山に来たばかりのあんたに服は触れさせられない。力仕事をしてもらうよ」
「あの。何でこれほど手間暇をかけて、こんな香りを作っているんですか?」
「欲しがる人間が少なからずいるからだよ。あんただって分かるはず。月香なんぞに心惹かれるなんて、良い趣味をしているわ」
 こうして俺は山荘で働き始めた。日中は窓のない山荘から出ることさえ許されなかった。夕方前に目を覚まし、分担制の家事をして時間を潰す。夜になれば月香の仕込みが始まるものの、これがとても過酷だった。
 俺に与えられた仕事は湧き水の運搬だった。日が落ちてから大きな甕を背負い、獣道を何往復もする。水がたっぷり入った甕を運ぶだけでも体力を使うというのに、懐中電灯一つで夜の山を歩き回るのだ。明け方には体力と神経を消耗しきる日々を過ごした。
 当然のことながら、山荘は月香で満ちていた。
 しかし、俺の知っている月香とは匂いが違った。山荘に満ちているそれは、錆びた鉄のようで鼻の奥がツンとする。嗅いでいたくなるような癖のある匂いとは言い難く、どちらかといえば不快な匂いだった。
 そこで困ったことが起きた。風子の月香を思い出せなくなりつつあったのである。彼女の匂いはもっと甘く柔らかかったはずだった。ところが、山荘の月香が嗅ぎ慣れてしまったせいで、記憶にあった風子の匂いが相当薄れていた。
 このままでは風子の一部を忘れてしまう——必死になって記憶を辿ると、彼女の言葉がふっと思い浮かんだ。
『家庭の風習でね、香水みたいなものだから』
 香水は体臭と混ざることで香りが変わる。もしかすると月香も同じなのではないか。風子の匂いに近づけるのではないか、と考えついた。
 俺は山荘で働く女性たちに、匂いを嗅がせてほしいと頼みこんだ。最初のうちは拒否されたり怪訝そうにしていたが、何度も頼むうちに全員が頷いてくれた。
 元々、他意は無かった。だが、すぐ近くで他人の匂いを嗅ぎ、肌に触れてしまえば理性に歯止めが利くはずもなかった。この山奥には刺激も娯楽も無かった。やがては人目を盗み、女性たちと頻繁に肌を重ねるようになった。
 それでも、女性たちの匂いは風子と違った。匂いには個人差があり、月香単体よりも癖になる感覚はあったが、いずれも甘ったるさが欠けていたのだ。
 そんな中、最も風子の香りに近かったのはかよ子さんだった。かよ子さんだけは離れで生活しており、俺や女性たちは母屋で暮らしていた。また彼女は俺たちを監視するだけで、決して月香の仕込みには関わらなかった。
 俺が辛うじて風子の香りを覚えていられたのは、かよ子さんのおかげだった。かよ子さんが珍しく山荘に来た後、俺は必死になって部屋の残り香を嗅ぎまわった。それが風子の香りと似ていたものだから、何とか記憶を保っていられたのだ。
期限の二ヶ月はあっという間に過ぎていった。
 最後の晩、俺は離れに向かった。戸を叩いて部屋に入ると、彼女は一升瓶に入った酒を飲んでいた。女性たちはあくせく働いているのにいい身分である。
「夜更けになんだね」
「短い間でしたがお世話になりました。貴重な体験ができました」
「ああそうかい。それで満足できたなら良かった」
 するとかよ子さんが湯呑を差し出した。何だか様子がおかしいと思ったが、その顔をよく見れば完全に出来上がっている。
 そこで、俺はひたすらお酌に徹してしこたま酒を飲ませた。かよ子さんと無駄話をしたことは無かったが、酒が進むにつれて彼女の舌はよく回った。
 かよ子さんの目が眠たげになったのを見てから、俺は本題を切り出した。
「そろそろ風子のこと話してくださいよ」
「風子ねえ……かなりやんちゃで手の付けられないお転婆だったなあ」
「風子がですか?」
「遊ぶのにしょっちゅう付き合わされたね。隣の里まで行こうとして迷子にもなったこともあった。その辺で採ったキノコを無理やり食べさせられて、腹を下したこともあったか。同い年の男の子相手にも腕っぷしは負けてなかった」
「俺の印象と全然違いますね」
「ああ、あの頃は良かった。この辺りにもたくさんの人が住んでいたもんさ。今じゃ寂れて残ったのは私が最後——」
「風子は、今どこに?」
 かよ子さんはじっと俺を見てから、苦笑いを浮かべた。
「くくっ、そうだった。あんたはそれを知りたくてここに来たんだ」
「ええ」
「知らんよ。私も探しとる」
「……は?」
「居場所を教えるとは言っていない。そもそも知っていたら山を下りんね」
 かよ子さんは立ち上がるとよろめいた。ふざけるな、と言葉にするより早く体は動き、部屋を出ようとした老婆をその場で引きずり倒した。そのまま馬乗りになると、少し冷静さが戻ってきた。
「大概にしろよ。人をこき使っておいて何を言ってるんだ」
「騙したわけじゃないからねえ。勘違いした奴はいるが」
「この婆が!」
「年寄りに暴力とはろくでもない——」
 かよ子さんの言葉が止まった。緩んだ酔っぱらいの表情から、顔に明確な嫌悪感が浮かび上がった。
「——女たちを抱いたな」
 次の瞬間、かよ子さんが暴れだした。やせ細った体とは思えない力だった。少しでも気を抜いたら跳ね退けられると思い、負けじと体重をかけた。
「離せ!」
 鈍い音と衝撃があってから、目の前が薄暗くなった。すぐに視界は戻ってきたが、頭が酷く痛む。倒れたまま見上げると、一升瓶を持った老婆が立っていた。
「隠れて女たちを抱いていたな。屑が、汚らわしい!」
「な、何をするんだ……」
「近寄るんじゃないよ。あんたの体からはっきりと月香がする。山に二ヶ月いたぐらいじゃ染みつくわけがない。それもあの女たちの月香が入り混じった気味の悪い香りだ」
「それがなんだ。月香はあんたからもする」
「いいかい、日光には殺菌効果がある。けれど月明かりは、とある細菌を活性化させる。その細菌が活性化している時にこそ、あの鉄のような匂いがするんだ」
「細菌?」
「名は無い。だが、その細菌は屍に仮初の命を与える」
 頭が熱くなっている。殴打されたからなのか、それとも月香の正体を知ったからか。
「ま、まさか、風子は……」
「私の姉だ。七十年前にどこぞの男と駆け落ちした。風の噂では月香をまとい、今もどこかを放浪していると聞いていたが……その様子じゃあ、風子も抱いたのか」
「っ……」
「屍を慰みものにしてきた気分はどうだい。いや、慰みものにされたのはお前だ。風子にしろ、ここの女たちにしろ、失ってしまった生者の温もりを求めただけ。それ以外の情なんて持ち合わせてすらいない」
 かよ子さんは一升瓶を振り上げた。
「あんたはこの神聖な山で禁忌を犯した。屍と交わった者は去るのみ。消え失せろ!」
 凄まじい剣幕だった。このままでは命が危ないと思い、急いで出口へ向かった。力が体に上手く入らず、何歩か進んでは転んでを繰り返し、時に這って山荘を飛び出した。
 山荘が見えなくなってから、草陰に隠れて仰向けに倒れた。視界がぎらぎらと瞬いて歪む。額から流れる血も止まらなかった。呼吸は落ち着いてきたのに、頭の痛みは徐々に強さを増していた。
 思考が溶けていく。目が勝手に閉じる――。
 目を開けた。いつの間にか空の片隅が明るくなりつつあった。頭部の出血は止まっており、痛みも随分和らいでいる。
 今の俺はどちらだ。生きているのか、それとも屍か。その答えは朝日に照らされた瞬間に分かるのだろう。朝日が昇る直前に「風子」と口にしていた。
 山間(やまあい)から朝日が差した。夜の終わりを告げる日差しは柔らかく、俺の体をゆっくりと温めてくれた。
俺は生きていたらしい。太陽が天高くなるまで日を浴びてから、自分の足で歩いて山を下りた。
 結局、俺は風子のことを理解できていなかった。彼女が月香をまとった経緯も、大学の講義を聞いていた心の内も、俺と肌を重ねた動機も、何も。これらの真実を知る術がない、と実感した途端、山で過ごした日々が遥か昔のことのように感じられた。
 再び大学へ通い始めたのだが、俺の日常は僅かに変わった。
 体から月香が消えなかったのである。日中に活動する生活に戻ったから、月香の原因である細菌は死滅しているはずなのだが、それでもなお香る。
これは山荘の女性を抱いた影響なのだろうか。けれど、あの女性たちとも、山荘に満ちていたものとも、かよ子さんとも、風子とも違う。これは、俺だけの月香だった。鉄っぽくは無く、花を煮詰めたような甘さだ。
 それからというもの、ほんの少し人から声をかけられるようになった。月香は他人からすれば魅力的に感じるらしく、老若男女問わなかった。しかし、変わったのはその程度だった。人格や世界が大きく変わるような、そんな大それたものではなかった。
二ヶ月も経つと、俺の月香は消えてなくなった。昼間も普通に出歩いていたので、太陽によって搔き消されたのだろう。元の日々がようやく戻ってきた。
 そのはずなのに。俺の心にはまだぽっかりと穴が空いている。
 大学からの帰り道、何気なく夜空を見上げれば、月が明るかった。
 無意識に風子のことを考えてしまった。出会った頃のことや他愛ない雑談、そして何より風子の月香——。
 そこで愕然とした。風子の香りが、思い出せなくなっていたのだ。
 いくらあの香りを思い出そうとしても、記憶にあるのは自分の月香だけ。大切な一夜を鮮明に思い出せるのに、最も印象に残っていた香りは上書きされ、もう呼び覚ますことすら叶わなくなっていた。
 失ったのだ、と気づいて、ようやく泣いた。