「翡翠の川」柳ヶ瀬舞

   翡翠の川
                                         柳ヶ瀬舞
 はい。私はどこかがおかしいんです。それはよくわかっています。
 私は平凡な子でした。親に虐待されたり、学校や近所でいたずらされたりといったことはありませんでした。私は一人娘でしたので、それもあってか両親は大事に育ててくれました。
 ときどき夫婦喧嘩こそはありましたが、それはどこの家庭にもありますよね? 幼稚園や小学校の先生たちは放任主義だったみたいで好きにさせてくれました。スカートめくりをされたり陰口を言われたりするようなことはありましたが、その程度でした。特に酷いいじめに遭うこともありませんでした。
 今になって思えば、この頃が私にとっては幸せな時でした。私は注意力が少し足りなくて、勉強があまり好きではありませんでしたが、ごく普通の子でした。ただそれだけのことがどれほど幸運なことだったのか、今ではよくわかります。
 十二歳の冬でした。私の人生が変わりました。初潮が来たのです。とても寒い朝でした。そして下着を赤黒い血で汚してしまったので恥ずかしいと感じました。学校で初潮について教えられましたし、早い子はもう来ていたので驚くようなことではなかったかもしれません。しかし今までの生活も変わってしまい、自分が汚れてしまったような嫌悪感すら覚えました。
 初潮を迎えて起こった変化は、出血だけではありませんでした。気がつくと右目の視野の下に緑色の何かが、川のように流れていたんです。月経が来たことで起こった精神的なものなのだろうと思いました。学校では教えてくれませんでしたが、生理と同じできっと大人になると誰にでも起こることなんだろうとも考えました。実際にこの日まで何も異常はなかったんです。
 次の日にも緑色の川が見えました。その日は学校で運動ができなかったことをよく覚えていますね。
 母は丁寧さからかお節介からか、担任の先生に初潮が来たことを知らせていたのです。体育の時間は図書室でこの本を読みなさいと先生から本を渡されました。女性の第二次性徴についての本でした。確かに最初は驚きましたが、生理なんて世間で言われているほど大げさなものではないと軽く考えていました。本はあっさりと読み終わったものの違和感を覚えました。右目にある緑の川のことが書かれていないのです。女の子の第二次性徴や月経に関する本を誰もいない図書室で探しました。どの本にも緑の川のことは出てきませんでした。これは恐ろしい何かの「病気」なんじゃないかと疑り始めました。
 最初にしたことは、一人で眼科に行くことでした。母にも父にも心配をかけたくない。保健の先生に話しても、すぐに両親に伝わってしまうだろう。いま思うと可愛らしい心配ですね。もし病気だと知ったら、母も父も悲しむだろう。そんな心配をさせたくないと考えたんです。自分の住んでいる町の医者ではだめだと思い、貯金箱のお金を持って、バスに乗り、病院に行きました。
 十二歳の子どもが一人で病院に来たので、受付の人も医者も驚きました。どうしてここに来たの? という質問に、心の中で繰り返していたことを言いました。黒板の文字がよく見えないのです。医者は近視が始まっていないことを小学生の私に丁寧に説明してくれました。そして最後に飴をくれました。また何かあったら来なさい、と。医者の優しい言葉に、抑えていた不安が一気に吹き上がりました。医者でもわからないことが私の中で起きている。ただの緑の川なのですが、これからもっとひどいことが起きるのではないか。緑の川が歪んで見え、泣いていることに気がつきました。
「目の中に緑の川が流れているんです。死んじゃうんですか?」
 医者は驚き、私を必死でなだめました。受付の人が問診票の電話番号から家に連絡を取りました。両親に知られてしまったことに怯えました。母が病院に来ると真っ先に私を抱きしめました。父が遅れて仕事場から駆けつけてくれました。そのおかげで恐怖を無防備に受け入れてもよいのだと思うことができました。
 私はバカでした。この幸せが永遠に続くと思っていたのです。でも、幸せと不幸は隣り合わせなんですね。その月の生理が終わっても右目の緑の川は流れ続けました。母は心配し、父は戸惑っていました。眼科をたらい回しにされ、精神科にも行きました。その医師も困り果て、新しい医師の元へ行く。その繰り返しでした。学校にも家庭にも私の居場所はないと感じるようになりました。変な自分がいると心配ばかりかけてしまうし、息を殺すように当時は生活をしていましたね。
 十七歳になった夏、すべてに嫌気がさし私は家出をしました。もちろんお金があるはずもないので必然的に年齢を誤魔化して風俗店で働くことになりました。最初はとても怖かったのですが、お客様は自分の想像に反して優しい方々でした。もちろん、ときには嫌な思いをすることもありましたが、そんなひとは意外と少ないんだともわかりました。店長はよく焼肉をおごってくれましたし、お客様もいろんな話をしてくれました。性的行為より、お客さんの話を聞くことが仕事のような日もありました。
 緑の川のことは誰にも話しませんでした。とても奇妙な「病気」だとは自分が一番良く知っていました。だから店長やお客様に過剰に優しくされると戸惑いました。自分が狂っていることを見透かされ、嘲笑われているように感じたからです。誰かに少しでも好意を向けられると、まるで何かの罰のように感じられました。見返りのない優しさによって、私の異質さが責め立てられているかのように感じたのです。今から振り返ってみれば自分が異質であることに対して卑屈になっていたのかもしれません。
 その日の仕事が終わり、待機室でコンビニエンスストアのカレーを食べているときでした。緑の川は右目の視界の半分にまで及んでいました。手にしていたプラスティックのスプーンに目が留まり、ふと私は思い立ちました。私をおかしくしているのは緑の川なのだ。では、目が無くなれば私は安心できるんじゃないか? そして右目をくりぬいてしまおうと決意しました。眼球と骨の間は柔らかく、すんなりとスプーンが入っていく感触を今でも鮮明に覚えています。なぜこれまでこうしなかったんだろうと不思議でした。私は痛みで失神しました。しかし次に目を覚ましたとき深い安らぎに満ちていました。右目に見えていた緑の川はもうありませんでした。
 私は精神科に入院しました。でも、私は右目の眼球と引き換えに平穏な心を手に入れました。家族とは最初こそぎくしゃくとしていましたが、月経を迎える前の状態に戻りつつありました。
 そのころのことです。父から大学への進学を勧められました。「お金を出すことはできないけれど晶子は青春を謳歌すべきだ」と父が言ったのです。勉強は嫌いでしたが、父と母が大学生時代に出会い、恋に落ちて結婚したのだということをよく聞かされていました。もちろん大学は学びの場ですが、いろんな人たちと出会う場でもある。父と母の過去の延長線上に私がいる。それが何よりも強い説得力を持っていました。私はすんなりと大学進学を受け入れることができました。高卒認定試験の勉強をしながら大学に進学する準備をしました。
 それから二年後、家から通える範囲の大学の仏文科に入学しました。入院をしているときに本を読むことが好きになったことと、図書館司書の資格も取れることが動機でした。特に興味を惹かれたのがジョルジュ・バタイユの『目玉の話』でした。自分の異常な体験とバタイユの異様さが共鳴しているようで魅力的に感じたのです。かなり難しかったのですが、フランス語の原書で読んでみました。私は右目を失いましたが、心はいたって平穏でした。
 最初のうちはキャンパス生活に不安しかありませんでした。右目のことを聞かれたらどう答えようかと考えていました。それにストレートで大学に合格した人よりも私は四つも年上でしたから。しかし、それらは取り越し苦労に終わり、大学生活を謳歌できています。誰も右目については言及してこないのです。今だから思うのですが、あまりの異形さゆえに聞いてはならないと考えたんでしょうか? それはわかりません。でも、講義は楽しいし、大学の先生たちは、熱心に質問をぶつけてくる学生だと評価してくれていました。
 二十三歳で大学二年生になったとき、ある先生と出会いました。彼女が非常勤講師を務める講義に、初めて出席したときのことです。「橋本晶子さん」と名前を呼ばれた瞬間、あるはずのない右目に緑の川が映りました。そしてその緑の川の対岸にその先生がいました。ほんの一瞬、そのイメージが浮かび、右目があった場所はひどく痛んで私はその場で気を失いました。
「橋本さん、体調はどう?」
 先生は心配して、大学の保健室に訪ねて来てくれました。先生に名前を呼ばれると身体が強張り、緊張が走りました。自分の身体なのに自分ではうまく動かせなくて驚きました。顔が火照って頭に血が上ります。恥ずかしい。しかし何が? 私は戸惑いました。最初、私はただの自律神経の乱れだと思いました。バカみたいですよね。先生を一人の女性として意識していた、と気付くのはもう少し先のことです。
 講義であれ他の機会であれ、先生と過ごす時間は大きな歓びであり困惑でした。先生を見つめて講義を受けているだけで十分だと思っていたのに、次の瞬間には先生と二人きりで話をしてみたいという欲望が膨れ上がってくるんです。私は人並みの幸せ、いえ、それ以上の幸せを手にしているはずなのに、先生と出会ってからさらに幸せを渇望するようになってきたのです。そして先生のことを考えると真逆の感情を一緒に感じました。会いたいのに会いたくない。話したいのに話したくない。まずその感情を自分で処理するのに時間がかかりました。しかし、誰かを想うということは、心の矛盾を受け入れる行為だと考えて、自分の欲望を否定することをやめました。すると道は一筋になりました。
 先生の講義での積極的な発言が当たり前になりました。先生が講師室を出る時間を知り、偶然を装って一緒に下校するようになりました。これって一歩間違えるとストーカーですよね? 先生と親しくなるのに時間はかかりませんでした。下校と電車の時間だけでは話す時間が足りなくて一緒にファミリーレストランで夜中まで喋っているときもありました。先生との講義も終わりに近づいた学期末に思い切って交際を申し込みました。
「二人きりのときは、京香って名前で呼んでちょうだい」
 はにかみながら京香さんはそう言いました。そうしてやっと私は京香さんの隣にいてもいいとの許可をもらうことができたんです。
 ええ、私はおかしいんだと思います。それはよくわかっています。だって、たとえば穏やかな海辺を歩いているとき、あの右目に見えていた緑の川が恋しくなるんです。さんざん私を苦しめ、人生さえ狂わされた、ほんの数年間目に流れていただけの緑の川を恋しがっているなんて。
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 橋本晶子は、バッグの中からペットボトルを取り出すと水を飲んだ。そして目の前にあるローテーブルに置いた。伏せていた目を上げ、カウンセリングルーム全体を見渡した。クリーム色に統一された内装で、インテリアと呼べるものは一鉢の観葉植物だけだった。
「それは変なことではありません」
 カウンセラーの言葉で緊張が解けたのか、晶子は固い表情を少し緩めた。
「晶子さんにとって、緑の川とはいったい何だったと思いますか?」
「私の身体の一部だったのだと思います。同時に過去の記憶です。心の中ではとても整理が付きません」
 少しとまどったが、はっきりと言った。
「思い出すことは人間にとって大事な営みです。緑の川について思い出すことは苦痛ですか?」
「いえ、苦痛ではありません」
 その問いに対して晶子は即座に答えた。カウンセラーは話の続きを辛抱強く待った。
「でも、緑の川については京香さんにも言えません。過去は洗いざらい話しましたけど……苦痛だったはずの記憶が懐かしいだなんて。おかしいですよね?」
 晶子は目を伏せた。
「緑の川は、晶子さんの大事な時期に現れました。心身ともに大きな変化を遂げるのが、第二次性徴です。緑の川が見えたことは、確かに苦痛だったでしょう。しかしそれだけではなかったはずです。晶子さんはおっしゃっていたじゃないですか。両親に知られたとき、恐怖をそのまま受け入れてよいのだと思えたと。それは幸せな記憶ではないのですか?」
「はい」
「記憶とは厄介なもので、一つの感情だけをまとっているわけではありません。嫌な記憶は確かにあります。しかしその嫌な記憶にすら美しいと思える瞬間が含まれているのだとしたら、はたしてどうでしょうか?」
 晶子は深呼吸をして涙ぐんだ。
「今日、付き添いの方はいらっしゃいますか?」
 次の問題を解決しなければならない。カウンセラーは晶子に尋ねた。
「はい、京香さんが……」
「その京香さんとお話がしたいのですが、十五分ほどお時間をいただけますか?」
 晶子は涙ぐみながらも、感情を必死で抑えていた。自分の異質さを初めて自身で受け入れられたのかもしれない。
「晶子さんには、カウンセリングの必要はないと思います。ご心配なら、次回の予約もいれられますが……」
 カウンセラーがそう言うと、晶子は首を横に振った。
「おかしいのは緑の川に嫌な記憶を全部押しつけていた私自身だったんですね」
 晶子は晴れやかな顔で頭を下げ、退室した。入れ替わりに京香が入ってきた。
「私は晶子さんより、京香さんとお話しをすべきだと思っています」
 出しぬけに言った。京香は面食らったように、何度か瞬きをした。そして促されるまま、椅子に座った。
「晶子のことを本当に心配しています。だから連れて来たんです」
 沈痛な面持ちをしていた。やはり話をきくべき相手は京香のようだ。
「京香さんは晶子さんをどうしたいのですか?」
 京香は呆気に取られた。晶子の記憶にまつわる問題は、彼女の問題だと思っていた。晶子の過去をどうしたいのか? そんなことは考えていなかったのだ。
「晶子さんは善悪の基準もあり、嘘をついているつもりもない。彼女の語る過去が仮に嘘だとしても、その嘘で傷つく人はいません。晶子さんは耐えがたい過去の穴を自らの創作で埋めました。それはとても健康的なことだと思います」
 京香はカウンセラーの言葉に頷きながらもまだ「靄(もや)」の中にいるようだった。
「でも……やはり変です」
「その感覚ほどおかしいものはないと思いますよ」
「先生は私の方がおかしいと言いたいようですね」
 京香は自嘲気味に口角を上げてみせた。
「そう聞こえたのなら失礼しました。しかし記憶というものは記録ではないのです。記憶は人間そのものです。いまの晶子さんの状況をたとえるなら過去の出来事を深く地中に埋めて、その上にあなたと住む家を建てている最中といったところでしょうか」
 しばらく京香は黙った。どんな振る舞いが晶子にとって最適なのか、京香は気がついているはずだ。あとは自身が納得できるかどうかだ。
「そう思いたいのならそうさせるのが一番、ということですね」
「そうです。彼女の過去への思いや語りを信じてあげることです。彼女のことをどう……」
「大事です」
 途中で言葉を遮り京香は力強く断言した。
「嘘と思ったことはありませんし、自分の過去で誰かを傷つけようとはしていません。私は彼女を信じます」
「それがいいでしょうね」
 京香は緊張していたのだろう。カウンセリングルームを圧迫面接のような場にしたくなかったので、カウンセラーはアンティークの霧吹きで観葉植物に水を吹きかけた。
「それでも、ひとつ心配があります」
「どんな?」
「いつ、地中に埋めた記憶が戻ってくるのかわかりません。もし彼女の信じていない過去の記憶が彼女を襲ったとしたら?」
「その時こそが私の出番だと思います。そのような事態になったら私のところに一報を入れてください」
「その時はよろしくお願いします」
と京香は頭を下げた。
「先生、私は不思議に思います。晶子は天真爛漫ですが、自分で物事を考えられるしっかりとした子です。私が惹かれたのは彼女が彼女であるからです。それでも葬った記憶を思い出したりしたら、私は……」
「それこそ杞憂だと思います。京香さんはご自分でおっしゃった通り、晶子さんが強い子であると信じている。そして事実、晶子さんは強い。自分の想像力で過去の穴を埋めたのですから。これからも彼女を信じてあげてください。それが一番、有効だと思いますよ」
 言葉を遮ったのは二人の未来が見えていたからだ。信じる力は強い。このふたりなら大丈夫だ。そう考えてほほ笑んでみせた。
「そうですね。それが大事ですね」
「私の言いたいことが伝わったようで何よりです」
「ありがとうございました。私は晶子を信じます」
 表情は真剣そのもので、晶子への深い慈しみが感じとれたので、京香の頭に手を置いた。
「失礼、まるで神聖な誓いのように聞こえたので。立会人が私で申し訳ない」
「もう二度とお会いしないで済むように、二人で努力します」
 京香は椅子から立ち上がり、会釈をした。
 ドアが閉じられた。カウンセラーは窓のカーテンを開けて観葉植物に光を当てようとした。カーテンからこぼれてくる夏の強い西日に一瞬、目が眩んだ。反射的に左目を閉じ、右目で観葉植物を見ると、植物の葉脈に沿った白い模様だけが浮かんで見えた。右の視界は翡翠色に染まっていた。緑色と言っても、今日のように翡翠色に染まっていることもあれば、深緑色のような日もある。観葉植物はささやかな色の違いを把握できるように置かれている。不思議なことがあるものだと思った。本当に緑の川が晶子に見えていたのか。それはわからない。過去と現実を埋める穴。それが緑の川という物語なら、あながち荒唐無稽とは言えない。
 そして左目を閉じ、右目の中にある翡翠の川を通して、カウンセリングルームを見渡した。