新作紹介『トーキング・ヘッズ叢書 TH92 特集・アヴァンギャルド狂詩曲』 前田龍之祐

 新作紹介『トーキング・ヘッズ叢書 TH92 特集・アヴァンギャルド狂詩曲』

 前田龍之祐

 ジャンルを問わない多彩な執筆陣で話題の季刊アート誌『トーキング・ヘッズ』92号。今回は「アヴァンギャルド」特集です。

 まず注目したいのは、表紙に描かれているグスタフ・クリムトの絵です。「まえがき」でも述べられているように、19世紀末、既存の芸術的価値観への反発からウィーン分離派を結成したクリムトらは、後の未来派やロシア・アヴァンギャルド、またダダイズムやシュルレアリスムなどといった前衛芸術の大きな潮流の先駆けと見なされます。「時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を」との言葉のもと展示を企画したクリムトの〈芸術的自由=アヴァンギャルド〉の精神は、本特集のいずれの文章にも宿っていることでしょう。

 他方で、「そこに未来は見えたか?」との副題が付されているように、本特集は、そうした精神がいまの閉塞状況のなかでいかに可能なのかという問いかけを含んでいる点も重要です。アヴァンギャルドの「未来」への可能性について、それぞれの視点からの応答がなされています。

 まず、浦野玲子「戦艦ポチョムキン、アンダルシアの犬、薔薇の葬列――アヴァンギャルド映画のエゴ・ドキュメント的見聞録」は、個人的な映画体験を交えつつ、アヴァンギャルドの基本姿勢を確認しているという意味で、本特集の冒頭に相応しい文章です。そもそもアヴァンギャルドとは、元来軍事用語である「前衛」の語を「先鋭的な表現」という風に解釈して使用されたものですが、ロシア革命20周年の記念で作られた、エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』は、「モンタージュ理論」を実践した前衛映画のメルクマールとして知られています。『アンダルシアの犬』、『薔薇の葬列』、『田園に死す』……等々、洋の東西を問わず、後の映画史にも多大な影響を及ぼしました。

 この文章でとりわけ目を惹くのは、当時「アヴァンギャルド映画上映のメッカ」であった、新宿のアングラ文化の描写です。しかしその風景も遠くなりつつある今日、「新しい表現」は一体どのような形で現れるのか――そんな郷愁と期待の両方に彩られた興味深いエッセイとなっています。

 なるほど、アヴァンギャルドが元々政治的な革命性をも含んだ運動であったのならば、石川雷太「前線はどこだ?直接行動のアート――D.A.F、ライバッハ、プッシーライオット、IC3PEAK、中村趫、混沌の首 ほか」は、「暴力的に未来を切り開く可能性に満ち」た一連のアーティストを取り上げ、全体主義という名の負の歴史を戯画的に描いてみせる彼/彼女らの作品を紹介するものです。特に、現在のロシア情勢(プーチン独裁体制)のなかで、反体制的なメッセージを掲げるバンド集団であるプッシーライオットやIC3PEAKSは、堂々と「ファックプーチン!」を訴え、ウクライナ侵攻の最中に新曲を公開して支援を仰ぐなど、厳しい抑圧に対して「芸術的自由」を守るアヴァンギャルドの精神を体現していると言えます。

 音楽という時間芸術が、そうした革命のビートを響かせるとしたら、その持続感を平面上に定着させた作品こそ、カンディンスキーの抽象絵画だと言えるのかもしれません。待兼音二郎「色彩から旋律を、線描からビートを響かせる――カンディンスキーが到達した抽象表現」では、ロシア生まれの画家カンディンスキーが描く幾何学的図形に「音楽的な響き」、すなわち聴き手の感じる空想世界の無限の広がりという側面を強調します。その「コンポジション」は、具体的な対象物を捨象して、ある聴取=鑑賞体験の意識のみに集中することで可能になるのですが、しかしそれは『点と線から面へ』等に代表される、カンディンスキーの熱心な学究に裏打ちされたものなのです。

 またその学究の過程には、20世紀初頭のドイツで創設され、文化や社会を巻き込んだ「前衛」を目指した教育機関、バウハウスでの教員経験も含まれているでしょう。並木誠「最後の前衛の相貌――未来派とバウハウス」では、このバウハウスと、「速度の美」を称揚した(イタリア)未来派という二つの前衛組織に焦点を当てて、モダニズム芸術への嫌悪からやがてナチスによる弾圧で閉校を余儀なくされた前者と、戦争賛美を謳ってムッソリーニに絡めとられた後者との、相反する運命を描写しています。急進的な政治運動と前衛的な芸術運動とが交差した「最後の前衛」が終わりを迎えたいま、本稿はその可能性/不可能性両面のゆくえを暗示するテキストです。

 さて、日本国内に目を転じてみて、このような「前衛の時代」はどう振り返られるものなのでしょうか。その点で、以下の二つの文章は興味深く読むことができます。

 まず、高槻真樹「ヴォワイアン・シネマテークとその時代――80年代関西と前衛映画運動」。学生時代に実験映画グループ「ヴォワイアン・シネマテーク」に参加していた筆者の体験をもとに、80年代関西の前衛映画隆盛期を振り返る本稿は、ひとつのスタイルに還元されないグループ内の多様な作風――メタ的な表現、映画史のイメージの引用、アニメ的表現の転用――に「つかみづらさの魅力」があると指摘しています。が、それにも増して重要なのは、グループの内の一人が事務所として自宅を提供し、彼らが「唯一無二の居場所」をそこで形成していた事実です。確固たる中心を持たないというユニークな環境だからこそ、「ヴォワイアン・シネマテーク」の面々は、それぞれ自由な表現を追求することができたのです。2019年に開かれた大規模な回顧展には多くの来場者が詰めかけたとのことで、その表現はいまも古びることなく受容されています。

 また、阿澄森羅「オンリーワンの潰えた後に――『月刊漫画ガロ』の足跡と遺産」も、かつての「前衛」の空気を伝える貴重な文章です。1964年7月に創刊された『ガロ』は、当時連載されていた『カムイ伝』の人気もあって初期こそ順調に部数を伸ばしていくものの、連載終了を機に長い暗黒期に突入し、その後一時期の復興はあったとはいえ、基本的には終刊まで売上面では苦難続きだったと筆者は語ります。しかし、後に「ガロ系」というカテゴリーが生まれるように、その前衛意識は確実に後世へ継承されていきました。

 以上の文章は、かつてのアヴァンギャルドの軌跡をたどりながら、そこに現在まで続く遺産を見出すという意味で、まさにアヴァンギャルドの「未来」を考察するための手がかりを与えてくれています。

 「前衛とは常に一歩先へ進まねばならない」。それがアヴァンギャルドの精神だとすれば、水波流「観客も住民も巻き込んだ、街を舞台にした伝説の演劇――寺山修司による『市街劇ノック』」は、寺山修司の試みた「市街劇」にその端緒を見ます。70年代当時に、昨今で言うところの「体験型エンターテイメント」の先駆けともいえる実験演劇に挑戦した寺山のあり方に、私たちは「現代の前衛」に通じる姿勢を学ぶことでしょう。

 ここまで述べてきたような、現在においての「前衛の姿勢」を改めて確認すれば、それはこう言えるのではないでしょうか――「前衛」をアナクロニズムだと知りつつもそれを引き受け、時代の趨勢に対して徹底的に背を向けることだと。そして、ここから導かれるものこそ、(実は多くのアヴァンギャルド芸術が背負ってきた)進歩主義的なイデオロギーから離反する、「後衛」の振る舞いにほかなりません。

 「後衛」とは何か。梟木「「前衛」という寓話――犬王、クルエラ、プペル…「後衛」の時代へ」によれば、それは‘‘最先端の表現‘‘、‘‘進歩的な変革‘‘などといった「前衛」の括りでも収まらないような、ある種時代錯誤的なアウトサイダーの表現です。

 たしかに、冷戦構造の終焉から四半世紀が経過した今日では、20世紀には信じられていたような芸術を通じた社会変革(=前衛)の希望は、俄かに信じられなくなっているのが実情でしょう。ただ、「後衛」の作家たち(中原昌也、西村賢太、湯浅政明etc)は、それぞれのやり方で時代に対して闘いを挑んでいると、本稿では指摘されます。そしてそれは結果的に、「前衛の姿勢」を現在において生き延びさせているというのです。ここでは、アヴァンギャルドの「未来」を問うていた、本特集のひとつの回答がはっきり示されています。

 最後に、そんなアヴァンギャルドの多様な広がりを感じさせるいくつかの文章を紹介したいと思います。

本橋牛乳「コンデンストでアヴァンギャルドなニューウェーヴSF」は、SF界のアヴァンギャルドとしての「ニューウェーヴSF」、しかもそのなかでも特に尖った作品である、ラングドン・ジョーンズ『レンズの眼』やJ・G・バラード『残虐行為展覧会』、またパメラ・ゾリーン『宇宙の熱死とその他の短編』を取り上げ、その「非線形」的な表現にこれらの前衛性を見出しています。

 岡和田晃「‘‘新しい波‘‘のSF詩人、D・M・トマスの一九六九年」は、そのニューウェーヴSF運動に関わっていたD・M・トマスの「アヴァンギャルドなSF詩」のなかから、邦訳された二編を中心に論じ、五月革命を背景とした「一九六八年文学」の系譜に彼の詩を位置づける論考です。ラングドン・ジョーンズが編纂したアンソロジー『新しいSF』(原著は1969年刊行)にも、トマスの詩は収められています。

 長澤唯史「〈正しさ〉を脱臼する作家――ジェイムズ・パーディ」は、60~70年代のアメリカの最重要作家のひとりジェイムズ・パーディの作品群に、世間の正しさに対する「脱臼」(物語化の拒否)という主題を指摘し、パーディ文学を20世紀アメリカにおけるアヴァンギャルドの文脈から再評価するものです。「自明性の喪失」を絶えず確認するパーディの「脱臼」の記録もまた、戦後における革命(前衛)の時代の裏側を映していると言えるでしょう。

 その他、レビュー欄では、レーモン・クノー『文体練習』やウラジミール・ソローキン『青い脂』、スティーヴ・エリクソン『黒い時計の旅』などのアヴァンギャルド文学の名作から、岡本太郎や立川談志の目指した前衛観までが解説されており、そのどれもが、私たちにアヴァンギャルドの可能性を再発見する契機を与えるものです。

 そこに未来は見えたか?――その「未来」の運命は、本特集をこれから読む貴方たちに委ねられているのかもしれません。