「白い島」江坂遊

 大しけでした。わたし達ならずもの水夫は船底をごろごろと転がり、まったく生きた心地がしません。どうしてこんな危ない目にあわなければならないのかと、自分の運の悪さをさんざん嘆きました。
 何度か身体が持ち上がったあと、海水が頭上からどっと流れ込んできて、あっけなく船底が抜けました。何ともろい船体だったことか。仲間が次々に渦の中に巻き込まれていきました。わたしも運命に抗う術はありません。
 泳ぎは得意な方でしたが、荒れ狂う海に逆らえるほどではありません。嵐が過ぎ去るまで、なんとか時間稼ぎをするしかなさそうです。息を吐きだして比較的穏やかな水底まで沈み、そこでじっと耐えに耐え、耐えられなくなると思い切り両足で蹴り上げて水面に出て素早く空気を吸い込むということを繰り返しました。そうしていたら、上昇したときに船の残骸と思わしき板切れをつかむことが出来ました。何とかそれに這い上がってようやくひと息つきました。波乗り板は安定していて上下する波の上を快走し始めます。これなら生き延びられるかも知れないと希望を見出した途端、そこで力がつきました。腹ばいのサーフィンで運を天に任せると、そこからすっかり記憶が飛びました。
 それから何日も漂流しました。板切れのおかげで波の上を漂っていられたのは幸いでしたが、今度はお腹が空いて仕方がない。魚はいっぱい近づいてきましたが、手で掴めるものでもないのでね。
 陸地からどんどん離れていっているようです。島影も見えません。もうダメだと観念もしました。
 ですが、ある時、板切れのちょっとした異変に気付いたのです。指がぬるぬるっとしだしたのです。手を水中に入れてバシャバシャかき回すと、ボコボコッと泡立ったので驚きました。そして不思議なことに、桃の香りが鼻をくすぐりました。
 板切れの上で上半身を持ち上げてみると、目の前に真っ白な小さな島があるのが見えます。それがおかしなことに、打ち寄せる波は、モコモコの泡だらけで、大きなしゃぼん玉が宙に飛び跳ねている妙な光景が目に入ったのです。てっきり頭がどうかしたのだと思いました。瞬きを何度も繰り返しました。もちろん、これまで目にした光景ではありません。怖かったですが、すぐに好奇心が勝ち、バシャバシャと漕いでその得体の知らないものに近づいていきました。
何とわたしは、石鹸島に漂着したのです。
 島の真ん中には人が見上げるほどの高さの石鹸の山があり、それを中心に小学校の運動場を三つ四つ集めたくらいの広さの陸地がある無人島でした。島全体が石鹸でできていたので波打ち際は見事に泡だらけで、風が吹くとその泡が大きなシャボン玉に膨れ上がって宙を舞い、容赦なく身体にペチャっとくっついてきます。おかしな具合です。
 山からは緩やかに一本の川が流れ出ていました。川はたっぷり石鹸が溶け込み白濁しています。つかってみると、とても爽快な気分になりました。何カ月も風呂に入っていなかったのでありがたかったのですが、男一人が清潔になったところで誰に誇れるものでもありません。何しろ食べるものがないし、真水もない。山の反対側にも行きましたが、そっち側はとんでもない大風が吹いていて、石鹸が粉になって空に舞い上がっていたので息苦しく、その場にとどまっていることは出来ませんでした。石鹸島は天国と地獄が山で分けられている不思議な島でした。
 夜になると、満天の星空。のんびり見上げて名付けたのは食べ物の名前ばかりの星座ということになります。パン座、スパゲッティ座、ピザ座、といった具合です。
 しかし、人間、腹が減ると無茶なことをやってみる気になるものです。背に腹は代えられぬと、石鹸水を飲んでみることにしたのです。用心深い性格だったので、いくら何でもそれは危険だろうと控えていたのですが、理性を失いかけてきた証拠です。辺りに、うっすら甘い桃の香りが立ち込めていたので、人体に有害なものとは思えなくなってきていたからということもありました。
それが、石鹸の組成が違うのか、とても甘くて美味かったので、目を丸くしました。かつて食べたことがあるほのかに甘い白桃の味を思い出しました。それならと石鹸の岩をかじってみると、口の中ですぐに柔らかくなりジューシーな味わいを舌に感じました。かつて水夫仲間の話で聞いた「桃源郷の桃」というのはこれではないかと思ったほどです。口から泡を吹き上げながら、もう無我夢中でした。いや、飽きない上品な味だったのです。
食欲を満たすことが出来ると、まさにこれはいいところに泳ぎ着いたものだと思いました。ああ、この島の山のこっち側なら一生いてもいいなと思うほどご機嫌でした。
 ええ、星空を見上げながら閃いたことがあります。この石鹸島は宇宙から飛来したものかも知れないなあと。宇宙のどこかに特殊な石鹸を作り出す星があってそこで大爆発が起こり、地球にその破片が届いたのではないか。ひょっとすると、それは地球を浄化させるための計画的な行為だったのかも知れませんよ。唐突すぎるというご意見はこの時点では甘んじてお受けしますが、閃いた瞬間に星が流れたので、わたしには確信めいたものがありました。
 そうですね。のんびりしちゃっていました。でも、数週間くらい経って、そののんびり生活は、ずっとは続かないものだと思い知りました。その発見をしたときはがっくりきました。というのは島の面積が徐々に減っていっていることが分かってきたからです。石鹸でできた島だから。そりゃ消えてなくなる運命は仕方がなかったのでしょう。
 それからどうなったかですが、結局、わたしはついていました。偶然、島の沖を通りかかった船に助けられたのです。
 隣国の陸に上がって新聞で知りましたが、あの船の乗組員はみんな水死したということになっていました。石鹸島に助けられた大事な命です。わたしは新しい別の人間に生まれ変わったつもりで、裸一貫からがむしゃらに働きました。今の財を築けたのはそのおかげです。また、あの不思議な食べられる石鹸をこの手で作り出したいという一心で研究施設を充実させながら今の会社を大きくしてきました。
 島を離れた後に一度、探査船を出しました。海面下の岩陰に残っていたあの特殊石鹸をいくらかは持ち帰ってきましたが、残念ながら今になっても同じものは作れません。実はもうそれに取り組んでかれこれ三百年になろうとしています。
そう、三百年です。息子は二百歳になりましたが、天文学者になってあの石鹸でできた星をずっと探しています。二つ三つはもう見つけていると聞いています。
「銀河系を巨大な洗濯機の浄化槽と考えてみる。ブラックホールが回転の推進力の一つになっていると考えれば。その渦の中に、特殊石鹸を砕いた粉石鹸をどのくらい投下すればすべてが浄化されたことになるのだろうか。不足分をどれだけ我が社で生産しておけば清らかな生命でこの宇宙を満たせるのか」
などと言った途方もない計算を繰り返しています。が、それに答えは出せるのでしょうかね、本当に長生きしますよ。
そうそう、あの食べられる石鹸は、人の身体に害を与えるものすべてをきれいさっぱり洗い流してしまえるようです。おかげで今もわたし達家族は元気でこうやって長生き出来ています。