「天職」澤井繁男

天職
澤井繁男

 祖父、青柳忠の長男忠文が僕の父、叔父が忠嗣、伯母に君江がいた。母の基子は一人娘だった。僕は当時十七歳、高校三年生だった。そしてこれ以後、昭和三十年代後半から四十年代半ばまでのおよそ七、八年間多感な時期であり、将来の目標を自分なりに見定める頃合でもあった。
 父は大学卒業後、司法書士の職に就き、N市でいちばん大所帯の事務所で、辣腕を振るったと耳にしている。母は短大で保育士の資格を取得後、同市の保育園に就職し、父と同じく、日々忙しく働いていた。一人っ子の僕の世話は伯母の君江がみてくれた。君江は実の母さながらに青柳家を支えてくれた。この伯母にはなぜか結婚の意思がないらしく、甥の世話に生きがいを見出しているようだった。拙宅でお手伝いさんにも似た、いやそれを超えた働き振りをみるにつけ、その懸命な分と同じだけの、例えば失恋とか仕事の上での挫折とかを経験したのではないかと推測された。君江は、祖父母の遺してくれたわが家に手伝いにくる前のことはいっさい口にしなかった。秘められた部分と、精魂込めた家事の、両方の値が等しかったに違いない。父や忠嗣叔父に尋ねても知らないと答えるばかりで、そのうち僕も問うことじたいを忘れてしまった。伯母は通いで、こうした呼び方は心苦しいが「家政婦」の役目を、おそらく幾何かの給金を得、引き受けていたとおもう。忠嗣叔父の方は兄夫婦とともにこの家にそのまま住み続け、自室でトレースという仕事を請け負っていた。腕がよかったらしく注文が途絶えることはなかった。
 トレースという聞きなれない仕事の中身を知りたかった僕は、その前に辞書で調べてみた。トレースとは「原図を敷き写すこと。透写」とあった。これっぽっちの説明ではまるっきり見当もつかない。「原図」くらいは理解できるにしても、そのあとの作業にいたってはさっぱりだ。普段、食卓をともにしているのに何たることか。これは考えるに両親の仕事とはべつに、自分の将来を見据えたときにはじめて生じた意識の変化のためか。年齢を重ねるにつれ、みずからの行く末に視線を投じる機会が多いがゆえの最初の目覚めだった。
 自覚して目に入ってきたのが、叔父の部屋の扉に「青柳工芸社」というプレイトが掛かっていたことだ。いままで気がつかなかったのは僕の落ち度か。未来の姿を推察してこそ知る、意識の覚醒に違いない。自分の将来就く仕事を考えさせる何かがその文字にはあった。自分の暮らしている家のなかにそれと知らない一画があった不思議が怪しく輝き、自分の不明を恥じた。さらに何かが起こるだろう、という予感も萌(きざ)した。
 ノックをして、はい、という返事に扉を開けると、作業台から頭をあげた叔父が、なんだ、稔(みのる)じゃないか。どうした? 何かあったか? いいや。叔父さんがトレースを職業になぜ選んだかがとても気になって、訊いてみたくなった。ふーん、そういうことか。ならこれを片づけるまで待ってくれ。いいよ、と答えた僕の目に叔父の部屋は、見慣れた部屋ではなくて、わくわくさせる何かを感じた。
 それから一時間半後、僕は突っ立ったまま叔父の作業をみまもった。やっと終えた叔父が難しいこと訊いてくるなあ、と額に手をやって、立ち続けていた僕に、いま気がついたというように、まあ坐れよ、と壁のほうを顎でしゃくって椅子をすすめた。叔父は煙草を口にくわえライターで火をつけた。ふうと鼻から煙がでた。やっとくつろいだ雰囲気だ。僕は折りたたみ式のパイプ椅子をはこんで来て仕事机の前に片寄せ、腰をおろした。まず私の半生をはなさなくてはな。職業といったな。いったい何があったんだ。将来を考えてみたとき、家の奥の部屋の扉に工芸社のプレイトを発見した。出会いだと感じた。そうか、稔もそういう年頃になった、というわけか。なら少しでも役に立てればいいけどな。トレースというこの仕事にありつくまでもなかなかすんなりといかなかった。我慢して聞いてくれるか。もちろん。むしろ気分よく話してくれそうなのに驚いた。私はね、もの心がつくにつれ、親父とうまくいかなくなっていったんだ。親父は頭ごなしにしかりつけてくることが多くてね、母親は私をかばうのに精いっぱいだった。将来は、親父は自分と同じく弁護士を目指せ、の一点張りでね。息子の適性なんかまったく無視だ。周囲の目ばかり気にする親父にも親戚連中にも、弁護士という職業を嘱望されていることに苛立ってね、いまおもえば短慮だったけど、高校受験の願書は出したはいいが試験を受けなかった。落ちたと親父とお袋に合格発表の日に嘘をついた。私立高校も勧めてきたけど、当時はまだ高校進学率がいまほど高くはなかったから、きっぱりと断った。高校くらいでておけ、という親父とお袋の助言は正論だったけどね、いまとなっては仕方がないさ。あれくらいは従っていればよかったよ。でも聞く耳を持たない年頃だな。その頃、中学卒業の者に仕事などあるようでなかったし、弁護士である親父にしてみれば中卒なんぞ人間の屑としか映らなかった。働かなくてはならないとはわかっていたけど、どういう仕事に就いていいか見当もつかなった。それでも中卒で働いて家に金を入れようとおもって、軽い気持ちで郵便配達の仕事を選んだ、といって煙草を灰皿の端でもみ消した。
 郵便配達はおもいのほかきつくて責任を要する仕事でね、一軒一軒の郵便受けの位置や大きさ(というのは大きすぎる郵便物は手で受け取ってもらわなくてはならないからそこの家のひとを呼び出す必要がある。そうなると配達時間が予定より余計にかかってしまうから、それを計算の上で廻ることになる)に通じていないと効率が上がらない。それ以上に大切なのは廻る順番を決めておいて、時間がからないようにして配達することだ。そのためには郵便受けの配置をおさえておく必要がある。簡単そうにみえる仕事にはどれも奥の深さがあって、きわめるのに時がかかる。配達区域の地理もだんだんわかってきて、時間も短縮できるようになると、途中の自動販売機でコーラくらいは飲むゆとりがでてくる。最高だったね、そのときの味ときたら。夏なんかすぐに汗となって首筋や額をたらたらとしたたってゆく。それをタオルで拭うんだ。ハンカチじゃもたない。やっぱりタオルほどの大きさとやわらかさが必要だ。冬は温かい飲み物に限る。飲み物の温度でからだの裡の寒暖がすごく左右されるなんておもってもいなかったけど、経験するとわかるんだな、これが。なんていおうか体験とはとても重要だと実感するようになる。配達のおかげだ。ところが親父が私の仕事に気づいてみっともないから辞めろ、と命じた。面食らったね。弁護士の息子が郵便配達夫とは何事かと不平不満をぶつけてきた。職業に貴賤はないと親父に食ってかかったな。親父の偏見にもびっくりした。お袋もまさかとおもったけど、親父の側に立った。そういうものかとがっかりしたな。
 担当区域にわが家は含まれていなかった。どうして親父が配達の仕事を知ったのかいまだに謎だよ。せっかく慣れてきて、配達がひょっとしたら自分に向いているのではと信じる矢先だったので、辞めさせられて残念この上なかった。自分にとっての「天職」なんて好き嫌いではなく、関わった仕事によるとおもう。何かと関係を持たなくては絶対天職なんかに出会わない。それは挑戦ということ? と問うと、いやそれほど身構える必要はないんだ。挑戦だと敗れて痛手を受けるときがあるだろう。そこまでして自分を痛めつけるにはおよばないよ。関与するというのは、そうだな、参加あるいは参画かな。挑みもせずのめり込みもせず、つねに自分を保って、その仕事に相対することだ。家でくすぶっているよりも外に出て一軒一軒の家のポストに郵便物を配っていくのだから責任感も芽吹いて、それがいつのまにか張り詰めた愉しみに変わっていったから不思議だ。自分にはみえていない世界というのが必ずあってそれを発見したときの歓びったらないね。そうだな、親父の見栄がなければ郵便配達夫として身を立てていたとおもうな。小学校の低学年の頃、お袋が連れて行ってくれたL湖のあの湖面の碧さをこの目で実感した、まさに新たな発見だった。職業選択のときもその発見の歓びを思い出したものだよ。弁護士という職業に巣くった親父の虚栄心のなんと醜いことか。
 じゃ叔父さんはある種の犠牲者だった? そういうことになるかな。ところで稔は将来何になりたいんだ。それが決まっていない。いやしっかりとできない。自分がいちばんよく知っているはずの自分のことがいちばんわからない。いろいろな本に目を通してみたけど、探している仕事にどの本も触れていない。はっきりいって仕事にたどり着く経緯を期待するほうが欲張りだとおもうよ。私もね、郵便配達に就くまえ本を二、三冊読んだ。最も印象深かったのは、『東京へ行って』という本だ。「です、ます体」調の、ハードカヴァーでない、ああいうのを並製というらしいんだけど、表紙を折り曲げるほどに熱中して読んだな。
 どういう話? 北陸地方のある町で生まれ育った若者がね、お金を儲けたいと東京に出てくるんだ。親戚も友達もいない少年は十六歳。中卒だ。そのときはまだ高校進学率は高くはなかったので中卒でも充分に働き口があった。そこで彼は中華料理店の出前小僧として最初の職にありつく。料理人もいいなあと憧れを抱くが、出前の途中で中華そばの汁をこぼしてしまうヘマをやって店主や客からも小言をいわれ、それが二回や三回でないので、いい加減厭になって辞めてしまう。料理店の二階に間借りしていたから、住む場所もなくして路頭に迷うはめになる。けれど目端の利く若者でね、すぐに次の仕事をみつけてくる。蕎麦屋での皿洗いだ……こんなふうにして転職を繰り替しながらお金を少しずつ貯めていって、ついに二十六歳のときにはいっぱしの小金ができて車まで買える身分になる。そして大人となった少年が一息ついたころ、ふっと思い浮かべるんだな。このお金を元手で何をやればよいかってね。お金は貯まるには貯まったけど、使い道がわからないんだ。それは結局……。そうだよ、何になりたいかがみえてこないんだ。お金を稼ぐことが夢だとはわかっていたけれど、その次の段階を見据えていなかった。お金をどう活用するか。どういう職業に就くか、だよ。『東京へ行って』という物語のテーマがお金儲けのことを書きながら、その本当の狙いが何になりたいかを見失ってしまった青年が主人公だったわけだ。お金儲けの話は出世街道まっしぐらで痛快だけど、その爽快さの陰に大切な主張を作者は隠していたんだな。私は読み了えて呆然とした。いや、ショックだった。怖い作品だと思ったよ。
 そうなんだ。背筋がぞっとするね、と僕は答えて肩をつぼめた。それでトレースの仕事に? いやまだなんだ。最終的にトレースの仕事に行きつくわけなんだけど、紆余曲折があってね、なかなか定まらない。まず自分が何に向いているのか、せっかく郵便配達夫で食べていこうとおもったところ親父とお袋の猛反対で希望を根絶やしにされた。どこかに引っ越して配達を続けようともおもったが、そうした勇気も覇気も私にはなかった。幸い親父が壮年でN市のH弁護士事務所長になったので朝から夜遅くまで家を空けていて、帰宅がたいてい零時近かった。その点気が楽だったけど、会えば頷く程度の仲以上には、つまり話し合う間柄にはどうしてもなれなかった。配達をしているという話も親父は近所の誰かから伝え聞いたに違いない。弁護士という職業が親父を不遜な人間に仕立て上げていたから、ま、私への仕打ちは理解できもしようが、弁護士が全員そうであるはずはないだろう。腰を低くして他のひとに接してほしいとおもったね。お袋がこうした親父とどうやって夫婦になったのは知らないけど、黴の生えた言葉だが、男と女の仲はわからない、というからな。君江姉や忠文兄が親父とうまくやっていたのに、私だけソリが合わなかった。なんとなくわかるような気がするよ、と僕は父と君江伯母の顔を浮かべた。
 次の職は好物の蕎麦、その蕎麦職人を、と希望して配達区域の蕎麦屋の主人に頼み込んで弟子入りすることにした。配達は辞めたのかと不思議そうな目つきでみられたよ。適当にいいわけしてなんとか煙に巻いたけど、きまずいおもいもあった。横柄な親父の話はできないからね、それに蕎麦屋の大将は僕がはつらつと郵便物を配っていたのを知っていたから。蕎麦屋には郵便受がなくて、いつも扉を開けて、ほーい郵便! と叫んで玄関わきのカウンターの上に置いていったので、亭主には僕のやる気が伝わっていたんだとおもうよ。相手は蕎麦屋だ、気風(きっぷ)がいいさ。これも配達の醍醐味でね、ポストばかりが相手じゃないんだ。奥が深いな。いいや、蕎麦をこねて切っての作業に較べりゃ郵便配達夫なんてたいした仕事じゃない。稔は蕎麦が好きかい? うん、素朴な盛り蕎麦が好物。そうかいそれじゃあ、これからの話は参考になるはずだ。すると叔父がとつぜん目を細めて、いいか食べる前の段階を知っていたほうがずっと豊かに味わえるものだ。まあ、聞いて期待はずれだったらそう答えていいよ。僕はしぜん頷いていた。
 まずね、十割蕎麦ではなくて二八蕎麦の指導を受けることになった。蕎麦粉八にたいしてつなぎの小麦粉が二の割合。それで二八蕎麦というのかとはじめて知った。それを大き目の器に双方適量ずつ入れ、水を少々加えてこねまわすんだ。これが割と技術が要ってね、器の底を上手に使って団子状にこねていく。掌に収まるくらいの大きさにするんだ。水が足りないとうまく団子にならないから気を使う。そして平らな板の上にそれを載せて手で延ばし、掌を使ってもいいから平らにしていく。次に丸い木の棒を前後左右に転がしてできるだけ平らな正方形にならしてゆく。これを繰り返したら、蕎麦切り包丁で蕎麦の細さに刻んでいく。だけど最終段階のこの作業が、平らにする作業の次に難しかった。私は細さを適宜保つため板をもち、どでかい長方形の刃のついている蕎麦包丁を構え、板を左手で少しずつずらしながら、そのたびごとに包丁を下ろしていく。これぞ刻んでいるという感覚が伝わってきたものだ。
 それをゆでで食べるわけ? そういうことになるかな。でも私の切った蕎麦はみなキシメンみたいな幅になっていて親方に呆れられたよ。「好きこそ物の上手なれ」なんていうけど私の場合、結局、食べるほうなんだとおもい知らされたな。もちろん一度や二度で諦めたわけじゃないが、ものにならなかった。郵便配達夫が懐かしく覚えた、もうずいぶん昔だったように、とな。
 とうに二時間は過ぎていた。僕たちはなぜか肩に荷を背負った重みを感じていた。稔、つかれた。続きは日を置いてだ。もう茶の間にもどれ。わかった。またくるよ。椅子をもとにもどし踵を返すと部屋を出た。「青柳工芸社」のプレイトがふたたび新鮮に映った。
 三日後。
 お蕎麦の修業を離れたあとどうしたわけ?
 その日の叔父は重たい口をやっと開くように。もう参ってしまってね、自分にふさわしい道をみつけて、それで食べていくということがこれほど面倒なのか、と痛感したね。ああでもないこうでもないと考えを巡らせばめぐらすほど、答えが遠のいていく。ふたたび手に職をつけてみようかと考えたとき、そうだ小学生のとき習字を習っていたなと思い出した。書道の先生になろうとおもった? ああ、はじめはそのつもりだった。でもこれこそ才能のなせる技だと気づいた。そのときある本に、「自分がなりたいとおもっているものになれないときには、自分がなりたいものを念頭に置いて自分の身を合わせていけば、仕合わせを手にできるかもしれない」とあった。この文言ほど心の奥底まで響いた文句はなかったな。自分が何かになれるなんてことは、まず百分の一くらいの確率なのだから、私の能力の範囲内でなれるかもしれないものにわが身を寄せていくのがよい。誰もが自分の願望をかなえられるわけがない。それをあらかじめ承知の上で私たちは生きていくのが最善なのだ。
 誰の言葉? と訊いたけど、忘れてしまった。出典なんぞあってなきがごとしだ。叔父が中卒なのにそこまで的を射た、しかも気の利いた言葉を披瀝するとは。学歴を持ち出すのは良くないと知りながらも、もし叔父が大学をでていれば、就職にそれほど難はなかったはずだ。
 トレース業にいたるにはまだまだ道のりがあったのだろう。僕も将来何かの職業に就くのはわかっているが、そのためにかくも悩まなくてはならいのか。もしかして僕は生真面目すぎるのではないか。もともと無い物ねだりをしているのではないか。天職の発見など所詮むりなのではないか。
 叔父さん、それからどうしたの。恥を忍んでいえば、兄貴に打ち明け相談に乗ってもらった。おまえの父親をほめるのも何だが、刻苦勉励の典型だ。そう義姉さんもな。兄貴は学生時代の先輩で、設計事務所を営んでいる執行(しぎょう)さんという珍しい苗字のひとを紹介してくれた。そのひとからトレースを薦められた。郵便配達と違って家のなかでする仕事だ。設計士の資格も何も持っていなかった私だが、なんとかうまくいきそうな気がした。気持ちの問題だった。縁もあった。この点、稔の親父には感謝している。内容は一般家屋の設計図のトレースが主だった。これが早晩軌道にのって、やっと芯から安堵の念がわいたものだ。この道をいけばよいのだ、もう迷わずとも済む、とね。話し終えた叔父の表情はなぜかしらすっきりしていた。
 年が明けて大学入試の願書提出の期日ぎりぎりになっても、僕はどこの大学にも願書は送らずに、まだ応募が効く中小の企業に就職した。忠嗣叔父の影響もあったかもしれないし、もともと勉強には不向きだと二年生のとき悟ったこともある。大学進学者も、全国的にみてそれほどの人数ではなかった。両親がどうしてだ、と詰め寄ってきたけれどもう遅かった。父も母も僕に疑問を投げかけるだけでそれ以上突っ込んでこなかった。そういう意味では話のわかる親だった。むろん自問自答を何度も繰り返したが、答えはいつも同じだった。それにしても父と母がそれでほんとにいいのかと、というもどかしさはどこかにあった。祖父が叔父の仕事に口を出したときの実弟の痛みを父は傍らでみていたかもしれない。
 僕の会社は小規模な印刷所だ。偶然にも社長の名前が執行だった。あの執行さんと血縁なのだろうか。いつか機会があれば訊いてみたい。僕を入れて九名の社員で成り立っていて、活字を拾うという手間暇かかる時代はとうに過ぎ、写植の全盛期だった。叔父の仕事もだんだん注文が減ってきたようで、五年も経たないうちにトレース作業が不用となり、職を失ってしまった。そののち、わが家を出て、足取りはまったくわからなくなった。青柳工芸社のプレイトもいつの間にか外されていて、長方形の跡が扉の上の一部を白く飾っていた。けれども叔父がトレース業で自立していた時期があったのは確かだ。
 ある日の昼食時、外食で腹を充たして印刷所にもどる折、物をいっぱいに詰め込んで腹の膨らんだ鞄を肩から下げた郵便配達夫の姿をみかけた。あっ、忠嗣叔父さんじゃないか、と僕は目を凝らし、とっさに叔父さん! と叫んだ。声は届いたようで、立ち止まったそのひとは僕に焦点を合わせてから、はにかむように片手を挙げて手を振ってよこした。
〈了〉