「夜の浜辺で語られた事」粕谷知世

 砂浜に腰を下ろして、海の音を聞いていた。
 お尻に触れる砂はあったかく、大気は塩気と湿気を含んで、ねっとりしていた。
 頭上には白く輝く星々が散らばり、そして、目の前の海は圧倒的だった。
 
 ドーン、ドドーン、ドーン
 ザーン、ザザーン、ザーン
 
 真っ黒で巨大な生き物が、腹で息をしているかのようだ。
 大きく、小さく、波が寄せてくる。時々は、つま先の近くまでやってくる。
 暗い海、力強い海。
 朝にはお父さんやお兄ちゃんたちが漁に出かけていくけれど、今の海には誰も入れない。
海は何を話しかけてきているんだろう。それとも、ここに座っている人間の女の子のことなんか気がついていなくて、独りで自問自答しているだけだろうか。
 潮風が髪をなぶっていった。
「いい夜だね」
 海に呟いてみる。
 うしろで足音がした。引きずるような音から、おじいちゃんだと分かった。
 おじいちゃんは、わたしの隣に座って「ほんとうに、いい夜だね」と言った。
「心配してくれたの」
わたしは訊いてみた。
「ああ。だけど、今は心配していない」
「べつに怒っているわけじゃないんだよ」
「分かっているさ」
今日はお祭りだった。親戚や仲のいい人たちが集まって夕食を食べた。お父さんたちが獲ってきた魚や蒸したイモ料理はいつもどおりだったけれど、親戚の人たちが果物や団子を持ち寄ってくれたし、なによりも、車座の中央には丸焼きの鶏があった。それに、妹のナミが竹や朴の葉(ほおのは)を切り抜いてつくった飾りがお祭り気分を盛り上げていた。羽根をつくろう小鳥の切り抜きなんか、まるで生きているみたいで素敵だった。
 みんながナミの手先の器用さを褒めた。お母さんは「ほんとうにナミは何でも器用にこなすんです。アヤも、もう少しナミほど気がきくといいんですけど。年上なのに、ぼんやりした子で」と答えた。
それからは少しも楽しくなくなってしまった。
 むしゃくしゃした気分のまま寝床に入ったら、このあいだ、ナミと二人でお母さんに前髪を切ってもらった時、ナミのことだけ「可愛くなったよ」と言っていたことまで思い出して、眠れなくなった。それでこっそり家を抜け出して、浜辺へやってきたのだった。
 おじいちゃんはいつもは山の近くで暮らしているけれど、今夜はうちに泊まっていた。
抜け出したのを、いつ気づかれたのか、それとも、おじいちゃんも何か考えることがあって海まで出てきたんだろうか。
わたしたちが無言で座っている間にも、星々は輝いていて、海はずうっと歌っていた。
 
 ドーン、ドドーン、ドーン
 ザーン、ザザーン、ザーン
 
「小さなことは気にするなって言われてるのかな」
「いいや、おまえの気持ちは分かってるよって言ってるんだよ」
「おじいちゃんはすごいね。海の言葉が分かるんだね」
「おまえだって、分かっているんだろう」
 そうかな。そうかもしれないな。
 そう思ったら、海にも歌を聴かせてあげたくなった。
わたしは立ち上がって歌った。

 山の向こうのあの人と
 お話していたんだよ
 馬よりも速く駆けて
 鳥のように空を飛んだんだよ
 星の世界へ行ったんだ
 
「おまえは、ほんとに、いい声をしているね」
「うん、お父さんもお母さんもお兄ちゃんたちもそう言うよ」
「こういう歌は集会で習うのか」
「そうだよ。スミノさんが教えてくれるの。でも、スミノさんは、この歌を歌うときはちゃんと二番も歌いなさいって言うんだよね」

 それなのに怖かったんだ。
 隣の人たち、家族でさえも
 寂しくて怖くて、ほんとは
 何がほしいのかも分からなくなってた
 お願い、止めてと叫んだんだ  

「わたしは、この二番は嫌い。嫌な気持ちになるから。一番だけ歌いたい」
「そうだな」
 おじいちゃんは「山の向こうのあの人と」のメロディーを鼻唄で歌った。
「ほんとは何があったの」
「おじいちゃんにもよく分からないんだ。まだ小さかったから」
「でも、そのころ大人だった人たちは、もう死んじゃってるでしょ。お話してくれる人は他にいないじゃない。おじいちゃんしか」
おじいちゃんはうんうんとうなずいて、落ちていた木の枝を拾った。そして、砂の上をその枝でひっかいた。
「これ、なあんだ」
 雲間から顔をのぞかせた月が、砂地に描かれたおじいちゃんの絵を照らしていた。
 丸い頭があって、二本の手があって、二本の足で立っている。
「人間でしょ」
 おじいちゃんは、頭に何本も線を描き足して髪を長くした。
「アヤだよ」
「いやだー、似てない」
「じゃあ、これは」
おじいちゃんは一の横線を描いた。それから、縦の線を引いて、その上でぐるりと木の枝を回す。
「え、分からないよ、何の絵?」
「絵じゃない、記号なんだ。昔は文字って言われてた。でも、これは本物の文字じゃない。アヤの『あ』の字はこんな形をしてたかなと、想像して書いてみただけだ。昔はこういう線を重ねたものが、人間とか花とかを表していたんだよ」
「変なの」
「アヤの年なら、これを何百と覚えていたもんさ」
「へええ、面白そう」
「いや、大変だったんだよ。間違えると怒られるしね。おじいちゃんはまだ小さかったからよかったけど、もっと大きくなると、夜も寝ないで覚えなくちゃいけなかった」
「嘘みたい。そんなことして遊んでて、田植えをしたり魚をとったりしなくてよかったの?」
「そういうことは大人がすればよかったんだ。それも、ほんの一部の人たちだけが」

「へえ」とアヤはあいづちを打ったが、アヤには何も分かっていないことが秋彦にはよく分かった。無理もない。秋彦自身、あれについては分からないことだらけで、どうやって説明したらいいのか、分からなかった。
 あのとき、秋彦は八歳だった。重いランドセルを背負って登校するのにも慣れた小学二年の五月、先生が「明日からは学校に教科書を持ってこなくていいです」と言った。それが、秋彦が自分自身で思い出せる、あれが起きたことによる影響を初めて感じた出来事だった。クラスのみんなで「ええー」と言ったけど、正直なところ、嬉しかった。その日から、漢字の書き取りのテストがなくなり、黒板にかかれた算数の問題を解いてみるようにと指名されることがなくなったからだ。せっかく覚えた自分の名前の漢字も書けなくなったのは少し悔しかったし、つまらなかったけれど、そんなことはあまりたいしたことじゃない。にこにこしながら歩いていたら、青ざめた顔をした男の人に「子供は呑気でいいよな。どうせテストがなくなって嬉しいと思ってるんだろう」とつっかかられたのは怖かった。
 それが起きたのは、日本では五月六日、ゴールデンウィーク明けの朝七時三十二分だった。だが、その瞬間、目に見える形では何の災害も起きなかった。
 地震はなく津波も大洪水も噴火もなく、雷一つ落ちてはいない。
 それなのに、一時的には電気、水道、鉄道といったライフラインがすべて止まった。発電所の計器データが意味不明になり、法定の水質検査の項目が分からなくなり、運転指令所ではコントロールパネルに表示された駅名が読み取れなくなったからだった。しばらくして復活したけれど、停電、断水、運行停止はひっきりなしだった。
新聞は届かなくなり、父は「会社に行ったところで、メールの一つも打てないんじゃ仕事にならん」と酒を飲んだ。スーパーでは野菜の上や調味料の棚に、値札の代わりに紙幣とコインの写真が掲げられた。
 そのうち、一人二人と転校していく子が出始めた。秋彦も田舎のおばあちゃんちに引っ越すことに決まった。黒板の前に立って「ぼく、みんなに手紙を書くよ」と別れの挨拶をしたら、泣きそうな顔をした先生に「お手紙は無理だけど、落ち着いたら、電話をちょうだいね」と言われた。
大移動は日本だけでなく、全世界で起きた。
 人工知能にかたっぱしから文書を読み込ませ、音声化させる試みが始まったものの、都市生活を維持するのに必要なだけの文字情報をすべて音に変えるには何十年もかかると予想されていた。自力で食料を調達できるところへ、金銭を介さずとも顔見知りと物資を交換することによって生き延びられる場所へ、つてやコネを頼って、人々は移動していった。
 旧約聖書を知る人は、この現象をバべルの塔の崩壊になぞらえた。天へと届く塔を建設せんとする傲慢さに神が怒って、共通言語をなくされたように、このたびは地球の環境破壊のひどさに怒って、人類から文字の読解力が奪われたのだという。
 書店や図書館が紙束の保管庫と化し、請求書、契約書、決算書、六法全書も納税記録も何もかも、解読不能の紙切れ、意味不明のデータに変わった世界のなかで、神の怒りが原因であると説かれれば、啓典の民ならずとも頷く人は少なくなかった。
 天文学者のなかには、超新星の爆発によって地球を貫いた未知のエネルギーが人類の脳の一部を破壊したのだと主張する者もいた。他にも多くの学説が唱えられたが、文字の消えた世界では、そうした主張を科学的に検証することはできなかった。
 そうしたすべては、ずっと後になって、大人たちから聞いたことだ。
 秋彦は、両親とともに、山野と化していた祖父母の家の畑を再開墾することに半生を費やした。エノコロ草を焼き、松の根を掘り起こした。人に頭を下げるのが嫌いな父は、近隣の農家に栽培のこつを教わる代わりに、スマホの音声検索で目当ての解説画像や動画を探したが、年々、充電場所が遠くなった。手に入れた古い農業書で参考にできるのは白黒写真だけだった。オクラの実にアブラムシが密集したり、ナスの葉が黄色くなったりするたび、父は「この字が読めたらな」と、読めない文字で埋まった紙面を汚れた親指でこすっていた。

 ドーン、ドドーン、ドーン
 ザーン、ザザーン、ザーン
 
「おじいちゃん、ねえ、おじいちゃん」
おじいちゃんの魂が、ここではない、どこかへさまよい出てしまっていたので、わたしはおじいちゃんを揺すぶった。

その父が号泣したのは、母が病気になった時だった。町医者は「あれの前だったら、良い薬があったんですがね」と溜息をついた。それからも父と二人で、ずっと畑を耕した。日照りがあり、台風がやってきた。伴侶を得て息子まで産まれたことは望外の喜びだったが、一人息子は畑仕事を単調だと言って嫌い、漁師にあこがれて早くに家を出ていった。その二年後には父と同じ理由で泣くことになったが、はなから抗生物質が手に入るという期待はしていなかった分、父よりは楽だったかもしれない。

「おじいちゃんってば」
 わたしに加勢してか、海もひときわ大きな波を送ってよこした。
 わたしとおじいちゃんのつま先のすぐそばまで海水が這ってきた。
 わたしは、おじいちゃんの顔の前で手を振ってみたけど、反応がなかったので、手を引っ張ってみた。
 おじいちゃんはふっと笑った。
「長いようで短かったなあ」
大きな固い手で、わたしの腕を握り返してくる。
 わたしのこと、ここにいるってこと、星と月、海と潮風と一緒だってこと、ようやく思い出したらしい。
 わたしは、おじいちゃんの目尻の皺を指先でなぞってみた。
 少しだけ濡れていて、少しだけ、しょっぱかった。
 今ここで、このおじいちゃんになら、お父さんやお母さんに訊けなかったことを尋ねてもいい、そんな気がした。
「このあいだ、スミノさんが言ってたの。『みなさんも、この歌のように、空を飛びたいな、と思うことがあるかもしれません。でも、そういう考えは早く捨てるようにしてください。今の自分を超えた、何か別のものになりたいというだいそれた考えが、世界に、とんでもない不幸をもたらしたのです』って。それってほんと? 空を飛びたいって思うのは悪いこと?」
「今の人たちはそんなことを言ってるのか。昔の人がそれを聞いたら、怒っただろうなあ」
「昔の人じゃなくて、おじいちゃんはどう思う?」
「おじいちゃんたちの時代は余裕がなかったからな。おまえたちみたいに、集会へ行って昔の話を習うってこともなかったから、難しいことは何も分からんな」
「そんなの、ずるい。わたしはおじいちゃんがどう思うのか、聞きたいのに」
おじいちゃんは木の枝で砂をひっかいて何本も線を描いた。
 わたしはおじいちゃんが話し出すのを待った。
 その間もずっと、潮鳴りがしていた。
 
 ドーン、ドドーン、ドーン
 ザーン、ザザーン、ザーン
 
「おじいちゃんにはいとこがいた。セイジさんって言ってね。おじいちゃんより十歳以上、年上で、あれが起きる前には、この国でいちばんの学校に通っていた人だ。
 この人が死ぬ前に、お別れの挨拶のつもりだろう、おじいちゃんを訪ねてきてくれた。一晩、おじいちゃんの家に泊まって、いろんな話をしたんだけど、その人が別れ際に言ったんだ。『秋彦、おまえがちょうど端境期の人間だ。社会が文字で動いていたことを覚えている最後の世代なんだ。だから、おまえは文字のない世界を生きる世代へ、文字があったからこそ生み出せた成果を伝えてくれ。そうじゃないと、たくさんの文字を必死に受け継いできた俺たちが浮かばれない』とね」
「その人は何を伝えてくれって言ったの」
 おじいちゃんは遠い目をした。
「エネルギーは、物の重さに光の速さを二回かけたものだって言ってた。いや、物の速さに、光の重さをかけるんだったかな」
「えねるぎいって、どういう意味?」
「分からない」
「それじゃ、駄目じゃない。他にはないの」
「いろんなことを聞いたんだが、すっかり忘れてしまった。というより、セイジさんが言ってたことは、おじいちゃんには、ほとんど理解できなかったんだ」
「なあんだ。そんなんじゃ、伝えるなんて無理じゃない」
「そうなんだよなあ」
 おじいちゃんは笑った。
「だけど、はっきり覚えてることもあるんだぞ」
おじいちゃんは真顔になった。
「セイジさんは言っていた。文字を読み書きする能力が失われたってことは、そこに費やされていた莫大な力が節約されたってことだ。とするなら、人類はこれから、別の力を使って生きていくだろう。その後で、どんな世界が現れるのか、それを見られずに死ぬのが残念だって」
「別の力って何だろう」
 おじいちゃんはわたしの髪を撫ぜてくれた。
 それから、こぶしを握って立ち上がり、海に向かって歌い出した。
  
 がんばったんだよ すごかったんだ
 だから もいちど やり直したいんだ
 今度は怖くならないように
 みんなが楽しくいられるように
 繰り返す波のように 何度でも

わたしは思い切り拍手した。ドドーンザザーンと息をしている海もまた、おじいちゃんに拍手したようだった。
「すごいよ、おじいちゃん。今度からは、この三番を二番の代わりに歌うよ」
「いや、二番も歌ったほうがいい」
「スミノさんに叱られないように?」
「いいや。二番がなくちゃ、三番もないから」

 それから、わたしはおじいちゃんと家に戻った。
 潮騒はいつまでも、わたしたちの後を追いかけてきて、頭の上にはずっと星空があった。わたしの家、お父さんとお母さんとお兄ちゃんたちとナミが寝ている家を囲む椰子の木の林では虫が鳴き続け、夜の鳥たちも時折、叫び声をあげていた。