「長男という宿痾(しゅくあ)――批評とゴシップ」澤井繁男

長男という宿痾(しゅくあ)――批評とゴシップ
澤井繁男
 
 
 家父長制の下で長男はその家で後継者として特権的な位置にあった――江戸期はむろん旧民法下の戦前までもそうであっただろうが、時代やその家が独自に抱える難題でこれが成り立たない、あるいは意図的に壊れる場合もあったことだろう。
 本稿は崩壊状態の家の「長男」として生まれた男子の負う宿痾(しゅくあ)、出生の秘密を持った自己の、人生での正当化を表現にどう盛り込んでいくか、さらに批評家はそれを暴くのが本来の仕事なのか、を考察してみたい。
 その際参考として江藤淳著『昭和の文人』(一九八九年)を取り上げる。これは江藤の代表作で、「母の崩壊」という副題を持つ『成熟と喪失』(一九六七年)とは正反対の父性に焦点を当てた作品である。両書刊行の間に約三〇年の歳月が流れていて、江藤の思考にも時代背景にも変化があったと見て取ってよい。もっとも「母の崩壊」を描いた時点で「父の存在」も危うくなっていたと私は推察する。『成熟と喪失』は、第三の新人たちの作品を解析して「母」の問題を丁寧に分析した出色の批評に思えるが、『昭和の文人』は、評するというよりも「暴露」するといったゴシップ的要素が強く、批評が劣化するとゴシップになるのか、と同じ著者の作品にあって残念に思えた。
 
    
1 潮流
 
 二〇二一年三月末に私は『検証 伊藤整―戦時下と戦中の諸作品をめぐって―』という四六〇枚ほどの著作を、北海道釧路市を拠点とする『藤田印刷エクセレントブックス』から上梓した。その際、本来なら当然事前に当たっておくべき、他の研究者や評論家たちの伊藤整関連の書籍には意図的に目を通さず、新潮社版の『伊藤整全集』を読み込み、あくまで自己と伊藤整を対峙させることに集中した。拙著刊行後、数ある伊藤整論のなかでも信頼に足り得ると踏んでいる、曽根博義と小笠原克の論に目を通してみた。他にもちろん瀬沼茂樹、平野謙、中村光夫、奥野健男、亀井秀雄、桶谷秀昭等の批評や評伝があるが、前述の二人に絞ったのにはわけがある。曽根の労作『伝記 伊藤整―詩人の肖像』(一九七七年)は、伊藤整の文壇デビューに至る歩みを、父方の生地である広島県の三好(みよし)地方まで辿った、伊藤整研究の礎となる評伝である。片や、小笠原克の『《日本》へ架ける橋――北海道にて』(一九七二年)は著者自身が、小林多喜二や伊藤整が小樽高商の生徒として通った小樽市に生まれており、北海道の風土に根差した論考なので、道産子の私にとっても親近感が湧く。故郷を「内地」に持つ北海道に入植した移民第一世代、古里を北海道それ自体と認める第二世代、という区分けを小笠原は行ない、さらに北海道文学の流れを、有島武郎~小林多喜二~島木健作~本庄陸男(むつお)~久保栄等の「社会派」と、国木田独歩~石川啄木~その啄木に惹かれ伊藤整に感動を与えた『林檎の花』の作者遠藤勝一~といった「抒情派」に分けている。伊藤整の位置づけとしては、山本健吉の「現代文学風土記―北海道の巻―」(『群像』一九五三年、一月号)での論を引いている。「(整の)『鳴海仙吉』にせよ、『得能五郎』にせよ、およそ風土的なものからは遠い抽象的な場所で作られてゐる感じがする。ただ彼の初期の抒情詩や抒情味のある短編を見ると、……故郷の自然が、彼の詩にはしばしば歌われている。だが、宗教派(プロテスタント的なものに代表されるアメリカ的なもの)と社会主義派(コミュニズムに代表されるもの)との北海道文学者の中に置くと、彼はやはり異分子である」と「異分子」説に同意している。即ち、伊藤整――「北海道、非故郷的作品」説である。この例として『街と村』の容赦ない自己暴露、フォークロアの導入、『得能五郎の生活と意見』等の戯作的、自己韜晦(とうかい)的、皮肉的、諧謔(かいぎゃく)的な作風が見え隠れする。小笠原自身が小樽生まれであることを、まとめてこう述べている。伊藤整の文学は「伝統ある風土の匂い」を欠いたがゆえに、「非伝統的な風土の匂いを創造できたし、(小笠原たちのように)北海道を素朴実在的故郷として持つ者も、伊藤整文学が切り拓いた新たな文学的風土、新たな文学の磁場を感受しうる」と。
 
 2 二重構造
 
 さらに考えてみたい論点は、本名である当人と筆名である人物との二重構造であろう。『鳴海仙吉』にこの点に関して印象深い章がある(十六「終章」の2)。昔の恋人(というより詩の素材とされた)マリ子とユリ子姉妹。ユリ子の方が過去を思い出して仙吉に、あの詩の女性が自分だったのではないかと迫ると、仙吉は、
 
 あれを書いたとき、僕は二十二でした。その頃から僕は、つまり書くものの効果のために、何でも作っていたんだ。作ることを僕は知っていたんだ。僕の間違いの全体がそこにある。僕はあの詩の中で告白したんじゃない。僕の書くものなんて、みんな嘘ですよ。……作りものです。
 
 この文面は勇気ある吐露だが、相手のユリ子はかつての恋人なのだから、衝撃は大きかっただろう。仙吉の背後には、『雪明りの路』、『冬夜』の詩人である伊藤整がいる。仙吉の告白は伊藤整の残酷な暴露につながり、「現われかたばかりのために生きている」表現者としての詩人がいる。「現われかた」とは「表現されたもの」で言葉(詩)を意味することは言うまでもない。作りものの世界に安寧を見出す実人生から一歩身を引いた、伊藤整の造語である「逃亡奴隷と仮面紳士」のうち、「仮面紳士」をみる思いがする。伊藤整自身は「逃亡奴隷」になることはなかったが、紳士として生きたその仮面の中身は、それほど平坦で真率な道ではなかったに違いない。しかし、創作家としての歩みは誤ってはいなかっただろう。伊藤整にはたくさんの私小説論があり、とにかく「人間=私」の、とりわけ「個」の内実に焦点を合わせて論を張っている。逆を言えば、それだからこそ、先の引用にみる残虐なことも平然と言ってのけた。エゴに立ち向かい、あのようなエゴを故意に露出させた発言をすることで、遠回しにエゴを発散させた。いや、伊藤整はそうすることで現実から「逃げた」のである。
 
     3 「孝行」
 
 小笠原克の「伊藤整の青春」では、北海道という日本にとっては異郷の地の文学的展開も視野に入れて、伊藤整だけを扱ってはおらず、当然、小樽高等商業学校(現、小樽商科大学)時代、整の一年学年先輩の小林多喜二にも論及している。二人の生き方の比較も当を得た記述になっている。ここでは紙幅の関係上、詳細は省くが、二人がともに上京を志したが、そのありようがいくばくか類似していることを述べておこう。両名ともに父親が絡んでいる。多喜二は父の死(一九二四年)後、北海道拓殖銀行勤務のまま残された家族をみる義務・責任があったが、困窮を極めた家庭の事情や通学路でみかける労働者の悲惨な姿から社会的正義に目覚め、共産主義信奉へと向かう。そして一九二九年、多喜二の名をいまに残す『蟹工船』、『不在地主』を文芸誌『戦旗』に寄稿、新進のプロレタリア文学作家として認められる。しかし勤務先の拓銀からは論旨免職が言いわたされ、彼は上京する。その際、多喜二は深夜ひそかに母を起こしてみずからの親不孝を詫びたという。多喜二は誠意に充ちた明るい人柄で、酌婦田口タキ身請けの一件はこの流れで考えてもおかしくない。多喜二が文学上で慕った作家が志賀直哉であることは銘記しておくべきで、奈良在住の直哉に多喜二は会いに行って一泊している。
 伊藤整は借財をかかえて死の床にある父のため、一旦上京を断念して新設の小樽中学校で英語の教員として勤めることになる。すでにデビュー詩集『雪明りの路』を自費出版し、高村光太郎や小野十三郎らから一定の評価を得ていた。この間の事情は煩雑なので略すが、東京高商(現、一橋大学)を一浪して翌年合格したものの、家庭の事情で一旦、帰郷する。次の「田園故郷を失ふ」(『冬夜』所収)の後半部でその素因を謳(うた)っている。
 
明日にでも売った家は空けねばならないから
見る知らぬ街で わびしい人の二階を借り
たった一つの若さを せつせつと摺りへらして働くのはいいとしても
それで父が心にかけた弟たちを
暖かくし 飢ゑさせずに行ける見込みもつかないのだ。
ああ 何かしらのしかかる灰色の怪物があって
私たちを田園故郷から追ひ
遂には生きて行けない世の果てまで追ひつめるのだ。
 
 伊藤家は父親の事業の失敗で長年住み続けていた家屋敷を売り払い、もっと狭い家屋に転居せねばならなかった。兄弟姉妹は、整を長男に嫁いだ姉がひとり、あと弟妹が十二人いた。曽根博義著『伊藤整とモダニズムの時代――文学の内包と外苑』(二〇二一年)によると、「すぐ下の弟は小樽に働きに行き出、弟妹三人は養子に出され、二人は死んでいたが、数えで十七歳、九歳、七歳、五歳になる弟妹四人に父母を加えて計六人が三間の借家」へと転居しなくてはならなかった。長男の整が小樽中学校(現、市立長橋中学校)の英語教員として宿直室で生活したのはこうした狭い家屋のせいかもしれないし(この時代の英文法・英作文の子弟に後の音楽評論家吉田秀和がいる)、東京での暮らしの当てとしての節約・預金とみても間違ってはいない。多喜二の場合は父親が早世し、伊藤整のそれは父が病で家も抵当に流れているという家庭の窮状。こういうとき、いやそうでなくとも成人した長男の役割は重い。当時、長男とは家の柱であって、親や弟妹を養うべき境遇にあったはずだ。「孝行」の問題が伝統的に根強く残っていて、父のいない多喜二は母を、整は父を、いずれも見棄てて上京する。
 
    4 原罪意識
 
 さて、伊藤整の中学教員時代の件まで話を進めてきたが、それにはわけがある。こうした批評・評論の領域の問題には時代背景が起因しているはずで、一九七二年の小笠原克の論考では、中学教員時代の伊藤整の家庭問題――とりわけ「父と子」の問題――を、平野謙が「私小説の限界―伊藤整の場合―」(『文藝』一九七一年一月号)で、『若い詩人の肖像』のなかの「昭和二年の四月頃、私は自分の人生の一番幸福な時期を過していたように思われる」の一文に着目して伊藤整論史上、画期的な論文としてそれを引用している。その「発見」とは、借財、それに伊藤整の貯金額から、抵当流れの時期を昭和二年の夏にズラしたのは、作者の勘違いや手法上の問題でもなく、自分の姿を直視できなかったからだ、と結論する。孫引きになるが、平野謙の論の当該箇所を挙げておく。
 
 ……伊藤整が大学進学を断念さえすれば、愛着深いわが家の抵当流れを防ぐ(原文:妨ぐ)ことも現実に可能だったわけである。心理的に重症の父親から小さな弟妹をみすてるかみすてないかという問題だけでなく、いわば経済的にわが家の崩壊に目をつむるかつむらないかの問題が、そこに折り重さなっていたのである。それを私は伊藤整の原罪意識とみなしたいのである。
 
 「原罪意識」を見出せたのは「ケチで金銭にこだわる」からであろう。曽根博義の『伊藤整とモダニズムの時代』では、「詩人の経済生活」という一章を設けて、小樽中学校教員時代の月給まで明記するほどの念の入れようだ。小笠原克は平野謙の分析をその通りだとみなして「長男としての自分への自責の念」を「原罪意識」と表現している。ここに、日本における一家の長男としての責任の重さを見て取ることが出来る。キリスト教信仰を持たなかった浄土真宗の寺の息子の平野謙(後述)がなぜ「原罪意識」などいう異教の言辞で整の内面を指弾したのだろうか。
 私も長男だが、後述の堀辰雄と同じく実母にとっての長男だ。わが家の系図は複雑で私は「血」の問題に悩み、この観点からフォークナーの作品にのめり込んだ。父を恨みはしなかったが、「原罪意識」とは遠い地点にいた。フォークナー作品が救ってくれたし、同時にわが家が崩壊へとすでに傾いていたからだ。
 各家族での「長男」の背負う重みは江戸時代に最上の美徳とされた「孝」の思想に象徴されよう。戦前、そしておそらく今でも、それは時代を貫いていると思う。原罪というキリスト教の用語を用いた平野謙には、この「孝」の欠落による「自己呵責の念」が感得される。
 
    5 仕送り
 
 さてこの拙文の表題が「長男という宿痾」となっていることの理由へとこれから筆を進めていきたい。
 じつはあるひとの勧めで江藤淳著『昭和の文人』を読む機会に恵まれた。まさに「恵まれた」読書体験だった。江藤淳が取り挙げているのは、平野謙、中野重治、堀辰雄で、みな伊藤整に関わりの深い人物だった。特に平野謙は、先述の伊藤整論で論及した「原罪意識」にも似た、父と子の問題を江藤淳によって指摘されている。それは、平野謙のみならず、他の二人にあっても同様で、『成熟と喪失』で得た論理の切れ味とは異質の「暴露」といっても当を得る残酷な読後感を抱いた。『昭和の文人』執筆の動機を江藤は「昭和初期の治安維持法と普通選挙法の成立以後の日本の大衆社会における父と子の問題」と位置づけている。そして「父(性)」をテーマとしている。
 平野謙(本名:平野朗〈あきら〉)への言及の主題は、父親隠しで、その原因・理由を暴いている。具体的には、「平野氏は……父親の職業を『恥』じ、そうすることによって自らの出自を隠すという『生活ぶり』をつづけて、『この十年ほど』を過ごして来た」という。平野謙はなぜ、浄土真宗の寺の住職である父を恥としたのか。別段恥じる筋合いはないと思えるが、彼は隠蔽に終始した。おそらく知られたくない何かがあったことは否めない。平野朗少年は長男で、弟妹が十人いた。ここでも長男の重荷が、左傾と転向という波乱の青年期に現われている。一九四一年にはなんと体制側の情報局(検閲などを担当)の嘱託として糊口をしのぎ(給与は月百円)ながらも、支度金百五十円の送金まで父に要望しているさま(これまでも生活費の支援を受けている)は、三十三歳の大人のすることではない。朗少年は親の跡を継ぐべく少年期に得度しているのに、後継を放棄して、上京する。多喜二、整と同じく、「長男」の使命を棄てたのである。これだけでも、当時は親に顔向け出来ない理由なのに、加えて仕送りまでしてもらっている。自立・自活ができていない。平野謙は父親の寺が金銭的に豊かでないことを知っていたのに(祖父の代に本堂再建の資金調達に失敗して、その際の借金が父の代まで残っていた)。ここに「自責の念」が起きないはずがない。この金銭支援という情けなさから、仕送りの主である実家の住職、父に顔向けできず、その存在を隠蔽したのか。住職の長男という点を差し引いても、出自をことさら隠すにはおよばないだろう。それならばなぜか。単純に考えて平野謙は寺へのある種の偏見があって、それを出自とする自分を「恥」とみて、それ以外のなにかになり変わりたかった。一種の変身願望があったのではないか。この点、私には友人・知人にお寺が出自の者がいるが、ある年齢になったら、跡を継ぐべく故郷にもどっている。そこに何の躊躇(ためら)いも逡巡(しゅんじゅん)もみられない。
 平野謙の場合、左翼から転向したにせよ、体制側の情報局の嘱託となり、それまでの仕送りに加えて支度金まで父に出させ、さらに長男のなすべき次期住職就任を放棄したため、とても出自は口に出せなかった、という負い目も考えられよう。ひとびとは長男の役割を知っており、父と子の世間体が歴然として存在していたはずだ。平野謙も平然と父を裏切ったのだ。
 ちなみに江藤淳も長男であるが、彼の場合は、平野謙、中野重治、堀辰雄と違って親子関係はうまくいっていたのだろう。それゆえにこそ、こうした「暴露」をためらいもなくやってのけても気にならないのかもしれない。だが、彼は妻を追って自殺を遂げている。これなど長男独特の弱さの典型的な顕われか? ちなみに平野謙は戦後、情報局を辞してから民主的な同人誌『禁題文学』(伊藤整の造語)に参加しており、二回目の転向を行なっていて、中野重治の戦中の菊池寛宛ての、日本文学報国会入会懇願書も暴露もしている、食えない人物である。江藤淳の平野謙暴露論が、あの『成熟と喪失』と同じ作者の著作とはとても思えないし、本論の副題である「批評とゴシップ」に思いが向かう。他方、伊藤整は「伊藤整理論」を構築する以外、暴露行為はしていない。
 
    6 人種問題
 
 中野重治(戸籍上は次男)の際の論点は小説「村の家」(一九三五年。ここでは家の支柱=長男とされている)に集約される。転向して故郷の実家に帰って来た主人公長男勉次にたいする父孫蔵の「意見陳述作品」である。拘置所に収監されているときの孫蔵からの書信は父性愛に充ちたものだったが、いざ釈放され古里にもどるや、勉次の「居場所」はどこにもない。村人の目を気にする父親からは筆なんぞ棄てて百姓をやれ、と命じられる、これにたいして勉次は「よくわかりますが、やはり書いて行きたいとおもいます」と応える。この発言は重く、有意な決意表明である。
 次に江藤淳は、中野の戦後初の作品「五勺の酒」(一九四七年。「五勺の酒」とは憲法を発布した特別の日に配られた酒のこと)について触れているが、ここでの重要課題は人種問題である。「僕(作品の主人公。旧制中学校の校長で共産主義者、という設定)らの少年期に」英国に行ったときに英国人画家が描いた天皇の絵が「まるであれだ……」と、「僕」は思う――セピア色に描かれた天皇がまわりの背の高い人種を見上げている……大人に囲まれた迷子かのようで――。江藤は「まるであれだ」の「あれ」に中野があえて、それに相当する動物名を書き込んでいないことで、天皇制とはべつに人種問題を思量し、それを越えた時点で、「この人(天皇)は底抜けに善良なのだ。善良、女性的、そうなのだ。声も甲高い」と述べ、「この人を好きになった」と、主人公に発言させている。「同じ人種としての……純粋な同胞感覚」に目覚めざるを得ない言語空間が存在する。中野は共産主義者だから天皇制反対だが、「五勺の酒」の主人公である校長は造型された人物で、作者中野とは別人格者である。天皇を人種と捉えて「まるであれだ」と「僕」に思わせようと表現する英国人に刃を向けている。こうした言葉が許されるのなら、中野の筆は、旧世代を引き継ぐ親天皇派・新世代の反天皇制派の両方にまたがっている。この「人種」問題では伊藤整も発言している。彼の『太平洋戦争日記』の昭和十六年十二月八日(真珠湾急襲の日)の「感想」の前半部である。
 
感想――我々は白人の第一級者と戦う、世界一流の自覚に立てない宿命を持っている。はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感覚と限りないいとおしさで自分にはわかって来た。
 
 日清戦争はアジア人同士の戦いだったが、日露戦争は白人相手の戦争で、黄色人種が白人を破ったことの意義を引用文では訴えている。人種問題は国政を越えて、根が深い。中野論は江藤が作品から読み解いた卓越した論である。
 
7 西洋版私小説
 
 三人目の堀辰雄は一般的には清冽(せいれつ)な印象を与える作家とみなされ、名立たる女優をはじめとして女性にファンが多い。こうした括りが許されるのなら、「堀辰雄~福永武彦・中村真一郎~辻邦生」といった、みな仏文学を学んだ「軽井沢派」(イタリア文学での私の恩師河島英昭先生も、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の翻訳がベストセラーになって金銭的ゆとりを得てからは軽井沢に住み、そこで亡くなった。それ以前、福永武彦が死去した折、葬儀を差配したと、直に私は聞いている)。
 堀辰雄は軽井沢での「遊興」にかかる費用を、平気で養父に要求した。その仲間には芥川龍之介もいた。堀は有頂天だった。だが、この堀にも隠蔽しなくてはならない「過去=出生」があった。江藤淳はこの事実を『幼年時代』初出の『花結び』のなかの一文に見出している――「数年前の震災で死んだ私の母はまだ若いとき、すでに他に妻のあった私の実父との間に私を生んだ」。そして「私の母は父のところへ嫁入る前は芸者をしていたのではなかったか」。江藤の推察によると実母志気が辰雄を生んだときには三十一歳で、花柳界ではもう老妓だった。実父の濱之助との年齢差はかなりあったはずで、もう実父は「出世はしたが官途も終りに近づいた下級官吏」(江藤)の職にあった。志気は見請けされたのか、いや、そうした手続きを踏んだ上での「嫁入り」ではなかったかもしれない。
 ただ明らかに言えることは、堀辰雄は実父にとってはそうでなくても、母親志気にしてみれば「長男」であり、養父もいて、長い間、養父を実父と思い込んでいた点である。堀は家庭環境の面では歪な世界を生きた。もの心ついたときには、それが内的「傷」になっていた。
 江藤は断言する――「これこそが、堀辰雄という作家を、この世に在らしめた出発点であった。そして堀辰雄は、その出発点を隠蔽することによって――あるいはそのために――彼の文学をつくったのであった」。江藤の慧眼が光るが、この分析も実に情け容赦のないものだ。前述のように私も堀に似たような出生だったが、似て非なるもので、このような残酷な目には遭わなかった。だが「血」の課題はいつまでも尾を引いた。
 江藤はここまで発掘・暴露しないと気が済まなかったのか。私にはとうに「批評の領分」から、単なる「ゴシップ」談義へと品位を落としたように思える。批評とはこうした残酷性(ゴシップ)を抱えているものだとみなしてよいのか。伊藤整は「組織と人間」のなかで「文学の本質であると考えられている批評」と謳っているが、これは整の文学が詩作から小説へと移行してゆく過程で、多くの批評文執筆によって自己の文学のよすがとしてきたことが関係しているに違いない。
 出生の秘密を堀は、西洋の「神の視点」(テクストのなかの登場人物を三人称に置き、物語の時制を過去に置いて、テクストの外部に設けられた一定点から叙述するという技法)を利用して描いた。簡単に言えば、堀辰雄は西洋の小説技巧を用いて、自虐的、告白的な日本の私小説とは違った私小説を執筆したことになる。こうした堀の筆致は数々の著名な作品に顕(あら)われ、作中に登場した女性の縁談が壊れるもとにもなったという。伊藤整の指摘する、生活報告としての日本的私小説ではなく、仮面を  被ってたくみに仕上げた、西洋風私小説だったので、かえって始末が悪かった。
 江藤淳の『昭和の文人』の主人公はみな、「父と長男(出生)」の枠で扱われている。平野謙、中野重治は左翼。堀辰雄、それに冒頭で取り挙げた伊藤整はモダニズム系統の作家であり、ともに新心理主義文学の紹介者、実践者だった。伊藤整も堀とおなじく私小説を書いたが、戯作的かつ自己韜晦(とうかい)的で、諧謔(かいぎゃく)精神に充ち、構成上複雑な作品を遺している。二人はどこで分かれたのか。伊藤整には「傷」がなかったのか。『昭和の文人』を文芸誌『新潮』に連載するにあたって、江藤淳は「恰も一身にして二生を経るが如く……」という福澤諭吉の言葉が念頭にあって、それが昭和の文人にも相当するとして筆を執ったと述べている。平野謙も中野重治も堀辰雄も、みな長男で、長男としての責任と自己の創作意欲との間で、必然的に錯綜した人生を送らざるをえなかった。『昭和の文人』は江藤には悪いが、覗き見気分で読ませる、引用文の多さにも閉口した作品だった。もっと江藤淳自身の言葉で止揚(しよう)して記述してほしかった。下衆(げす)な考えだが、原稿料稼ぎではなかろうか。
 「長男という宿痾」という表題の意味するところは、父子間の、経済、思想、出生にまつわる確執、そしてそれを論(あげつら)う批評の残忍さとの二段構えである。長男は父を裏切ってでもわが道を行く意志を持つ。そこには戦前と戦後の時代背景の相違も大きく影響しているだろうが、文学とはそうしたわが身となるものを破っていくことに存在意義がある。江藤淳は『昭和の文人』の「あとがき」で、昭和という時代の苛烈さを訴えて、文人たちがそうやすやすと風雅の道に遊び得なかった、と述べているが、文人と風雅を結びつけるほど因襲的で安直な考えはないだろう。
 最後に中野重治が師事した室生犀星について。犀星は堀辰雄と同様に、自分の出生に陰を持っていた。実父は旧加賀藩の下級武士で、妻を亡くしたあと、六三歳で、はる、という女中との間に犀星を儲けている。父親は生後一週間で、犀星を犀川のほとりの雨宝院の住職(室生姓)へと預けるが、住職は内縁関係にあった赤井ハツに赤子をわたし、照道(てるみち)と名づけられる。気の毒なことに犀星は、「はる」「ハツ」と似たような名前の、いずれも内縁関係の実母、養母を持つことになる。二重の私生児という苦難を背負うことになる。
夏の日に匹婦の腹に生まれけり(『犀星発句集』より)
 衝撃的な事実と自虐的な句だ。でもこの生母と養母をもつ二重性は精神的に犀星を束縛したことであろう。なるほど生母を慕った「かげろうの日記遺文」という傑作を遺した片鱗がここにうかがえる。犀星は七歳のとき、住職室生真乗の養嗣子となっている。
                                                         〈了〉