「酔芙蓉」飯野文彦

 八月の太陽が照りつける昼下がり、見終えたツタヤのDVDを投函に出た。今回借りたのはパスカル・ロジェ監督の『MOTHERマザー』と『ゴーストランドの惨劇』だった。
 遅ればせながら〈フレンチホラー〉にはまっている。きっかけは、何の気なしにレンタルした『BEYOND BLOOD』というドキュメンタリーだった。今世紀初頭、フランスで画期的なホラー映画が続々と生まれた。以前から『屋敷女』や『マーダーズ』は観ていて、面白いとは思ったけれど、灰汁が強すぎて見返す気にはなれなかった。しかし還暦を過ぎ、アル中も進んだ猛暑の夏、中毒となった。ほかにも『BEYOND BLOOD』で紹介されていた『ハイテンション』『フロンティア』『リヴィッド』と観ているうちに、ドツボではまったのがパスカル・ロジェだっだ。とはいえ普通面白いと思ったら、二度と三度見返すけれど、どの作品も一度観ただけで、返却する。見返す気にはなれないくせに頭から離れず、ふとした日常に悪夢となって脳裏に甦ってくる。特に今回返却する二本のインパクトは強烈で、炎天下で炙られる宿酔いをひどくさせる。
 歩いて三分ほどのポストへ行くだけで、汗が噴き出してきた。はやく帰ろう帰ってアイスコーヒーでも飲んで、暑さとまだ残っているアルコールの不快感を薄めよう。ポストにたどり着き、投函し、Uターンしようとしたとき、動きを止めた。ポストのある脇の民家の庭に花が咲いている。淡いピンク色をした見知らぬ花だったが、なぜかこころ惹かれる。
「酔芙蓉です」
 民家の庭の奥から歩いてきた老婦人が言った。
「すいふよう……ですか?」
 どういう字を書くのかも見当がつかない。
「芙蓉の一種で、その上に酔ったという字をつけて、酔芙蓉というんです」
 芙蓉は聞いたことがある。しかしその前に、私にとって最も身近な漢字である〈酔〉をつけるのは何故か。老婦人は私の疑問を察したようで、穏やかに説明してくれた。
「朝咲いて、その日の夜には萎んでしまう一日花なんですが、面白いんですよ。朝、咲いたときは真っ白なのに、この時間になると、ほらピンク色になってて。さらに夕方になると酔ったみたいに赤く変わるんです。だから酔芙蓉って」
 自分のことを言われた気がして、肯きながらも老婦人から視線を酔芙蓉に向けた。お前もこれから酔うんだな、と思いながら。
「時間を変えて、見に来てください。まだしばらくの間、咲いてますから」
 その言葉をきっかけに、私は礼を言い、その場を立ち去った。歩きながらも、脳裏には酔芙蓉の花が浮かんでいる。夕方、酔ったお前を見てみたい……。
    ◇ ◇
 SFプロローグウエーブ編集部の伊野さんから今回の原稿の依頼を受けたのは、お盆を間近に控えた八月十日だった。すぐにお受けしますと返事を出した。さて何を書くか。書きためてある短篇はあるけれど、数少ない依頼にそれらを使いたくなかった。といって、今年になって長引くコロナの影響もあるのだろうが、湿りがちな気分が続いている。原稿がいっこうに書けないのも原因で、ついには『こころがブロック』と自虐的なタイトルをつけ、ただ書けずにいらつき、あせり、焦れている自分の心理だけを綴った、作品とも言えない文章を羅列する日々が続いた。それでも生爪でコンクリートの壁に血の文字で書き付けるように、発表の宛のない原稿を書きつづけた。
    ◇ ◇
〈今年5月某日の日記より抜粋〉
 どうなるかわからんけど書くことだ。まず書く。それからだ。今日も書いたけど、どうなるかわからん。でも書くんだよ。プロではない、プロとは恐れ多くて名乗れない。けど表現者として。
    ◇ ◇
 ちょっとした転機があったのは、五月の末だった。伊野さんから、こんなメールをいただいた。そのときのやりとりを書かせていただくと――。

飯野様
久しぶりの一時帰国で、実家に顔を出すついでに、甲府に行こうかと思っています。実家が直江津で、上杉謙信のお膝元なので、武田神社を見て、それから廃線の可能性が取り沙汰されている大糸線経由で行こうかと。
日程的には6/11の土曜日に甲府で一泊しようと思ってます。ご迷惑で無ければ、夕食でもお付き合いいただけないでしょうか。ほぼ下戸なので、食べる専門ですが、よろしければ。伊野隆之

伊野様
いつもお世話になります。おお、甲府にいらっしゃるのですか。ぜひ、お会いしたいです。
6月11日は甲府桜座で〈原田郁子×寺尾紗穂ツーマンライブ・18時開演〉に行こうと思っておりますが、ご関心おありですか? もしよろしければ、ご一緒しませんか? ご無理でしたら、終演後、お会いできたらと思います。ご検討してみてください。飯野文彦

飯野様
早速のご連絡ありがとうございます。こういうライブがあるのって文化的ですよね。是非、ご一緒させてください。
甲府市内で温泉のある宿が良いと思い、ドーミーイン甲府を予約したんですが、桜座のすぐご近所でした。桜座かホテルロビーで待ち合わせが良いと思いますので、時間を指定して下さい。伊野隆之

伊野様
とっても楽しみです。今日、桜座行くので、二枚、予約しますね!
子守りの都合で、桜座へ行くのは、直前になるかと思います。18時10分前に、桜座の前でお会いしませんか? 楽しみに、お待ちしてます! 飯野文彦

 こうしてご一緒することになった。何年もお会いしていない。わかるかなと心配しながら桜座前にできていた行列に加わったところ、伊野さんが列の脇を通ったとき「あ、伊野さん」と咄嗟に口から出ていた。桜座でダブルピアノの演奏にしびれた後、居残ってお話しできたのは、楽しい一時だった。そのとき伊野さんに、酔った勢いもあって、依頼もされていないのに、八月までに一編書かせてくださいとお願いした。
 八月までと断ったのは、企みがあったからだ。日本SF大賞に自薦でエントリーしようと思ったのである。例年、前年の9月1日から当年の8月31日までに発表された作品が対象となっている。去年の9月1日以後、私はSFプロローグウエーブに次の作品を発表している。
『六十年タイムマシン』2021年11月6日
『影を喰らう』2022年1月22日
『落花生』〃3月5日
『いない世界』〃6月4日
 これにもう一作加えて、五作品を自薦しようという企みである。
「せっかく掲載していただいても、まったく無反応で。暗闇に向けて、矢を放っているみたいですよ。当たっているのか外れているのか、ぜんぜんわからない。SF大賞が取れるなんて思ってません。ただ少しでも『ああ、こいつまだ書いてるんだ』って知ってもらえたらと思いまして」
 酔いも手伝って、素面の伊野さんに愚痴ってしまったが、八月までの掲載を快く承諾してくださった。自分から言い出したことだ。しかし暗闇に向けて放つ矢のようだとはいえ、発表する場があるとなると、気持ちの張りがちがう。こうして六月の末に『甲府日記・四景』の原稿を送り、7月23日に掲載していただいた。依然として、無反応のままだ。だが、今回は企みがある。エントリーがはじまったら――。
    ◇ ◇
 一年前に引っ越してきた新居で、今年度、我が家が町内会三組の組長である。これまで賃貸住まいだったので、組長の経験はない。本来は家の主である娘がやるのだが、はなから私に「組長さん、ごくろうさま」と任せるつもりである。もっとも仕事に追われている娘にできるはずもなく、始終家にいる私が組長としての仕事、町会費などの集金、市の広報配りをこなしている。八月のお盆にも仕事があった。町内にあるS橋の脇が〈盆送り〉の集積場になっている。十五日の夕暮れには準備に出向き、翌日十六日の盆送り本番は、朝五時半に顔を出さなければならない。
 十五日の準備は三十分ほどで終わり、家で一杯飲んでいたとき、お盆休みを利用して双子の孫、玲偉(れい)と琉偉(るい)を連れて小旅行に行っていた娘が帰ってきた。孫たちは土産ならぬ、旅先の公園で見つけたという蝉の抜け殻を持ってきた。
「捨ててきて、気持ち悪くてしょうがない」
 娘が言った。孫たちはリビングの床に置いたり、トミカに乗せたり、プラレールの線路に置いて轢く真似をしたり。ソファの隙間に挟んで「見て見て、のぞいてるよ」「じいじ、こんばんは」と笑っている。娘はことごとく悲鳴を上げ、止めさせようとするが、双子は止めない。双子を寝かし終えた娘は、酔った私に、
「ぜったい捨ててきてね。疲れたから長湯するから。ぜったいだからね」
 と念押しした。はいはいと生返事を返したが、やっておかないと後で叱られる。よろよろと立ち上がり、直に触るのは気色が悪いので、セロハンテープにくっつけて、抜け殻を集めた。ずらり一列に並べ、雑誌の紙を破って貼り付けた。そのまま捨てるのも忍びない気がした。そうだ、翌朝の盆送りに持っていこうと酔った頭で考え、さらに飲みつづける。
 抜け殻は全部で九つあった。酔いにまかせて、一つ一つに呼び名をつけた。文蔵(父の名前)。千恵子(母)、忠(父方の祖父)、美津子(忠おじいちゃんの前妻)、朋子(後妻)、晋也(母方の祖父)、静佳(晋也おじいちゃんの前妻)、とし子(後妻)。そして最後の一つ、どうするか。しばし考えてから、ふみこ、と名づけた。漢字でどう書くのか知らない。私が文彦になる前だから、おそらく文子と書いたのだろうが、定かでない。
 前回、発表した『甲府日記・四景』の最後で、生まれたとき私は女だったと推測できることを書いた。そう、いいのふみこ。だが、ふみこはいない。死んだのではないだろう。消えたのか。今でも私の近くを漂っているかもしれない。それなら私の手で、成仏させてやろう。
「明日、集めたものは、どうするんですか?」
 十五日の夕方、準備のとき、町会長に尋ねた。昼頃までに市に委託された業者が回収に来る。人々は、お盆に使ったナスやキュウリの動物、飾り物を盆ゴザや新聞紙に包んで持ってくる。賽銭箱に賽銭を入れてもらい、焼香をした後に〈精霊〉と書かれた細長い紙を渡す。それを近くにある橋の上から川に落とし、流れにまかせるとのことだった。さらに、折りたたんだ紙の灯籠を示して言った。
「これを買ってくれた人は、明日の夜、名前を書いて蝋燭を灯して川に流すんだ」
「苦情とか来ないんですか」
「隣の町内会の連中が、少し下流にネットを張って回収するからね。もっとも最近じゃ、紙を流すだけの人がほとんどで、わざわざ夜やってきて、流す人は十人もいないだろう」
 町会長は苦笑した。
    ◇ ◇
 だいぶ酔いが回ってきた。一列に並んだ抜け殻を見ているうちに、現実とも幻ともつかない光景が浮かんでくる。最初の抜け殻の中に父がいる。次のには母、忠おじいちゃん、美津子おばあちゃん……そして最後の抜け殻には、少女がほかの皆と同じように全裸で身体を丸めている。髪はおかっぱ、顔はわたし、いいのふみこ。
「お腹の赤いの。どうしてできたかわかる?」
 唐突にふみこは言い、いたずらっ子のようにうふふと笑った。赤い発疹が腹にできているのを知ったのは、先月初めのことだった。痛くもかゆくもなく、ろくに自分の身体など見ないものだから、いつできたのかもわからない。ただ気がつくと気になるもので、皮膚科を受診した。両側にあるから帯状疱疹じゃないみたいだけど。ステロイドの塗り薬を処方され、毎日塗るように言われた。しかしいっこうに良くならない。
 ネットで調べると、ジベル薔薇色粃糠疹(ジベルばらいろひこうしん)か、梅毒の可能性もあるらしい。ジベル薔薇色粃糠疹、ウイルスと関係するようだが原因はいまだに不明で、治療せずとも自然と治るらしい。一度聞いたら忘れられないインパクトがある、このジベル薔薇色。私が小学生の頃、六歳上の姉が、そう診断されたことがある。病名を聞いた父は「ジベルバラ色かあ」と楽しそうに酒を飲み、幼い私も「ジベルジベル、バ~ラバラ」と笑ったものだ。
 一方、梅毒と言われても、原因は思いつかず、その場合、発疹は手足にも出るという。私の場合は腹だけで、くどいが痛くもかゆくもない。二度目に受診したとき「ジベル薔薇色うんぬんではないでしょうか」と尋ねた。医師は症状がちがうと言って、塗り薬だけでなく飲み薬も処方された。そうするうちに収まってきたのだが、八月も半ば近くなって、再び赤い発疹が腹にぽつぽつ出てきた。
「あたしがつけたのよ」
「おまえが? どうやって?」
 ふみこはなおも笑っていたので、どうしてと質問を変えた。ふみこの笑いが止まった。それは……とつぶやき、しばし口をもぐもぐと動かしてから「だって、あたしの身体なんだもの」と笑ったが、先の笑いよりもこわばっている。復讐か。それとも白黒写真の園服が赤だったと暗に知らせようとしたのか。そんな私の心を見透かしたかのように、ふみこは言った。
「父さんも母さんも、あたしのことなんて、すっかり忘れてた。忘れてるどころか、居なかったみたいに知らん顔だった」
 いや忘れてなんかいなかった。母さんの遺品を整理したら、お前の写真が出てきた。きちんと布に包んで、大切にしまってあった。
「ありがとう、あたしのこと、みんなに知らせてくれて」
 そうか、私がそれを『甲府日記・四景』に書いたから、お前も知って、それで今になって私の前に現れたのか。涙が出た。ぽろり零(こぼ)れると止まらなくなった。着ていた園服と同じように私の腹を赤く、しかし痛くもかゆくもないように気をつかって。さらに涙が流れる。確かに書いた。けれども、何の反応もないままで……。
「出ておいで」
 私がそう言うと、ふみこはこちらに顔を向けた。私は微笑み肯いて、言った。
「私は充分、生きた。今度はおまえの番だ」
 ふみこの顔が輝いた。抜け殻の中から這い出すと、見る見る成熟していく。代わりに私は時間をさかのぼるかのように幼くなり、着ていたTシャツとパンツはだぶだぶとなって、身体からずり落ち、素っ裸となった。
「あ、おちんちん」すでに中年となっていたふみこは、私の股間を指さして笑った。恥ずかしくて、逃げ込むように抜け殻に入る。と、流れていく。周りには私が名づけた抜け殻たちが八つ、私を守るように取り囲んでいる。
    ◇ ◇
 翌日の早朝五時半から九時半まで、盆送りを手伝った。長丁場だったし、当然、私は二日酔いで、かなりしんどかったが、助六弁当をもらって、帰るとき、寄り道した。あのポスト脇の家の酔芙蓉を見ようと思ったのだ。はたして、確かに花は真っ白だった。まだ素面なんだね、私は二日酔いだけど。
 その日の夕方、実家へ出向いて送り火を焚いてから帰宅したときも、寄り道した。ははは、だいぶ聞こし召していらっしゃいますね。では、私も。帰宅し、シャワーを浴びてから、ハイボールからはじめるか。ところがシャワーを浴び終えて身体を拭こうとしたとき、ふと鏡を見て、気づいた。腹の発疹が消えている。濡れた身体より先にバスタオルを顔に当てた。
「じいじ」と弟の琉偉の声がした。タオルを退かし、笑顔をつくる。
「じいじ、どうしたの? 泣いてるの?」
 私は答えず、琉偉の頭を撫でてから、身体を拭いた。
「どうしたの?」騒ぎを聞きつけたらしく、長男の玲偉も来た。
「じいじ、泣いてた」
「誰かに、いじめられたの?」
「ちがうよ。逆だ」
「なんで?」と不思議そうに琉偉が言うと、玲偉がぽつり「ふみこちゃん」と言った。玲偉は、その名が示すとおりなのか、ときどき霊感めいたことを言う。
    ◇ ◇
〈2020年1月9日のフェイスブックより抜粋〉
 先日、保育園からの帰り、娘がいっしょで、玲偉がぐずったので、娘が助手席で抱いてて。夕方の渋滞で、進めない。玲偉はうごめいて、カーナビの画面にふれてた。
「おいおい、押さえてろよ」
 そう娘に言って、ふと、カーナビの画面を見て、びっくり。母が最期を迎えた養老院が映ってる。そのとたん「ふみひこ、双子の面倒を見てやれし」と母の声が聞こえた、気が……。
 昨晩、娘も相方も出てしまい、私が一人で子守りしてて。そしたら玲偉が、電気の消えたキッチンを見て、笑ってる。琉偉をアヤしてたから、振り向けなかったけど「ああ、母さん、様子を見に来てくれてるな」と。
    ◇ ◇
 今回も何か感じたのだろうか。
「そうだ、玲偉と琉偉は最中は好きか?」
 二人とも最中を知らなかった。よし、今度買ってくる。三つ買ってくる。玲偉と琉偉に一つずつ。もう一個は、玄関の神棚代わりの棚に――。
 そう思ったとき、玄関のインターホンが鳴った。即座に玲偉が「ふみこちゃん」と言い、駆けていった。琉偉もつづく。もうすぐ四歳の誕生日を迎える二人は、かんたんに鍵を開け、玄関の扉も開けてしまう。「だめだめ、危ないから」私はバスタオルを腰に巻き付けて、そちらへ向かった。
 玄関を出た二人は、サンダルを引っかけて、庭に出ていた。私もつづいた。外は闇が深い。隣近所の灯りすら、消えたように見えない。闇の中、ぼうっと光が動く。誰かが歩いている。二人いる。ぼうっと光っている一人は私。もう一人、前日に町会長が見せてくれた灯籠に蝋燭をともして持っているのは――。
「ふみこちゃん」と琉偉が言った。すぐに玲偉が「ばあば、だよ」と言った。彼女はうなずき、微笑んだ。灯籠の中にうずくまり、身をゆだねる。表の路面が水面となった。無数の灯籠が、濃い紅色の酔芙蓉が咲いたように乱れ流れていく。(了)