「カンパニーレ」江坂遊

 やっと恋人の足取りがつかめた。それはケンブリッジ大のパブ「虫食い亭」で、プロフェッサーと研究室スタッフとわたしの三人でお酒を楽しんでいた時のことだ。
 お世話になっている昆虫学のプロフェッサーが、わたしに気遣ってくれたのだと思う。新しく入った研究スタッフにこう尋ねてくれた。
「きみ、最近、山好きの日本人と会ったことなんてないよね」
「ありますよ。ついひとつき前のことでした。丁度このパブで、日本の山登り好きの男性に妙なことを聞かれたことがあります。彼はドロス島の虫の塔に登りたいと息巻いていましたね。僕が島に出かけたことを知って近づいてきたのだと思います。そう、彼はミスタータカシナと名乗ったんじゃないかな」
 わたしは急に息苦しくなった。
「そのミスタータカシナを探しています。で、いったい虫の塔を登るというのは、どういうことなのでしょう」
「やめといたらとは言っておいたのですが、僕はね。あぁ、詳しく話しますね。地中海に浮かぶ小島、ドロス島のほぼ中央には広大な森があり、そこは世界中の昆虫好きが集まってくる場所です」
「小島なのに?」
「そう。行ってみればわかりますよ。とにかく広大なので驚きます」
「……、……」
「最近になって注目を集め始めたんですが、早くも昆虫研究者の隠れた聖地になっています。その森に小さな教会があり、可愛らしいカンパニーレ(鐘塔)があります」
「カンパニーレの外壁を登ることもないでしょうから、塔の中には階段があるのでしょう。彼は可愛らしいカンパニーレを登るのに、どうして念入りに情報収集をしていたのかしら」
 わたしは納得がいかなかった。
「建てられてから虫の塔の鐘が鳴った回数は三十回ほどしかありません。つまり、最上階まで到達した人はわずかに三十人ほどしかいなかったというわけですね」
「登りにくいのね。で、あなたは、到達したのね」
「まさか」
 スタッフは首をすくめて即座に否定した。
「じゃ、そこには山登り好きの血をたぎらせるものが何かあるのかしら?」
「あります。僕は六百段目あたりで断念したけれど、あんな恐ろしい経験をこれまでしたことがない」
「ええっ! 六百段でもてっぺんに着かないの? 確か、可愛らしい塔とさっき言ったわよね」
「外見では百段もなさそうで、気軽に誰でも登って鐘をついて降りてこられそうな高さに見えます。でも中に入って、らせん状の石段を登り始めると、まったく様子が違ってきます。どんどん石段が目の前に立ちはだかってくるのです」
 そこで今まで黙って聞いていたプロフェッサーが口を開いた。
「立ちはだかって来るのか。スピルバーグの映画のような大スぺクタルだな。いや、ここでいう英雄のセリフはアルプス・アポン・アルプス(山、また山)といったところかな」
 いつも愉快なプロフェッサーはわざわざナポレオンのボトルを見せながら、そう混ぜ返した。
「もっとお話を聞かせてくれないかしら」
「実は思い出したくないけれど、まぁ、お困りのようですから……。始めは調子か良かったんです。天国への階段というのはこのことかと思ったりしてね。それがコツコツ登っていくと、どんどん石段の高さが変わっていくのに気がつきました。それが、ですね。六百段目あたりじゃ、僕のジャンプ力でも飛びつけなくなっちゃって。虫の塔という意味は、石段をどんどん登っていくと、自分のサイズが虫みたいに小さくなってしまうということだと、そこで初めて分かったんです」
「まさか」
「僕は登山家じゃないからあきらめました。珍しい虫を採集している僕が、まさにその虫になっては洒落にもならないでしょ」
 プロフェッサーは大きくうなずくと、よく決断したとばかりに、スタッフに向けてグラスを高く上げた。
強い日差しは木陰に入ると思いのほかしのぎやすい。木陰や物陰を伝って歩くことにしたが、それは細い小道をわざと急坂を選んで登っていることになったようだ。見た目より勾配はきつかった。そのおかげで、教会の建物が見え始めたところで力尽きてしまった。
思いっきり手足を広げ、広場の芝生の上にゴロンリと寝転がる。すぐに自分の胸の鼓動が聞こえてきた。まったく山登りが好きだという男の気が知れない。
 その話を聞いて一週間後、わたしはドロス島の虫の塔を見上げていた。塔は白いペンキで塗り上げられていたので、太陽の光を健気に跳ね返し、老いても元気だと主張しているように見えた。そういった意味でも、十分に可愛かった。
それはスタッフが言っていた可愛いレンガ造りの塔といった印象通りのものだ。けれど一見するだけでは、山登り好きがアタックしたくなるとは思えない。いたって普通の高さの塔だなというのが率直な感想だ。あの高さならわけなく鐘を鳴らせそうに思えた。
先に連絡をしていたので、礼拝堂から牧師が出てきて、わたしをニコニコ顔で出迎えてくれた。まだ若い牧師は近くの芝生の上にすぅっと腰を下ろした。話し出すととてもフランクな方で、すぐ打ちとけることができた。わたしはさっそく色々不可解な謎について尋ね始めた。
「はい。その通りです。よくご存じですね。ええ、わたしもあの石段の段数は分かりません。そうです。登っているうちに奇怪なことが起こるようです。だからチャレンジしたがる人が絶えません。ミスタータカシナもそんな一人でした。ちなみにこの塔は虫の塔と呼ばれていますが、巨大な毒虫が巣食っているわけではありません。スティーブン・キングの小説のようにはまいりません」
 わたしは笑みを漏らした。
「ところで、タカシナはあの鐘を鳴らしましたか?」
 牧師は、大きく首を縦に振りました。
「ええ、確かにこの耳で聞きました。それは僕が持っている言葉では、うまく表現することはできませんが、たいへん清らかで優しい鐘の音でした。それでミスタータカシナは登頂に成功したことがうかがえます。到達は並大抵のことではなかったでしょう。おそらく、あれは祝福の鐘です。感動しました」
 ギョッとした。
「待ってください。彼は、胸張ってカンパニーレから降りて来たんでしょ」
「いいえ、違います。あそこはまさに天国なので、彼の魂はもう地上には戻ってきません」
「そんなことが、まさか」
 牧師はわたしの目がしらに光るものを見つけて、キルト刺繍のハンカチをそっと差し出した。
「お嬢さん、珍しい標本をお見せしましょう。虫たちはみな、あの塔からまとっていた身体を脱ぎ捨てて昇天していきました。これは塔の上から落ちて来たものです。お渡しはできないものですが、コレクションの三十一匹目を目にとどめておいてください」
 標本箱には、とても小さくなっていたが、探していた彼の身体の抜け殻がピン止めされていた。