「僕は雨男なんです」と彼は言った。
大学の新歓コンパの帰り道、同じ電車に乗った参加者は駅が来るたびに一人減り、二人減って、わたしは初対面の彼と二人残された。車窓を眺めるふりをしながら、場をもたせるためには何か話しかけた方がいいのかな、と悩んでいたところだったから、彼から話題をふってくれたのはありがたかった。
「わたしが晴れ女だって話、聞こえたんですか? でも、本気にしないでくださいよ。美月って大げさだから」
酒のうえのバカ話がどう転がって、そんな話になったものか、同じ高校出身の美月はわたしのことを「史上最強の晴れ女なんだよ」とまわりに吹聴した。そのときには宴もたけなわ、酔っぱらった大学生の雄叫びと嬌声で店全体が揺れ動くような騒ぎだったが、美月の大声は席の遠かった彼の耳にも届いたらしい。
「謙遜することないですよ。晴れ女なら、いいじゃないですか。それにひきかえ、僕なんか、みじめなものです。小中高ずうっと遠足から運動会から、ぜんぶ雨ですから」
「ぜんぶ雨? 一回の例外もなしに?」
「ええ。それどころか、最初の予定が雨で流れた後、予備日まで雨になるから、取りやめになったり、仕方なく雨天決行だったり。小雨の降るなか、遠足へ行ったって寒いばっかりで、ぜんぜん楽しくないんですよ」
彼はラクダのように長いまつげを伏せて、困ったもんだと言わんばかりに笑った。
「それはお気の毒ですね。わたしはいちおう、イベントがらみで雨に降られたことって一度もないです」
「でも、今日は降られましたね」
たしかに、ガラス窓には水滴が斜めに走っていた。今朝の天気予報では雨の確率は十パーセントといっていたし、コンパが始まる前には降っていなかったのに。
「今日のコンパはそんなに楽しみにしてなかったからかな。どうしよう。わたし、傘持ってこなかった」
「よかったら、僕が近くまで送りましょうか」
彼は大きな黒い傘を握りしめていた。
「悪いから、いいです。コンビニでビニール傘でも買って帰りますから」
「そうですね、かえって、その方がいいかな。僕と別れれば雨がやむかもしれませんし」
彼の予言は的中した。
駅の改札を出た時には、雨はすっかりあがっていて、わたしは夜空にまたたく星を見上げながら、一人暮らしを始めたばかりの部屋までスキップして帰った。お星様は、ビールとチューハイで初めて酔っぱらい、感じのいい男の子と感じよく話ができた女の子の頭のなかにも輝いていたのだ。
彼と二度目に会ったのは翌々日、学食でランチセットの列に並んでいた時のことだった。「雨、大丈夫でしたか」と尋ねられ、「ええ。だって、にわか雨だったでしょう?」と答えると、彼は「僕はしっかり降られちゃいました」とはにかんだように笑った。
「ちょっと、なんか、いい雰囲気じゃない。どこで知り合ったのよ」
美月が肘でわたしの脇腹を小突いてきた。
「なに言ってんの。おとついのコンパにいたじゃない」
「そうだっけ? うーん、あんときの記憶はとんじゃってるからなあ」
美月はとんとんと自分の頭を叩いてみせた。
「提案です。今度、雨男の僕と晴れ女のあなた、どちらの力が強いか勝負してみませんか?」
唐突に、彼が言った。
「勝負? どうやって?」
「今週の日曜日、もし晴れたらお花見、雨が降ったら映画を観るってことでどうです」
美月がヒューと口笛を吹いた。
「だったら、あの、美月も一緒でいいですか」
「それじゃ、勝負にならないでしょう」と彼は言い、美月には「子供じゃないんだからね、保護者同伴でデートってわけにはいかないの」とからかわれた。
そのあと、わたしはデートを断ろうとした。
美月にお子さま扱いされるのが嫌で、なんとなく承諾した形になってしまったものの、二度会っただけの人といきなり二人だけでデートなんて、そんな度胸、わたしにはない。だけど、彼の電話番号が分からなかった。美月のほかにも新歓コンパに出ていた友人、知人に訊いてみたものの「そんな人いたっけ」と言われるばかりで埒(らち)があかなかった。わたしはそれを不思議とは思わなかった。コンパにはたくさんの人がいたし、みんな、めちゃくちゃに酔っぱらっていたから。
かくなるうえは待ち合わせ場所まで行くだけ行って「ごめんなさい」って謝るしかない。これからは気の進まないことは、ちゃんとその場で断るようにしよう。
そんなことを考えていたせいで約束の前の晩はいつまでも眠れず、一人暮らしでは起こしてくれる人もおらず、仕掛けた目覚まし時計はベッドの下で死んでいて、わたしが待ち合わせの場所へ着いた時には約束から一時間以上も過ぎていた。
雨のなか、彼は傘をさして待っていた。黒い傘には桜の花びらが無数に貼りついていた。
もちろん、わたしは平謝りに謝った。
「仕方ありません。気にしないでください。今日は調子が出なかったんでしょう。またの機会に頑張ってください。今日のところは映画を観に行きましょう」
彼はラクダのように長いまつげを上下させながら言った。
何だか話が噛みあわないなとは思ったものの、一時間も待たせた人にそんなことを指摘できるはずがなく、わたしは怪訝(けげん)に思いつつも彼と映画館へ行ったのだった。
それから、彼と観た映画の数は数え切れない。アクション、文芸大作、歴史ロマンス、サスペンスにSF、巨匠の回顧作からアイドル主演作まで、封切りされた映画はすべて観る勢いだった。サイクリングをしよう、遊園地へ行こうと屋外で遊ぶ計画はたてたのだけど、彼と会う日はいつも雨だったのだ。満開の桜が雨に散った後、ゴールデンウィークには時ならぬ雷雨に見舞われ、梅雨は例年よりも長かった。
「天宮くんって、ほんとに雨男なんだね」
わたしが冗談のつもりで言うと、彼は「君こそ早く、晴れ女の本領を発揮してくれなくちゃ困るなあ」と言い返してきた。「楽しみにしているイベントなら晴れるって言ってたじゃない。僕と出かけるの、楽しくない?」
「そんなことないよ」
彼と出かけるのが楽しくないなんて、そんなこと、ない。
彼のそばでは、くつろいで穏やかな気持ちでいられた。それは、雨の日の休日、暖かい部屋のなかで屋根や庭の木々を叩く雨音を聞きながら、ココアを飲んでいる時の気持ちに似ていた。
だけど、梅雨が終わり、夏休みが始まっても、二人の仲に進展はなかった。わたしはもやもやした気持ちのまま、実家に戻り、彼と久しぶりに会ったのはお盆明け、小雨の降る肌寒い日だった。会うなり、彼は「僕と会わない時には、あいかわらずの晴れ女だね」と呟(つぶや)いた。
帰省中、同じ時期に帰省した美月を始め、高校時代の友人たちとプールに出かけた。その日は快晴で、日焼け止めも塗っていたのに、けっこう黒くなってしまっていた。
「すごい日焼けだ」
「ごめんなさい。焼けてるのは嫌い?」
「そういうわけじゃない」
彼には珍しく不機嫌そうだったけれど、わたしは勇気を出して言ってみた。
「この近くに、どこか静かに話せるところってないかな」
美月たちから「さっさと告白しちゃいなさいよ」とたきつけられた影響はあるかもしれない。だけど、わたし自身が今のままでは我慢できなくなっていた。
「わたしたち、いつも映画を観てばっかりで、ゆっくり話したことってないでしょ。わたし、もっと天宮くんと話がしたいの。どんな食べ物が好きなのかとか、兄弟は何人いるかとか、何でもいい。天宮くんに関することなら何でも」
わたしにとっては精一杯の告白を、彼は伏し目がちに聞いていた。
この人の睫(まつげ)は本当にラクダみたいにバサバサだ。ラクダは、その長い睫で砂埃を防ぐというけど、この人の睫は雨が目に入るのを防いでいるんだろうか。
雨の日の駱駝(ラクダ)。長い首をUの字に垂らし、時には目をぱちぱちさせて雨粒を弾きながら一心に歩いていく。砂漠のラクダは水場をめざすけれど、雨のなかの駱駝は何をめざしているんだろう。
あいにくの天気にもかかわらず、繁華街は夏休み最後の週末を満喫しようという人たちでいっぱいだった。色とりどりの傘の海のなかで、彼の黒い傘を見失わないように、わたしは必死で後を追った。大通りから、やけに電信柱の多い横道へ逸れ、坂を下る。道行く人はほとんどいなくなった。角に来るたび、彼は右へ左へと曲がった。もし彼とはぐれたら、一人ではとても駅まで戻れないだろう。
いつのまにか、昭和から時間の止まったようなアーケード商店街に入り込んでいた。埃のかぶった本を店先に放置している古本屋、流行とは無縁の婦人服が天井から吊された洋品店、商品箱が山と積まれた鉄道模型店、サンプルのラーメンが変色している中華屋、どのお店にも人影はなく、それでいて、お店の奥から誰かに観察されているような気分になった。
「ここはどこ?」
「僕の生まれ育った街だ」
「それで、わたしたちはどこへ行こうとしているの?」
答えの代わりに、彼は傘の柄で正面を指した。
アーケードが終わったその先には、小さな白いビルが建っていた。二階以上は事務所や店舗の入った普通の雑居ビルのようだったが、一階には「全天周映画館」という看板があった。
また、映画を観るのか。うんざりした気持ちが伝わったのか、彼はすぐに「映画は観なくてもいいんだ。ここなら静かだし、喫茶店より落ち着ける」と言い訳した。
入り口の右、普通の映画館ならチケット売り場があるあたりは傘置き場になっていた。何十本も新品の傘が並び、大小さまざまなレインコートが壁に掛けられている。その前のカウンターには太った女の人が座っていた。その人の睫も彼のように長かった。
彼は慣れた様子で女の人に傘を預けた。わたしにも傘を渡すようにとうながす。女の人は、二本の傘を受け取ると、かわりにタオルを差し出した。彼を見習って、わたしはタオルで濡れた肩を拭いた。今まで使ったなかで、いちばん肌ざわりのいい、柔らかなタオルだった。
「あんたも諦めの悪い子だねえ」
女の人は溜め息をついた。
「大きなお世話だよ」
彼は吐き捨てるように言った。「知り合いなの?」と訊くと、彼は「伯母なんだ」と答えて、カウンター脇の階段を下り始めた。
チケット売り場は地階にもなかった。だが、映画館には間違いないらしく、ソファのおかれたロビーに面して、防音処置をほどこされた大きな扉が並んでいた。灰皿スタンドの前では、驚くほど痩せこけた男が煙草を吸っていた。
「あんまり、よそもんを連れてくるなよ」
痩せた男は煙草の火を灰皿に押しつけながら言った。この人もやはり睫が長かった。そして、手の甲がまだらに青くなっていた。青あざというよりは青カビが生えているように見える。
「よそもんを連れてくるなよ」って、どういう意味だろう。彼は前にも女の子を、この映画館に連れてきたことがあるのだろうか。そもそも、どういうつもりで彼はわたしをここへ連れてきたんだろう。
「少し暖まりにきただけです」
きっぱり言って、彼はわたしを奧のソファへとうながした。
白いソファの座り心地はばつぐんだった。肘掛けがゆったりしていて、ソファの下からは温風が噴き出してきて、濡れた靴やストッキングを乾かしてくれる。
「すごいね。他の映画館でも、こんなサービスがあればいいのに」
わざとらしいほど、はしゃいでしまったのは自分の気持ちを引き立てるためだった。せっかく彼の伯母さんのいるビルに連れてきてもらったのに、知らない人から一言、二言、よく意味の分からないことを言われたからって、勝手な想像で不安がるなんて馬鹿げてる。
彼はわたしのテンションに合わせてはくれなかった。患者に癌を宣告する医者のように、
「君に打ち明けなきゃいけないことがあるんだ」と言った。
聞きたくない、と、わたしは思った。
きっと、彼は言うんだ。
君は何か誤解してるようだね。僕が君と会っていたのは、他に一緒に映画を観る相手がいなかったからだよ。君に特別な気持ちがあったわけじゃない。
それなら、わたしにだって言わせてほしい。
今さら、何よ。二人だけで何度も映画を観たら、それは恋人同士のデートなんだって、思ってしまうのが普通でしょ?
続けて彼が何かを口にしかけた時、うまい具合に開演のブザーが鳴った。防音ドアの向こうから、歓声のようなものが聞こえてくる。彼はそちらに気をとられて、一瞬、黙った。
わたしは無意識のうちに息を漏らした。
「映画、始まったみたいね。観ないの?」
「君には、きっと退屈だから」
「そうかなあ。気に入るかどうかは観てみないと分からないじゃない。全天周映画って、どんな映画?」
「一口で説明するのは難しいな」
彼は口を開きかけ、それから銅像のように固まってしまった。
決定的な瞬間を後に延ばしたい一心で、わたしは「映画、観ようよ」と言ってしまった。
防音扉の先は別世界だった。ドーム状の天井、壁面全体がスクリーンで覆われていて、小学生の頃、父に連れて行ってもらったプラネタリウムにそっくりだった。客席はがらがらで、百人は入れるだろう館内に五、六人しかいなかった。わたしたちが足音を忍ばせて、まんなかの通路を下っていくと、観客たちは横目でわたしを盗み見ながら、二言三言、彼に声をかけてきた。彼の方でもわたしには聞き取れない低い声で何ごとか答えている。彼はみんなと顔見知りらしい。館内は暗く、明かりといえば出入り口の誘導灯だけで、観客たちの表情までは分からなかったが、わたしに対して好意的な雰囲気でないことだけは確かだった。映画観賞を邪魔したから、というだけではないような気がした。ただでさえ落ち込んでいた気分は、底の底まで降下した。わたしはここでは「よそもん」だ。きっと、彼はそれを思い知らせようとしたのだろう。涙がこぼれ落ちないように、わたしは上を向いた。
頭上を覆う大スクリーンには、脈絡なく、いろいろな映像が映った。
砕け散る波。サーフィンを楽しむ若者たち。砂遊びする子供を見守る水着姿の女。色とりどりに咲き乱れるチューリップ畑を横切っていく自転車。万国旗の下、スタートの合図とともに駆け出す赤白帽に体操服の小学生たち。とても綺麗だけど意味のない画像の連続で、映画というより環境ビデオのようだった。それなのに、わたし以外の観客は、映像が切り替わるたびに溜め息をつき、あるいは歓声をあげていた。もちろん、彼も。
ストーリーらしいストーリーのない、この映画のどこがそんなにいいんだろう。
だんだん重くなってくる瞼をこすりながら、わたしは一生懸命、映像を追いかけた。
わたしの忍耐力を試すかのように、やがて画面からは人間の姿さえ消えた。代わって登場したのは鼻を揺らしながら散歩するゾウの親子に、水浴びするカバ、それに日なたぼっこする猫だった。
ピーヒョロロ。
鳶(トビ)が鳴いた。
青空を旋回する鳥を見上げているうちに、わたしはすっかり眠り込んでしまった。
雨が降ってもいい、海へ行こうと彼が言い出したのは、秋の長雨の頃だった。
わたしたちは電車を乗り継いで有名な海水浴場へ行った。
暗い空を映して、海は工場の廃液か何かのようにどす黒い色をしていた。
ひとけのない砂浜を、わたしたちは傘を打つ雨の音を聞きながら、黙りこくって歩いた。
「会うのは、これで最後にしよう」
「どうして」
問いかけながらも、わたしはその答えをあらかじめ知っているような気がしていた。彼の態度が露骨に冷たくなったのは、あの全天周映画館へ行った後からだ。彼が大切に思っている映画の良さが分からず、居眠りしたのがいけなかったのだろう。
もう一度、チャンスをちょうだい。
彼に責められたら、わたしはそう言うつもりだった。
今度は眠ったりしない。しっかり瞼(まぶた)に焼きつけて、ちゃんと感想を言えるようにするから。
だけど、彼から返ってきた答えは思いがけないものだった。
「君は僕に嘘をついたね」
「嘘? 嘘なんか、ついてないよ」
「いや、君は以前、自分が楽しみにしているイベントなら晴れると言った。僕と君が会うようになってからの半年間、晴れたことは一度もない。ただの一度も、だ。君には僕と会うのが苦痛だったのか」
「苦痛だったなんて、そんなこと、ない」
「それなら、君は晴れ女でも何でもない、ふつうの女の子だったわけだ」
「ふつうの女の子で何がいけないの? 晴れ女とか雨男なんて、占いみたいなもんで、みんな、ふざけて言ってるだけでしょう。一人の人間が天気を左右できるわけないじゃない」
「左右するんじゃない。ついてまわるんだ」
彼は、物分かりの悪い子供に言ってきかせる親のような口調で言い切った。
「どちらにしても、僕らがこれ以上、会う意味はないと思う」
「どうして、そんなこと言うの? わたしは、あなたのことが好き。だから会いたい。それじゃ、いけない? 天宮くんは、わたしのこと嫌いなの?」
「好きとか嫌いとか、そんな変わりやすくてあてにならないものを目安に、つきあう女性を選ぶ気はないんだ」
「だったら、何を基準に彼女を選ぶの? 晴れ女かどうか? そんなのバカげてる」
「君なんかに、人生の大切な日をいつもいつも雨に邪魔されてる人間の気持ちが分かるものか。楽しみにしている日に限って雨が降るんだ。海へ行っても山登りでも雨なんだ。いいかい、君がこのまま僕と一緒にいたら、君の結婚式には雨が降る。新婚旅行ももちろん雨だ。家族旅行はみんな雨、子供の遠足も運動会も雨なんだ。それが僕のせいだと分かっていて、それでも君は耐えられるのか」
「雨ぐらい、平気」
「いい加減なことを言うな」
つきあっている間じゅう、一度も声を荒げたことのなかった彼が怒鳴った。
「僕を産んだ女は、家を出て行くとき、僕と父親に吐き捨てた。『あんたたちと一緒にいると、そのうち、体中に黴が生えてくる気がする』って」
彼はまるで盾にしようとするかのように、わたしに黒い雨傘を向けた。わたしはその傘を奪った。容赦なく降りかかる雨のせいで、すぐに前髪に隠れてしまったが、ラクダめいた彼の目は不自然に赤かった。
「だったら、もっと早く言ってくれればよかったじゃない。わたしが晴れ女なんかじゃないってことは最初のデートで分かったんでしょ。なのに、どうして半年もつきあったの? 生まれ育った街なんかに連れてったの」
わたしは泣いた。二つの傘を放り出し、雨のなかで、泣いて泣いて泣き続けた。雨にも負けない勢いで泣くわたしを、彼はしっかり抱きしめてくれた。
「ごめん」と「好きだ」を繰り返し呟きながら。
今でも、わたしは雨の日にはココアを飲む。体が暖まれば、雨で憂鬱になった気分も少しは回復するからだ。それでも駄目なら、外出の準備をする。外で遊べずに家中を引っかき回している子供二人を呼んで、洟(はな)をふき、着替えさせる。子供たちは父親に似て、ラクダに似た長いまつげをしている。そして二人の子供を連れて行くのは映画館のある白いビルだ。伯母さんは「また来たのかい」と言って、わたしたちの傘を預かり、タオルを差し出してくれる。この全天周映画館は、彼の祖父が一族の慰労のためにつくった施設だった。
わたしたちは、ここで披露宴をした。
結婚式は六月六日だった。どうせ雨が降るなら梅雨の時期でけっこう、ジューンブライドでいいじゃない、と開き直って選んだ結婚式は集中豪雨に見舞われた。ドレスを台無しにした美月に愚痴られながら、わたしたちはタクシーで全天周映画館へ向かった。
映画館のなかは満員だった。
わたしたちが入っていくと、観客全員が立ち上がって拍手をしてくれた。中央どまんなかの一番いい席で、わたしはドーム状のスクリーンが輝くような青一色に変わるのを眺めた。観客席が暗い分、頭上を覆う青さは圧倒的だった。空を映しているんだと分かったのは、暗い客席との境目に雲海が映ってからだった。ほんのりと桜色に染まった雲は刻一刻とその色合いを変えた。ピンクから淡い黄色へ、オレンジから薔薇色へ。
そしてカウントダウンが始まった。「じゅう、きゅう、はち、なな」
彼は足を踏み鳴らして、他の人たちと調子を合わせていた。わたしも真似をしてみる。
「ろく、ご、よん、さん」「に、いち、」「ゼロ」
まばゆい光の弧が雲海の上に現れた。金色の光条が、頭上を覆う巨大スクリーンいっぱいに放たれる。観客はみな一斉に立ち上がり、惜しみない拍手を全天の画面へ贈った。
今では、わたしも、映画の始まりには必ず立ち上がって拍手する。
そんな母親を子供たちは不思議そうに眺めている。
新居への引っ越しの日はどしゃぶりで、新婚旅行で出かけたヨーロッパはもちろん雨、雨、雨。帰宅してみれば、段ボールに入れたままだった衣類ばかりか壁紙にまで黴が生えていた、そんな日々を繰り返すうちに、わたしにもようやく分かるようになったのだ。
初めて観た時、この映画が脈絡なく思えたのは、人間や動物の方に気をとられていたせいだ。単なる背景だと思って見過ごした太陽と青空こそ、この映画の主役だった。
砕け散る波は日に照らされてきらめき、サーフィンを楽しむ若者たち、砂遊びする子供、水着姿の女性の頭上には太陽があった。チューリップは午後の光を受けて色とりどりに咲き乱れ、その間を走り抜ける自転車のハンドルは銀色に輝いている。
お日様って素敵。晴れているって素晴らしい。
ピーヒョロロ。
目も眩む日輪のまわりを旋回しながら、鳶は鳴く。
映画がこのあたりまでくると、わたしの左右の席からは幼い寝息が聞こえてくる。
今の暮らしに不満がないとは言えないが、あのとき、彼を選んだことを後悔はしていない。
もうすぐ、上の息子が幼稚園にあがる。
入園式のため、親子揃ってレインコートと長靴を新調した。
いつか、家族のイベントで雨が降らなくなってしまったらどうしよう。
それが今のわたしの唯一の不安だ。