「「いつか、白玉楼の中で」―― 八杉将司さんの創作についての覚え書き」片理誠

 電子書籍『八杉将司短編集 ハルシネーション』の販売が、八杉将司さんの第43回日本SF大賞功績賞贈賞式が開催された4月22日より開始されています。新しい版元・SFユースティティア(代表・藤咲小夜)からの発売になります。
 本書には、八杉さんがデビュー以降発表してきた短編とショートショートの中から、25編を選んで収録しています。「小松左京マガジン」、「SF Japan」、「異形コレクション」、「小説現代」などで発表された作品群のほか、「SF Prologue Wave」から収録作や作品リストの転載もあります。
 また、巻末にはボーナストラックとして、町井登志夫さん、片理誠さん、上田早夕里さんの3名による、3本の八杉将司論が収録されているのも見どころでしょうか。
 このうちの1つ、片理さんによる八杉将司論「いつか、白玉楼の中で ――八杉将司さんの創作についての覚え書き」を、本日、刊行記念として当サイトで全文公開致します。
 八杉さんの人柄や固有の執筆方法に関して、作家生活の中で「戦友」とも言うべき間柄であった片理さんが丁寧に綴っておられる1編です。お読み頂ければ幸甚です。短編集ともども、よろしくお願い申し上げます。
 なお、SFユースティティアからはすでに、八杉将司さんの長編『LOG-WORLD』がオンデマンド書籍にて発売中です。詳しくはSFユースティティアの公式サイトをご覧ください(https://sfjustitia.blog.fc2.com/)。(岡和田晃)

■「いつか、白玉楼の中で」
    ―― 八杉将司さんの創作についての覚え書き

                片理 誠

●『ハルシネーション』のこと

『SF Japan 2006 SPRING』(徳間書店)に掲載されていた八杉さんの「ハルシネーション」という短編がとにかく凄い作品で、文句なしの傑作だと思ったので、確か日本SF作家クラブの総会でお会いした時だったの思うのですが、「この前の『SF Japan』のアレ、読みました! 滅茶苦茶、怖かったです!」とお伝えしたら、八杉さんがしばらく「きょと~ん」とした顔をされていたのが今でも印象に残っています。
 そしてその後、おもむろに「え、アレ、怖かったですか?」と逆にこちらが質問されたのでした。
 私は「ハルシネーション」という作品をホラーとして読んだのですけど、八杉さんは「普通にSFを書いただけ」だったのだそうで、ご自分ではホラー作品を書いたつもりはまったくなかったとのこと。
 確かに言われてみるとあの作品は、本当に淡々とした描写に徹していて、ただ粛々と物語が進んでゆく。読み手を驚かしたり、怖がらせたりするための大袈裟な演出がまったくなくて、ホラーとしてはかなり変わった書き方をされていました。でも私はその物静かな話運びにも独特の凄みのようなものを感じて、怖かったんですよね。良い意味で力が抜けているというか、外連味に頼る必要のない地力があったというか。どぎつい恐怖とは別の、底知れない空恐ろしさのようなものを感じておりました。
 でも全然そんなつもりはなかったそうで、八杉さんはご本人の宇宙観やアイデア、SFとしての飛躍、を小説という形に結晶化されていただけだったんです。

 私もデビューしてみて分かったんですけど、作家同士で創作論を交わしたりするようなことって、普段あまりやらないんですよ。結局、人それぞれなので、聞いてもさほど参考にならない場合が多くて。
 例えば「プロットは一切作らない。いきなり執筆に入る」というタイプの人も結構いるんです。私はプロットを固めてからじゃないと書けませんので「凄いなぁ」とは思うんですけど、それを聞いても真似はできない。実は投稿時代に何回かチャレンジしたことがあるんですけど、最後まで書けたことは一度もありませんでした。私の場合、プロットなしだと話が途中で必ず破綻してしまうんです。
 まぁこんな具合で、小説の書き方は十人十色、千差万別なわけです。正しいやり方などというものはなく、それぞれが自分に合った方法を見つけてゆくしかない。
 ただ、八杉さんとは結構、創作のやり方についても話したりしてました。同期(二人とも第5回日本SF新人賞の出身。八杉さんは大賞受賞、私は佳作入選)なのでお互い気安かった、というのももちろんあるんですけど、それとは別に、言葉は悪いですが(汗)、私は八杉さんから色々と盗みたかったんですよね。これには当時の切実な事情がありまして……何しろ私が書いた短編は全部ボツになるんです。一個も認めてもらえない。一編も載らないんですよ、雑誌に。これでは作家としては消えるしかないな、と。
 その一方で八杉さんのは『SF Japan』に次々に掲載されるんです。この違いは何なんだろう。編集さんの依怙贔屓とかじゃないのは載っている小説を読めば明らか。違いは作品のクオリティなわけです。でもそれが分からない。なんでこんな凄いのが書けるんだろうと。当時、不思議でならなかった。
 日本SF新人賞は長編SFの賞なんです。だからその出身者は、長編なら書けます。でも短編は? 短編小説の審査なんて誰も受けてません。
 作家って大別すると「長編タイプ/短編タイプ」の二種類になると私は考えています。中には長編も短編も自由自在に書ける人もいますけど、そういう作家さんは例外で、ほとんどの場合はどっちかです。人にはそれぞれ得手不得手がある、ということかと。
 八杉さんは典型的な長編タイプの書き手だと私は思ってましたし、実際、元々はそうだったんだと思うんです。ただ途中で「化けた」んですよ、彼は。短編も書けるようになった。その秘密を知りたかった。
 でも実際に聞いてみると八杉さんも大変だったんだそうで、なかなか長編の企画が通らなくて、と言われてました。で、えり好みしてられる状況ではなかったし、幸いオファーもあったので短編も書くようになったと。慣れない短編に最初はかなり手を焼いたんだそうですが、そこでくじけずに書き続けているうちに、短編小説もだんだん書けるようになってきました、と照れたようにはにかみながら教えてくださいました。
 コレ、本当のことだと思うんです。結局何でもそうですけど、続けている内に少しずつ上手くなってゆくんですよ。〝勘どころ〟がちょっとずつつかめてくる、という感じ。
 とは言え、長編小説の勘どころと短編小説の勘どころは、全然別のはずで、八杉さんはこれを両方ともつかんだ。その極意はしかし、なかなか言語化できるようなものではないのでしょう。
 けれど私は本人から色々とお話を伺っている内に何となく、おぼろげに、その神髄を一瞬だけ垣間見たような気がしたんです。

●長編小説の場合

 まず八杉さんの長編小説の書き方ですが、コレ、かなり変わってます。いわゆる「設定マニア」と呼ばれるタイプの書き手です。先述した「プロットは一切作らないで、いきなり執筆に入る」タイプとは丁度、正反対。とにかくこれでもかという程の作り込みをした後じゃないと執筆に入らない(入れない)タイプの作家さんなんです。
 八杉さんはよくご自分のことを「書くのが遅い」と仰ってました。その理由の一つがコレで、執筆に取りかかるまでの事前準備がとにかく膨大で大変なんです。
 例えば(四百字詰め原稿用紙で)千枚の長編を書くためには、千五百枚から二千枚のプロットが必要なんだそうで、これをゼロから作り上げるのは、とにかく大変ですと。「本文よりも長いプロット……それもうプロットじゃないッス、設定資料ッス」「確かに~」と二人で笑ったりしてました。
 とにかく、地理から歴史から物理法則の体系から政治や経済の仕組みからと、その世界の一切合切の要素を綿密に作り込んでから書くのだそうです。物語のバックボーンというか、グランドデザインをきっちりと作り込んでからじゃないと書き出すことができないんです、と。
 私も事前にプロットや設定を作りますが、八杉さんのとはスケールが違う(汗)。例えば千枚の作品の場合、私が事前に用意するのはせいぜい五十枚から百枚くらい。千五百枚とか二千枚なんて、とてもとても。無理です。
 結局、私のやり方は小説の書き方本なんかによくあるのと一緒で、大雑把な骨組みだけを作っておいて、肉付けは必要に応じて必要な部分のみに行う、というもの。例えるならば私が作るのは「舞台」です。演劇の時に使う書割の背景のようなもので、裏側には何もない。観客の目に触れる表の部分だけを作り込んでいます。
 でも八杉さんが創るのは「世界」そのもの。客席からは決して見えない部分まで、きっちりと作り込んでいる。見せかけのまがい物ではない、本物の世界そのものを描いているので、作品の中に矛盾や齟齬が生じないのです。物語世界をゼロから正確にシミュレートしてしまう人なんです、八杉さんて。
 その念の入れようは登場人物に対しても同様で、各人ごとに身長や体重などの外見的データはもちろん、どのような生い立ちを経て、どのような価値観を抱くに至ったのかまで、とにかく微に入り細を穿って事細かく設定し、納得できるまでは何度でも修正するのだそうです。
 そして「つかんだ」と思えたら、今度はそのキャラクターたちを使って短い作品を書いてみる。つまり、長編小説を書く準備のために短編小説を書く、ということです。「小説を書く前に、試しに小説を書いてみる……何じゃそりゃ」と思われるかたもいるかもしれませんが、この短編は各キャラを掘り下げたり、キャラ同士を馴染ませたりするために書くもので、言わば本番前の軽いリハーサル。登場人物同士の掛け合いがメインだとか。小説としての出来は度外視してますので、八杉さん曰く「絶対に誰にも見せられない(笑)」とのこと。
 こういった八杉さんの小説技法は、確かに完成度においては完璧に近いものでしょう。が、その代わりに凄まじい程のエネルギーが必要なはずで、最後まできちんとやり通せる人って滅多にいないんじゃないでしょうか。
 いくらそれについて考えるのが好きだからって、普通は途中で飽きるか、燃え尽きてしまうだろうと思います。何しろそのプロットや設定資料、試作小説が読者の目に触れることは永遠にないわけです。決して日の目を見ることのない資料を千五百枚も二千枚もコツコツと書き続けるって、並の神経でできることじゃありません。この一点だけを見ても八杉さんがいかに希有な書き手であったのかが分かろうというものです。

 筆が遅いと言われていた理由はもう一つあって、それは小説そのものの書き方でした。
「片理さんて、物語のシーンを思い浮かべながら書かれてますよね?」と聞かれたことがあって、「はい」と答えると「やっぱり。そういう人は筆が速いんですよ」と。
「では八杉さんはどんなやり方で書かれてるんですか?」と尋ねると、彼はシーンは一切思い浮かべない、一つの言葉から次の言葉を紡いでゆくだけ、とのことでした。
 私これ聞いてびっくりしたんです。と言うのも、以前TVのインタビューで見た浅田次郎さんがまったく同じことを仰っていたからなんです。
 私にはまるで想像することもできないのですが、少なくとも二人いるということは、そういう書き方があるということですよね。「その原稿の、その場所に、その位置に、収まるべき言葉が必ずあるはずで、それを一つ一つ紡いでゆく」という方法。
 私にとって言葉とは映画撮影におけるカメラやマイクのような存在なのですが、八杉さんにとってはまったく違う。彼は言語という海の中から一つ一つ丁寧に、言葉という滴を掬い上げてゆく書き手だったんです。
 曰く、全ての言葉は最初から最後まで一本の糸のようにつながっている。だから「最初の言葉」さえ見つけられれば、物語を最後まで紡ぐことは、理論上は可能。ただし、そのリンクはとてもか細くて儚いため、うっかりするとすぐ見えなくなってしまう。もし見失ってしまったら、その都度、何度も何度も行ったり来たりをして、見落としてしまった言葉と言葉のつながりを探さなくてはならない。その分、どうしても時間がかかってしまうんです、と。
 これを聞いた時、驚くと同時に、でも凄く腑に落ちたのでした。
 八杉さんの長編小説に『光を忘れた星で』という作品があるのですが、あれは私には絶対に書けない。最初から最後まで真っ暗な映画って、あり得ないじゃないですか。でも八杉さんは書けるんですよね。なるほど、と。書き方そのものが違うからなんだ。私は視覚的じゃない作品を書くことはできないけど、八杉さんはできるんだ、と。
「その代わり、筆が遅いんです」と彼。「一日に書けるのは五枚がやっと。絶好調の時でも八枚くらいです」
 確かに一つ一つの言葉を手探りで求め、時には前に戻って書いては消し、書いては消しを繰り返す、という方法では、スピードはあまり出せないのかもしれません。良いことばかりではない、ということですね。しかし、それにしても相当に珍しい書き方なんじゃないでしょうか。かなり感覚的な方法です。

 これら二点を総合すると、八杉さんは長編小説を書く際は、まず事前に用意しうる最高精度の地図をきちんと作り上げておき、次にその地図の上を一歩一歩、手探りをしながらゆっくりと、丁寧に、着実にゴールに向かって進んでゆく、という感じだったんだと思います。
 逆に言うと、手探りしながらでもちゃんと作品を完成させることができるのは、スタートする前にがっちりと周囲を固めておくからなのでしょう。ミクロ的には彷徨っているように見えても、マクロ的にはちゃんと進むべき方向に進んでいるわけです。

●短編小説の場合(個人的想像と推測)

 ところで、ここからは私の想像になるのですが、八杉さんは短編を書く時は恐らくこれとは別の方法を採ったんじゃないかと思うんですよね。と言うのも、先にも書きましたように、彼は「できれば長編を書きたかったんだけど、短編のオファーばかりだったのでそれに合わせて短編を書きまくっていたら、だんだん書けるようになってきた」と言っていたからなんです。
 八杉さんの長編の書き方だと「書きまくる」のは難しいはず。ご本人も仰ってましたが、とにかく膨大なエネルギーが必要ですし、どうしてもスピードや効率が犠牲になってしまいます。短編の締め切りって結構タイトなはずですので、間に合わないんじゃないかと思うんです。ましてや、数をこなすのは無理なんじゃないかと。
 彼は短編小説用に別の執筆方法を編み出したんじゃないだろうかと、私は勝手に想像し推測しております。

 たぶん、なのですが、事前準備の部分をある程度、端折ったんじゃないでしょうか。ざっくりしたプロットくらいはあったのかもしれませんが、長編の時ほどの綿密なマップはなかっただろうと思うんです。短編なら多少精度の荒い地図でも、何とかゴールにたどり着ける、という手応えが彼にはあったのではないか。
 これにはスピードと効率のアップの他にもう一つ、思いがけない副産物もあった。それが前述した「え、アレ、怖かったですか?」という台詞なわけです。
 解像度の荒い地図の上を手探りで進んでゆく、というスタイルの旅。これって、書き手自身にもどんな経路を通って、どこにたどり着くのかは、行ってみないと分からないということ。それはつまり、予定調和にはなり得ない、ということでもあります。
「ハルシネーション」を久しぶりに読み返してみたのですが、今フラットな気持ちで読むと、確かに作品の本質はハードSFですね。でもやっぱり、読み味はホラーなんですよ(汗)。改めて読んでもやっぱり怖い。主人公の置かれている状況の変遷と、徐々に明かされる壮大な宇宙観。この二つの絡み合いにはしかし、読んでいて強迫観念を感じてしまいます。ゾワゾワする嫌な予感と、手に汗握る緊張感。ストーリーが加速してゆく後半部分は特にですね。決して悲劇的な結末の作品ではないんですが、読み終えた時の印象は私の場合、やっぱり「あー、怖い作品だった」となる。本当、不思議な短編です。
 八杉さんは「ハルシネーション」をSFのつもりで書いていて、けれど私はその作品が凄く怖かった。八杉さんて無自覚におっかない話を書く人なんだなぁ、と思ってました。
 それでいて生まれながらのホラー作家という感じでもなくて、他にも様々な雰囲気の短編を幾つも書かれています。
 もしかして、たまたまだったのかなぁと思ったりするんです。「ハルシネーション」はたまたま私にとってのホラーのゴールにたどり着いた。八杉さんはただ筆に任せて進んでいただけで、特にあの作品を傑作と思われていた風でもなくて、ただ単に「あれも楽しい旅だった」と感じられていただけだったのかもしれない。ぶらぶら旅にも、ぶらぶら旅なりの良さがありますね、と。

 もちろん、これは私の個人的な想像であり、ほぼ妄想レベルの話。自分勝手な独り言にすぎません。真実を知っているのは八杉さんご本人だけ。今となっては永遠の謎です。

●いつか、真相を

 八杉さんは今どこにいるのかなぁって、考えちゃうんですよね。
 北欧神話では、神に選ばれし勇者の魂はヴァルハラという宮殿に集まることになっていますが、八杉さんはとても朗らかな人で、会うといつもニコニコされていて、武人という雰囲気の人ではまるでなかった。
 中国は唐の時代の詩人に李賀という人がいたのですが、彼には『臨終の際、赤い蛟(竜の一種。竜の幼生という説も)に乗った、緋色の衣を着た人物が現れ「天帝が白玉楼を造られた。君を召してその記を作らせようとのお望みである」と告げた』という故事があるんです。このことから、文人墨客の魂は死後、この白玉楼の中に行くと考えられています。

(ちなみに、文人や書家が亡くなることを「白玉楼中」とか「白玉楼中の人となる」と言いますが、これもこの故事に由来します。
 白玉楼の白玉は「白色の美しい玉」のこと。つまりは白い宝石のことです。「真珠」を指す場合もあるとか。そういえば西洋にも〝俗世間を離れた静寂と孤高の境地〟を示す言葉として「象牙の塔」というのがありますね。芸術とか知的探求のイメージって「白」なんでしょうか)

 うん。八杉さんのイメージはやっぱりこっち、彼はきっと白玉楼の中にいる。私もいつか、そこに行ければと願っています。もし彼に会えたらもちろん質問しますとも。「それで八杉さん、短編はどうやって書いてたんですか?」って。