「騎士」澤井繁男

 連れ合いを早くに亡くした父は、私たち夫婦とともに一五階建てのマンションの最上階の住居に暮らしている。朝はだいたい四時半過ぎには目をさましているらしい。夫婦との寝室はべつなので、いつ起床しているかわからないが、朝刊を一階のエントランスに並ぶポストに取りに行った折いつもこう言う。毎回エレベーターが一〇階で止まっている、一〇階の住人がそのまえに一階に下り新聞を取ってもどってきている、誰だか知らないひとが自分の先に取りにいく慣例ができあがっているようだ、と。ちょうど五時一五分だという。父にとってこの習慣にもなったようなことが大切で、八階で停止していた日は終日機嫌がおもわしくない。自分の一日の最初の仕事は、毎日みずから定めた規則通りでなくてはならないのだ。これは年のせいだと考えていたが、父が胃潰瘍で入院して新聞係が私にまわってきたとき、九階に停まっていなくてはその日の出鼻をくじかれた気がした。父の心境がわかったものだが、こういう些細なことで日々が成り立っているようだ。
 退院してきた父はしばらくの静養を経て、また復帰した。朝の時間の使い方も元通りとなった。新聞を取ってくると父は町内の散歩に出かける。附近はは問屋街で、日中でも静まり返っている。朝はなおさら人影も車の往き来もない。コンクリートの隙間から伸びている植物をむしり取ってきて妻にみせながら、草ってやつは強えーなあ、と感嘆の声を上げる。
 もうひとつの朝の行事は、前日の夕刊に記された日の出を確認することだ。幸い東側にベランダがあるので、自分の許せる時間内での日の出だけを見定めている。晴天がつづいてくれるとありがたいが、梅雨や秋の長雨の時節など、浮かぬ顔だ。夏至の前後が愉快らしい。日が昇ると、私たち夫婦が床についていても、一日の始まりだぞと声をかけてくる。十中八九無視する。父の入院時、私が前日の夕刊で調べて日の出をみていた。
 
 父は朝食後、ベランダに出て旅客機を見上げる。W飛行場がすぐ近くにあるので、北海道や九州へと飛び立ち、マンションからみえる地点で旋回をみて無事を祈る。往来は一日中尽きないから空ばかりみている日もある。人生の黄昏(たそがれ)どきを、どうすごそうと自由だから口出ししないが、孫をみせてあげられなかったのは残念におもっている。不妊治療も試みたが実を結ばなかった。実に平凡なことなのだが、平凡こそ老齢な父には第一だ。たいていの家族でみられることを父は経験できていない。
 新学期が始まると、ベランダから小学生の通学を見下ろすのが愉しいらしい。学区の児童たちが、道路の向こうの歩道を長い列をつらねて、二キロも離れている小学校に通っている。地元の広報誌で知ったが、朝、交通量のある幹線道路のそばを通っての登校路は危険だ。広報では小学校をもう一校新設する予定と記されていたが、それから二年も経っている。ベランダの西向かいには支援学校もあって、バスでやって来る児童たちが到着するまえに教員たちが通勤してくる。父の目には彼等も映しだされているに違いない。
 それは日曜日の夕食後のことだ。父がいつになく昂揚した面持ちでいった、新設の小学校実現のためにこの老体を捧げてみたい。捧げてみたい? 私はその言葉の重さにとっさに聞き返した。ああそうだ。父は大きく首を縦に振った。妻もおどろいて、市役所に掛け合うつもり? そういうことになるかな。まずは二年間も建設がほったらかしにされたままで、通学時の児童が危険にさらされている。見て見ぬふりはできない。確固たる意志に貫かれている言葉だ。父の、それこそありきたりのサラリーマン人生で、こうした意思表明ははじめてだ。拓郎、おまえも手伝え、いいな。オレには仕事が……。休日だけでいい。まずは署名活動からだ。一体全体、父のなかでどういった化学変化が起きたのだろう? 
 拓郎、死が生の変異(へんい)だということを知っているか? えっ、それって、いきなりどうしたの。思いもかけぬ父の哲学的発言に私は狼狽した。父に何かが憑依したか。観察者だった父が参画者に変化した。生の変異が死。観察者の変異が参画者。この二つは並列か。私は答えられなかった。署名をもらいに父と一緒に各戸を歩くうちに、早晩何かがみえてくるかもしれない。そして何かが起こるだろうという予感が萌(きざ)した。
 いつからまわりはじめるわけ? 
 きまっているだろうが、大川の花火大会が済んでからだ。大会にはまだ二ヶ月もある。真夏のこの街の風物詩だ。先日一〇階に住むご老人夫妻――この夫婦のいずれかがいつも朝刊をうちより一足さきに取りにゆくのだーーが私の押した一五というボタンを確かめて、一五階では大川の花火が、花を咲かせて散ってゆくまでみられるでしょうね、と悔し気に訴えた。一〇階じゃ、花火が上がる途中と落下の散りざまだけです。はあ、それは……。でも地震がきたときの揺れといったら、といいわけしようとしたときにエレベーターが一〇階に着き、老夫婦が降りたので、それっきりとなった。それぞれの階にはいろいろと不平不満があるのだろう。管理人さんがいっていた。一〇階までは隣のビルのおかげで虫の死骸や葉っぱが床に散らばっていないが、それ以上の階は吹き曝しだから掃除のしがいがある、と。皮肉に聞こえなかったから不思議だ。これも私のなかでなにかが変異して、本来の皮肉を皮肉と受容れられなくなったせいか。
 ある初夏の朝、父は朝ご飯のあと、おっとり刀で外にとびだすと、その七分後には小学生の登校の列のいちばん車道寄りに、児童たちを車から守るように、両腕を拡げてたずんでいた。弁慶の立往生といった父の背を妻とベランダから眺めた。あれで安全の役に立ってるのかしら、と妻がつぶやいた。私は突拍子もない父の行動をどう表現したものか途方にくれた。これが毎朝つづけばそういう志を父のなかに見出せようが、果たして明日も、雨の日も実行するだろうか。
 父は文学者でも何かの研究者でもないが、書斎を持ちたがり、狭いマンションの一画を所有してご満悦だ。みずからを書斎派と呼び、よもや児童の登校の安全確保に身を挺する人物とは思えない。だが署名活動をしたいといったのだから、想定内と解すべきなのかもしれない。こうした概念遊びなど苦手な私とすれば、ただ父の行動を観察するしかない。思った通り翌朝、父は交通安全とは無縁の朝寝を愉しんだ。老いた父は朝がはやい分、熟睡できていないのだろう。朝食後ソファで寝込むことがままあった。満腹が誘う心地よい眠りのようで、妻によれば私が出社後しばらくして目を覚まし、うあーと両腕を伸ばし深呼吸するのが常だという。ここから父の一日が始まる。まるで脱皮して成長してゆく蝶さながらに、老いた父にはそうした変化が必要で、いつの間にか身についてしまって、もはや自然体の部類に入る。
 夜半過ぎまで父は書斎と呼ぶ一画で、たいてい本を紐解(ひもと)いている。K市から遠望できる山々というカラー写真版の豪華本だ。父は活字の詰まった本に関心はなく、日本植物図鑑、日本の湖水、都会の花々、といった類の本をとっかえひっかえ毎晩みている。読んでいるとはとても思えない。視覚に訴えるものが好きなようだが、世界的に著名な画家や日本近現代絵画集などのようなものには興味がない。だが自然派といえばそうではなく、あくまでK市の中心部で生まれたことを誇りに思って、生粋の都会派を自認している。いまの住居はわけあって、同市の郊外のマンションにあるが、あくまで中心地生まれを基準とした、眺望できる山々に興味を寄せている。
 若い頃父は登山が好きだったようだ。妻にも私にも機会があるごとにラムネ山登山の自慢話をする。ラムネ山とはいささか奇妙な名前だが、マンションからもみえる標高二千メートル前後の、いわゆる登山のメッカだ。父は幼友達とともにその山の制覇(せいは)をめざして出かけたそうだ。しかし年上の友人が登山に詳しく、麓(ふもと)までゆくまえに測って、雲の色や厚みとでラムネは雨で危険だ、止めよう、と家路(いえじ)についたという。こうしたことが二、三回あって、結局、ラムネ山には登ったことはないのだそうだが、父にはラムネ山を目指したことが自慢で話題にしたのだろう。
 
 花火大会も終わった晩夏のある夕暮れ時、父はサイレンをつかまえてくるといって、とつぜん玄関を飛びだした。下駄をつっかけてエレベーターに向かった父を私は止めようとしたが、奇しくも一五階に停まっていた箱に父がさっと乗り込んだ。扉が目の前で締まり取り逃がした。父はもう小学校新設のための署名活動の件をすっかり忘れていた。私も面倒なことに携(たずさ)わりたくないので何も口にしなかった。サイレンを捕(と)らえにいくとは、パトカーか救急車かのいずれだろうが、私の耳にはいっさい音は聞こえてこなかった。父の目的はいったい何か? いや、そうした対象などハナからない。そうに決まっている。でも父には音が聞こえ、その音を捕縛(ほばく)しようとでも思いついたのか。音は逮捕できるのか。もし父がそれを実行して帰宅したらミモノだ。
 三〇分後、父はすごすご引き返してきた。音にまんまと逃げられたとこぼした。どんな音だった? と問うと、徹子(てつこ)の姿をしていた……。徹子とは亡くなった母の名だ。母はこの文字に則した、いや生き写しの生涯を送った。そして潔く世を去った。父は母の死をなかなか受け止められず呻吟(しんぎん)する日がつづいたが、ある日私が思い至って母が鳥となって天上に馳(は)せたのだというと、得心が要(い)ったようだ。念頭にプラハに暮らした作家の著名な小説があった。虫でなく鳥に変えたが、「変身」のひとつの読みとして、虫となっても人間の心を失わなかった主人公を、鳥となった母に重ねて語った。死は生の変異だよ、父さん。母さんもそれと一緒だ、と。論理などなかった。でも父は感じてくれたらしく、そうかそうだな、と深く頷いた。妹など母が死去したら一週間後に父さんも死ぬ、と予想を立てていたが、父は生き延びた。
 雨の日、父はぼんやりと窓辺にたたずみ雨を眺めた。言葉では表現仕切れない茫洋とした雰囲気が背中を染めていた。八六歳になった父が何を思っているのか。生きているからには、何かを感じているのだろう。老境という便利のよい言葉があるが、父の場合、自分が老人だとは考えてもいないだろう。それは六二歳の私の心境がいまだに一八歳当時と変わっていないと常日頃感じているのと同じだ。父の心は青春期のどこをさまよっているのか。鳥に変身した母を仰ぎみているのか。
 父がサイレンを捕(つか)まえてくるといって外出する日がだんだん増えていった。私が勤務中で留守のときでも、妻に言い置いて出てゆくそうだ。収穫の類はなく、がっかりしてもどってくるという。妻がとうとう気味がわるいといい始めた。妹は父さんならとうぜんだと感想を述べ、あとは私に任せるといった。
 妹は父が母にどれほど迷惑をかけてきたか身に染みて知っていた。だから当然の報いだという。父はそれすらすっかり忘れていた。迷惑もこの夫婦間では当然だと考えている節がある。母も受け容れてきていた。妹にとやかくいわれる筋合いはない。夫婦の関でしかわからないものがあって、それで父母が充たされていたのなら半畳を入れる余地は子供にはない。私たち夫婦は家事を分担している。父には新鮮に映るようで、オマエタチハ変ダ、とか、立派ダとかいろいろな解釈をした。どれでもよかった。父にこれから新規なことを求める気もなく、家事を手伝ってもらいたいとも思わなかった。父は父としてありのままに生きてほしいだけだ。
 ただサイレンの音を捕縛しに行くというのには手を焼いた。
 音など捕まえられるものではない。父の五感のなかのひとつかふたつかが壊れているのでは? そう思うと雨をじっと眺めている父の背中が思い出され、私は進退窮(しんたいきわ)まった。父の想定上の年齢と私のそれとがせめぎあう。父の青年期に思いが至る。
 この期に及んで父についての無知が痛みをもたらしてくる。おおげさな言い方をすれば、出勤している父と登校していた私とはすれ違いの生活だった。残業も厭わなかった父の企業戦士生活と部活に専心した私が出会う機会など知れていた。クラブの監督の方が父親のように感じたのは嘘ではない。しかし退職して長命な父と、私が向き会ったときはじめて父と子とは何かを考え、感ずるものがあった。すれ違いの人生だったそのツケがまわってきた。母のことは何とか知っていた。母が結婚後どれほど父のことをわかっていたか、私には不明だ。
 こんなことを想像してみた。私は父の精子と母の卵子の結合によって生まれたのだから、雑念に捉われずともからだの全感覚で両親のすべてを受容している。それをありのまま受け取るのがよい。右顧左眄(うこさべん)には及ばない。そうしたなか、父が崩(くず)れて行く気がして、私は父とやっと向き合う時を得た。
 父は生まれながらにして「音」に敏感だったのだろうか。母によると付き合いだしたきっかけが同じ高校の吹奏楽部だったという。父がホルン、母がフルートだったそうだ。ホルンという楽器の演奏者はいつも頬を膨らませて演奏に臨んでいるのはテレビのクラシック番組で知っていた。フルートもきっと難しい楽器だろう。父と母のつながりに音楽があったのは一つの発見だった。
 音の効果、その組み合わせである音楽は、ジャンルは何であれ、魂を揺るがし昂揚感を植えつける。両親がどういう曲を演奏していたか尋ねてみたことがある。二人とも印象に残っている曲として、イタリアの作曲家レスピーギの『ローマの松』を挙げた。イタリア音楽の主流はオペラ、オペレッタで、交響曲はなく、『ローマの松』は交響詩に分類されているはずだ。交響曲と交響詩のべつなど二人にはどうでもよかったようで、文字通り「音」を「楽しむ」を第一義にしていた。ラヴェルの『ボレロ』も、スーザの行進曲も演奏しがいがあったと誇らしげに語った。
 父は山や草花の本に見入り、時にサイレンを捕縛しに外出する。サイレンが音だからといって、父が正常を保っているどうかわからない。
 その予兆(よちょう)は失禁(しっきん)に顕著(けんちょ)だった。失禁は無意識の裡(うち)に起こる。尿のとき、便のときもある。尿漏れとはちょっと異なる。尿漏(も)れは小用に耐えられなくてちびってしまうのをいうのだそうだ。友人の内科医が教えてくれた。彼は泌尿器が専門ではないが、と断っての説明だった。医者が話すと妙になまなましく聞こえてくるので、専門性の持つ威力を実感した。下着を洗濯するのは妻だ。他の衣服や下着と一緒に洗うのはいくら洗濯機といえども、いや洗濯機内でごちゃまぜになるからこそ余計迷惑な話で、手洗いを先にしてそれを、洗濯機に放り込んだ。いやあねぇ、お義父さん、と妻が渋い顔つきをする。父はぼけっとして、まったく気がついていなかった。詫びているのか食い下がっているのか、自分でもわかっていないふうだ。逃げているのではないことは見て取れる。わざとではない。でもそうみえてしまう。
 父はその日からすっかり肩を落とし、ベランダの窓から外を眺めて一日を過ごすようになった。私は帰宅すると、陽の落ちて暗くなった、星のでていない空を仰ぎみている父の肩に触れて、お茶に誘った。裏千家とかそうした伝統文化的な茶会ではない。二人だけで向き合っていただく煎茶の会だ。私はいつの頃からか、お湯を沸かしてまず急須をあたため、茶葉を入れて湯を注ぐそのときに、なぜか気持ちが落ち着くのに気づいた。精神統一といった大層なものではなく、ほんの「一服」のひとこまだ。息が安んじていて、自身の深い部位からわきでてくる生の息吹を見出せた。魂のような推し量れない、手でつかめない存在といえば、いいのか。父にも経験してほしかった。何かが父の裡で起これば、と願った。父は素直に私のまえに正座した。茶葉(ちゃば)が味を湯に染み入らせるのに数分かかる。この短い時間がなんともいえない。湯呑は磁器がよい。茶の色を素直に映しだすからだ。煎茶(せんちゃ)の黄緑色がその味わいの濃厚さを暗に示してくれる。それを両掌に抱え込んで口もとに運ぶ。舌の味蕾(みらい)が味を敏感に察知し喉もうるおう。
 みると父は私と同じ所作をしており、妻がたまげている。父はなにかの型にあてはめるとすわりがよくなるタイプかもしれない。終日、外に目をやり、夕暮れになると飛行場に帰ってくる旅客機を眺めているのは、一種の、父なりの在り方なのだろう。父はあるとき昼間はマンパク記念公園の「大空の塔」を眺めながら、あれは見飽きない、とぽつんと告げた。大空の塔とはねえ……。
 
 「茶会」のあった週末の土曜日、父がにわかに百貨店にいってみたいと言い出した。このごろは言い始めたらきかないので、私もひさかたぶりのデパートと気負って、いそいそと出かけた。幼い頃、母と、いまでいうデパ地下に夕飯の総菜を買いにいくのがうれしかった。ほんとうは母が買い物をしている間、屋上の遊具施設の乗り物で遊ぶのが目当てだった。そのとき私は真剣に遊んだ。小型自動車を自由に運転できるのが好きで、アクセルとブレーキのペダルを巧みに操り、楕円形の道路を何周もした。一回五〇円だった。二百円を握りしめ、他の遊具には目もくれず一回一〇分を四度の運転でこなした。運転し終えて、エレベーターで地階に下りると、母が階段の傍らの椅子で待っていることになっていた。が、ある日、母がおらず私は途方にくれ、置いてきぼりを食らった気がして地下を探しまくった。そのときの、こみ上げてくる不安と焦燥はいまでも、くっきりと思い出すことができる。なんのことはない、母はパン売り場で懇意(こんい)になった店員と話し込んでいただけだった。みつけた私はやっと安堵の念を得たが、急に泣き出してしまった。母の方がうろたえ、買い物籠を腕にかけたまま、ぎこちなく私を抱きしめた。私はしばらく涙がとまらなかった。
 その母と通ったデパートに父と向かった。何年かまえに改築した噂は耳にしていた。父の歩みは思った以上に遅く、青信号のうちに向こう側に着けるかどうか怪しかった。Tデパートの出入り口の大きくて厚いガラス窓に日が当たっている。歩行者専用の青信号がパチパチし出したそのとき、からだを「つの字」型にまげて杖をついた老婆が車道に繰り出した。のろのろと歩んでいく。真ん中まで行かないうちに信号が赤となっても、素知らぬ顔と動作がつづいた。車を動かせない運転手の表情が窓ガラスの裡で穴の底のように映し出されている。困惑、苛立ち、迷惑……。ハンドルに顎をのせ思案顔のドライバーもいる。
 すると父が期せずして叫んだ。コラッ、バアバア、ナンダ落ち着きハラッテ! ヒカレテシマエ! クソッタレ! たいそうな剣幕で、老人代表のような威厳が備わっていた。私は父の顔をみた。烈火のごとく憤る父の真顔が映った。戦慄が全身を貫いた。父はまだ老いていない。やっと婆さんがわたりおえると、信号が青に変わった。結局車は発車できずじまいだった。私と父はゆっくりと一歩踏み出し、きちんとわたりおえると信号がパチパチして赤に変わった。背後で車が一斉に動きだした。ものすごいエンジン音だ。父は私の手を取って、拓郎、老イエテモ安ンジテハナラヌゾ、とすぐには理解できないことをいった。父は最近でこのときほど、意識が覚醒した折はなかったのではないか。
 改装されたが思い出の詰まったデパートはやはり昔の匂いを保っていた。父も私も深呼吸していた。この芳香はバターピーナッツだ。二人とも菓子パンが好きで、バターピーナッツの味には郷愁さえ抱いた。あんこも好きだった。特にドーナッツが。地下に行こうか、と促したところで、百貨店にやってきた目的など何もないことに気づいた。菓子パンなら近所のコンビニでも買えるのだから。父さん、ところで何しにここにきたわけ? と尋ねてみると、父もさーてと首を傾げる。この匂いかなあ。それは私も納得している。どこの商店にもない芳香だ。父はすっかり陶酔している。そうだ父さん、屋上にいってみようか。じゃあエレベーターで行こう。百貨店のエレベーターは女子職員が操作してくれたが、今は誰もいなかった。人員整理かなにか知らぬが客が自分で階のボタンを押すわけだ。父が足早に乗り込んで押した。私は「閉」を。扉は閉じたが動かない。他の客も不信顔だ。父をみると1を押している。これでは動くはずがない。あわてて私が父の手をはらいい8を押し直した。8階からは階段で屋上に上がることは記憶にあった。父は動かないことにたいして疑問を抱いていなかった。実家のあるマンションでも同じ経験をしたことを思い出した。乗り込んだ階のボタンを押しつづける揺るぎない自信に充ちた父がいた。 
 階段で最上階に出た。何一〇年ぶりかだ。それほど変わっていない。ただ遊具の場所が狭くなって、その代わり熱帯魚や鳥類、犬や猫売り場になっている。昨今のペットブームのためだろう。父は嬉しかったらしく、まるで幼児のように、仔犬のケージの前にしゃがみこんだ。猫派ではないようだ。私にはどうでもよいことで、遊具の動きに昔の自分を映しみていた。あそこに確かに自分がいたのだ。
 仔犬に夢中になっている父の服の袖を引っ張って、屋外に出た。
 正午過ぎの陽光がかっと降り注いできた。私たちはしばし目に腕を当てた。
 昔の小型自動車乗り場の隣に、メリーゴーランドが新設されている。父が乗ってみたいという。そういえば私も乗ったことのない遊具だ。二枚チケットを買い求め、父は白いウマに、私は赤いウマにまたがった。上下に動きながらゆっくりと回転して行く。単純な遊具だがいまの父には合っているのかもしれない。ウマの鼻先についている柱を握って悦にいっている。立派な騎手だ。三回転すると動きは停まった。だが、父は下りようとはぜず、今度は羽根の生えたウマに乗り換えた。私は仕方なく、チケットをもう一度買い、係のひとにわたした。
 もし私がここで父を置き去りにして帰宅したら、父はどうするだろう。屋上で養女を放置して立ち去る養父を描いた映画をみたことを思い出した。娘のその後は描かれず、階段を下りてゆく男の無表情な顔がスクリーン一杯に映し出されて終わった。おそらく娘はしばらくして養父の不在に気づいて狂わんばかりに泣き叫ぶことだろう。私が地階で母の居場所をやっとみつけて泣いたのと違って、ほんとうに棄てられた自分の帰る場を求めて……。

 私は次の回転が始まると父に手を振って、メリーゴーランドから離れた。父は相好くずして、騎手からいっぱしの騎士になっている。父の充足をみてこれ以上の望みはない。
 ふと背中を押す力を私は感じた。
 屋内へと踵を返して、階段に足を掛けた。 
                                                          〈了〉

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