「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」深田亨

 夕がた、駅裏のあたりを歩いていると、古いビルの入口に手書きのビラが貼ってあった。
『期間限定 月旅行! 五千円ぽっきり 当ビル屋上から』
 なんだかあやしげな内容であるが、あやしげなのが嫌いというわけではない。
 奥のうす暗い階段を屋上まで昇ると、デコラ机を置いただけの受付があり、風采の上がらないおじさんが立っていた。
「いらっしゃいませ、おひとりさまですか」
「ええ」
「ではここで、月が出るまでしばらくお待ちください」
「あの、お金は」
 財布を出そうとすると、
「乗ってからお支払いいただきます。うまく乗れない場合もありますので」
 おじさんはお茶のペットボトルをくれた。サービスだそうだ。
 あまり冷えてはいないお茶を飲みながら三十分ほどベンチに坐っていると、月が出はじめた。ビルの屋上をかすめるように昇っていく。
「さあ、いまです」
 おじさんに促されて、屋上の角から月に手をかける。遊園地で観覧車に乗る要領だ。月が昇るにつれて足が屋上から離れる。同時にどさりと降りたったのは、洞窟のようなところ。
 ここが月なのかな。きょろきょろしていると、若い女の子が現れた。全身が、服ごとぼんやりと月の色をしている。
「ようこそ月へ」
 黙っていると、女の子は少しもじもじする。
「すみません、料金を」
 ああそうだ。財布から千円札を五枚出して彼女に渡す。
「ありがとうございます。じゃあこちらへ」
 女の子についていくと、すぐに洞窟を出た。
「ここが月面です」
 月の表面は細かい砂地のグランドのような感じ。よく映像で見るように、地面は明るいのに空は真っ暗。パイプ椅子が十いくつ並べられている。ぽつぽつと人が腰掛けていた。
 空を見上げると、さっきまでいた地球が青い惑星となって眼前に広がっている。
「空気がないはずなのに、どうして宇宙服をつけなくていいの?」
 女の子に聞いてみた。
「そこはまあ、そういうことで……」
 彼女の返事は歯切れが悪い。泣き出しそうなようすなので質問を変える。
「お客さんいるんだ。乗ったのはぼく一人だと思っていたけど」
 こんどは自信たっぷりに答えてくれる。
「いろんなところからお乗りいただいているの」
「巡業なんだ」
「というか、月がビルや塔や山の頂をかすめる場所がいくつかあって、そこからしか乗れないの」
「世界中を回るんだ」
「でも乗り降りできる場所は限られているので、そんなにたくさんお客さんが集まらないから、儲からないのよ」
 絶景の地球を見ながら彼女と話をするのは楽しかったけれど、同じような眺めをずうっと見ているだけなので、ありていに言って飽きてきた。
「そろそろ地球に戻りたいんだけど」
「ごめんなさいね、月が地球を一回りして、元の場所にくるまで降りられないのよ」
「どれくらいかかるの?」
「およそ一日」
「ほかの場所で降りてはいけないの?」
「それはかまわないけど、ずいぶん離れたところに降りることになるわ」
「たとえば?」
「ナイロビとか――アゼルバイジャンとか。そこからおうちに戻るまでの交通費は自腹になっちゃうわ」
 そうなのか。辛抱して乗っていよう。ほかのお客の世話をする彼女の動きを見ていると退屈しない。
 それでも、数人しかいないお客は一人二人と減り、最後にぼく一人が残った。
「新しく乗ってこないんだね」
「満月が欠け始めているのよ。この航海が終わると、しばらくお休み」
 それなら誘ってみようか。
「どこかへ遊びにいくの?」
「給料が安くて貯金がないから、ここにいるわ。ずっとそうしているから、月の色だって抜けなくて恥ずかしいし」
「素敵な色だよ」
 月に乗って航海か――。ロマンチックだけど、実際は大変なんだろうな。
 そろそろ到着すると言うので、彼女に案内されてまた洞窟に戻る。洞窟の出口に乗降口というランプが点っている。そこからは、夜行便の飛行機が着陸するときのように街の灯りが見えている。
 彼女が手に何か持ってやってきた。
「種類が少なくて悪いんだけど、記念グッズよ」
 ストラップ、クリアホルダー、メモ帳……。ぼくはセロハンの袋に入った直径二センチぐらいの月の模型を手に取った。
「ありがとうございます、三千円です」
 あのビルの屋上が近づいてきた。角の位置が微妙に乗るときと違う。屋上から一メートルぐらい離れている。
「公転周期の関係で位置が変わるの。ここから乗れるのは二日間だけなのよ」
 それで期間限定なのか。
「でも月の公転周期って、一か月ちかくあるんじゃなかったかな。それが一日で帰ってこられるなんて――」
「地球が自転するのをお忘れのようね。いいからほら、跳んでっ」
 足が震えたが、思い切って飛び移る。なんとか届いて、ビルの屋上に転げ落ちた。屋上にはだれもいなかった。夢を見ていたのかな。
 一人暮らしのアパートに戻ると、まる一日が過ぎていた。そしてポケットに、女の子から買った月の模型が入っていた。
 それから何度もあのビルの前を通ったが、月旅行の貼り紙は見当たらなかった。ビルに入る扉にも鍵がかかっていた。
 季節が移り、月の出る場所も移動して、もうビルをかすめることはなかった。
 日が経つにつれて、本当に月旅行をしたのかどうか記憶もあいまいになっていくが、お土産の月の模型はいまでも机の上にある。どんな仕掛けになっているのか、その小さな月は空にかかる月の満ち欠けに従って、その通り正確に光るのだ。
 ときおりぼくはルーペを出して、模型の月のどこかであの女の子がお客さんに説明している姿を探すのだが、見つけたことはない。