「最近の吉村萬壱文学――『流卵』、『哲学の蝿』を中心として」澤井繁男

最近の吉村萬壱文学――『流卵』、『哲学の蝿』を中心として

                                 澤井繁男

     
 
●1 一者

 吉村萬壱が拙著『一者の賦』(未知谷、二〇〇四年)を読んでいた、と知ったのはつい最近のことだ。拙作は錬金術を正面から扱った小説で(当初、『消えた教祖』のタイトルで、京都新聞朝刊に半年に亘って連載)、文芸評論家の沼野充義氏に、毎日新聞の日曜書評欄で大きく取り挙げられた長編だ。
 「錬金術」は、イタリアルネサンス研究者としては避けては通れない問題で、沼野評はその方面の拙著(『魔術と錬金術』ちくま学芸文庫、二〇〇〇年)にも言及して下さった。タイトルの「一者」とは新プラトン主義の「神」のことで、純粋にして無垢な、著者であるプロティノスも定義しがたい神とされ、アルプス以北(キリスト教のヘブライズム)にたいして「地中海」のヘレニズム文化の中心的存在である。この一者から(太陽の光にたとえられて)陽光が「流出」、そして一者へと「還元」して、円環の世界観を形成する。陽光は万物に宿って多神教を生む。一神教で、始めがあって終わりのある、直線的なキリスト教からみれば異教である。吉村はこうした地中海の世界観に興味があって、「一者」と名のつく拙著を買って読んでいたわけだ。
 
 この吉村の趣向が明確に現われたのが『流卵』である。自覚的に読まなくては、あるいは解説がなければ看過してしまうが、地中海の円環の思想を巧みに日本的風土に置き換えて描き切った力作である。
 まず「オカルト」なる術語だが、これは「狂信的な」を意味する「カルト」とは異なる。「~を隠す occultare」というイタリア語の派生語が「隠された occulta」であって、これが英語に入って「オカルト」になった。本意は「隠された、隠微な」である。つまり「公」や「公開」のような地上的意味(即ち、明るい近代科学といった合理的な「学」の世界)ではなく、地下を生きる知、を意味する。錬金術、占星術、これらはみな「オカルト」の異教の知で、キリスト教から排斥された。ルネサンスの文化は、この異教の知(=魔術の知。「術」の世界。例えばいまだに占星術〔星占い〕などが廃れていないのは、「(天文)学」の世界では到底わからない「運命」を提示してくれるからだ)が(一五世紀の後半、プロティノスの主著『エネアデス』がギリシア語からラテン語に翻訳されたことによって)キリスト教世界に新鮮さを与えて一世を風靡することになった。ルネサンス文化の定義はさまざまだろうが、一種の翻訳による異教の文化現象とも言えよう。
 さらに「魔術」には「黒魔術」(魔女、妖術、降霊術)と「白魔術」(知的な自然探究)のべつもあって、前者は「悪霊魔術」、後者は「自然魔術」と早晩よばれるようになる。本作の拠って立っているのは「悪霊魔術」のほうだ。
 さて前置きが長くなったが、『流卵』は、この思潮にそった作品である。本作は一種の「家庭(家族)小説」だが、家庭と森の「往来者」である「私」の動きを追ってゆくと別紙のような図が念頭に浮かぶ。地上と地下の世界でなく、「結界(けっかい)」を中軸とした、日常と非日常の世界の現出である。結界はふつう、橋とか辻とかがその役目を果たすが、本作では主人公の「「中村伸一」がそれである。ここでは「中村」という姓が生きている。おそらくとても一般的な「中村」姓を置くことで、小説の内容がごく普通のひとにもあたりまえのように起こり得ることを暗示している。ひとびとは知らぬ間にこの「中村伸一」と似たような行動を取っているのである。文学作品は一見、特異なテーマや登場人物を取り挙げていても、それはそうした事実や事件のその内奥に、真実・真相が潜んでおり、その真実が読後に光を放って、読者を射るのである。
 『流卵』のそれ(真実)は、日常と非日常(柳田民俗学でいう、「ハレ」と「ケ」)の緊張関係にあって、それは「家族(庭)」と「森(雑木林)」での関わり合いでもある。

●2 魔女

 森を吉村はどうみているか。それはこの場合の森に棲む、「魔女」、「サタン」をみれば一目瞭然である。この二つ(特に「魔女」のほう)は解釈が難しいが吉村は民俗学(フォークロア)的視座で捉えている。その他、宗教学、社会学、経済学等といった視点があるが、『魔女の宅急便』をすぐに連想してしまうひとたちは民俗学的な立ち位置にいる。民俗学の観点は、ほぼ「反キリスト教」だから、「箒をまたいで空を飛ぶ少女」は、「騎乗位」の比喩である(カトリックは「正常位」しか認めていない)。夕方になると空を飛んで、サバト(魔女たちの集会)へと向かい、悪魔のもとに行く魔女たちの根本には、豊穣信仰(母性尊重、多神教)が見え隠れする。
 この点、次の伸一の行動は、重要だ。もっと大切なことは、この場面には母がいないことだ。森からこっそり家にもどった伸一が肌に刺さった木の棘を抜いている……。

 こういう生活上の具体的な営みこそが自分が本当に望んでいた事かも知れないと思い、サタンだの魔女だのを妄想して雑木林の中で全裸になっていた事が現実の出来事ではなかったような気がした。パンツ一枚穿いただけで、私はこちら側の人間に戻っていた(三八頁)。

 しかし森への思い入れはさらに、

  完全さに至るにはどうしても森の中に分け入る手続きを取らねばならないとわかってもいた。……なぜなら魔女が棲むのは森の中と相場は決まっているからである〈一一六頁)。

 として表現され、森とは伸一にとって一方の「世界」であり、その世界(森)に対して濃厚な意識を抱いた伸一は、「世界とは正に自分の意識そのものではないか」(一一六頁)とまで訴え、

  この世には超能力もサタンも存在せず、在るべきものが在るべき場所に在るだけであり、そしてそれだけで世界は充分なのだ(一二五頁)。

 と、最終的には世界の一義性を認めざるを得ない伸一だが、ここで伸一本人はやっと伸一にもどれるのである。

 「森ではない側」とは日常のそれである。森(雑木林)が伸一にとっては非日常の世界で、全裸にもなれる。パンツをはくと日常の世界に帰ったことになる。一枚のパンツの有無で、結果の往来が定まる。
 この作品は作者ともどもさる新聞で大きく取り挙げられた。「オカルトの世界……」という見出しが出ていたはずが、民俗学的な魔女解釈での作品であった。民俗学以外で現在共有されている学術的定義の代表は、侵略宗教である一神教のキリスト教が多神教の西欧土着の民族を改宗させるために、まず聖母マリア信心という、みずからの父性信仰を母性信仰に譲歩して多くの信者を得たが、それにもかかわらず母性信仰を堅持したひとたちを、性別を問わず魔女とした、というものである。だから魔女の反対語は魔男でなく聖女である。
 だが、もしこの説を小説にするなら、『ダ・ヴィンチ・コード』のようになってしまうかもしれない。日常・非日常どころではなくなるであろうから。多大な知の冒険が必須となろう。
 『流卵』にもどろう。

  私(伸一)は自分の中の、どうしようもなく逸脱に惹かれる部分と、平凡さや自然体に対する志向という相容れない心性を思った。北村晴男を案内人として門を潜ると、一方の極にまだ見ぬ魔女がいて、他方の極には大山田絵里子がいた。私はその両方の女性に成りたい(七〇頁)。

 吉村はひっそりと私宛のメールに添えて来た。今度のあれは私小説だ、と。「ハリガネムシ」もそうだった、とかつて講師としてお招きした講演会で述べられたことがある。ともあれ、「伸一」は「相容れない二つの心性」をもっているが、なんとか統一を保っている、願望している人物だ。しかし左右の振れ幅が尋常ではない。ここら辺に吉村の執筆動機があるかもしれない。揺れ幅を安定させるために、書く。
 これは還暦記念として執筆された自伝的エッセイ『哲学の蝿』(創元社、二〇二一年)にも顕著である。

  「人の道」を強制されるのは御免だが、「人の道」を踏み外すような人間は許せない(二四〇頁)。

 本書のなかには「一者」が、章立てにこそ名はないが、本文中にきちんと登場する。
 西欧・南欧の文化を研究していると、一神教であれ多神教であれ、結局は「一」に帰着するのではないか、とつくづく思う。一神教はいいとして、多神教も、Aたる一者の流出(A1,A2,A3……そしてそれらが、A6,A7,A8として)一者に「還元」する。親、子供、孫、ひ孫……といった、親の血を受け継ぎながらも、親とは独立して別個の人格を形成する。みなAの仲間だ。日本の八百万の神は、A,B,C,D……とみな異なる多神教である。それゆえヨーロッパも地中海の神も、みな「一の世界」なのである。
 吉村文学もこの統一された「一」への希求が根底にあると思う。それは彼の文体にも明らかである。

●3 思考

 吉村作品は刊行のたびに献本していただいていて、その都度ある種の衝撃を受けてきた。その原因を探ってみたい。『死者にこそふさわしいその場所』(文藝春秋、二〇二一年)は、その前作『前世は兎』(集英社、二〇一八年)の世界と比較して読みやすいという点では、そう思われる。『前世は兎』のなかの「前世は兎」、「夢をクウバク」のような読み手の存在まで揺り動かしてしまう文体がかげをひそめ、作柄に軽みがみえ、よみやすくなっているが、やはりさまざまな「氾濫」に充ちているのは吉村作品の特徴であろう。それもグロテスクで野卑で反道徳的である。だが思うに、吉村がこの手の「攻め」で挑んでくる背景には吉村本人がきわめて「倫理的」な人物であること、それを直截表現せずに「黒々」とした世界に読者を連れ込んで、そこで「倫理的な世界」を無意識のうちに体験させようとしている向きがある。『デカメロン』もその手の作品で、吉村作品とおなじくエロ、グロ、ナンセンスに充ちていて、加えるに、「笑い(飛ばす)」という芸を見事に用いている。
 ここで吉村が『デカメロン』を読んでいるか否かは問題ではない。吉村のなかでは、既成の文学からさらに一歩前をいく作品こそが第一義であり、そのためには、『デカメロン』に似た作為が必要なのである。それゆえ登場人物が異形であったり、風景が歪んでいたりしなくてはならない。そうした装置を作品の裡に忍ばせてはじめて、吉村の筆は勇躍闊歩する。皮肉、風刺、諧謔、韜晦……と手かえ品かえ、である。
 今年還暦(デヴュー・二〇年)を迎える吉村は、平成中期から令和のこれからを生きていくであろうが、吉村文学を理解できなければ、ひょっとしたら、この時代そのものの把握が困難になるかもしれない、そういう作家である。斜に構えた独特の筆致は人間の内と外、社会の表と裏をごちゃごちゃにし、ときにかき混ぜ、遊弋(ゆうよく)すること、これ融通無碍である。
 かつて吉村は「文体は思考の結晶だ」と言い切ったことがあり、それは自伝的エッセイ集『哲学の蝿』にも書かれていたと記憶している。この文体・思考説を支持するひとはかなりの数にのぼると思う。A賞、N賞を問わず、種々の文学賞の受賞作の文体はこの種のものが多い。実作もする私はといえば、これに組しない。二〇代の末から血液人工透析(腎臓移植で過ごした一〇年間も含めて)六八歳のいまにいたるまで器械(ローラー)の一定の回転による、血液の循環によって生かされてきた私にとって、文体とは「生の律動の顕われ」であって、それは歩行にも似た、生きていく上でのリズムと同義だと考えている。したがって簡潔明瞭で、読めばすぐに頭に入ってくる文体となる。錯綜する思考性はない。自分の作品を読んでいただいて、考えるのでなく並走してほしいと願っている。読みやすく、いわゆる「テンポがいい」。この拙論からもそうした印象を抱くひとがいるに違いない。
 ここで、三人の作家の文章を並べてみたい。

① 二人は近所の口さがない上さん達の眼を避けるため黎明前に起き出て、前の晩に悉皆荷造りして置いたみすぼらしい荷物を一台の俥に積み、夜逃げするようにこっそりと濃い朝霧に包まれて湿った裏街を、煎餅屋を三町と距(へだ)たらない同じ森川町の橋下二一九二に移って行った。
② 私の苛立ちは、その齢にふさわしくない大人びた懐旧の痛みではなく、その齢にふさわしい、自分の経験しない世界に郷愁のような憧れを抱く空想家の現実蔑視でもなかった。私はただ、ある人の善行を鳴物入りで顕彰することによって、その恥ずかしがり屋の人を辱めることもあるように、一方では古いものを扼殺しておきながら他方ではその残骸を尊重し美化するという態度が、歴史や伝統を辱しめることもある、という事実に苛立っていたのだった。
③ 私は「意識の中の変革」の実例を目の当たりにして、世界を意のままに創り変えていく力を母の中に注意深く探った。思い詰めた母の横顔を見ていると、客観的な現実など大した問題ではなく、如何に強く自分の世界の存在を確信出来るかが重要なのだと思われた。思念の強度によって、逆に現実などどうにでもなるのだ。これが魔法の極意に違いない。

 三つ引用文。さていかがであろう。よく読み込んで検証してほしい。①はこれだけで一つの文章で、とても長い。だが書きこまれている内容は「引っ越し」の情景で、特段これといって意味するものはない。例えば日記だとしてもおかしくない。つまり生活の報告文なのだ。これは嘉村礒多の「崖の下」のなかの一文である。作家だけあって描写に凝ってはいるが、内実はない。平野謙は、破滅型の作家として「葛西善三――嘉村礒多――太宰治」の系列に置いている。作柄は異なるが、みな「逃亡奴隷」(伊藤整)の作家たちで、その書くものは(太宰は多少とも違って自己演出型)、自己の生活報告であり、半ば懺悔告白的な調子である。そのなかにあって嘉村磯多は純一、という点では出色だった。吉村はそれをひきついでいる。
 ②はきわめて整然とした論理展開をみせ、論文に近い感じのする、そうした意識の明晰さが際立っている。ある種の現象を見定めたうえでの宣言・糾弾とも取れる。「私」は吃立していている。昨年末、急逝した外岡秀俊の「北帰行」の前半からの引用である。③の「世界」は②の「世界」とは質を異にする。②の「世界」は壁のように客観的だが、③のそれは「意識の中の変革」を行なったら操ることが可能な「世界」で、主観的で、意のままに創造できる、「魔法の極意」だという。吉村萬壱の『流卵』からである(一〇八頁)。文体からすると、同じく「世界」に言及していても、外岡に比べて吉村の場合は清冽さや真摯さよりも、きわめて率直で(身体や性器の描写ではじつに)肉感性にあふれるが、双方ともに倫理的である。そしてここに私は吉村の文体の奥底には①の自虐的告白性と②の論理性が混在していると考える。なぜか、嘉村礒多が吉村作品の背後に想い浮かぶのだ。例えば饗庭孝男も言うように(私もそうみているが)、吉本隆明の批評文の背後に伊藤整理論が髣髴とするみたいに。もちろん文体は作家個人によって独自であってよく、ある水準を超えれば読み手の好みしだいになる。
 これまで引用してきた吉村の引用文をどうみるか? 私は安易に①②を挙げたのではないことを知ってほしい。彼は考える以上に考え込んで、自己を追い込んで書く。それは煮詰まった文体に結実して、読者に「辛く」当たる。好みによるが、吉村文体を私は好きである。自分にないものには憧れがわくものだから。その点、『流卵』の文体はわりとよみやすい。

●4 母

 自伝的エッセイ『哲学の蝿』は、「哲学」と冠しているように、吉村の関心が哲学周辺にあることがわかる。これまでの引用文にも、「世界」とか「完全」とかの抽象名詞が出てきている。本来、小説作品には適切ではないと単純に考えるのだが、吉村はこのような言葉で自己を語る。説明している、と片づければ元も子もないが、吉村の文体が思考の塊なので、これが生きている。
 『哲学の蝿』は小説という枠をはずれて自由に、父、母、自分を描いている。特に、吉村文学が実母への「反抗・反逆心」にあること。父からのDVを受けた母から、夫への反発をDVとして吉村が受けてきた、負の連鎖の犠牲者だった自分の心根を屈折した文章で綴っている。
「私」とは「排除」されるべき人間で、「我々の社会は、町外れのゴミと同じように、社会の外へと別種の人間を排除することによって成り立っている」〈二〇八頁〉。
 本書は、八つの章から成立し、それぞれが二つから最高五つの節にわかれている。私が惹かれたのは、Ⅳの二つ目の「虐殺」である。ここは恐怖映画やSF映画について語っている。少年期、父がよく連れていってくれた。吉村少年は「虐殺という史実に半ば神経症的な反応を示した」(一一五頁)。
 この節には実母への陰鬱な反抗心が出ていて、繰り返すが、吉村文学が実母への反逆にモチーフの根をもつことがありありとわかる。吉村少年は、『エイリアン』のような映画を観て、「家という逃げ場のない場所で母からの暴力を受けていた自分の立場と(映画の内容が)重なったからだ。それ以来、私は、(母親からの)暴力を受けながら逃げることが出来ないという限界状況に過剰に反応するようになった」(一一四頁)。吉村には双子の実弟がいるが、本作にはいちども登場しない。『流卵』ではゼネコン勤務の父はここでもゼネコンの社員である。反感を抱いてきた母にはあらかじめ執筆上での許可を取ったら、ありのまま書いてもよい、と言われたという。弟には許しを得ていないので出さなかったようだ。母親が股を開いてパンツをみせたシーンまで書き込んでいて、異臭がただよってきさえする。
 そういう母にたいして「虐殺」では、

  もし自分がクメール・ルジュとしてこの場にいたのならば、間違いなくこの手で彼女の股間に棒を突き刺し、その時に得も言われぬゾクゾク感を覚えたに違いない……私は母に何度も「許してください」と泣きながら懇願した自分を思い出し、その時母が全く打擲の手を緩めなかった経験を人類の歴史に重ねているのだった(一一六頁)。

 吉村少年の無念さ、絶望感に思いがいたると、その文学の根幹に、この世界の不条理への執拗な問いかけと指弾がある。「暴力」から出発して、これからどのような文学世界――「文学というものは、直接には体験していない見えない世界を、ただ言葉のみによって描き出すことが出来る媒体(二一三―二一四頁)」と考える吉村はこれからどこへ向かうのだろうか。
                                     (了)