「チュティマの蝶(中編版)4of4」伊野隆之

「チュティマの蝶(中編版)4/4」伊野隆之

10

 締約国会議が始まり、チュティマはデンパサールに飛んだ。
「お疲れさまです」
 税関を出たところで、ジャカルタのタイ大使館から派遣された女性係官が待っていた。
「ありがとう。でも、そんなに長いフライトじゃないから」
 今回の参加は、国際NGOからの要請によるもので、タイの環境省が仲介している。その関係で、在ジャカルタの職員が出迎えに来てくれているのだ。
「車を待たせてあります」
 開催地のデンパサールはバンコクから四時間ほどのフライトで、距離が近く、タイ政府からは三十人近い代表団が参加していた。ジャカルタの大使館からも、大勢かり出されている。出迎えの車の中で、チュティマはそんな話を聞いた。
 街の中は混み合っていた。欧米からの観光客が多く、インドネシアの中でも非イスラム地域のバリは、たびたびテロのターゲットになってきた。そのためか、街中の警備が厳重で、ひどい渋滞を引き起こしている。
「少し前のバンコクみたいですよね。ジャカルタ市内も酷いですが、デンパサールの渋滞も毎年酷くなっているみたいです」
 大使館の職員はアンチャナと名乗った。
「まだ、以前のバンコクほど酷くないわ」
 チュティマが大学に通い始めた頃は、ちょうど市内の公共交通機関の建設がピークで、渋滞を解消するための工事が、酷い渋滞を引き起こしていた。道路は巨大な駐車場と化し、大量のガソリンが、意味もなく二酸化炭素に変換されていた。
「お疲れのところすみませんが、ホテルに着いたら、明日のパネルのことで打ち合わせをしたいそうです」
 チュティマが招請を受けた地球温暖化対策技術に関する倫理問題パネルは、締約国会議の公式行事ではなかった。技術補助機関が開催する会議ですらなく、多くの企業スポンサーの支援を受けたNGOの連合体が、公式会議の休憩時間に開催するイベントだった。締約国会議の意志決定には関与せず、政府代表団が参加しなければならないものではない。
「わかりましたが、そんなに大変なことなんですか?」
 IPCCの報告書で取り上げられて以降、チュティマの蝶はちょっとした議論を巻き起こしていた。つまり、短期的には温暖化の緩和に寄与するとしても、一方でモラルハザードを引き起こし、温暖化対策の実施を遅らせるのではないかとの懸念が提起されているのだった。明日のパネルでは、その点を指摘されるだろう。
「大丈夫だと思いますよ。代表団の方たちは、みんないい人ですから」
 ICAOの件以来、政府とは何回かやりとりをしている。一時は、タイ国による温暖化対策への貢献として、大々的に取り上げると言う話が出たものの、それもいつか沙汰やみになっていた。
「ええ、そうですね」
 ブリーフィングはパネルのメンバーと、それぞれの背景、主張についてだったが、チュティマは熱心に説明してくれる環境省の担当官の話をほとんど聞いていなかった。
「それで、タイ国としての評価はどうなんですか?」
 ブリーフィングの最後に、つい、そんな質問をしてしまう。もちろん、明確な答えはなく、担当官は困ったような表情を見せただけだった。
 翌日。パネルへの関心は高く、二百人ほどの収容力のある会場は、全体会議(プレナリー)が休憩にはいると同時に、ほぼ満席になっていた。チュティマには、昨日の環境省の担当官ではなくアンチャナが付いている。
「ずいぶん政府関係者がいますね」
 アンチャナが言うとおり、政府代表のバッジをつけた参加者が予想以上に多く、全体の半分以上を占めていた。チュティマは会場に中国代表団のメンバーが何人も来ているのを見つける。
「なにをしに来たのかしら」
 チュティマは、蝶の共同開発者である林明幹が中国政府に拘束されていることをアンチャナに説明した。
「政治的な拘束でしょうか?」
 政治とは距離を置いてきた。林も党に目を付けられるようなことはしていないはずだ。
「それはないと思うわ」
 中国政府は温暖化対策が不十分だという批判に神経を尖らせている。林の拘束は、締約国会議への林の参加を妨害するためのものだろうが、中国当局がなぜそんなことをしたのかチュティマには理解できなかった。
「そろそろ準備ができたようですよ」
 壇上にはパネリストのための席が四つ作られていた。そのうちの一つにチュティマの名前がある。
「たった四人なの?」
 事前の情報では、パネリストは六人だった。学者が二人と、産業界からチュティマを入れて二人、あとの二人は環境NGOというパネル構成だったが、人数が減っている。
「変ですね」
 状況を確認する間もなく、チュティマは登壇を促された。モデレーターはすでに席に着いており、程なく全員が揃った。
「本日は、クライメイトニュースネットワークが開催する『温暖化対策技術に関する倫理パネル』にご参集いただき、ありがとうございます。本日のパネリストは……」
 チュティマ以外のパネリストは気象学者と国際法の専門家、過激な行動で知られる国際NGO、ブルーアースのバーバラ=レザン。出席が予定されていて、実際に登壇しなかったのは、EVへの完全シフトを宣言した大手自動車メーカーの役員と、気候変動による気象災害から野生動物を守る活動をしているNGOだった。
 最初は各自の簡単な自己紹介から始まった。それからモデレーターは、最新のトピックとしてチュティマの蝶を紹介し、まず、気象学者にコメントを求めた。
「……一定の効果は見込めると思いますが、環境中に人工物を大量に排出するのは、慎重なアプローチが必要なのではないかと……」
 実験によって環境負荷の小ささを証明済みだったが、環境中に意図的に人工物をばらまくことへの忌避感はなかなか消えない。チュティマ自身も、そのような意見を頭から否定するつもりはなかった。
「……国際的な検証を経ていない技術の適用には慎重であるべきです。予期せぬ影響が懸念される際には、予防的な対応も考慮する必要が指摘される……」
 どのような影響が懸念されるのかはっきりしないコメントは、国際法の専門家のものだった。それに、今はまだ国際法が扱う領域ではないだろう。
「……彼らは自分たちの傲慢さをわかっていないのです。地球温暖化には、今まで政府やNGOに限らず、社会全体での取り組みが進められてきました。それを無視して彼らは危険な取り組みを独断で進めたのです……」
 バーバラのコメントは、昨日のブリーフィングで聞いた予想通りだった。
 傲慢さ。チュティマの蝶に対する懸念は、結局、そこに行き着く。個人で行動を起こしたことが傲慢だというなら、できることをせずに、手をこまねいて見ていろということなのか。バーバラは、チュティマではなく、会場に集まった聴衆に向けて話していた。
 逆に言えば、他に批判のポイントがないと言うことだろう。環境汚染とは言い切れないし、ICAOの報告は航空機の運航に対する危険を否定している。残る論点は手続き論でしかなく、既存の枠組みを外れて行動したことが非難の対象となっているのだった。
「……確かに一時的には気候の変動を抑える効果はあったのかもしれません。それでも、この先、温室効果ガスの大気中への蓄積による作用は止めようがない。対策を進めるべき主体が、対策を先延ばしにする理由として使うことによって、より深刻な状況を招くことにもつながりかねません」
 バーバラはそう続けた。確かに大気中の二酸化炭素の増加は海洋の酸性化を招く。海洋が酸性化すれば、炭酸カルシウムの骨格を持つ珊瑚や、貝類に致命的な被害を生じさせる懸念があった。チュティマの蝶は、海洋の酸性化を防ぐことはできない。
 チュティマは反論する。
「……私たちの蝶が効果を上げたことにより、対策の手を緩める国や企業があったとしても、それは蝶自体の問題ではありません。私たちは、この蝶ですべてが解決されるとは思っていませんし、そんな宣伝もしていません。温暖化には、すべてのステークホルダーが主体的に取り組むべきなのです」
 チュティマの発言を受け、モデレーターは会場からのコメントを求めた。チュティマの祖国であるタイのNGOは、チュティマに好意的だったが、会場の評価は割れている。
「……彼らの行為は社会全体での取り組みを危険にさらす上に、気候変動にさらなる不確実性をもたらし、社会全体での対策の実施を困難にするものです」
 バーバラを支持した発言者は、温暖化対策を進める企業ネットワークの代表だった。排出権取引や二酸化炭素の回収、地下貯留には、すでに多くの企業が参入している。
「……民間ベースでの蝶の放出は政府の責任を曖昧にし、不公正を助長するのではないでしょうか。蝶の効果を定量的に評価し、国が負う温暖化ガスの削減義務とのバランスをとる必要があります」
 政府を動かすことが自分たちの存在理由だと感じている環境NGOにとっては、蝶のような直接的アプローチは、彼らの存在意義を否定するようなものに思えるのだろうし、対策技術の売り込みに余念のない企業体にとって、蝶はビジネスの邪魔になる。
「私たちは温暖化による気象災害で家族と故郷を失っています。それに、私たちにはアイデアと技術があります。行動をためらうべき理由はないのです……」
 ラティマー教授のもとで成層圏を飛ぶ蝶のアイデアを得てから、チュティマと林は全ての時間とエネルギーを蝶に注いできた。二人がタイと中国で離ればなれに暮らしているのも、蝶のためだ。
「……毎年のように甚大な被害をもたらす気象災害を引き起こしている温暖化は、一刻も早い対策が必要ですし、そのためには誰もができることをするべきです」
 温暖化対策の挫折の歴史を変えるのは、行動以外にない。チュティマはすでにチュティマ自身のものになっている林の信念を訴える。
「……今でも温暖化懐疑論は生き延びています。膨大な証拠を前にしても合意形成ができないのなら、合意形成を前提とするアプローチ自体に無理があるのではないでしょうか。議論に時間をかけるのは、結局、時間を無駄にするだけです。議論によって状況が改善することはなく、このままでは手遅れになってしまいます。今の状況を好転させるために必要なのは、議論よりも行動なのではありませんか?」
 チュティマの問いは会場の聴衆だけに向けられたものではなかった。映像は世界中に中継されているし、録画され、いつでも見られるように公開されることになっている。チュティマの問いは世界に向けられたものだった。
 サイドイベントの終盤、モデレーターは議論を継続する必要性を提起した。チュティマはその結論に反対はしない。議論をしてもいい。ただ、行動を止めるべきではない。
 彼女は参加者からの支持を得られたかどうか考えていた。さもなければ、林のことを含め、状況は悪くなってしまうだろう。
 締約国会議も温暖化ガスの削減目標の割り振りについて議論を続けていた。しかし、最終日に採択された宣言には、危機感をあおる文言はあるものの、具体的な行動事項はなく、過去の約束の再確認と、合意事項の履行の呼びかけがなされたにとどまった。
 けれど、変化がないわけではなかった。

11

「うまくやったみたいじゃないか」
 タブレットの画面の向こうで、林明幹は少しやつれて見えた。
「そっちは大丈夫なの?」
 締約国会議が終わり、チュティマがバンコクに戻ると同時に林の拘束が解かれていた。
「ちょっと運動不足だけどね」
 中国当局が林を締約国会議に出席させたくなかったのは、はっきりしていた。ただ、拘束の理由がそれだけなのか、あるいは一人になったチュティマが参加を辞退することを期待した誰かが背後にいたのか、実際のところはわからない。参加していなければ、一方的に悪者にされていた可能性もあったろう。
「でも、スリムになったみたいよ」
 林の不在により、チュティマ一人にスポットライトが当たる形になり、それはそれで良かったのかもしれない。少なくとも、中国政府との関係を勘ぐられることだけはなかった。
「おかげさまでね」
 杭州の工場の操業停止は解けていないものの、林は楽観しているようだった。チュティマには中国の国内事情はわからないが、まるで拘束を埋め合わせるかのように、いくつかの地方政府から引き合いが来ている。
 多分、中国政府は蝶の評価に戸惑っていたのだろう。林を出席させれば、蝶による気候の改変に暗黙の支持を与えていると思われかねない。最大の二酸化炭素排出国の一つとして、削減努力に疑いの目を向けられるのは避けたかったはずだ。
「ところで、締約国会議に行って良かったみたい。結構な宣伝効果よ」
 チュティマの元には捌(さば)ききれないほどの連絡が入っており、誰もが今まで以上に忙しくなっていた。イベントのために蝶の引き合いが増えているだけではない。チュティマ自身への講演依頼に始まり、ライセンス生産をしたいという依頼や、蝶に投資をしたいとの連絡、海面の上昇による水没の危機に瀕した島しょ国からは、工場を誘致したいとの連絡があった。
「それはそうだ。僕たちの蝶の認知度が上がれば、今まで対策を渋ってた国や企業が競って使うようになる」
 脱化石燃料や、省エネルギーではなく、蝶による太陽光の遮断に頼ることになる。林が言うのは、そういうことだった。
「それって、バーバラの言ったとおりじゃない。本質的な対策を先延ばしにする理由に使われて、温室効果ガスの蓄積が進む、って」
「彼女の主張は間違ってないよ。でも、今はそれでいい。問題の完全な解決はできなくても、解決のための時間稼ぎはできる。抜本的対策が効果を上げるように、彼女にはがんばってもらうさ。でも、それまでの間、僕たちは蝶を飛ばし続けないといけないんだ」
 大気中での蝶の寿命は有限だった。劣化によって三年ほどで浮遊する力を失った蝶は、やがて地表や海に落ちる。新しい蝶を供給し続けなければ、気温の上昇を抑制する効果は消えてしまう。チュティマたちの元に届いた多くのオファーは、蝶の供給を続けることを可能にするものだった。
「ところで、ラティマー教授のところからおもしろいアイデアが来てるけど、目を通す時間はあったかな?」
 メールには気づいていた。本文は素っ気なく、時間のあるときに添付ファイルを見てほしいというものだった。
「そこまで手が回ってないの」
 チュティマの反応に、林は笑みを浮かべる。
「そんなことだろうと思った。それに、どちらかと言えば僕のフィールドに近いしね」
 思わせぶりな言葉に、チュティマは少しむっとする。
「どういうことなの?」
「蝶を進化させるんだ」
 チュティマの問いに、間髪を入れず林が答えた。
「今だって進化してるわ」
 蝶は進化し続けている。蝶の素材や制御プログラムは、最初に開発したものから大きく進化している。
「今までは漸進的な進化だよ。今度は飛躍的な進化だ」
 蝶を飛躍的に進化させる。つまり、蝶に搭載された制御素子の機能を拡張し、相互の通信機能を付与することによって、兆を越える数の蝶が連携して機能するようにする。ラティマー教授から送られてきたのは、研究室に入ったばかりの学生のアイデアだった。
「つまり、蝶たちを、全体として制御できるようにするってこと?」
 今までは太陽光の入射量を全体として減らすだけだった。もし、蝶たちの相互連携が実現すれば、より積極的な気象の制御が可能になる。
「その通りだよ。例えば台風の進路の海水温の上昇を抑えられれば、勢力の拡大を防ぐこともできる」
「そうなると進路も変わるはずよ。私たちには台風の進路を決めたりできないわ。大都市への直撃を避けるために他の地域を犠牲にするなんてことはできない」
「進路を変えるんじゃなくて、成長させないのさ。それに、僕たちが進路を考える必要もない」
 画面の向こうの林明幹は、チュティマに意味深な笑みを浮かべて見せた。
「どうしてなの?」
 チュティマは林がどう答えるかを知っていた。相互に通信ができるのなら、無数の蝶を、全体として一つの情報処理装置として使うことも可能なはずだ。
「蝶たちが考えてくれる。きっと、誰よりも公平にね」
 蝶を進化させるプロジェクトは、地球規模のネットワークを成層圏に作り出し、地球の気候をコントロールするようになるだろう。
 世界が変わっていく。チュティマにはそんな感覚があった。
「そういえば、チュラポンのホテル予約は取れた?」
 唐突に、林が言った。その言葉に、チュティマの鼓動が高鳴る。
「ええ、そっちは大丈夫。もう予約済みよ」
 林のプロポーズを受けたのはIPCCが蝶の効果を認めた時だった。日程を決めたのは締約国会議への招へいを受けた時。ロスのリタやラティマー教授も呼んで、自分たちのために盛大に蝶を飛ばすと決めていた。大学で見たハリウッド女優のフラワーシャワーや、ティラポンの式よりももっと盛大に、バンコクの空を埋め尽くすほど飛ばしたっていい。
 二人が使う蝶は、まだ旧世代の蝶だ。けれど、相互通信機能を付与された進化した蝶の群は、巨大な情報空間としても機能する。地球を帯状に覆う無数の蝶は、気候を制御するだけではなく、その演算能力を通じて、人類の未来をも変えていくだろう。
 蝶たちが作り出す未来を、チュティマ自身はまだ知らない。
                       了

(言い訳じみたあとがき)
 今年の夏は異常に暑かった。多分、来年はもっと暑いだろう。「線状降水帯」なんて言葉がすでに定着しているように、気候は実感としても変わってきている。
 ところで、この作品のショートショートバージョン(原稿用紙16枚)を書いた2018年は、ちょうど平成30年7月豪雨(別称:西日本豪雨)があった年で、過去のメールを確認すると5月25日に完成稿を当時のSF Prologue Waveの編集長だった片理誠さんに送っている。つまり、作品を送ってからあの災害があったのだ。当時はニュースを見て、温暖化との関係をほぼスルーした形で報道されていたことに、かなりのフラストレーションを感じたことを覚えている。残念ながら今年の夏の酷暑においても、ただ暑いと言うだけにとどまっており、温暖化対策を強化しようという声は、少なくとも日本語の世界ではさほど大きいとは思えない。要は、酷暑や豪雨は地震と同じ天災であり、天災であるならやり過ごすしかないというのが、天災大国に住む日本人的なメンタリティなのだろう。
 ところで、この中編版だ。書き終わって発表したら、それでもう作品は作者の手を離れるものだと思っている。にもかかわらず、改めて手を入れようと思い立ったのは、英語圏での発表を考えたからだ。『「Osprey’s Sky」と環境正義』で書いたように、英語圏では「気候小説(Climate Fiction,略してCli-Fi)」なるものがジャンルとして認識されている。だから、気候小説そのものである「チュティマの蝶」を英語化して送ろうと思ったときに、ショートショートバージョンのままでは弱いと思ったのだ。そんな経緯で手を入れ始めた結果が、この中編版である。もともとのテキストがそのまま使われている部分もあるが、後半にかなり書き足したため、文字数としては約五倍になっている。別の作品というわけではないが、かなり違った作品になっており、改めて公開させていただく意味もあるかと思っている。