「甲府日記・四景」飯野文彦

[みそっかす]
「ふみちゃんは、みそっかすね」
 九つ上、六つ上の姉がいる。幼いとき、いっしょに遊ぶと必ず、その文句ではじまった。なんでと思ったことはない。いっしょに遊んでもらえるんだから、うれしかった。年上の集まりに自分も混ぜてもらえる。小さいから、みそっかす。そもそも、みそっかすの意味さえ知らなかった。ただ、みそっかすだと、たとえば隠れんぼをしても鬼ごっこをしても見つかる、つかまることはない。「ふみちゃん、見つけた」と言われても、すぐにまた、どこかへ隠れる。鬼の子に追いつかれて、タッチされても、すぐにまた別の方向へ走っていく。それでもじゅうぶん楽しかった。
 親戚のお兄さんが姉二人と私をローラースケートへ誘ってくれたことがある。姉二人はスケート靴を履き、お兄さんにコーチを受けながら滑った。私はというとズック靴のままで、コンクリートのスケート場を走りまわった。ただ走っているだけ。それでも姉たちよりもはやく走れると、うれしかった。
 父に連れられてアイススケートをやりに、富士急ハイランドへ行ったことがある。スケート靴を借り、履きおえた姉二人が「先に行ってるよ」と滑り出した。父がスケート靴を履かせてくれた。その後、父は自分のスケート靴を履きだした。私に父が履きおえるのを待つという発想はなかった。姉たちみたいに、先に行ってるよという気持ちでリンクへ出た。
 いくつだったのか。たぶん幼稚園児だったのだろうが、滑られるわけがない。ただただ氷の上を歩いた。なにを考えていたか。はじめての経験が新鮮だったのか。一歩、一歩と進むのにいっしょうけんめいだったのか。先に行った姉たちを探そうとしたのか。それはある。気軽に、先に行ってるよ、と言ったのだから、すぐに見つかる。そうして、いっしょに滑る。
 だが姉たちは見つからなかった。けんめいに氷の上を歩きながら、行きすぎる人を見ても、知らない人ばかりだった。それでも同じ場所にいるのだから、見つかる。そう信じていたから、さみしくなることもなく、はじめてのアイススケートに夢中だった。どれくらいの時間が経ったのだろう。リンクの端を歩いていた私の横を、姉たちが滑っていく。
「あ、ふみちゃん」そら、やっぱり会えた。汗ばんで息をはずませながら、私は笑った。姉たちは、笑わなかった。どこからか、父が来た。そら、みんなに会えた。私は笑った。父も笑わなかった。
「どこへ行ってたんだ?」意味がわからず黙っていると、父はさらに「靴を履きおえて顔をあげたら、どこにもいないから。スケートどころじゃなくて、探しまわったんだぞ」
 意味がわからなかった。父の足元を見ると、ふつうの靴だった。ローラースケートのときの、私と同じだ。父も、みそっかす?
「勝手にどこか行ったら、だめじゃん」
「お父ちゃんもお姉ちゃんたちも、ふみちゃんのこと、ずっと探してたんだよ」
 あれ、なんでだろう。わからなかった。怒られているわけではない。心配されていたらしい。なんでだろう。お姉ちゃんたちと同じように、靴を履いたから、先に行ってただけなのに。まあ、みんなと会えたんだから、いっしょに滑るんだな。しかし、ちがった。
「もう遅くなったから、終わりにしよう」
 父が言った。え、まだこれからじゃ、と思ったが、姉たちも同意した。
「まったく、ふみちゃんのせいで」
「だめでしょ。ひとりで迷子になって」
 迷子? 誰が? はじめてのアイススケートは、それで終わった。両手を姉たちに引かれ、リンクから出ると、父にスケート靴を脱がされてしまった。ほかにどこに寄るのでもなく、車で甲府までもどった。別の遊具で遊ぶことも、どこかで食事をとることもなかった。原因は、どうやら私にあったらしい。
「まっすぐ帰ろう。家で夕食を食べるって、母さんに電話しといた」父が言った。ふだんなら、もっと遊ぼう、とか、なにか食べていこうよ、と言う姉たちも「まったく。しかたないね」「ふみちゃんたら」で納得した。
 スケートに飽きたら、ジェットコースターに乗るはずだったんじゃ。富士急ハイランドのソフトクリームおいしいから、ぜったい食べるといいよ、と姉が友だちから言われて、楽しみにしてたんじゃ。すべてなし。ぼくがみそっかすだから? お父ちゃんも、みそっかすになったから?
 きっとそうだ。私がみそっかすだから、ジェットコースターはなし。父もみそっかすだから、ソフトクリームもなし。そうか、それじゃしかたないか。私は帰りの車中で眠った。

[駅の少女と老夫婦]
 一杯のコーヒーを飲まないと目が覚めない。私の場合たいてい二日酔いで、それを追い払う、それが一時の効果だろうが、一杯のコーヒーにすがる。挽いたコーヒー豆を買い、ペーパーフィルターで入れた時期もあるが、面倒になり、今は九百ミリリットルのペットボトルを買い置きしている。胃にやさしいと聞いたことがあるので牛乳を少し入れ、300ミリリットルくらい入るコップでごくごく飲んでいる。それで孫たちを保育園に送り、執筆、朝昼兼の食事まではなんとか行ける。
 しかし前夜、飲み過ぎたらしい。一向に原稿は進まず、どうにもこうにも気怠い。いつもなら食事の後に飲む二杯目のコーヒーを飲もうと台所へ向かい、冷蔵庫からペットボトルを取りだした。流し台にコップを置いた。流し台というのは最近ではシンクと言うそうで、水道の下にある水が溜まる部分のこと。私がコップを置いたのは、その隣の平らなカウンターである。いつも入れる牛乳は出さず、即効性を求めて、ブラックで飲もうとした。
 勢いよく飲もうと急いだせいもある。コップが濡れていたせいもある。冷蔵庫から出したばかりのコーヒーが冷たかったせいもある。手を滑らせてコップを落としてしまった。幸い床ではなく流し台つまりシンクに落としたため、コップは割れなかった。中身も半分近く残っている。するとどうしたことだ。とたんに甲府駅で見た少女の姿が脳裏に浮かんだ。
 ずっと昔の出来事だ。当時、住んでいた家から最寄りの駅といえば甲府駅だった。しかし大学進学で上京するまで、算(かぞ)えるほどしか駅は利用しなかった。通学も徒歩か自転車だったし、遊びに行くのも自転車で充分だった。
 あのとき、なぜ甲府駅にいたのか。母といっしょだった。小学校三年か四年生のころだったと思う。九つ上の姉が東京の短大に通っていて、荻窪へ下宿していた。様子見のため上京する母に、ぼくもいく、とくっついていったのが正解だろう。
 駅のホームで待っていたのは特急「かいじ」か「あずさ」だったか。いや、あの頃はまだ急行「アルプス」が走っていた。緑色の地にオレンジ色のラインの入った急行「アルプス」は、いつの間にかなくなってしまったけれど、特急より安かった。特急だと甲府から新宿まで一時間半で行けるが、急行だと二時間かかった。三十分のちがいなら急行で充分と母は考えたのだろうし、子供の私も同意見だった。もちろん特急に乗ってみたい気持ちがなかったとは言わないけれど。
 電車を待つホームでガチャンと音がした。見ると、すぐ近くにいた女の子の足元で牛乳瓶が割れている。色が鮮明に浮かんで来る。橙色でフルーツ牛乳だなと私は思った。落とした女の子はまだ幼稚園くらいだっただろう。
「しっかり持ってなさいって言ったでしょ」
 隣にいた母親らしき女が叱った。女の子は淋しそうな顔をして俯いている。
「かわいそうに。冷たいから手がすべって」
 私の母が言った。あの少女もずいぶん大人になっただろう。あのとき手を滑らせて、駅のホームで牛乳瓶を割ったことも覚えていないかもしれない。と、俯いた女の子や橙色の液体とともに、もう一つ別の光景が記憶の向こうから浮かんで来る。少女が立っていたすぐ脇に〈御嶽そば〉の売店があった。甲府にある名所・昇仙峡で食べられるそばを御嶽そばと言い、その名称を駅の立ち食いそば屋でも用いていた。客は売店のカウンターで立って食べたり、近くのベンチに座って食べたり。
 このとき、ベンチに並んで座り、夫婦らしき二人の老人が、そばを食べていた。ともに痩せていて顔は皺だらけ。煮染めたような焦げ茶色の着物姿だった。子供心に、生きているんだろうか、と感じたほどだ。ともに背を丸め、膝の上に丼を置き、手を添えている。箸を持った手がゆっくりと動き、そばを口に運ぶ。わずかな量を口に入れると、箸を持った手は膝の上において、ひたすら咀嚼している。目は皺の奥で閉じているような案配のまま口だけが動く。もぐ、もぐ、もぐ。一口で何回噛むんだろう。もぐ、もぐ、もぐ。歯がないのかな。これじゃおそばが伸びるどころか、いつまで経っても食べ終わらないよ。もぐ、もぐ。そしてまた、もぐ、もぐ、もぐ。
 突然、コップに残っていたブラックコーヒーの色が、あの老人たちの着物の色と重なった。一息で飲み干し、私は台所を出た。玄関に向かい、サンダルをつっかけ、鍵を開けたとき、立ち止まった。玄関から出る勇気はない。脇のリビングへまわった。閉まっていたカーテンの隙間から、表通りを見た。通りの歩道に休憩用のベンチがある。そこにいつからか、夫婦らしき老人が二人、座っている。二人の口元が動いている。もぐ、もぐ。そしてまた、もぐ、もぐ、もぐ。二人の目の辺りの皺が、かすかに開いた。私と目が合った。二人の顎の動きが、ぴたりと止まる。
「食べおわった」
 二人が起ち上がった。力のない足どり、転びそうになりながら、近づいてくる。しまった、玄関の鍵が開いている。だが動けなかった。二人が私の家に入って来る。

[母と父が]
 走る電車の音で気がついた。線路沿いだった。竜王方面に走っていく緑とオレンジ色の電車、なつかしい急行アルプスだった。まだ走っていたのか。線路のわきを歩いていた。曇ってはいるけれど雨は降らず、八ヶ岳や南アルプス、南には富士山も見える。山は見えても人けがなく寂しい。中心へ出よう。線路から離れ、舞鶴城を脇に見やりながら歩いた。
「遊んでいきませんか?」と声をかけられた。若い女が立っている。さらに女は言った。「今の時間なら安く遊べます」。わかったと私はうなずいた。女の顔に愛嬌が増した。「すぐ近くです」女の後について歩いた。岡島百貨店をやり過ごし、さくら通りに進む。銀座通りから路地に入った。幅三メートルほどの両わきに、二階三階建ての店が並んでいる。裏春日の飲み屋街だった。
「ここです」女は足を止めた。「どうぞ」と先に立って、開いた自動ドアの向こうに歩を進める。派手なネオンも看板もない。キャバレーか風俗というより小ぎれいなケーキ屋のような趣だった。とは言えショーケースがあるわけでもなく、黒スーツに身を包んだ男が立っており、いらっしゃいませと頭を下げる。
 フロアーは低い敷居で何列かに仕切られている。席には十人を下らない客らしき男が点在している。男たちの横には、私を誘ってきたのと同年代の女がいたり、いなかったり。案内されたのは奥まった一角だった。どうぞとうながされて腰を下ろした。テーブルには酒のボトルはおろか、氷入れやグラス、乾き物すら置いてない。あるのは工具だった。半田ごてやドライバー、ほかにも名前は知らないが、見たことのある工具が並んでいる。隣に座った女、私をここまで誘ってきた女は、話しかけるでもなく、何か飲み物を持って来るでもなく、黙って私を見ている。
「あなたは……」
 ぽっと豆電球がつくように私が言うと、それが合図でもあったかのように、私から離れた。隣のボックス席に座っている別の、若い男のところへ行った。座って、ただジッと男のやることを見ている。
「あの人は……」
 男は夢中で工具をいじっていた。鉱石ラジオを作ってるんだ。若い頃、作ったことがあるって、話してくれたじゃない。兄弟がたくさんいて、なかなか好きな時間にラジオが聴けない母さんのために。自分のテーブルに向かい直した。機械いじりどころか、プラモデルすら作ったこともない。不器用な私は、何をどうすればいいのか、皆目わからない。夏休みの工作も、いつも父にやってもらった。
「ほんとうに自分でつくったの?」
 毎年、友だちに疑われた。
「まったく、なんで早くに、やらんだ」
 一杯飲んだ夜、父は毎年同じことを言いながらも作ってくれた。居たたまれなくなった。立ち上がり、入り口へ向かった。「百円です」黒服の男が言った。からかっているのか。百円玉をひとつ出すと、扉はすんなりと開いた。「ありがとうございました」背中に男の声を聴きながら外へ出た。
「まったく。ぶらぶら遊んでばかりいて」さっき声をかけてきた女が立っていた。さっきの女?「なかなか帰ってこんから、探しに来たら、こんなところ、うろうろしてて」
「母さん、しゃべれるんだ」
「さあさあ、早く帰ろう。お前の大好きなカレー、たくさん作っておいたから」
 私に先立って歩く。一年前、母は施設に入った。八十半ばとなって日に日に衰え、ついには寝たきりとなって、家で面倒を見られなくなった。施設を訪ねても反応はとぼしく、ときどき肯いたりしたものの口を利くことはなかった。あの日の夕方会いに行ったとき、口の端についていたクリームを拭うと、ぼんやりと私を見て目尻を下げた。あれが――。
「いや、元気だ。これなら家に帰れるね」
 家に帰りたがっていた。デイサービスから戻るたび「ただいまー」とうれしそうに、ほほえんだものだ。それなのに母の意思を確認できないまま、施設に入れてしまった。
 うん、家に帰ろう。いっしょに……。
「だめだ。母さん、待って」
 母が使っていたポータブルトイレ、車椅子、ベッド一式はレンタルしたもので、施設に入ったとき、すべて返却している。

[らいこう]
『御符水』『塩の池』『檳榔子の染池』『二羽烏』『洗濯池』『七段』『片葉の葦』と山梨県奈良田地方に伝わる〈奈良田の七不思議〉。一つ増えて『葡萄』『梨』『桃』『柿』、『栗』、『林檎』、『石榴』、『銀杏または胡桃』は〈甲州八珍果〉。一節には柳沢吉保の奨励で生まれたと言われている。
 さらにもう一つ増えて〈甲斐九遊戯〉と呼ばれる、いわゆる九つの遊びがあった。これを教えてくださったのは、すでに他界して十余年が過ぎる、郷土史研究家のK氏だった。九遊戯といっても最初の三つは『鬼ごっこ』『影踏み』『隠れんぼ』。つづく三つも童謡まじりの『花一匁』『かごめかごめ』『通りゃんせ』と全国で知られているものだ。ところが後半の三つとなると、
「名前だけは残っているんですが、どんな遊びだったか、皆目分からないんですよ。この三つなんですがね」とK氏は手近にあった紙に『きんしゃ』『こたんこたん』『らいこう』と書いた。『きんしゃ』と『こたんこたん』は私もまったく知らない。
 ところが『らいこう』には覚えがあった。そのときは確信がなく、K氏には言わなかった。メモ書きはいただいたものの〈甲斐九遊戯〉の出典、どこから仕入れた知識かも訊ねなかった。その後、出典を探したが見つからず、郷土史にくわしい人に会うたびに訊ねたけれど、知っている人に出会えていない。
 なぜ私が『らいこう』を知っていたか。死んだ祖母との思い出にある。祖母は私が幼稚園のときに脳溢血で逝ったから、五十年以上前になる。キセルで煙草を吸う粋な人で、一見強面だが孫の私にはすこぶる優しかった。今でも寝物語に追いかけてくる山姥に札を投げて逃げる話(後で知ったが『三枚のお札』)を聞かせてくれたのを覚えている。幼稚園児だった私は、何かの都合で祖父祖母の家へ預けられた。昼間、祖父は野良へ出かけ、退屈した私が駄々を捏ねでもしたのだろう。ふみちゃん、これで遊ぼう。祖母はどこからか木箱を持ってきた。煙草入れほどの小さな箱で文字が書いてある。読めたというよりも、その字面がこころの印画紙に焼きついている。
『らいこう』
 木箱の中には二枚の木札が入っていた。漆でも塗ってあったのか。表面はつるりとしていて、一枚は白く、もう一枚は赤かった。
「どうやって遊ぶの?」
「ここに思っていることを書くんだよ」
 祖母は筆と硯を持ってきて、なんて書く、と私に聞いた。私が、おかし、と答えると、白い札に墨で〈お菓子〉と書き、私に渡した。じゃあね、と祖母は赤い札に〈最中〉と書いた。見たことのある字だったが読めなかった。なんて読むのか訊ねると、祖母は、そこをあけてごらん、と脇の茶箪笥を指した。開けると紙袋に〈最中〉と書かれた、お菓子が入っていた。もなか、か。さっき覗いたときはなかったのに。見落としたんだな。
「食べていい?」
 私は食べながら、次は、と訊ねた。
「今度は、ふみちゃんが書くの」
 墨の文字を布巾で消し、祖母は白い札と筆をさしだした。さて、なにを書こうか。まったく思い浮かばなかった。それ以前に、幼い私に書ける字など限られていた。さあ書いて。祖母に念押しされると、焦った私は、いちばん書き慣れた字を書いた。自分の名前である。書き終えたとき、顔を上げると、祖母の頬がしめしめ、とばかりに歪んでいた。えっと思ったが、すぐにふだんの表情に戻り、さあ、おばあちゃんの番だよ、と筆をとり、赤い札に〈男の子〉と書いた。
「なんて書いたの?」
「おとこのこ」
 さてさて、今度はなにが出てくるか。ところが祖母は、さあさあおしまい、と札に書かれた文字を残したまま、木箱に収めた。
「これでおしまい?」
「もっとおやつ食べたいでしょ。羊羹がある」
 祖母に言われ、幼い私の関心はそちらに移った。腰を上げた祖母は木箱を神棚に乗せ、台所へ行き羊羹一本と包丁、皿を持ってきた。羊羹の銀紙を剥がし厚めに切って、皿に載せる。こんなに食べていいの? 祖母は笑顔でうなずき、食べる私を見ながら「この遊びのことは、おばあちゃんとふみちゃんだけの秘密だからね」羊羹に夢中だった私は、うんうんとうなずいた。さらに祖母はぽつりと言った。「話しても誰も知らんだろうけど」

「あれが『らいこう』……。甲斐九遊戯の九つ目の、幻の遊び。遊び? あれが遊び?」
 脳髄が掻き乱された。おかし、が、もなか。私が書いた、私の名前は――。
 こんなことがあるんですか。いや考えられない。でも、こうなったんなら、このままでいい。跡取りができたんだから良しとしろ。
 姉二人で三番目に産まれた私は、皆が男の子であることを望んでいた。小学生以前の私の写真はまったく残っていない。幼稚園の卒園アルバムも残っていない。母に訊いたが、全部焼けちゃって。
 母の死後、遺品の整理をしていたら一枚の写真が出てきた。園服を着た子供。髪はお河童、顔は私だ。白黒なので、園服が青か桃色だったかはわからない。ただ、虫眼鏡で胸の名札を拡大すると名前が読める。
〈いいの ふみこ〉(了)