「ある女性カウンセラーの面接記録 ケース:53091」大野典宏

連作「ミネラル・イメージ」(2)

注:本作品は柳ヶ瀬舞「翡翠の川」をイマジネーションの起点とし、鉱石をキーワードとして行われる連作である。

ある女性カウンセラーの面接記録 ケース:53091

大野典宏

 待たせてあった新規のクライアントをカウンセリングルームに招き入れた。

 クライアントはごく普通の二十代女性。いつもの通り応接用ソファーに座ってもらい、これまでのすべての事情を話してもらうことにした。

1 クライアントの相談

 はい。わかりました。では、最初から今までのことをお話しします。

 私はとりたてて特徴のない普通の女子でした。虐待とかイジメ、性犯罪などといった最近話題になるような事件と関わることもなく、世の中や自分といった話に向き合うこともなく、安穏と暮らしていました。だから、特にこれといってお話しする話題はありません。

 十二歳の冬、そんな生活が全く変わってしまいました。初潮を迎えてしまったのです。

 確かに女の子ですから、そういう話は学校でも教えられていましたし、早い子はもう来ていたのでそんなに驚くようなことではないのかもしれません。

 でも、体が大人になったこと、大人になってしまうこと、自分が経験してしまったこと……。これはある意味で凄い衝撃でした。今までの生活とは変わってくるんだと考えると、何か自分が汚れてしまったものであるかのような嫌悪すら感じました。

 さらに、「これは何だろう?」と思ったのが、右目の下に緑色の川が見えるようになってしまったことです。誰も教えてくれませんでしたが、この川は誰にでも見えるのだろうかと理由もなく考えました。だって、自分にだけ突然そんな変化が現れるなんて思いませんよね? 私にだけしか見えないものだなんて普通は考えませんから。初潮を迎えたことで大事をとって親は学校を休ませてくれました。私が少し動揺しているとわかったからでしょうか。

 本当におかしいと感じ始めたのは、次の日にも、その次の日にも緑色の川が見え続けたことです。関係する本を読んでみても見当たらないし、誰かにこっそり聞いてみても、「そんな話は知らないし、見えたりもしていない」と。返されるばかりでした

 特にくわしい医学の本を手に取ってみても、右目にある緑の川のことは書かれていませんでした。そうなると、おかしいのは自分だけじゃないのか? と考えてしまうのも自然なことですよね。

 そんなことがあったので、自分はなにかの「病気」になってしまったのではないかと考え始めました。その年頃ってなにかと「人とは違う」ことを恥ずかしいと思うものですよね。イジメに遭うかもしれませんし。ですから、まずは一人で目医者に行こうと考えました。変な病気で悩んでいるなんてとても言えませんでした。

 近所の医者だとすぐにわかってしまうと思い、貯めたお金を全部持ってバスで遠いところにある医者に行きました。

 なにしろ十二歳の子どもです。通い慣れているならともかく、初診に一人で来たので、受付の人も医者も驚いていました。

「 お母さんやお父さんは一緒じゃないの?」

 当然のごとく聞かれましたが、事前に心の中で繰り返していたことを言いました。

「黒板の文字がよく見えないので」

 医者は近視が始まっていないことを小学生の私に丁寧に説明してくれました。そして最後に飴をくれました。「また何かあったら来なさい」

 お医者さんのそんな優しい言葉で我慢していた不安が抑えられなくなりました。お医者さんでもわからないことが私の中なかで起きているのでは……。今はずっと見えている緑の川がさらにひどいことを引き起こすのではないかと。

「わたし、目の中に緑の川が流れているんです。このままだと死んじゃうんですか?」

 思わず本当のことを言いました。この時を逃したら、ずっと誰にも相談できないかもしれないと考えたのです。

 医者は驚き、私を必死でなだめました。受付の人が問診票の電話番号から家に連絡を取りました。親が来るというのでおびえました。お医者さんに来た母は真っ先に私を抱きしめました。

「なんでもっと早く正直に言ってくれなかったの?」

 そのおかげで恐怖を無防備に受け入れてもよいのだと思うことができました。

 私はバカだったんだと思います。今までの平穏な生活が永遠に続くと思っていたのです。普通って幸せなことなんですね。しかも幸せと不幸は隣り合わせなんですね。その月の生理が終わっても右目の緑の川は流れ続けました。緑の川は常に目の中にありました。両親はなんとかしようと、評判なお医者さんを手当たり次第に回りました。眼科はもちろん精神科、神経科、脳外科などなど、覚え切れないくらいです。結局はどの医師も困り果て、原因がわからずに新しいお医者さんに行く……。その繰り返しでした。嘘を付いている形跡もなく、神経や脳にも異常はないとなると……。

 もう、自分でも何がなんだかわからなくなりました。緑色の川は確かにあるんです。でも、そんな症例もありませんし、病気の原因も見つかりません。たくさんのテストや検査を受けても何もわからないんです。そのうち、「自分はやっぱり変なんだ」と考えるようになりました。変な自分がいるから周りを心配させるし、自分からも周りと距離を置いてしまうようになりました。

 それが我慢できなくなり、十七歳の夏、私は家出をしました。もちろんお金はありませんから、年齢を誤魔化して風俗店で働くことになりました。最初はとても怖かったのですが、お客様は自分の想像に反して優しい方々でした。もちろん、時には嫌な思いをすることもありましたが、そんなお客様は意外と少ないんだともわかりました。店長はよく焼肉をおごってくれましたし、お客様もいろんな話をしてくれました。性的行為より、お客さんの話を聞くことが仕事のような日もありました。

 緑の川の事は誰にも話しませんでした。自分が変になっていて、病気なのか自分の精神がおかしいのか、もう判断などできませんでした。だから店長やお客さんに優しくされると戸惑いました。自分が狂っていることを見透かされ、嘲笑われているように感じてしまうからです。誰かに少しでも好意を向けられると、まるで何かの罰のように感じられました。見返りのない優しさによって、私の異質さが責め立てられているかのように感じたのです。今から振り返ってみれば自分が異質であることに関して卑屈になっていたのかもしれません。

 その日の仕事が終わり、待機室でコンビニエンスストアのカレーを食べているときでした。緑の川は右目の視界の半分にまで及んでいました。手にしていたプラスティックのスプーンに目が留まり、ふと私は思い立ちました。私をおかしくしてるのは緑の川なのだ。では、目がなくなれば私は安心できるんじゃないか? そして右目をくりぬいてしまおうと決意しました。眼球と骨の間は柔らかく、すんなりとスプーンが入っていく感触を今でも鮮明に覚えています。なぜこれまでこうしなかったんだろうと不思議でした。私は痛みで失神しました。しかし次に目を覚ましたとき深い安らぎに満ちていました。右目に見えていた緑の川はもうありませんでした。

 後から聞いたことなんですが、その姿を発見した店長がすぐに救急車を呼んだんだそうです。警察が来て身元の捜索をして、私の正体が知られてしまったんです。

 私は精神科に入院しました。でも、私は右目の眼球と引き換えに平穏な心を手に入れました。家族とは最初こそぎくしゃくとしていましたが、徐々に以前のような関係に戻っていきました。

 その頃のことです。父から大学への進学を勧められました。

「お金を出すことはできないけれど晶子は若い時間を楽しんだほうが良い」

と父が言ったのです。勉強は嫌いでしたが、このまま何もしないでいるよりはマシだと大学に進学することを考えました。それから高卒認定試験の勉強を始めたんです。

 二年後、家から通える範囲にある大学の仏文科に入学しました。入院をしている間に本を読むことが好きになったこと、そして図書館司書の資格が取れることも動機の一つでした。特に興味を惹かれた本がジョルジュ・バタイユの『目玉の話』でした。自分の異常な体験とバタイユが描写する異様さが共鳴しているようで魅力的に感じたのです。かなり難しかったのですが、フランス語の原書で読んでみました。私は右目を失いましたが、心はいたって平穏でした。

 最初、大学での生活に関しては不安しかありませんでした。右目のことを聞かれたらどうしようかと……。

 でも、それは取り越し苦労でした。今は楽しく大学生活を送っています。考えてみれば凄いことですよね? 誰も私の右目に関しては言いもしないし聞きもしないんです。今だから思うのですが、あまりの異形さゆえに「聞いてはならない」と考えたんでしょうか? だれもが普通に接してくれました。これに関しては今でも不思議に思ってます。

 ただ、講義は楽しいし、熱心に質問をしてくる学生だと大学の先生たちに評価されて、何も不自然は感じなくなりました。

 二十三歳で二年生になったとき、ある先生と出会いました。彼女が非常勤講師を務める講義に、初めて出席したときのことです。「橋本晶子さん」と名前を呼ばれた瞬間、あるはずのない右目に緑の川が映りました。そしてその緑の川の対岸にその先生がいました。ほんの一瞬、そのイメージが浮かび、右目があった場所はひどく痛んで私はその場で気を失いました。

「橋本さん、体調はどう?」

 先生は心配して、大学の保健室に訪ねて来てくれました。先生に名前を呼ばれると身体が強張り、緊張が走りました。自分の身体なのに自分ではうまく動かせなくて驚きました。顔が火照って頭に血が上ります。恥ずかしい。しかし何が? 私は戸惑いました。最初、私はただの自律神経の乱れだと思いました。バカみたいですよね。先生を一人の女性として意識していた、と気付くのはもう少し先のことです。

 講義であれ他の機会であれ、先生と過ごす時間は大きな歓びであり困惑でした。先生を見つめて講義を受けているだけで十分だと思っていたのに、次の瞬間には先生と二人きりで話をしてみたいという欲望が膨れ上がってくるんです。私は人並みの幸せ、いえ、それ以上の幸せを手にしているはずなのに、先生と出会ってからさらに幸せを渇望するようになってきたのです。そして先生のことを考えると真逆の感情を一緒に感じました。会いたいのに会いたくない。話したいのに話したくない。まずその感情を自分で処理するのに時間がかかりました。しかし、誰かを想うということは、相手との距離感を狂わせる矛盾の産物だと考えて、自分の欲望を否定することをやめました。すると視界は自然に開けました。

 講義では積極的な発言が当たり前になりました。先生が講師室を出る時間を知り、偶然を装って一緒に下校をするようになりました。これって一歩間違えるとストーカーですよね? 先生と親しくなるのに時間はかかりませんでした。下校と電車の時間だけでは話す時間が足りなくて一緒にファミリーレストランで夜中まで喋っているときもありました。先生との講義も終わりに近づいた学期末に思い切って交際を申し込みました。

「二人きりのときは、京香って名前で呼んでちょうだい」

 はにかみながら京香さんはそう言いました。そうしてやっと私は京香さんの隣にいてもいいとの許可をもらうことができたんです。

 ええ、私はおかしいんだと思います。それはよくわかっています。だって、たとえば穏やかな海辺を歩いているとき、あの右目に見えていた緑の川が恋しくなるんです。さんざん私を苦しめ、人生さえ狂わされた、ほんの数年間目に流れていただけの緑の川を恋しがっているだなんて………。

2 クライアントへの回答

 長い話が終わった。

 本件のクライアントである橋本晶子は、バッグの中からペットボトルを取り出すと水を飲んだ。そして目の前にある応接用テーブルに置いた。伏せていた目を上げ、カウンセリングルーム全体を見渡した。ここは、どこにでもあるようなクリーム色に統一された飾り気の無い部屋であり、インテリアとして一鉢の観葉植物だけを置いていた。

「それは変なことではありません」

 私の言葉で緊張が解けたのか、晶子は固い表情を少し緩めた。

「晶子さんにとって、緑の川とはいったい何だったと思いますか?」

「私の身体の一部だったのだと思います。同時に過去の記憶です。心の中ではとても整理が付きません」

 少しとまどったが、はっきりと言った。

「思い出すことは人間にとって大事な営みです。緑の川について思い出すことは苦痛ですか?」

「いえ、苦痛ではありません」

 その問いに対して晶子は即座に答えた。私は話の続きを辛抱強く待った。

「でも、緑の川については京香さんにも言えません。過去は洗いざらい話しましたけど……苦痛だったはずの記憶が懐かしいだなんて……。おかしいですよね?」

 晶子は目を伏せた。

「緑の川は、晶子さんの大事な時期に現れました。心身ともに大きな変化を遂げるのが第二次性徴です。緑の川が見えたことは確かに苦痛だったかもしれません。しかしそれだけではなかったはずです。先ほどおっしゃっていたじゃないですか。親に知られたとき恐怖をそのまま受け入れてよいのだと思えたと。それは幸せな記憶ではないのですか?」

「はい」

「記憶とは厄介なもので、一つの感情だけをまとっているわけではありません。嫌な記憶は確かにあります。しかしその嫌な記憶にすら美しいと思える瞬間が含まれているのだとしたら、はたしてどうでしょうか?」

 晶子は深呼吸をして涙ぐんだ。

「今日、付き添いの方はいらっしゃいますか?」

 次の問題を解決しなければならない。私は晶子に尋ねた。

「はい、京香さんが……」

「その京香さんとお話がしたいのですが、十五分ほどお時間をいただけますか?」

 晶子は涙ぐんだものの、感情を必死で抑えているようだった。自分の異質さを初めて受け入れられたのかもしれない。

「晶子さんには、カウンセリングの必要はないと思います。ご心配なら、次回の予約もいれられますが……」

 私がそう言うと、晶子は首を横に振った。

「おかしいのは緑の川に嫌な記憶を全部押しつけていた私自身だったんですね……」

 晶子は晴れやかな顔で頭を下げ、退室した。入れ替わりに京香が入ってきた。

「私は晶子さんより、京香さんとお話しをすべきだと思っています」

 出しぬけに言った。京香は面食らったように、何度か瞬きをした。そして促されるまま、椅子に座った。

「晶子のことを本当に心配しています。だから連れて来たんです」

 沈痛な面持ちをしていた。やはり話をきくべき相手は京香のようだ。

「京香さんは晶子さんをどうしたいのですか?」

 京香は呆気に取られた。晶子の記憶にまつわる問題は、彼女自身の問題だと思っていた。晶子の過去をどうしたいのか? そんなことは考えていなかったのだ。

「晶子さんは善悪の基準もあり、嘘をついているつもりもない。彼女の語る過去が嘘だろうが本当だろうが誰も傷つくことはありません。晶子さんは耐えがたい過去の穴を自らの創作で埋めました。それはとても健康的なことだと思います」

 京香は私の言葉に頷きながらもまだ靄の中にいるようだった。

「でも……やはり変です」

「その感覚ほどおかしいものはないと思いますよ」

「先生は私の方がおかしいと言いたいようですね」

 京香は自嘲気味に口角を上げてみせた。

「そう聞こえたのなら失礼しました。しかし記憶というものは記録ではないのです。記憶は人間そのものです。いまの晶子さんの状況をたとえるなら過去の出来事を深く地中に埋めて、その上にあなたと住む家を建てている最中といったところでしょうか」

 しばらく京香は黙った。どんな振る舞いが晶子にとって最適なのか、京香は気がついているはずだ。あとは自身が納得できるかどうかだ。

「そう思いたいのならそうさせるのが一番、ということですね」

「そうです。彼女の過去への思いや語りを信じてあげることです。彼女のことをどう……」

「大事です」

 途中で言葉を遮り京香は力強く断言した。

「嘘と思ったことはありませんし、自分の過去で誰かを傷つけようとはしていません。私は彼女を信じます」

「それがいいでしょうね」

 京香は緊張していたのだろう。張り詰めた空気を解きほぐそうと、私は霧吹きを取り出して観葉植物に水を吹きかけた。

「それでも、ひとつ心配があります」

「どんな?」

「いつ、地中に埋めた記憶が戻ってくるのかわかりません。もし彼女の信じていない過去の記憶が彼女を襲ったとしたら?」

「その時こそが私の出番だと思います。そのような事態になったら私のところに一報を入れてください」

「よろしくお願いします」

と京香は頭を下げた。

「先生、私は不思議に思います。晶子は天真爛漫ですが、自分で物事を考えられるしっかりとした子です。私が惹かれたのは彼女が彼女であるからです。それでも葬った記憶を思い出したりしたら、私は……」

「それこそ杞憂だと思います。京香さんはご自分でおっしゃった通り、晶子さんが強い子であると信じている。そして事実、晶子さんは強い。自分の想像力で過去の穴を埋めたのですから。過去の穴がなんであれ、今が正常であるのなら、そしてこれからが正常であるのなら、これからも信じてあげてください。それが一番、有効だと思いますよ」

 私が言葉を遮ったのは二人の未来が見えていたからだ。信じる力は強い。このふたりなら大丈夫だ。そう考えて微笑んでみせた。

「そうですね。それが大事ですね」

「私の言いたいことが伝わったようで何よりです」

「ありがとうございました。私は晶子を信じます」

 表情は真剣そのもので、晶子への深い慈しみが感じとれた。そして京香の頭に手を置いた。

「失礼、まるで神聖な誓いのように聞こえたので。立会人が私で申し訳ない」

「もう二度とお会いしないで済むように、二人で努力します」

 京香は椅子から立ち上がり、会釈をした。

 ドアが閉じられた。私は窓のカーテンを開けて観葉植物に光を当てようとした。こぼれてくる夏の強い西日に一瞬、目が眩んだ。反射的に左目を閉じ、右目で観葉植物を見ると、植物の葉脈に沿った白い模様だけが浮かんで見えた。右の視界は翡翠色に染まっていた。緑色と言っても、今日のように翡翠色に染まっていることもあれば、深緑色のような日もある。観葉植物はささやかな色の違いを把握できるように置かれている。不思議なことがあるものだと思った。本当に緑の川が晶子に見えていたのか。それはわからない。過去と現実を埋める穴。それが緑の川という物語なら、あながち荒唐無稽とは言えない。

 そして左目を閉じ、右目の中にある観葉植物が見せる翡翠の川を通して、カウンセリングルームを見渡した。

 クライアントに見えていたのかどうかすらわからない緑色の川を見てみたいと思ったからだ。