「造反無理・革命有罪」大和田始

踏みはずし(1)[註1] タイトルは毛主席の卓抜なマルクス引用、造反有理・革命無罪のパロディだ。毛主席はマルクスの著作と行動のすべてに生彩を与えており、表層的差異にもかかわらず一貫している彼の精神の矜持を簡潔に一括し、意義深いスローガンとなした。これはマルクスのなかのブランキ、ブランキのなかの毛沢東である。造反というのは元々悪い意味のコトバであったが、有理と結託させて中国革命の聖言となしたのだ。そこで結論。毛沢東は、その言語感覚においてシュルレアリストである。
 本日は、J. G. バラードの最初期の作品、1957年の「無限都市 Build-Up」[註2]を俎にのせる。SFマガジン1967年4月号に掲載された浅倉久志の訳文と、1967年本国版に「The Concentration City 集中都市」と改題されされた英文、この2つをテクストとする。どういう因果か、バラードって野郎は本国版出すってえと決ってガサイレをやるのだ。この作品の場合は、前の警察の場面での削除が目立つが、プレオリジナルのほうが欲望がすけすけルックだ。西欧近代合理主義精神にとことん犯されきったおいらの黄色い脳髄(ドタマ)では、この作品てんでわかんないから、最初っから脱走のサンバで、追跡の鉾先も鈍ってくるのだ。
 前戯はこれで終りで、本番に入る。(テヘッ イカガワシイんだわぁ)おいらのコトバはすべて北京へ、ではなくってバラードに通ずると観念されたい。まずおれたちを驚かせるのは、主人公たるフランツ君の行動の非論理性と作品の構造の不条理性であろう。おそらくおいらが引き出すこの作品のヴェクトルはこれに尽きるだろう。あとは強引のこじつけあるのみ。
 落ちた話し、下がかった冗句、スカトロジーにウハウハ喜んでしまうおれだから、この作品も尻のところからなめてかかる。フランツ君は自由空間探索行に失敗し、サツにパクられ、気がつくと彼が旅立ったまさにその日に警察にいる。奇妙な成り行きだ。これは、彼の旅が時間と無関係のところで、あるいは時間の真直中で遂行されたことを示しているだろう。彼の旅は輪廻となり、「Escapement」[註3]に近いという感じだが、その中でフランツ君が自らの旅の反復を意識しているかどうかは分からない。しかし彼は旅そのものだけをくり返すのであり、旅立ちの諸要因をなす一連の放浪にも似た行動をくり返すのではないこと、彼の旅が日常時間系の外にあることを知ってしまったことから、彼がその無益の反復を知りつつなおもくり返さねばならぬという、シーシュポスの不条理の回路に落ちこんでしまったのだと納得させる。フランツ君はコロンブスのように西へ西へと永劫走りつづけるのだが、コロンブスはインドへ到達したと思ったのにひきかえ、われらがフランツ君はあわれ二重三重の防壁にぶつかって、泣きの涙のやけのやんぱちだ。
 考えれば考えるほど恐ろしくなるぜ。蛇のへそまがり都市め! フランツの自由空間を求めようとする欲望は、いろいろとこじつけられるが、スカッとさわやかという訳にもいかず、決して解明しつくされないだろう。両親を失った落盤事故で自由空間ミニチュア版を見てしまったのが決定的や、と彼は思っている。しかし、裏には深い無意識のレヴェルで、作品の成立と直接的に係ってくる衝撃があっただろう。両親を喪ったことは、彼がそのなかで生活し、そのなかで教育され、それ自身の要請する論理でもって思考させられてきた〈都市〉に対する憎悪として、彼の生の20年を通じて醸成されてきた無意識のなかで成長し、彼の言動に働きかけることになるだろう。彼が夢のなかで2つのアイディアを把握したのは、そしてその確たる理由を解明できないのはそのためだ。2つのアイディアは、実際には自由空間というひとつのアイディアであり、無限の都市に対する挑戦となった。都市の論理でいけば、無限に広がっていること、すべての空間を専有することに最大の価値がある。この都市は、ブルジョワ社会のように異物を去勢してそのなかに取り込んでしまう能力にたけているから、マギー博士などという講座マルクス主義者は実際行動において叛旗をひるがえさぬ限りでのうのうと生きていくことができる。あれっ、フランツ君は新左翼の革命家になったよ。

踏みはずし(2) 封建的な医学部のインターン生は、教授のためには自らを空しくして点をかせがねばならず、自由性・創造性を全く剝奪されてきたが、その彼のところに飛びこんできた人工授精の精子提供者という役割は彼の唯一の脱出口となった。彼は人工授精を受ける婦人を知るため、彼に気のある看護婦と寝て、首尾よく相手をつきとめ、家まで追ってゆき、海岸に呼びだして、あなたのおなかの子供の父親はぼくです、といって振りかえるとパッとパートカラー、あとはグングン強姦ちゃん。ところが、後に彼の精子が使用されなかったことを告げられる。遅れた祭りの成就は二重の幻想だったのだ。彼のさまよう視線と対称的に、女の満足げな微笑――「婚前遊戯」[註4]はこのように要約すると、てんでつまらなく思えるが、実際はもっとすごいんだぞお。主人公の反逆→探求→基盤の崩壊による破産、という成り行きは「集中都市」と似ているな、と思わせるのだ。
 東大斗争は医学部に発し、講座マルクス主義者を糾問し、ついには帝大解体という地平にまで突き進んだが、わがフランツ君は〈都市解体〉のスローガンを打ちだすことはできなかった。というのも、自由空間探索が絶対的目標でありながら、まさに夢はおぼろ、あとはおぼろ[註5]で、断固たる確信にまで彼の認識を高めることができず、ためにマギー博士をやっつけるという方向を発見できなかった。そうして、彼のテロリストじみた行動は未遂の前段階蜂起に終った。
 ここで、斗争の目的は斗争の拡大それ自体である、という吉本隆明もギョッと驚く平岡正明を対置させてもいいが、そのまえに、先走りしすぎたので都市問題をひんめくろう。〈都市〉に住む人々の最大の敵は火事である。フランツの住む地方連合では、政治とはおそらく火を治めることである。調理にさえ高温処理は禁じられており、熱い料理には高い金を払わねばならない。ということは、そうした料理を食らうことのできる人種が存在しているのだ。一般市民は都市防衛のために奉仕し、支配階級は安楽をむさぼるという社会構造が示される。支配階級は、自らの自己保全をば全市民の自己保全にすりかえ、教育 etc のすべてのコミュニケイションの独占と宣伝工作によって、住民のブルジョワ化と彼らのブルジョワ的自己保全を確保している。こうしたとき、放火狂およびそれへと自己発展する茶店派の存在は〈都市〉にとって最大の危険の分子である。バクーニンの正統的後継者たち、放火狂は〈都市段階〉における赤軍派であり、テッテ的事前摘発が行われている。わがフランツ君はこうした左翼反対派と同じ心情圏から創出された。本国版では、レストランの主人の放火狂に対する悪罵が削られているが、これは都市の不条理の性格を強め、いわば〈もの〉としてゴロリと投げ出すことで、それらの事象がフランツ君の内面に与える影響をぼくたちに想像させることになる。
 フランツにとっての放火狂は、「裸の19才」[註6]君が見る学生運動と同じような位相にあるだろう。永山則夫と同じように、フランツも彼らを横目で見ながら通りすぎる。彼らと一面通底しているのだが、彼らとの間には溝がある。それは、先取りしていえば、彼の志向の根源的性格に起因しているのだろう。
 フランツ君の旅立ち以前の放浪遍歴路は自由空間という観念のカモフラージュとしての飛行空間の探求、フィート価の変動に表現される資本主義論理の貫徹、放火狂の気狂じみた排斥と移りかわり、グレグスン etc の〈永劫都市論〉と〈始祖鳥〉の存在との対立のなかで後者を選びとる。ここでも彼の夢、種の歴史の隠喩的表現の論理がぼんやりと貫徹している。
 こうしてフランツ君は旅に出る。だがここで〈都市〉の奇体な構造が現われるのだ。彼の旅は目標がどこにあるのかわからないので、犬が西向きゃ尾は東でいくことになるが、ひょいと乗った超特急が西行きなのである。地方連合→連邦→大連邦→首都圏→大首都という過程は、おらたちに彼が中心に向っていることを知らせる。だがフランツ君はそのことに気付いていないようである。ここも奇妙な場面だ。結末においてわかるように、フランツ君は超特急に乗るため自分の住んでいた街層から上昇したときからすでに、〈都市〉の構造にからめとられてしまっていたのだ。彼が中央に向っていながら、そのことに気づかないのはこのためだ。といっても説明したことにはなってないように感じるけど、たとえばまた、旅日誌の記述、第何日目という日付のつけ方からして、彼の旅の尋常ならざることを物語っていると思うのだ。
 『沈んだ世界』の末尾で、ケランズが27日目と記すのは、季節の消滅、意識の乖離の地点へ向っていることからして、それ以外にはありえないエクリチュールだ。だが資本主義の合理的世界にいるフランツ君の正当な旅日誌は何月何日といくにちがいない。すなわち何日目と記すのはその時点ですでにして都市の日常から離脱したことと、旅の不可能性とを指し示している。ここで私はこの作品の二重構造に思い到る。ぼくたちの常識的合理的推測の及ぶ地帯と、そこから突き出てゆく旅の部分とであり、強力な神の支配するマニ教的世界はバラードの作品に見られる特色でもある。ところで、フランツ君の旅は、過去の記憶へさらに過去の種の記憶へとのめりこんでゆくヴェクトルを保持していたが、旅立ちのとき、そこにしか超特急がないからなのだろうが、上層のレヴェルへと上ってしまうのだ。浮遊・上昇はエクスタシスの表現。恍惚のブルースのなかで、あたしたちはもう眼をあけてはいられない。開けることができたにしても、見える風景は風化している。誤ちの原因はフランツ君が、彼の目標とその持ちうる意味を十全に把握していなかったからでもあるが、それ以上に都市の自己保存の欲望が働いているのだと思わせる。
 この作品は、都市のある一角における会話の断片によって始まる。バラード君は、都市の種々の位相を一挙に開示しようとしたんだもんね、きっと。だが、おそらく彼の意図を越えて、この一節は作品の〈語り〉を、すなわちこの作品の真の支配者を指し示しているのだ。名も知れぬ人々のとぎれた会話。このすべてを聞くことができるのは、〈都市〉とぼくたちだけだ。いまや、名もなき人々が語っているのでない。ここには唯一の主体、無限を集中させた〈都市〉があるのみだ。名もなき都市が語っているのである。だが、都市は決して姿を現わさず、いくつかの暗示がその厖大な存在の前哨を受けもっているのだ。
 このことは本国版に書き加えられた数語に明らかである。後ろの警察のシーンで、警察医が超特急の逆転 K.O. について語り、運転系統の歪みを説明できないといって、さらに「それは、都市それ自身の固有の性質のように思える」という発言をするのだ。私たちは、このなかにバラード自身の〈無限都市読み〉をみることができるだろう。これは直接的には都市の鏡像構造を指し示しているが、おらの感では都市に力点がおかれており、強欲な夢幻的性質を表現しているのだ。
 隠された都市と対応するかのように、精神病医の存在も隠されている。おそらくこの都市世界においても、精神病医の役割は、病気であると声高に宣言し、個人のなかに表われた都市の日常を砂糖づけにすることにあるらしい。しかしこの都市の安全化装置はフランツに対しては発動しない。茶店派左翼に対しては、放火狂とレッテルを貼って公然と暗殺することができる。放火狂に対する処理回路が形成されているからであり、もはや放火狂の行動は社会的に認められた反乱だといえるだろう。こうしたとき、フランツの行動は真にプロレタリアのものである。フランツの無賃乗車という手法は革命への突破口、抜け穴であったのだ。〈都市〉は法的に彼を罰することも、精神病医を援用することもできない。だが抜け目のない〈都市〉は、フランツに更に辛い罰を科すのである。無限地獄。造反無理・革命有罪だ。彼の行動は、一時的な都市の死としての火災や、エコロジーの原則によって推測される部分的死としての中央部の陥穽より以上に、根源的な都市の死=否定を結果するから、〈都市〉の反撥も強くならざるを得ないのだ。
 都市は幻想によって成立している。というより、都市は「いく百万いく千万大衆の、一人一人の内部に根をはっている〈構造〉にもとづいて」組織されている(新島淳良)。だから、フランツ君およびすべての都市の住人が闘私批修[註7]を行えば、すなわち都市の論理に密着したところの支配階級によって植林され、意識の下草にまで貫徹している自己保存の趨向(衝動)をテッテ的にたたきつぶすならば、〈都市〉段階文化大革命は花開く女陰でありうるということを、おいらは先に示した。もしフランツ君の旅が成功し、それが都市の住人に一般公開されたとするならば、自由空間の存在が確認されたとするならば、〈都市〉が無限に広がっているという一般的な神話に疑問がもたれることになり、〈都市〉はその神秘的側面を剝ぎとられ、彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁[註8]になるだろう。これは、住民の想像力のなかにしか存在しない〈都市〉の事実上の死となるだろう。都市とそれを支える住民の内的構造とでどっちが先かという疑問には、気がついたら2つともすでに存在していた、とデリダ風に逃げることにする。

踏みはずし(3) つげ義春の「ネジ式」では、医者を求めて隣村へ行こうとする少年は、あたかも旅の方向を知ることを禁じられているフランツのように、彼の道が鉄道線路であることを知らされない。おそらく群立する交通標識も眼に入らないのだ。ところがその標識はまっ白けのけであって、伝達の欲望のみがぼくたちに知らされるにすぎない。標識群の向うに変哲もない風景が広がっているが、根源的な変化があるにちがいない。少年はキツネの面をかぶった子供の運転する汽車に乗っているだろう。汽車は反対方向に走っているが、それはただの感ちがい(ではないな)。汽車の旅を経ることによって、少年は以前とは異った同じ村に入っている。大異を捨てて大意につき、グッとアナロジれば、フランツが再び戻った彼の地方連合はそれ以前の地方連合とは位相が異っている。うん、ここまではいい。ある意味でそれは、〈都市〉の様相がより鮮明になったと総括しうる。「ネジ式」はここから更にもう一度変身するが、「集中都市」はここで鏡地獄へ落ちる。この原因は、超特急が自己目的に近いところまで高められ、都市の中央部で自由空間=都市の死を見てしまったと錯覚するフランツと、汽車と子供の導き手が現われてくれる「ネジ式」少年との相異にあるのだろう。「ネジ式」少年は隣村へ医者を探しに行くのであって、隣村を探しに行くのではない。だから彼は、汽車がもときた方向へ走っていることを知っても、眼をつぶってすませることができる。これに反して、フランツ君は「ネジ式」少年にとっての隣村を探しに出かけ、あらかじめその具体的な現われさえも想定してかかるのだ。目的主義的革命は破産するという鉄則があるから、彼の旅もだめなのだとおいらは思ってしまう。フィート50¢ときいて、フランツは飛びあがってしまうのだが、そこには駅さえもない。通り抜けるのに2日もかかるってのはテエヘンな大きさだ。日本の詩人の誰かさんが、リンゴのなかを通り抜ける汽車というイマージュを書いていて、リロイ・ジョーンズのアップル・コアを想い出すし、アップルコア=ゲットーは都市の深内部、繁華街のすぐ裏から広がっていくのだ。ところで「時計都市」[註9]と関連づけて、都市が同心円状分布を示していると仮定すると、地方連合のある平穏なところと、その内側の暗黒地帯、そしてその内側にはまた活発なところがある。地方連合のさらに外側についての情報は一切ない。そこはおそらく自由空間、永遠の闇であろう。さらに大胆に妄想をでっちあげれば、この都市は帝国主義の支配する世界であるらしく、中央は収奪をして繁栄しており、暗黒地帯は遺棄された植民地、外辺部は暴力と闇の支配するところということになり、超特急が内部へ向うのも、対立するものが捨象されている帝国主義中心世界にあっては、未来の生への道がそこにしかないことの証明になるだろう。いやそうではなく、都市は大首都の向う側と地方連合のこっち側の巨大な2枚の鏡にはさまれた限定された領域でありながら、鏡像がそれを生み出す実体との関連を絶たれているために、無限と錯覚されるだけなのだ。超特急は西行が東行にかわり、そのまま乗りつづければまた西行に変るのだ。いやそうではなく……
 わがフランツ君は、なぜ超特急が中心に向かっていることに気づかないのか、なぜ暗黒地帯を自由空間とまちがえてしまうのか、と3ヶ月ほど前に考えたところだが、考えれば分かるてなもんじゃねえことがわかったので(あるいはわかるのかもしれない。フロイディズムもあるでよ)みんな都市のせいなのよ、と逃げた。〈都市〉はもちろんそのなかに住む人々のひとりひとりの意識の上層部から無意識までを支配し尽くそうとする抑圧的機能をのみ保有しているわけではない。放火狂あるいはフランツは人民の偉大なる情熱の表現である(12・20の沖縄暴動[註10]は焼打ちだった)けれども、同時にそれはまた〈都市〉の下意識の奔出であるとも思えるのだ。あるいは、ユンクおじさんが〈集団的無意識〉なんてことを言っているらしく、そこは合理的な解釈をうけつけない地帯であるらしいが、この実体なき〈都市〉、この作品は、その集団的無意識のなかを浮遊しているのかも知れない。
 後ろの警察の場面で、フランツ君はあくなき自由空間の探求を主張しながらも、警察医の主張に圧倒されて、弱々しく、自由空間がもっと下のレヴェルにあるのではないかと告げる。正しい認識だ。おらたちは、〈都市〉の上下構成をば、〈都市〉の意識の上下の階層としてアナロジることができよう。都市の無意識をうがてば、舗石の下に砂浜がある[註11]ように、都市の下には海がある(筒井康隆「人口九千九百億」)。また、フランツ君は言及していないし、気づいているとも思えないが、今度やるときは東行の超特急に乗るべきである。西へ西欧へエロスへではなく、東へ東方紅へ暴力へと進むべきである。東風が西風を制圧するのだぞ。都市帝国主義は暗黒地帯の拡大と辺境のでんぐり返りでお陀仏だ。

註:
1 『踏みはずし』モーリス・ブランショの初期評論集の題名だけを拝借
2 創元文庫では「大建設」『時間都市』1969所収
3 Escapement 創元文庫では「逃がしどめ」。『永遠へのパスポート』(1970)所収。SFマガジン1967年5月号「タイム・チャンネル」浅倉久志訳
4 『婚前遊戯』主演・香取環 監督・奥脇敏夫 制作・ワールド映画  1968年頃の制作か。
5 青江三奈「恍惚のブルース」1966 の歌詞。「あとはおぼろ あとはおぼろ」が正しい
6 「裸の19才」永山則夫をモデルとした新藤兼人監督の映画。1970年
7 闘私批修 1967年毛沢東が文化大革命の混乱を恐れて出した標語。自分と闘い、自分のなかの修正主義を批判せよの意
8 「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」マルセル・デュシャンのガラス絵のタイトル
9 「時間都市」、『時間都市』(創元文庫1969)所収
10 コザ暴動 1970年
11 パリ五月革命の生んだ詩的な落書きの一つ

[付記]
本論はまだバラード自身が上海での幼少の記憶が創作に影響していることに気づかなかったころ、日本が1970年代の学園争乱のさなかにあったころにかかれたものであることに留意されたい。初出は「N」11号(1971)である。
関連して、「ナイトランド・クォータリー」Vol.27(2021)掲載の変奏曲「素潜り「集中都市」」も参照されたい。